万葉雑記 色眼鏡 その廿三 大伴旅人白雲の歌を鑑賞する
最初にお詫びいたします。今回もまた前回に引き続きある種の読書感想文のようなものです。ただ、ご承知のように素人の思い入れを持って例の癖のある立場で行っていますから、この感想文に悪意の悪臭が漂うことをご容赦下さい。
さて、笠間書院発行のコレクション日本歌人選に大伴旅人(以下、コレクション旅人)の巻があります。前回の山上憶良が第二巻でしたが、この旅人の巻は第四十一巻でずいぶん遅い配置となっています。ただ、万葉集の歌人解説でこの大伴旅人を取り上げることはあまり有りませんので、第四十一番目としても少し珍しいことです。ちなみに息子の大伴家持は第四十ニ番目です。参考にこのコレクション日本歌人選に万葉集から単独の巻として取り上げられた歌人は、柿本人麻呂、山上憶良、大伴旅人、大伴家持の四人だけですので、その選出基準にも興味が湧く所です。
今回は標題に示したように万葉集巻四に五七四番歌として載せられている大伴旅人が詠う白雲の歌を取り上げます。この歌はこの前に置かれた沙弥満誓が思い出の歌として旅人に贈った歌二首の応答歌の位置にあります。そのため、コレクション旅人でも満誓が詠う歌とともに紹介・解説が行われています。
ただ、万葉集でも大伴家持は有名ですが、その父親である旅人はそれほどの有名人では有りませんし、ここで取り上げた白雲の歌はほぼ無名に近いほどに知られない歌です。しかしながら、この歌の鑑賞方法を探ると、万葉集を研究する人の研究態度が透けて見えるような、研究者には少し怖い歌でもあります。ここではその恐いと云う背景に少し焦点を当ててみたいと思います。
さて、つまらない前置きはさておき、コレクション旅人の解説を“摘まみ食い”で紹介します。
コレクション旅人
ここにありて筑紫やいづち白雲の棚引く山の方にしあるらし
現代語訳 ここにいて、筑紫はどの方向でしょうか。白雲のたなびく山の方角であるらしい。
旅人の状況後、大宰府の沙弥満誓から二首の歌が贈られた。その歌に和したのがこの二首である。まず、満誓の歌を詠んでおく。
まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ
「後れ」とあるが、先に行く人がいて、後に残された立場での言である。ここでは旅人を基準に自らを「後れ」とする。すなわち、満誓自身も上京を望んていたことがうかがえる。朝に夕に、寂しい思いをしながら過ごすのであろうかと孤独感を前面に出す。しかし、冷静に読むと、離れる前は朝夕一緒にいたかのような関係性が背景にあったことになる。
・・・中略・・・
だが、この表現からは、女性が好意を抱く男性に詠むかのように感じられる。二首目はその点が一層濃厚である。
ぬばたまの黒髪変り白髪ても痛き恋には逢ふ時ありけり
黒髪が白髪に変わってもという、老いらくの「恋」を詠む。
・・・中略・・・
綺麗に言えば、仮託された女性(ただし老女)を感じさせるが、悪く言えば、おふざけがすぎる。
長い“摘み食い”の引用をしましたが、コレクション旅人の主張は、老齢の大宰の観音寺別当と云う高僧の地位にある沙弥満誓が思い出の歌として大伴旅人に贈った歌は「おふざけがすぎる」歌でした。つまり、旅人が詠う白雲の応答歌とは、そのような「おふざけの歌」へのものであると認識が前提となります。
このコレクション旅人と云う本の編集方法のためなのか、コレクション旅人の解説は判りにくいのですが、筆者の元々の原稿はコレクション旅人の本でつぎに配置されている蘆鶴の歌と一体であったと考えられます。それで解説の最初の言葉「その歌に和したのがこの二首である」が、おかしな表現になったと思われます。そこで筆者の元々の原稿の続きとなる次の蘆鶴の歌の解説も紹介します。
コレクション旅人
草香入の入江に求食る蘆鶴のあなたづたづし友無しにして
現代語訳 草香江の入江に食べ物をあさっている葦鶴というわけではないのですが、たどたどしくたよりないことですよ。親しい友もいなくて。
前歌に続く二首目。鶴から「たづたづし」ということばを導き、旅人自身の拠り所のない不安を詠じたわけだが、最後は「友無しにして」と「友」と表現している。恋歌仕掛けの満誓のユーモアに直接には乗っていないが、寂しい思いをしていることを伝えているのは間違いない。
・・・後略・・・
およそ、コレクション旅人の主張は「恋歌仕掛けの満誓が詠う二首が持つユーモアに対し、大伴旅人の応答歌二首はユーモアが感じられず、友への思いの表現が直線的である」としていると思われます。
ここで、他の万葉集研究の状況をしめすものとして、私が多く鑑賞の拠り所とする伊藤博氏の万葉集釋注から解説を紹介します。
釋注では満誓の詠う歌について、「第二首(五七三)も恋歌めかして相手のいない今のさびしさを訴えている」とし、旅人の第一首について「満誓の第一首に応じて、遥か彼方、友のいる筑紫に思いを寄せる。たなびく雲を距離感を表わすのに用いるとともに、相手を偲ぶよすがにしている」、また第二首について「上三句に、大宰府からの帰途に瞩目した風景を持ちこんで序としながら、友と離れて拠り所ない心細さをうたっている。目下の心情を吐露したもので、旅人に置き去りにされての悲しみを述べる満誓の第二首に応じる形になっている」と述べられています。おおよそ、釋注の解説もまた、コレクション旅人の解説と同様に、老僧の満誓が恋する女性に仮託して歌を詠う姿に対して、旅人の応答歌に物足りなさを感じているようです。
確かに鎌倉時代頃から始まった訓読へ翻訳された万葉集を鑑賞する態度としては、そうなのでしょう。コレクション旅人や釋注もまた、その伝統を受け継ぎ、原則として翻訳された訓読み万葉集をテキストとして歌の解説や鑑賞を行っています。その場合、その訓読万葉集の成立の本質からしますと歌の解釈ではこのようなものにならざるを得ないのでしょう。
ここで、ブログの運営方針に従って、本来の万葉集の歌の原文を次に紹介します。
太宰帥大伴卿上京之後沙弥満誓贈卿謌二首
標訓 太宰帥大伴卿の上京の後に、沙弥満誓の卿に贈れる謌二首
集歌572 真十鏡 見不飽君尓所 贈哉 旦夕尓 左備乍将居
訓読 真澄鏡(まそかがみ)見飽かぬ君にそ贈るるや朝(あした)夕(ゆふべ)にさびつつ居(を)らむ
私訳 願うと見たいものを見せると云う真澄鏡で日々見ても見飽きることがない、その貴方の許へと歌を贈りますが、その私はここに残されて、朝に夕べに僧侶らしく振舞っています。
集歌573 野干玉之 黒髪變 白髪手裳 痛戀庭 相時有来
訓読 ぬばたまし黒髪変(かは)り白髪(しらけ)ても痛(いた)き恋には逢ふ時ありけり
私訳 真っ黒な黒光りする黒髪が変わり白髪となる年になっても、このような辛い恋慕の想いに逢うことがあるのですね。
大納言大伴卿和謌二首
標訓 大納言大伴卿の和(こた)へたる謌二首
集歌574 此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思
訓読 ここありに筑紫(つくし)や何処(いづち)白雲のたなびく山し方(かた)にしあるらし
私訳 ここ、都と筑紫との間にいて、さて、筑紫はどちらの方向になるのだろう。きっと、白雲のたなびく山の西の彼方にあるのだろう。
集歌575 草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天
訓読 草香江(くさかえ)し入江に求食(あさ)る葦(あし)鶴(たづ)のあなたづたづし友無しにして
私訳 草香江の入江に餌をあさる葦べの鶴のように、ああ心もとないことよ。多くの友は遠くに無くして。
どうでしょう。原文を眺めると、歌の鑑賞での感覚が変わったと思いませんか?
まず、ユーモアの観点から旅人の歌う歌の原文表記を見てみましょう。集歌574では旅人は「方西有良思」と慎重に字を選択していますし、集歌575も同様に「痛多豆多頭思」と選択しています。旅人は採用した用字から「筑紫の方角はどちらなのだろうか、きっと、西の方角なのだろう」、「筑紫での思い出の人々の顔(=頭)が、もう、遥か遠くて豆粒のようだが、それでもたくさん思い出す」という風に用字を選択することで歌での隠された感情を示しています。
およそ、満誓は歌のテーマでユーモアを見せたのに対し、旅人は歌での用字の選択でユーモアを返しているとうかがえます。従いまして、コレクション旅人や釋注の鑑賞態度のように訓読み万葉集からだけで歌を鑑賞していたのでは、このような万葉集の歌本来が持つ用字遊びのユーモアなどは、なかなか伝わらないと思われます。
最初に、今回の歌の紹介で案内しましたが、この万葉歌の鑑賞に見られるように、万葉集において使用するテキストにより、その歌の鑑賞態度が変わる可能性があることがご理解頂けると思います。ここに研究者の万葉集への研究態度が透けて見えてくると云う可能性がありますし、恐さがあります。この万葉集を鑑賞する上での本源に関わる問題点についてインターネット検索を行いますと、2006年のものになりますが三重大学の廣岡義隆氏が「古典のテキストについて : 文学研究におけるテキスト論」で指摘されています。また、この廣岡義隆氏の論文から「使用するテキストにより歌の解釈態度が変わる」と云う問題は、早く、新編日本古典文学全集の万葉集を編纂された東野治之氏がその編纂過程で指摘されていたと取り上げられています。およそ新編全集が発刊された1996年段階頃には専門に万葉集を研究される方々の間で問題になりつつあったと推測されます。
逆に、2006年の段階で大学における研究発表会でのテーマになるくらいですから、万葉集の歌を原文テキストで鑑賞する場合と訓読テキストで鑑賞する場合で、その鑑賞が一致するかどうかの研究が近年の新しい研究テーマの一つであることが判ります。ただ、これにはなにか不思議な感じがします。本質的に原文テキストは根源普遍ですが、訓読テキストとはあくまでもそれは誰かの鑑賞や研究成果です。その当たり前の認識を現代になって再確認しなければならないとはなんとも不思議です。
参考に満誓が歌う集歌572について、原文は次のような表記とされて、そこには区切りや句読点はありません。(なお、研究では一行十六文字ではないかとしていますので、二行書きであった可能性が非常に高いと考えます)
真十鏡見不飽君尓所贈哉旦夕尓左備乍将居
これを一般には、
真十鏡 見不飽君尓 所贈哉 旦夕尓 左備乍将居
と区切り、その訓読みを与えますが、その時、三句目の「所贈哉」の訓みが難しくなります。もし、「所」が真仮名ですとこれは「ソ」と訓み強調の終助詞となりますが、漢語の「所(ところ)」として名詞としますと訓読不能になります。そこで古くからこの「所」は無かったものとするか漢文的な強調の文字として「所贈哉」を「おくれてや」と訓読します。そこからの「後れてや」の解釈です。同じような扱いが集歌10の「吾代毛所知哉」の「所知哉」です。
当然、「所」を奈良時代に相応しく真仮名として解釈すると、
真十鏡 見不飽君尓所 贈哉 旦夕尓 左備乍将居
としめすように区切りが変わります。そのため、原文の「見不飽君尓所」は「見飽かぬ君にそ」となり、「贈哉」は「贈るるや」と訓読が変わります。さらに、「贈哉」は「贈る」と「後る」との掛け言葉となります。このように使用するテキストにより、ずいぶん、歌の解釈が変わってきます。先に挙げた集歌10の例ですと「君し世も、吾が世もそ知るや」と訓めば、「先代の統治も、今、私が統治をしている、この時代も、貴方は知っていますか」と無理なく解釈出来る訳です。
さらに従来の解釈を離れると、末句の「左備乍将居」の「左備(さび)」が、古語の「さびる」に由来するものと解釈することも可能です。すると、「さびつつ」の「さび」が一般的な現代語での「寂しい」と云う意味ではなく、「そのものらしく振る舞う、そのものらしくなる」と意味を示します。つまり、意味合いとして、旅人が大宰府から居なくなってからは、文化人として詩歌を楽しむことを止め、本来の僧侶としての勤めである仏教修行に励んでいると云う意味合いになります。これもまた、ずいぶんと解釈が変わります。
また、旅人が詠う集歌574の歌、その初句の「此間在而」や三句目の「白雲乃」は、一瞬、漢詩と思われる雰囲気があります。そのためなのでしょうか、旅人の歌が満誓の歌に比べ直線的で艶が無く、ユーモアの要素が不足していると指摘されるのでしょう。確かに満誓が黒髪や白髪と詠っても漢詩的要素より女性的な艶を先に感じますが、旅人の白雲には、なぜか、堅い漢詩の世界の感覚がします。
そこで、旅人がどうしてこの「白雲」の言葉を使ったのかを考えてみたいと思います。そうした時、大宰府時代の旅人と満誓との関係を思い浮かべますと、なぜ、旅人が「白雲」と云う漢語を大和歌に使用したのかと云うことへの理解が進むのではないでしょうか。
おおよそ、一般に万葉集で使われる旅に関わる「白雲」と云う言葉の背景には、周王朝の「穆天子傳」に載る西王母が詠う歌謡での、周の国から西方、遥か彼方にある崑崙山まで遠征して来た穆王に対して、東方にある王自身の周の国への無事な帰国を西王母が予め祝うという説話があります。つまり、ここでの「白雲」には、旅人が西方の大宰府から東方にある故郷の大和の都に無事に帰り着いたと云うことを、その説話での言葉を使うことで暗示していると考えられます。
さらに旅人が従二位大納言と云う当時の人臣では最高位となる身分に登り詰めて帰京した背景には旅人と藤原房前との関係があります。大宰府時代の旅人と満誓との親交を考えますと奈良の都の房前が大宰府に居る旅人に贈った、書簡の内容を満誓は知っていたと考えます。また、それを前提で旅人は集歌574の歌で満誓に対し「白雲」と云う言葉を使ったと思われます。
その房前が旅人に書簡文が次のものです。
梧桐日本琴一面より房前から旅人への書簡文
跪承芳音、嘉懽交深。乃、知龍門之恩、復厚蓬身之上。戀望殊念、常心百倍。謹和白雲之什、以奏野鄙之歌。房前謹状。
訓読 跪(ひざまづ)きて芳音を承り、嘉懽(かこん)交(こもごも)深し。乃ち、龍門の恩の、復(また)蓬身(ほうしん)の上に厚きを知りぬ。戀ひ望む殊念(しゅねん)、常の心の百倍せり。謹みて白雲の什(うた)に和(こた)へて、野鄙の歌を奏る。房前謹みて状(まう)す。
私訳 謹んで御芳書を拝承し、芳書が立派である思いとその芳書を頂くことが嬉しいとの気持ち入り交じり思いは深いことです。そこで、規律を守り品格高い貴方と交遊を許されるご恩は、今も卑賤の身の上に厚いことを知りました。貴方にお会いしたいと願う気持ちは、常の気持より百倍も勝ります。謹んで、遥か彼方からの詩に和唱して、拙い詩を奉ります。房前、謹んで申し上げます。
こうしてみますと、歌を花鳥の使いとして高度な政治的会話の道具として使ってきた人々、その内の一人、満誓が詠う集歌573の歌の句「痛戀庭 相時有来」で示す「恋」とは、感情的に好き嫌いや相手に会う会わないと云った側面よりも、書簡交換を含めた風流の交流への恋慕と云う側面が強いと思われます。その文人たる満誓の要求に対して旅人は敢えて漢詩調の強い歌を詠うことで満誓の欲望への答えとしたと推測されます。それも文字遊びを取り込んでの返歌です。
万葉集を原文から眺め、また、一首単独で鑑賞するのではなく、万葉集全体を一つのものとして鑑賞すると、紹介したコレクション旅人での歌の鑑賞・解説とは別な鑑賞が可能なようです。
最初にお詫びいたします。今回もまた前回に引き続きある種の読書感想文のようなものです。ただ、ご承知のように素人の思い入れを持って例の癖のある立場で行っていますから、この感想文に悪意の悪臭が漂うことをご容赦下さい。
さて、笠間書院発行のコレクション日本歌人選に大伴旅人(以下、コレクション旅人)の巻があります。前回の山上憶良が第二巻でしたが、この旅人の巻は第四十一巻でずいぶん遅い配置となっています。ただ、万葉集の歌人解説でこの大伴旅人を取り上げることはあまり有りませんので、第四十一番目としても少し珍しいことです。ちなみに息子の大伴家持は第四十ニ番目です。参考にこのコレクション日本歌人選に万葉集から単独の巻として取り上げられた歌人は、柿本人麻呂、山上憶良、大伴旅人、大伴家持の四人だけですので、その選出基準にも興味が湧く所です。
今回は標題に示したように万葉集巻四に五七四番歌として載せられている大伴旅人が詠う白雲の歌を取り上げます。この歌はこの前に置かれた沙弥満誓が思い出の歌として旅人に贈った歌二首の応答歌の位置にあります。そのため、コレクション旅人でも満誓が詠う歌とともに紹介・解説が行われています。
ただ、万葉集でも大伴家持は有名ですが、その父親である旅人はそれほどの有名人では有りませんし、ここで取り上げた白雲の歌はほぼ無名に近いほどに知られない歌です。しかしながら、この歌の鑑賞方法を探ると、万葉集を研究する人の研究態度が透けて見えるような、研究者には少し怖い歌でもあります。ここではその恐いと云う背景に少し焦点を当ててみたいと思います。
さて、つまらない前置きはさておき、コレクション旅人の解説を“摘まみ食い”で紹介します。
コレクション旅人
ここにありて筑紫やいづち白雲の棚引く山の方にしあるらし
現代語訳 ここにいて、筑紫はどの方向でしょうか。白雲のたなびく山の方角であるらしい。
旅人の状況後、大宰府の沙弥満誓から二首の歌が贈られた。その歌に和したのがこの二首である。まず、満誓の歌を詠んでおく。
まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ
「後れ」とあるが、先に行く人がいて、後に残された立場での言である。ここでは旅人を基準に自らを「後れ」とする。すなわち、満誓自身も上京を望んていたことがうかがえる。朝に夕に、寂しい思いをしながら過ごすのであろうかと孤独感を前面に出す。しかし、冷静に読むと、離れる前は朝夕一緒にいたかのような関係性が背景にあったことになる。
・・・中略・・・
だが、この表現からは、女性が好意を抱く男性に詠むかのように感じられる。二首目はその点が一層濃厚である。
ぬばたまの黒髪変り白髪ても痛き恋には逢ふ時ありけり
黒髪が白髪に変わってもという、老いらくの「恋」を詠む。
・・・中略・・・
綺麗に言えば、仮託された女性(ただし老女)を感じさせるが、悪く言えば、おふざけがすぎる。
長い“摘み食い”の引用をしましたが、コレクション旅人の主張は、老齢の大宰の観音寺別当と云う高僧の地位にある沙弥満誓が思い出の歌として大伴旅人に贈った歌は「おふざけがすぎる」歌でした。つまり、旅人が詠う白雲の応答歌とは、そのような「おふざけの歌」へのものであると認識が前提となります。
このコレクション旅人と云う本の編集方法のためなのか、コレクション旅人の解説は判りにくいのですが、筆者の元々の原稿はコレクション旅人の本でつぎに配置されている蘆鶴の歌と一体であったと考えられます。それで解説の最初の言葉「その歌に和したのがこの二首である」が、おかしな表現になったと思われます。そこで筆者の元々の原稿の続きとなる次の蘆鶴の歌の解説も紹介します。
コレクション旅人
草香入の入江に求食る蘆鶴のあなたづたづし友無しにして
現代語訳 草香江の入江に食べ物をあさっている葦鶴というわけではないのですが、たどたどしくたよりないことですよ。親しい友もいなくて。
前歌に続く二首目。鶴から「たづたづし」ということばを導き、旅人自身の拠り所のない不安を詠じたわけだが、最後は「友無しにして」と「友」と表現している。恋歌仕掛けの満誓のユーモアに直接には乗っていないが、寂しい思いをしていることを伝えているのは間違いない。
・・・後略・・・
およそ、コレクション旅人の主張は「恋歌仕掛けの満誓が詠う二首が持つユーモアに対し、大伴旅人の応答歌二首はユーモアが感じられず、友への思いの表現が直線的である」としていると思われます。
ここで、他の万葉集研究の状況をしめすものとして、私が多く鑑賞の拠り所とする伊藤博氏の万葉集釋注から解説を紹介します。
釋注では満誓の詠う歌について、「第二首(五七三)も恋歌めかして相手のいない今のさびしさを訴えている」とし、旅人の第一首について「満誓の第一首に応じて、遥か彼方、友のいる筑紫に思いを寄せる。たなびく雲を距離感を表わすのに用いるとともに、相手を偲ぶよすがにしている」、また第二首について「上三句に、大宰府からの帰途に瞩目した風景を持ちこんで序としながら、友と離れて拠り所ない心細さをうたっている。目下の心情を吐露したもので、旅人に置き去りにされての悲しみを述べる満誓の第二首に応じる形になっている」と述べられています。おおよそ、釋注の解説もまた、コレクション旅人の解説と同様に、老僧の満誓が恋する女性に仮託して歌を詠う姿に対して、旅人の応答歌に物足りなさを感じているようです。
確かに鎌倉時代頃から始まった訓読へ翻訳された万葉集を鑑賞する態度としては、そうなのでしょう。コレクション旅人や釋注もまた、その伝統を受け継ぎ、原則として翻訳された訓読み万葉集をテキストとして歌の解説や鑑賞を行っています。その場合、その訓読万葉集の成立の本質からしますと歌の解釈ではこのようなものにならざるを得ないのでしょう。
ここで、ブログの運営方針に従って、本来の万葉集の歌の原文を次に紹介します。
太宰帥大伴卿上京之後沙弥満誓贈卿謌二首
標訓 太宰帥大伴卿の上京の後に、沙弥満誓の卿に贈れる謌二首
集歌572 真十鏡 見不飽君尓所 贈哉 旦夕尓 左備乍将居
訓読 真澄鏡(まそかがみ)見飽かぬ君にそ贈るるや朝(あした)夕(ゆふべ)にさびつつ居(を)らむ
私訳 願うと見たいものを見せると云う真澄鏡で日々見ても見飽きることがない、その貴方の許へと歌を贈りますが、その私はここに残されて、朝に夕べに僧侶らしく振舞っています。
集歌573 野干玉之 黒髪變 白髪手裳 痛戀庭 相時有来
訓読 ぬばたまし黒髪変(かは)り白髪(しらけ)ても痛(いた)き恋には逢ふ時ありけり
私訳 真っ黒な黒光りする黒髪が変わり白髪となる年になっても、このような辛い恋慕の想いに逢うことがあるのですね。
大納言大伴卿和謌二首
標訓 大納言大伴卿の和(こた)へたる謌二首
集歌574 此間在而 筑紫也何處 白雲乃 棚引山之 方西有良思
訓読 ここありに筑紫(つくし)や何処(いづち)白雲のたなびく山し方(かた)にしあるらし
私訳 ここ、都と筑紫との間にいて、さて、筑紫はどちらの方向になるのだろう。きっと、白雲のたなびく山の西の彼方にあるのだろう。
集歌575 草香江之 入江二求食 蘆鶴乃 痛多豆多頭思 友無二指天
訓読 草香江(くさかえ)し入江に求食(あさ)る葦(あし)鶴(たづ)のあなたづたづし友無しにして
私訳 草香江の入江に餌をあさる葦べの鶴のように、ああ心もとないことよ。多くの友は遠くに無くして。
どうでしょう。原文を眺めると、歌の鑑賞での感覚が変わったと思いませんか?
まず、ユーモアの観点から旅人の歌う歌の原文表記を見てみましょう。集歌574では旅人は「方西有良思」と慎重に字を選択していますし、集歌575も同様に「痛多豆多頭思」と選択しています。旅人は採用した用字から「筑紫の方角はどちらなのだろうか、きっと、西の方角なのだろう」、「筑紫での思い出の人々の顔(=頭)が、もう、遥か遠くて豆粒のようだが、それでもたくさん思い出す」という風に用字を選択することで歌での隠された感情を示しています。
およそ、満誓は歌のテーマでユーモアを見せたのに対し、旅人は歌での用字の選択でユーモアを返しているとうかがえます。従いまして、コレクション旅人や釋注の鑑賞態度のように訓読み万葉集からだけで歌を鑑賞していたのでは、このような万葉集の歌本来が持つ用字遊びのユーモアなどは、なかなか伝わらないと思われます。
最初に、今回の歌の紹介で案内しましたが、この万葉歌の鑑賞に見られるように、万葉集において使用するテキストにより、その歌の鑑賞態度が変わる可能性があることがご理解頂けると思います。ここに研究者の万葉集への研究態度が透けて見えてくると云う可能性がありますし、恐さがあります。この万葉集を鑑賞する上での本源に関わる問題点についてインターネット検索を行いますと、2006年のものになりますが三重大学の廣岡義隆氏が「古典のテキストについて : 文学研究におけるテキスト論」で指摘されています。また、この廣岡義隆氏の論文から「使用するテキストにより歌の解釈態度が変わる」と云う問題は、早く、新編日本古典文学全集の万葉集を編纂された東野治之氏がその編纂過程で指摘されていたと取り上げられています。およそ新編全集が発刊された1996年段階頃には専門に万葉集を研究される方々の間で問題になりつつあったと推測されます。
逆に、2006年の段階で大学における研究発表会でのテーマになるくらいですから、万葉集の歌を原文テキストで鑑賞する場合と訓読テキストで鑑賞する場合で、その鑑賞が一致するかどうかの研究が近年の新しい研究テーマの一つであることが判ります。ただ、これにはなにか不思議な感じがします。本質的に原文テキストは根源普遍ですが、訓読テキストとはあくまでもそれは誰かの鑑賞や研究成果です。その当たり前の認識を現代になって再確認しなければならないとはなんとも不思議です。
参考に満誓が歌う集歌572について、原文は次のような表記とされて、そこには区切りや句読点はありません。(なお、研究では一行十六文字ではないかとしていますので、二行書きであった可能性が非常に高いと考えます)
真十鏡見不飽君尓所贈哉旦夕尓左備乍将居
これを一般には、
真十鏡 見不飽君尓 所贈哉 旦夕尓 左備乍将居
と区切り、その訓読みを与えますが、その時、三句目の「所贈哉」の訓みが難しくなります。もし、「所」が真仮名ですとこれは「ソ」と訓み強調の終助詞となりますが、漢語の「所(ところ)」として名詞としますと訓読不能になります。そこで古くからこの「所」は無かったものとするか漢文的な強調の文字として「所贈哉」を「おくれてや」と訓読します。そこからの「後れてや」の解釈です。同じような扱いが集歌10の「吾代毛所知哉」の「所知哉」です。
当然、「所」を奈良時代に相応しく真仮名として解釈すると、
真十鏡 見不飽君尓所 贈哉 旦夕尓 左備乍将居
としめすように区切りが変わります。そのため、原文の「見不飽君尓所」は「見飽かぬ君にそ」となり、「贈哉」は「贈るるや」と訓読が変わります。さらに、「贈哉」は「贈る」と「後る」との掛け言葉となります。このように使用するテキストにより、ずいぶん、歌の解釈が変わってきます。先に挙げた集歌10の例ですと「君し世も、吾が世もそ知るや」と訓めば、「先代の統治も、今、私が統治をしている、この時代も、貴方は知っていますか」と無理なく解釈出来る訳です。
さらに従来の解釈を離れると、末句の「左備乍将居」の「左備(さび)」が、古語の「さびる」に由来するものと解釈することも可能です。すると、「さびつつ」の「さび」が一般的な現代語での「寂しい」と云う意味ではなく、「そのものらしく振る舞う、そのものらしくなる」と意味を示します。つまり、意味合いとして、旅人が大宰府から居なくなってからは、文化人として詩歌を楽しむことを止め、本来の僧侶としての勤めである仏教修行に励んでいると云う意味合いになります。これもまた、ずいぶんと解釈が変わります。
また、旅人が詠う集歌574の歌、その初句の「此間在而」や三句目の「白雲乃」は、一瞬、漢詩と思われる雰囲気があります。そのためなのでしょうか、旅人の歌が満誓の歌に比べ直線的で艶が無く、ユーモアの要素が不足していると指摘されるのでしょう。確かに満誓が黒髪や白髪と詠っても漢詩的要素より女性的な艶を先に感じますが、旅人の白雲には、なぜか、堅い漢詩の世界の感覚がします。
そこで、旅人がどうしてこの「白雲」の言葉を使ったのかを考えてみたいと思います。そうした時、大宰府時代の旅人と満誓との関係を思い浮かべますと、なぜ、旅人が「白雲」と云う漢語を大和歌に使用したのかと云うことへの理解が進むのではないでしょうか。
おおよそ、一般に万葉集で使われる旅に関わる「白雲」と云う言葉の背景には、周王朝の「穆天子傳」に載る西王母が詠う歌謡での、周の国から西方、遥か彼方にある崑崙山まで遠征して来た穆王に対して、東方にある王自身の周の国への無事な帰国を西王母が予め祝うという説話があります。つまり、ここでの「白雲」には、旅人が西方の大宰府から東方にある故郷の大和の都に無事に帰り着いたと云うことを、その説話での言葉を使うことで暗示していると考えられます。
さらに旅人が従二位大納言と云う当時の人臣では最高位となる身分に登り詰めて帰京した背景には旅人と藤原房前との関係があります。大宰府時代の旅人と満誓との親交を考えますと奈良の都の房前が大宰府に居る旅人に贈った、書簡の内容を満誓は知っていたと考えます。また、それを前提で旅人は集歌574の歌で満誓に対し「白雲」と云う言葉を使ったと思われます。
その房前が旅人に書簡文が次のものです。
梧桐日本琴一面より房前から旅人への書簡文
跪承芳音、嘉懽交深。乃、知龍門之恩、復厚蓬身之上。戀望殊念、常心百倍。謹和白雲之什、以奏野鄙之歌。房前謹状。
訓読 跪(ひざまづ)きて芳音を承り、嘉懽(かこん)交(こもごも)深し。乃ち、龍門の恩の、復(また)蓬身(ほうしん)の上に厚きを知りぬ。戀ひ望む殊念(しゅねん)、常の心の百倍せり。謹みて白雲の什(うた)に和(こた)へて、野鄙の歌を奏る。房前謹みて状(まう)す。
私訳 謹んで御芳書を拝承し、芳書が立派である思いとその芳書を頂くことが嬉しいとの気持ち入り交じり思いは深いことです。そこで、規律を守り品格高い貴方と交遊を許されるご恩は、今も卑賤の身の上に厚いことを知りました。貴方にお会いしたいと願う気持ちは、常の気持より百倍も勝ります。謹んで、遥か彼方からの詩に和唱して、拙い詩を奉ります。房前、謹んで申し上げます。
こうしてみますと、歌を花鳥の使いとして高度な政治的会話の道具として使ってきた人々、その内の一人、満誓が詠う集歌573の歌の句「痛戀庭 相時有来」で示す「恋」とは、感情的に好き嫌いや相手に会う会わないと云った側面よりも、書簡交換を含めた風流の交流への恋慕と云う側面が強いと思われます。その文人たる満誓の要求に対して旅人は敢えて漢詩調の強い歌を詠うことで満誓の欲望への答えとしたと推測されます。それも文字遊びを取り込んでの返歌です。
万葉集を原文から眺め、また、一首単独で鑑賞するのではなく、万葉集全体を一つのものとして鑑賞すると、紹介したコレクション旅人での歌の鑑賞・解説とは別な鑑賞が可能なようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます