吉野は地名は本来は芳野か? 芳野川を考える
日本史に騒ぎを起こすかも知れないのが、吉野と芳野の地名です。現在では、吉野は「よしの」と読み、芳野は「ほうの」と読むことになっています。それで、大和国宇陀郷の芳野川は「ほうのかわ」と読みます。これを「よしのかわ」とは読んではいけないことになっています。
さて、古事記に神武天皇の東征の場面で、次のような下りがあります。
原文 故、隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天神御子問、汝者誰也。答曰、僕者國神、名謂贄持之子。(此者阿陀之鵜飼之祖)
訓読 故に、其の教へ覺しに隨ひ、其の八咫烏の後に從ひて幸(いでま)し行けば、吉野河の河尻に到る時に、筌(うへ)を作り魚を取る人有り。爾に天の神の御子の問ひていはく「汝は誰なり」といへり。答へて曰はく「僕は國つ神なり、名を贄(にえ)持の子と謂ふ」といへり。(此は阿(あ)陀(だ)の鵜飼の祖なり)
私訳 そこで、その教えをしっかり認識し随い、授けられた八咫烏の後に從ひて御行きになられると、吉野川の源流部に到達したときに、簗を作って魚を獲る人がいた。そこで、天の神の御子が「お前は誰か」と聞かれた。答えて云うには「私は国の神で、名前を贄持の子と云います」と。
注記:これは阿陀の鵜飼の祖。
なお、文の「河尻」について、「尻」は「後」に通じ、後方(しりへ)の意味に取っています。つまり、「河口」から見ての「河尻」で、上流部を意味します。歴史では、「河尻」は「河口」の意味合いにしていますから、全く、逆方向になっています。
ここで、万葉集では、漢字表記の「芳野」はどのように読むのでしょうか。万葉集から「芳野」の地名を探すと次のような歌を見つけることが出来ます。当然、日本史では漢字表記の「芳野」を「よしの」とは、絶対に読んではいけないのですが、万葉集では古くから疑いもなく「よしの」と読みます。
例-1
集歌26 三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎
訓読 み吉野の 耳(みみ)我(が)の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間(ま)無くぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間無きがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
例-2
天皇、幸于吉野宮時御製謌
標訓 天皇、吉野の宮に幸しし時の御製歌
集歌27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見欲 良人四来三
訓読 淑(よ)き人の良(よ)しとよく見て好(よ)しと言ひし 吉野よく見よ良き人よく見つ
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
注訓 紀に曰はく「八年己卯の五月庚辰の朔の甲申に、吉野の宮に幸しし」といへり。
例-3
集歌38 安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 吉野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為勢波 疊有 青垣山 々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭判理 (一云 黄葉加射之) 遊副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
訓読 やすみしし 吾(あ)が大王(おほきみ) 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 上(のぼ)り立ち 国見をせせば 畳(たたな)はる 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御(み)調(つき)と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせり (一は云はく、黄葉(もみちは)かざし) 逝(ゆ)き副(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかは)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
例-4
集歌119 芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢流香問
訓読 吉野川逝(ゆ)く瀬の早み須臾(しましく)も淀むことなくありこせぬかも
例-5
暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作謌一首并短謌 未逕奏上謌
標訓 暮春の月、芳野の離宮に幸しし時に、中納言大伴卿の勅(みことのり)を奉(ほう)じて作れる歌一首并せて短歌 未だ奏上を逕ざる歌
集歌315 見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 永可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之処
訓読 み吉野の 吉野の宮は 山柄(やまから)し 貴(たふと)くあらし 永から思ひ 清(さや)けくあらし 天地と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変はらずあらむ 行幸(いでまし)の処
となっています。
なお、例‐3の集歌38の歌での「吉野川」の表記は西本願寺本の表記ですが、元暦校本、類聚古本、広瀬本、紀州本では「芳野川」の表記となっていて、新校注萬葉集では「芳野川」の表記を正伝としていますので、ここでは「芳野川」の表記の可能性を残したいと思います。この「芳野川」の「芳野」の漢字の意味合いは、芳野は「草木が香しい野原」で、吉野は「りっぱな野原・めでたい野原」と解釈するのが良いようです。
こうしてみますと、古代の芳野は現在の吉野と同じ発音の同じ場所の地名ですが、例‐2の集歌27の歌の左注に見られるように、すでに奈良時代前期の段階での公文書(日本紀)では芳野の地名の表記を吉野の表記に変更していることが推測されます。ここから、古事記での「吉野」の地名は「芳野」の地名であった可能性は否定できないのではないでしょうか。
古来、古事記の「到吉野河之河尻時」の解釈を、本居宣長の古事記伝からの「現在の吉野川の河口の意味合い」に採ることになっていますが、万葉集の表記や日本紀の記事の推定から飛鳥・奈良時代では「芳野川の源流部」の意味合いしかないのではないでしょうか。そして、飛鳥時代から宇陀の上流部は芳野水分神社で代表されるように芳野川の流域とされていますし、古事記にあるように八咫烏神社も奉じられています。素人の思い付きですが、古事記の「到吉野河之河尻時」とは神武天皇の東征軍がまだ整備されていない古代の伊勢街道を東からやって来て、差杉峠を越え瀧野・岩端・芳野へと山越えを行った時のことではないでしょうか。ちょうど、この地域は芳野水分神社が鎮座するように、大和川源流の芳野川と吉野川源流の高見川の分水嶺に位置しています。
このように思い付きを展開しますと、神武天皇の東征は茅渟の山城水門(大阪府泉佐野市)、竈山(和歌山県和歌山市)、名草邑(和歌山県和歌山市)、狭野(和歌山県新宮市佐野)、熊野神邑(和歌山県新宮市新宮)、熊野荒坂津(三重県度会郡大紀町錦)、奈良県吉野郡東吉野村・宇陀市兎田野芳野と繋がりますので順路としては、そこに矛盾はありませんし、これらの順路は飛鳥・奈良時代の熊野伊勢古道や伊勢街道などの幹線交通路でもあります。
ここで、次の二首は紀伊御幸での歌と推定されているものです。
長忌寸奥麿
集歌265 苦毛 零来雨可 神之埼 狭野乃渡尓 家裳不有國
訓読 苦(くる)しくも降り来る雨か神(みは)の崎(さき)狭野(さの)の渡りに家もあらなくに
私訳 不本意に降って来る雨よ。三輪の岬の佐野の渡しには雨宿りする家もないことだのに。
人麻呂
集歌496 三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
訓読 御熊野(みくまの)の浦の浜(はま)木綿(ゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも
私訳 御熊野の有馬の浦の浜に有る花窟の伊邪那美命をお祭りする幣の木綿の糸が折り重なるように私の気持ちは幾重にも貴女を想っています。直接には会えませんが。
最初の長忌寸奥麿の歌は、和歌山県新宮市三輪崎での熊野市方面への海上渡航の時の歌と推定されていますし、次の人麻呂の歌は三重県熊野市有馬町花窟神社での祭礼の歌と考えられますから、飛鳥・奈良時代には神武天皇の東征神話に因んだ儀礼があったのではないでしょうか。
そうやこうやで、古事記での吉野の表記が本来は芳野ではないかとする推定からの展開は、万葉集の解釈の中ではあるのではないでしょうか。もし、これがあるのならば、古事記や日本書紀は飛鳥・奈良時代では、生活に沿った理性ある展開で為されていると考えることも出来るのではないでしょうか。
日本史に騒ぎを起こすかも知れないのが、吉野と芳野の地名です。現在では、吉野は「よしの」と読み、芳野は「ほうの」と読むことになっています。それで、大和国宇陀郷の芳野川は「ほうのかわ」と読みます。これを「よしのかわ」とは読んではいけないことになっています。
さて、古事記に神武天皇の東征の場面で、次のような下りがあります。
原文 故、隨其教覺、從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時、作筌有取魚人。爾天神御子問、汝者誰也。答曰、僕者國神、名謂贄持之子。(此者阿陀之鵜飼之祖)
訓読 故に、其の教へ覺しに隨ひ、其の八咫烏の後に從ひて幸(いでま)し行けば、吉野河の河尻に到る時に、筌(うへ)を作り魚を取る人有り。爾に天の神の御子の問ひていはく「汝は誰なり」といへり。答へて曰はく「僕は國つ神なり、名を贄(にえ)持の子と謂ふ」といへり。(此は阿(あ)陀(だ)の鵜飼の祖なり)
私訳 そこで、その教えをしっかり認識し随い、授けられた八咫烏の後に從ひて御行きになられると、吉野川の源流部に到達したときに、簗を作って魚を獲る人がいた。そこで、天の神の御子が「お前は誰か」と聞かれた。答えて云うには「私は国の神で、名前を贄持の子と云います」と。
注記:これは阿陀の鵜飼の祖。
なお、文の「河尻」について、「尻」は「後」に通じ、後方(しりへ)の意味に取っています。つまり、「河口」から見ての「河尻」で、上流部を意味します。歴史では、「河尻」は「河口」の意味合いにしていますから、全く、逆方向になっています。
ここで、万葉集では、漢字表記の「芳野」はどのように読むのでしょうか。万葉集から「芳野」の地名を探すと次のような歌を見つけることが出来ます。当然、日本史では漢字表記の「芳野」を「よしの」とは、絶対に読んではいけないのですが、万葉集では古くから疑いもなく「よしの」と読みます。
例-1
集歌26 三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎
訓読 み吉野の 耳(みみ)我(が)の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間(ま)無くぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間無きがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来る その山道を
例-2
天皇、幸于吉野宮時御製謌
標訓 天皇、吉野の宮に幸しし時の御製歌
集歌27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見欲 良人四来三
訓読 淑(よ)き人の良(よ)しとよく見て好(よ)しと言ひし 吉野よく見よ良き人よく見つ
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。
注訓 紀に曰はく「八年己卯の五月庚辰の朔の甲申に、吉野の宮に幸しし」といへり。
例-3
集歌38 安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 吉野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為勢波 疊有 青垣山 々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭判理 (一云 黄葉加射之) 遊副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
訓読 やすみしし 吾(あ)が大王(おほきみ) 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 上(のぼ)り立ち 国見をせせば 畳(たたな)はる 青垣山 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御(み)調(つき)と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせり (一は云はく、黄葉(もみちは)かざし) 逝(ゆ)き副(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかは)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
例-4
集歌119 芳野河 逝瀬之早見 須臾毛 不通事無 有巨勢流香問
訓読 吉野川逝(ゆ)く瀬の早み須臾(しましく)も淀むことなくありこせぬかも
例-5
暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作謌一首并短謌 未逕奏上謌
標訓 暮春の月、芳野の離宮に幸しし時に、中納言大伴卿の勅(みことのり)を奉(ほう)じて作れる歌一首并せて短歌 未だ奏上を逕ざる歌
集歌315 見吉野之 芳野乃宮者 山可良志 貴有師 永可良思 清有師 天地与 長久 萬代尓 不改将有 行幸之処
訓読 み吉野の 吉野の宮は 山柄(やまから)し 貴(たふと)くあらし 永から思ひ 清(さや)けくあらし 天地と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変はらずあらむ 行幸(いでまし)の処
となっています。
なお、例‐3の集歌38の歌での「吉野川」の表記は西本願寺本の表記ですが、元暦校本、類聚古本、広瀬本、紀州本では「芳野川」の表記となっていて、新校注萬葉集では「芳野川」の表記を正伝としていますので、ここでは「芳野川」の表記の可能性を残したいと思います。この「芳野川」の「芳野」の漢字の意味合いは、芳野は「草木が香しい野原」で、吉野は「りっぱな野原・めでたい野原」と解釈するのが良いようです。
こうしてみますと、古代の芳野は現在の吉野と同じ発音の同じ場所の地名ですが、例‐2の集歌27の歌の左注に見られるように、すでに奈良時代前期の段階での公文書(日本紀)では芳野の地名の表記を吉野の表記に変更していることが推測されます。ここから、古事記での「吉野」の地名は「芳野」の地名であった可能性は否定できないのではないでしょうか。
古来、古事記の「到吉野河之河尻時」の解釈を、本居宣長の古事記伝からの「現在の吉野川の河口の意味合い」に採ることになっていますが、万葉集の表記や日本紀の記事の推定から飛鳥・奈良時代では「芳野川の源流部」の意味合いしかないのではないでしょうか。そして、飛鳥時代から宇陀の上流部は芳野水分神社で代表されるように芳野川の流域とされていますし、古事記にあるように八咫烏神社も奉じられています。素人の思い付きですが、古事記の「到吉野河之河尻時」とは神武天皇の東征軍がまだ整備されていない古代の伊勢街道を東からやって来て、差杉峠を越え瀧野・岩端・芳野へと山越えを行った時のことではないでしょうか。ちょうど、この地域は芳野水分神社が鎮座するように、大和川源流の芳野川と吉野川源流の高見川の分水嶺に位置しています。
このように思い付きを展開しますと、神武天皇の東征は茅渟の山城水門(大阪府泉佐野市)、竈山(和歌山県和歌山市)、名草邑(和歌山県和歌山市)、狭野(和歌山県新宮市佐野)、熊野神邑(和歌山県新宮市新宮)、熊野荒坂津(三重県度会郡大紀町錦)、奈良県吉野郡東吉野村・宇陀市兎田野芳野と繋がりますので順路としては、そこに矛盾はありませんし、これらの順路は飛鳥・奈良時代の熊野伊勢古道や伊勢街道などの幹線交通路でもあります。
ここで、次の二首は紀伊御幸での歌と推定されているものです。
長忌寸奥麿
集歌265 苦毛 零来雨可 神之埼 狭野乃渡尓 家裳不有國
訓読 苦(くる)しくも降り来る雨か神(みは)の崎(さき)狭野(さの)の渡りに家もあらなくに
私訳 不本意に降って来る雨よ。三輪の岬の佐野の渡しには雨宿りする家もないことだのに。
人麻呂
集歌496 三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨
訓読 御熊野(みくまの)の浦の浜(はま)木綿(ゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも
私訳 御熊野の有馬の浦の浜に有る花窟の伊邪那美命をお祭りする幣の木綿の糸が折り重なるように私の気持ちは幾重にも貴女を想っています。直接には会えませんが。
最初の長忌寸奥麿の歌は、和歌山県新宮市三輪崎での熊野市方面への海上渡航の時の歌と推定されていますし、次の人麻呂の歌は三重県熊野市有馬町花窟神社での祭礼の歌と考えられますから、飛鳥・奈良時代には神武天皇の東征神話に因んだ儀礼があったのではないでしょうか。
そうやこうやで、古事記での吉野の表記が本来は芳野ではないかとする推定からの展開は、万葉集の解釈の中ではあるのではないでしょうか。もし、これがあるのならば、古事記や日本書紀は飛鳥・奈良時代では、生活に沿った理性ある展開で為されていると考えることも出来るのではないでしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます