有間皇子を考える
万葉集で不思議な皇子です。日本書紀での扱いと万葉集での扱いは、大きく違います。飛鳥時代以前に生きた皇子で、なぜ一人、有間皇子は万葉集で特別扱いをされたのでしょうか。そして、挽歌の一番の最初に置かれた理由は何なのでしょうか。
万葉集の巻頭を飾るのは雄略天皇です。また、巻二の相聞の筆頭は仁徳天皇の磐姫皇后です。そうすると、万葉集の挽歌の筆頭に大御葬の四歌にゆかりする倭建命や万葉集の歌で故事に取り上げられる宇治京にゆかりで仁徳天皇のライバルでもあった宇遲能和紀朗子の挽歌でもよさそうな気がしますが、なぜか、有間皇子なのです。
後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇譲位後即後岡本宮
有間皇子自傷結松枝謌二首
標訓 有間皇子の自ら傷みて松が枝を結べる歌二首
集歌141 磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
訓読 磐白(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び真(ま)幸(さき)くあらばまた還り見む
私訳 磐代の浜の松の枝を引き寄せ結び、旅が恙無く無事であったら、また、帰りに見ましょう。
集歌142 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
訓読 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
私訳 家にいたならば高付きの食器に盛る飯を、草を枕に寝るような旅なので椎の葉に盛っている。
長忌寸意吉麻呂見結松哀咽謌二首
標訓 長忌寸意吉麻呂の結び松を見て哀しび咽(むせ)べる歌二首
集歌143 磐代乃 岸之松枝 将結 人者反而 復将見鴨
訓読 磐代(いはしろ)の岸の松が枝(え)結びけむ人は反(かへ)りてまた見けむかも
私訳 磐代の海岸の崖の松の枝を結ぶ人は、無事に帰って来て再び見ましょう。
集歌144 磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念
訓読 磐代(いはしろ)の野中に立てる結び松情(こころ)も解(と)けず古(いにしへ)念(おも)ほゆ
私訳 磐代の野の中に立っている枝を結んだ松。結んだ枝が解けないように私の心も寛げず、昔の出来事が思い出されます。
山上臣憶良追和謌一首
標訓 山上臣憶良の追ひて和(こた)へたる歌一首
集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
訓読 鳥(とり)翔(か)けしありがよひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
私訳 皇子の生まれ変わりの鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、人も神も何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。
左注 右件歌等、雖不挽柩之時所作、唯擬歌意、故以載于挽歌類焉。
注訓 右の件の歌等は、柩(ひつぎ)を挽く時に作るあらずといへども、ただ、歌の意(こころ)を擬(なそら)ひ、故に以つて挽歌の類(たぐひ)に載す。
大寶元年辛丑、幸于紀伊國時結松謌一首 柿本朝臣人麻呂謌集中出也
標訓 大寶元年辛丑、紀伊國に幸(いでま)しし時に結びし松の歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ
集歌146 後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞
訓読 後見むと君が結べる磐代(いはしろ)の小松が枝末(うれ)をまたも見むかも
私訳 後で再び見ると、貴方が結んだ磐代に生える小松の若枝を、再び見られたでしょうか。
最初に有間皇子の歌に注目しますと、有間皇子が生きていた時代の和歌は次のような形ではないでしょうか。
万葉集 紀温泉に幸しし時の、額田王の作れる歌
莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
しづまりし うらなみさゑき あがせこの いたてせしけむ いつかしがもと
日本書紀 斉明天皇の口唱歌謡の採歌された和歌
伊磨紀那屡 乎武例我禹杯爾 倶謨娜尼母 旨屡倶之多多婆 那爾柯那皚柯武
いまきなる をむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ
伊喩之々乎 都那遇舸播杯能 倭柯矩娑能 倭柯倶阿利岐騰 阿我謨婆儺倶爾
いゆししを つなぐかはへの わかくさの わかくありきと あがもはなくに
阿須箇我播 濔儺蟻羅毘都都 喩矩瀰都能 阿比娜謨儺倶母 於母保喩屡柯母
あすかがは みなぎらひつつ ゆくみづの あひだもなくも おもほゆるかも
つまり、有間皇子が詠ったとされる集歌141と142の歌は非常に整った形をしていますので、有間皇子が詠った歌と云うより、後年に誰かが有間皇子の霊に捧げた歌と思った方が良いのではないでしょうか。
さて、不思議なことがあります。集歌143から146までの歌は、有間皇子の斉明四年十一月の謀叛の事件を題材に造られていますが、これらは柿本人麻呂の挽歌群と同じ構成になっています。人麻呂の挽歌群は、以下に紹介するように編集で自傷歌、挽歌、挽歌に対して和へる歌、関連の歌と解釈するように並べられていて、有間皇子の挽歌群も先に見たように人麻呂の挽歌と同じ構成です。人麻呂の挽歌は、「おっちゃんの万葉集 万葉集の誕生と竹取翁の歌」で示したように、個々の歌はそれぞれ人麻呂歌集等から採歌され、万葉集編纂の過程でその順序が変えられ、石見国への旅の歌物語が挽歌へと変えられています。そして、同様に有間皇子の挽歌群も歌の採歌してきた場所や時代が違うと思われます。特に、有間皇子の自傷の歌は、紀伊国への旅の歌物語としての有間皇子物語からのものではないかと推定されています。つまり、「おっちゃんの万葉集」で紹介したように有間皇子の挽歌や人麻呂の挽歌は、集歌145の左注が的確に示すように歌の標を外したとき挽歌と解釈することが出来ないもので、万葉集の編纂で生まれた挽歌ですので、本来は挽歌とは違う歌々と思われます。
柿本朝臣人麿在石見國時臨死時、自傷作歌一首
標訓 柿本朝臣人麿の石見国に在りし時の臨死(まか)らむとせし時に、自ら傷(いた)みて作れる歌一首
集歌223 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
訓読 鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
私訳 鴨山の岩を枕として死のうとしている私のことを知らないで妻はまっているであろう。
推定での本来の別訓
訓読 鴨山の巌根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹の待ちつつあるらむ
私訳 丹比道の鴨習太(かもならいた)の神の杜(やしろ)のほとりで旅寝をする私を、そうとも知らないで私の愛しい貴女は私を待っているらしい。
柿本朝臣人麿死時、妻依羅娘子作謌二首
標訓 柿本朝臣人麿の死りし時に、妻の依羅娘子の作れる歌二首
集歌224 旦今日ゞゞゞ 吾待君者 石水之 貝尓(一云、谷尓)交而 有登不言八方
訓読 旦今日(けふ)旦今日(けふ)とあが待つ君は石見の貝に (一は云はく、 谷に) 交(まじ)りてありと言はずやも
私訳 今朝は帰られるか、今日は帰られるかよ私の待っていたあなたは石川の貝にまじってすでに亡くなられたと言うではありませんか。
推定での本来の別訓
訓読 旦今日(けふ)旦今日(けふ)とわれ待つ君は 石見の貝(かひ)に交りてありといはずやも
私訳 貴方に再びお目に懸かれるのは今朝か今朝かと恋しく思っているのに、その貴方は、なんと、人の噂では、まだ石見の国にいて、女を抱いているというではありませんか。
集歌225 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲
訓読 ただに逢(あ)ふは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつしのはむ
私訳 直接御目にかかることはもうできないでしょう。石川の上に雲よ立ちわたって下さい。それを見ながらお偲びしましょう。
推定での本来の別訓
訓読 直(ただ)逢ひは逢はずに勝る 石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
私訳 直接、貴方に逢うことは、会わずに手紙を貰うことより勝ります。逢えない私は、雲が想いを届けると云う、あの石川精舎の大伽藍の上に立ち昇る雲を見ながら貴方を恋しく偲びましょう。
丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麿之意報歌一首
標訓 丹比真人(名(な)闕(か)けたり)の柿本朝臣人麿の意に擬(なぞら)へて報(こた)へたる歌一首
集歌226 荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告
訓読 荒浪により来る玉を枕に置き吾れここにありと誰れか告(つ)げけむ
私訳 荒浪の中をよって来る玉を枕もとに置いて自分がここにあるということを誰が知らせたのであろう。
推定での本来の別訓
訓読 荒波に寄りくる玉を枕に置き われこの間(ま)にありと誰か告げなむ
私訳 石見の荒波の中から手にいれた真珠を枕元に置き、私は貴女のすぐそばまで還ってきましたと、誰が貴女に告げるのでしょうか。
或本歌曰
標訓 或る本の歌に曰く
集歌227 天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
訓読 天(あま)離(さか)る鄙の荒野に君を置きて念(おも)ひつつあれば生けるともなし
私訳 天路も遠い夷の荒野にあなたをおいて、恋いつづけていると生きた心地もない。
右一首歌作者未詳。但、古本、以此歌載於此次也。
注訓 右の一首の歌は作者いまだ詳らかならず。ただ、古本、この歌をもちてこの次に載す。
推定での本来の別訓
訓読 天離る夷の荒野に君を置きて 思ひつつあれば生けりともなし
私訳 大和から遠く離れた荒びた田舎に貴方が行ってしまっていると思うと、私は恋しくて、そして、貴方の身が心配で生きている気持ちがしません。
柿本人麻呂は、万葉集の前編の軸となる歌人です。従って、万葉集で彼に因む歌を集めて来て、編集で、実際は存在しなかった彼の挽歌を鎮魂のために仕立てるのは不思議ではありません。万葉集を代表する柿本人麻呂には、彼に相応しい晩歌が必要とするのは万葉集を編纂した人々の共通認識です。では、有間皇子はどうなのでしょうか。なぜ、人麻呂に並ぶ鎮魂の挽歌が、彼に必要なのでしょうか。そこが良く判りません。
その有間皇子の人物像は、唯一、日本書紀に次の一節が載るだけです。
原文 有間皇子、性黠陽狂、云々。
訓読 有間皇子、性は黠(こく)にして陽狂(ようきょう)なり、云々といへり。
訓読 有間皇子、性格は小利口で、偽って狂人の振りを行う、云々と伝えられている。
とあります。このあとの文章は、次のようになっています。
原文 徃牟婁温湯、偽療病、来。讃国体勢曰。纔観彼地。病自觸消、云云。
訓読 牟婁温湯に徃きて、偽りて病を療(いや)して来る。国の体勢を讃めて曰はく「纔(わずか)に、彼の地を観るに、病自づからのこぞり消(きえ)ぬ」といへりと、云云。
これ以外は、日本書紀には皇子を処刑する正当性の経緯を載せるのみです。そして、有間皇子の人物像を示すこれらの文章にはすべて「云々」が付けられていますから、日本書紀の編集者は内容の真実性を放棄して、伝聞や憶測と扱っています。つまり、日本書紀の記事からは、推定で判るのは有間皇子が紀伊国熊野方面に行かれたらしいことだけです。当時、温泉は伊予の温湯が有名ですが、さて、有間皇子は療養の目的に牟婁温湯に行ったのでしょうか。それとも別な目的だったのでしょうか。
その有間皇子の父親は孝徳天皇で、孝徳天皇は白雉四年に姉の斉明天皇と妻の間人皇后に難波宮に置き去りにされ、政権は倭の飛鳥での斉明天皇・間人皇后・皇太子によるものに遷っています。そして、孝徳天皇は置き去りにされた翌年十月に難波宮で亡くなられています。この孝徳天皇の時代は、大化の改新とその挫折の時代です。歴史は、大化五年に有間皇子の義理の父親である阿倍倉梯麻呂大臣が亡くなると、中大兄により反改革クーデターが勃発し、大化の改新を実行していた蘇我倉山田麻呂大臣が殺されています。
この前難波宮時代を社会体制の改革と挫折の視点から見ると、有間皇子の謀叛事件のとき、この事件を摘発したのは中大兄で、摘発されたのは有間皇子、守君大石、坂合部連薬、塩屋連鯏魚の四人と有間皇子の付き人の舎人新田部米麻呂です。また、告発者は蘇我臣赤兄となっています。事件では有間皇子・塩屋連鯏魚・新田部米麻呂が死刑、守君大石・坂合部連薬が流刑です。ところが、坂合部連薬の一族の坂合部連石布がこの事件の翌年の斉明五年(659)七月に遣唐使大使に任命されていますから、守君、坂合部連、塩屋連、新田部一族が氏族を挙げての謀叛事件ではなかったようです。
さらに、蘇我臣赤兄、守君大石、坂合部連薬は、葛城皇子(天智天皇)の近江朝廷の重要な閣僚に入っていますし、新田部一族は天武天皇の藤原鎌足娘である五百重娘との御子である新田部皇子の養育を任された氏族です。つまり、有間皇子の謀叛事件に関係した氏族は、葛城皇子(天智天皇)の近江朝廷にはすべて復活しています。
この辺りが、有間皇子が万葉集の挽歌での筆頭に置かれた理由かもしれません。日本の歴史は白村江の戦いでの敗戦から、中央集権を基本とする王都を中心に据えた律令制度を整備・執行する時代に変わり、劇的な社会制度変革の時代です。そして、この律令制度自体は、飛鳥・奈良時代から明治維新まで続くことになります。天武天皇・高市皇子時代は、この律令制度を実務的に整備を開始した時代ですし、元正・聖武天皇時代の万葉集の編纂の時代は律令制度の確立時期です。この時代から見たとき、有間皇子は社会改革の筆頭を走り、その挫折で殺された悲劇の皇子の立場を与えられたのかもしれません。そのシンボルであるならば、万葉集の挽歌の筆頭に置き、鎮魂を行う必要があるのでしょう。
この推論が示す姿は、古代の政治を動かした政治指導者の「中大兄」が、唯一、彼一人が、日本書紀と万葉集で呼び捨てにされる理由なのかもしれません。大化の改新以来、重要な局面で改革にブレーキを踏んで改革派の人物を殺したのは「中大兄」です。ただし、原文の日本書紀を注意深く読むと、中大兄は「命(みこと)」でも「皇子」でもありませんし、日本書紀の記事からは、この中大兄が天智天皇となる葛城皇子と同じ人物かどうかは不明です。「中大兄皇子」なる人物は、本来の日本史では登場しません。江戸・明治時代に勝手に作文した人物です。万葉集も日本書紀も、一部の現代語訳は誤訳や推論を挿入したものがありますから、素人にとって「中大兄」=「中大兄皇子」=天智天皇の思い込みは大変に危険なものですし、その思い込みは正統な学問ではなくなります。
万葉集で不思議な皇子です。日本書紀での扱いと万葉集での扱いは、大きく違います。飛鳥時代以前に生きた皇子で、なぜ一人、有間皇子は万葉集で特別扱いをされたのでしょうか。そして、挽歌の一番の最初に置かれた理由は何なのでしょうか。
万葉集の巻頭を飾るのは雄略天皇です。また、巻二の相聞の筆頭は仁徳天皇の磐姫皇后です。そうすると、万葉集の挽歌の筆頭に大御葬の四歌にゆかりする倭建命や万葉集の歌で故事に取り上げられる宇治京にゆかりで仁徳天皇のライバルでもあった宇遲能和紀朗子の挽歌でもよさそうな気がしますが、なぜか、有間皇子なのです。
後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇譲位後即後岡本宮
有間皇子自傷結松枝謌二首
標訓 有間皇子の自ら傷みて松が枝を結べる歌二首
集歌141 磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武
訓読 磐白(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結び真(ま)幸(さき)くあらばまた還り見む
私訳 磐代の浜の松の枝を引き寄せ結び、旅が恙無く無事であったら、また、帰りに見ましょう。
集歌142 家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛
訓読 家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
私訳 家にいたならば高付きの食器に盛る飯を、草を枕に寝るような旅なので椎の葉に盛っている。
長忌寸意吉麻呂見結松哀咽謌二首
標訓 長忌寸意吉麻呂の結び松を見て哀しび咽(むせ)べる歌二首
集歌143 磐代乃 岸之松枝 将結 人者反而 復将見鴨
訓読 磐代(いはしろ)の岸の松が枝(え)結びけむ人は反(かへ)りてまた見けむかも
私訳 磐代の海岸の崖の松の枝を結ぶ人は、無事に帰って来て再び見ましょう。
集歌144 磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念
訓読 磐代(いはしろ)の野中に立てる結び松情(こころ)も解(と)けず古(いにしへ)念(おも)ほゆ
私訳 磐代の野の中に立っている枝を結んだ松。結んだ枝が解けないように私の心も寛げず、昔の出来事が思い出されます。
山上臣憶良追和謌一首
標訓 山上臣憶良の追ひて和(こた)へたる歌一首
集歌145 鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武
訓読 鳥(とり)翔(か)けしありがよひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
私訳 皇子の生まれ変わりの鳥が飛び翔けて行く。しっかり見たいと目を凝らして見ても、人も神も何があったかは知らない。ただ、松の木が見届けただけだ。
左注 右件歌等、雖不挽柩之時所作、唯擬歌意、故以載于挽歌類焉。
注訓 右の件の歌等は、柩(ひつぎ)を挽く時に作るあらずといへども、ただ、歌の意(こころ)を擬(なそら)ひ、故に以つて挽歌の類(たぐひ)に載す。
大寶元年辛丑、幸于紀伊國時結松謌一首 柿本朝臣人麻呂謌集中出也
標訓 大寶元年辛丑、紀伊國に幸(いでま)しし時に結びし松の歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集の中に出づ
集歌146 後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞
訓読 後見むと君が結べる磐代(いはしろ)の小松が枝末(うれ)をまたも見むかも
私訳 後で再び見ると、貴方が結んだ磐代に生える小松の若枝を、再び見られたでしょうか。
最初に有間皇子の歌に注目しますと、有間皇子が生きていた時代の和歌は次のような形ではないでしょうか。
万葉集 紀温泉に幸しし時の、額田王の作れる歌
莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
しづまりし うらなみさゑき あがせこの いたてせしけむ いつかしがもと
日本書紀 斉明天皇の口唱歌謡の採歌された和歌
伊磨紀那屡 乎武例我禹杯爾 倶謨娜尼母 旨屡倶之多多婆 那爾柯那皚柯武
いまきなる をむれがうへに くもだにも しるくしたたば なにかなげかむ
伊喩之々乎 都那遇舸播杯能 倭柯矩娑能 倭柯倶阿利岐騰 阿我謨婆儺倶爾
いゆししを つなぐかはへの わかくさの わかくありきと あがもはなくに
阿須箇我播 濔儺蟻羅毘都都 喩矩瀰都能 阿比娜謨儺倶母 於母保喩屡柯母
あすかがは みなぎらひつつ ゆくみづの あひだもなくも おもほゆるかも
つまり、有間皇子が詠ったとされる集歌141と142の歌は非常に整った形をしていますので、有間皇子が詠った歌と云うより、後年に誰かが有間皇子の霊に捧げた歌と思った方が良いのではないでしょうか。
さて、不思議なことがあります。集歌143から146までの歌は、有間皇子の斉明四年十一月の謀叛の事件を題材に造られていますが、これらは柿本人麻呂の挽歌群と同じ構成になっています。人麻呂の挽歌群は、以下に紹介するように編集で自傷歌、挽歌、挽歌に対して和へる歌、関連の歌と解釈するように並べられていて、有間皇子の挽歌群も先に見たように人麻呂の挽歌と同じ構成です。人麻呂の挽歌は、「おっちゃんの万葉集 万葉集の誕生と竹取翁の歌」で示したように、個々の歌はそれぞれ人麻呂歌集等から採歌され、万葉集編纂の過程でその順序が変えられ、石見国への旅の歌物語が挽歌へと変えられています。そして、同様に有間皇子の挽歌群も歌の採歌してきた場所や時代が違うと思われます。特に、有間皇子の自傷の歌は、紀伊国への旅の歌物語としての有間皇子物語からのものではないかと推定されています。つまり、「おっちゃんの万葉集」で紹介したように有間皇子の挽歌や人麻呂の挽歌は、集歌145の左注が的確に示すように歌の標を外したとき挽歌と解釈することが出来ないもので、万葉集の編纂で生まれた挽歌ですので、本来は挽歌とは違う歌々と思われます。
柿本朝臣人麿在石見國時臨死時、自傷作歌一首
標訓 柿本朝臣人麿の石見国に在りし時の臨死(まか)らむとせし時に、自ら傷(いた)みて作れる歌一首
集歌223 鴨山之 磐根之巻有 吾乎鴨 不知等妹之 待乍将有
訓読 鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
私訳 鴨山の岩を枕として死のうとしている私のことを知らないで妻はまっているであろう。
推定での本来の別訓
訓読 鴨山の巌根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹の待ちつつあるらむ
私訳 丹比道の鴨習太(かもならいた)の神の杜(やしろ)のほとりで旅寝をする私を、そうとも知らないで私の愛しい貴女は私を待っているらしい。
柿本朝臣人麿死時、妻依羅娘子作謌二首
標訓 柿本朝臣人麿の死りし時に、妻の依羅娘子の作れる歌二首
集歌224 旦今日ゞゞゞ 吾待君者 石水之 貝尓(一云、谷尓)交而 有登不言八方
訓読 旦今日(けふ)旦今日(けふ)とあが待つ君は石見の貝に (一は云はく、 谷に) 交(まじ)りてありと言はずやも
私訳 今朝は帰られるか、今日は帰られるかよ私の待っていたあなたは石川の貝にまじってすでに亡くなられたと言うではありませんか。
推定での本来の別訓
訓読 旦今日(けふ)旦今日(けふ)とわれ待つ君は 石見の貝(かひ)に交りてありといはずやも
私訳 貴方に再びお目に懸かれるのは今朝か今朝かと恋しく思っているのに、その貴方は、なんと、人の噂では、まだ石見の国にいて、女を抱いているというではありませんか。
集歌225 直相者 相不勝 石川尓 雲立渡礼 見乍将偲
訓読 ただに逢(あ)ふは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつしのはむ
私訳 直接御目にかかることはもうできないでしょう。石川の上に雲よ立ちわたって下さい。それを見ながらお偲びしましょう。
推定での本来の別訓
訓読 直(ただ)逢ひは逢はずに勝る 石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
私訳 直接、貴方に逢うことは、会わずに手紙を貰うことより勝ります。逢えない私は、雲が想いを届けると云う、あの石川精舎の大伽藍の上に立ち昇る雲を見ながら貴方を恋しく偲びましょう。
丹比真人(名闕)擬柿本朝臣人麿之意報歌一首
標訓 丹比真人(名(な)闕(か)けたり)の柿本朝臣人麿の意に擬(なぞら)へて報(こた)へたる歌一首
集歌226 荒浪尓 縁来玉乎 枕尓置 吾此間有跡 誰将告
訓読 荒浪により来る玉を枕に置き吾れここにありと誰れか告(つ)げけむ
私訳 荒浪の中をよって来る玉を枕もとに置いて自分がここにあるということを誰が知らせたのであろう。
推定での本来の別訓
訓読 荒波に寄りくる玉を枕に置き われこの間(ま)にありと誰か告げなむ
私訳 石見の荒波の中から手にいれた真珠を枕元に置き、私は貴女のすぐそばまで還ってきましたと、誰が貴女に告げるのでしょうか。
或本歌曰
標訓 或る本の歌に曰く
集歌227 天離 夷之荒野尓 君乎置而 念乍有者 生刀毛無
訓読 天(あま)離(さか)る鄙の荒野に君を置きて念(おも)ひつつあれば生けるともなし
私訳 天路も遠い夷の荒野にあなたをおいて、恋いつづけていると生きた心地もない。
右一首歌作者未詳。但、古本、以此歌載於此次也。
注訓 右の一首の歌は作者いまだ詳らかならず。ただ、古本、この歌をもちてこの次に載す。
推定での本来の別訓
訓読 天離る夷の荒野に君を置きて 思ひつつあれば生けりともなし
私訳 大和から遠く離れた荒びた田舎に貴方が行ってしまっていると思うと、私は恋しくて、そして、貴方の身が心配で生きている気持ちがしません。
柿本人麻呂は、万葉集の前編の軸となる歌人です。従って、万葉集で彼に因む歌を集めて来て、編集で、実際は存在しなかった彼の挽歌を鎮魂のために仕立てるのは不思議ではありません。万葉集を代表する柿本人麻呂には、彼に相応しい晩歌が必要とするのは万葉集を編纂した人々の共通認識です。では、有間皇子はどうなのでしょうか。なぜ、人麻呂に並ぶ鎮魂の挽歌が、彼に必要なのでしょうか。そこが良く判りません。
その有間皇子の人物像は、唯一、日本書紀に次の一節が載るだけです。
原文 有間皇子、性黠陽狂、云々。
訓読 有間皇子、性は黠(こく)にして陽狂(ようきょう)なり、云々といへり。
訓読 有間皇子、性格は小利口で、偽って狂人の振りを行う、云々と伝えられている。
とあります。このあとの文章は、次のようになっています。
原文 徃牟婁温湯、偽療病、来。讃国体勢曰。纔観彼地。病自觸消、云云。
訓読 牟婁温湯に徃きて、偽りて病を療(いや)して来る。国の体勢を讃めて曰はく「纔(わずか)に、彼の地を観るに、病自づからのこぞり消(きえ)ぬ」といへりと、云云。
これ以外は、日本書紀には皇子を処刑する正当性の経緯を載せるのみです。そして、有間皇子の人物像を示すこれらの文章にはすべて「云々」が付けられていますから、日本書紀の編集者は内容の真実性を放棄して、伝聞や憶測と扱っています。つまり、日本書紀の記事からは、推定で判るのは有間皇子が紀伊国熊野方面に行かれたらしいことだけです。当時、温泉は伊予の温湯が有名ですが、さて、有間皇子は療養の目的に牟婁温湯に行ったのでしょうか。それとも別な目的だったのでしょうか。
その有間皇子の父親は孝徳天皇で、孝徳天皇は白雉四年に姉の斉明天皇と妻の間人皇后に難波宮に置き去りにされ、政権は倭の飛鳥での斉明天皇・間人皇后・皇太子によるものに遷っています。そして、孝徳天皇は置き去りにされた翌年十月に難波宮で亡くなられています。この孝徳天皇の時代は、大化の改新とその挫折の時代です。歴史は、大化五年に有間皇子の義理の父親である阿倍倉梯麻呂大臣が亡くなると、中大兄により反改革クーデターが勃発し、大化の改新を実行していた蘇我倉山田麻呂大臣が殺されています。
この前難波宮時代を社会体制の改革と挫折の視点から見ると、有間皇子の謀叛事件のとき、この事件を摘発したのは中大兄で、摘発されたのは有間皇子、守君大石、坂合部連薬、塩屋連鯏魚の四人と有間皇子の付き人の舎人新田部米麻呂です。また、告発者は蘇我臣赤兄となっています。事件では有間皇子・塩屋連鯏魚・新田部米麻呂が死刑、守君大石・坂合部連薬が流刑です。ところが、坂合部連薬の一族の坂合部連石布がこの事件の翌年の斉明五年(659)七月に遣唐使大使に任命されていますから、守君、坂合部連、塩屋連、新田部一族が氏族を挙げての謀叛事件ではなかったようです。
さらに、蘇我臣赤兄、守君大石、坂合部連薬は、葛城皇子(天智天皇)の近江朝廷の重要な閣僚に入っていますし、新田部一族は天武天皇の藤原鎌足娘である五百重娘との御子である新田部皇子の養育を任された氏族です。つまり、有間皇子の謀叛事件に関係した氏族は、葛城皇子(天智天皇)の近江朝廷にはすべて復活しています。
この辺りが、有間皇子が万葉集の挽歌での筆頭に置かれた理由かもしれません。日本の歴史は白村江の戦いでの敗戦から、中央集権を基本とする王都を中心に据えた律令制度を整備・執行する時代に変わり、劇的な社会制度変革の時代です。そして、この律令制度自体は、飛鳥・奈良時代から明治維新まで続くことになります。天武天皇・高市皇子時代は、この律令制度を実務的に整備を開始した時代ですし、元正・聖武天皇時代の万葉集の編纂の時代は律令制度の確立時期です。この時代から見たとき、有間皇子は社会改革の筆頭を走り、その挫折で殺された悲劇の皇子の立場を与えられたのかもしれません。そのシンボルであるならば、万葉集の挽歌の筆頭に置き、鎮魂を行う必要があるのでしょう。
この推論が示す姿は、古代の政治を動かした政治指導者の「中大兄」が、唯一、彼一人が、日本書紀と万葉集で呼び捨てにされる理由なのかもしれません。大化の改新以来、重要な局面で改革にブレーキを踏んで改革派の人物を殺したのは「中大兄」です。ただし、原文の日本書紀を注意深く読むと、中大兄は「命(みこと)」でも「皇子」でもありませんし、日本書紀の記事からは、この中大兄が天智天皇となる葛城皇子と同じ人物かどうかは不明です。「中大兄皇子」なる人物は、本来の日本史では登場しません。江戸・明治時代に勝手に作文した人物です。万葉集も日本書紀も、一部の現代語訳は誤訳や推論を挿入したものがありますから、素人にとって「中大兄」=「中大兄皇子」=天智天皇の思い込みは大変に危険なものですし、その思い込みは正統な学問ではなくなります。
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