額田王の生年を考える
やはり、額田王は謎の人物ですが、次の歌から或る程度の年齢が推定できそうです。この歌を詠ったときを二十歳ぐらいと想定しますと、額田王は舒明五年(633)頃に誕生したことになります。
さて、素人考えで次の歌を見てみます。
明日香川原宮御宇天皇代 (天豊財重日足姫天皇)
額田王謌 未詳
標訓 額田王の歌 未だ詳かならず
集歌7 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
訓読 秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮廬(かりほ)し念(おも)ほゆ
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を検むに曰はく「一書に『戊申の年の比良の宮に幸すときの大御歌なり』といふ」といへり。ただし、紀に曰く「五年の春、正月己卯の朔の辛巳に、天皇、紀温湯(きのゆ)より至(かへ)ります。三月戊寅の朔に、天皇の吉野の宮に幸(いでま)して肆宴(とよのほあかり)したまふ。庚辰の日に、天皇、近江の平浦に幸(いでま)す」といへり。
この歌は「明日香川原宮御宇天皇代」となっていますから、明日香川原宮の斉明天皇時代となります。ただし、歌の左注の山上憶良の類聚歌林に記す暦の「戊申」は、648年の孝徳天皇の大化四年に相当します。ところが、同じ左注での日本書紀の記事では斉明天皇の近江の平浦への御幸は斉明五年三月となっていますので、歌の季節である「秋の情景」に合いません。集歌7の歌の内容、左注における類聚歌林による年号、日本書紀での平浦への御幸が、それぞれの辻褄が合わないのです。そこで、普段の万葉集の解説では、詞書での「未詳」を歌が詠われた時が不明と解釈して説明します。
ここで、もう一度、左注の「一書には戊申の年の比良宮に幸す」について考えてみたいと思います。ここで、「戊申の年」の年号に注目すると、和銅元年(708)戊申の年の九月に元明天皇は山背国相楽郡(京都府木津川市)の岡田の離宮に御幸されています。場合によっては、山上憶良は類聚歌林で「ある本の記事では」と同じ方面への元明天皇の御幸を紹介した可能性はあります。この場合、偶然に集歌7の歌の内容と元明天皇の御幸とは、その場所も季節も一致します。さらに、歌の歌詞と同じように元明天皇の岡田の離宮への御幸で行宮を建てたことも続日本紀から確認できます。なお、普段の解説のように比良宮を平浦と読み換えることが可能なら、「比」の漢字にある「なら-ふ」の読みを取り比良宮(ならのみや)と読むことも可能です。すると、左注は二つの記事と考えることが出来ますし、左注-2は歌の内容が判らなくなった時代での追記の可能性があります。
左注-1
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。
左注-2
但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。
すると、困ったことが生じます。皇極天皇から斉明天皇の時代で宇治方面に宮を建てたのは、孝徳天皇の白雉四年秋、山背国の山碕(やまさき)の宮だけなのです。日本書紀の記事から拡大解釈しますと、先の皇極天皇は白雉四年秋に現天皇である孝徳天皇を難波宮に置き去りにして、倭飛鳥河辺行宮に移られ斉明天皇として朝廷を開かれています。つまり、日本書紀での白雉四年秋を斉明即位前紀と見做すことも可能ですから、集歌7の歌は斉明即位前紀としての白雉四年(653)秋の歌と推定することも可能ではないでしょうか。
ここで、最初の額田王の年齢推定に戻ります。額田王がこの歌を詠った時は、斉明天皇の歌を代作するような従者です。裳儀を済ませたばかりの少女の十三歳位ではなく、ある程度の身分の宮中の女性として二十歳ぐらいと想像しますと、白雉四年から逆算して舒明五年(633)頃の誕生の推定が出てくるわけです。そして、倭を里とする額田王に白雉四年(653)秋の倭飛鳥河辺行宮への遷都で、大海人皇子と出会いがあり十市皇女を生んだとしますと、十市皇女は白雉五年(654)頃の生まれとなります。この推定では、天智十年(671)の時点では十市皇女は十八歳となります。懐風藻の記事では、十市皇女の夫である大友皇子が天武元年(672)七月に二十五歳ですから、ほぼ、バランスは取れています。
なお、額田王は大海人皇子の添臥の考え方がありますから、大海人皇子が白雉四年(653)秋に十四歳位としますと舒明十二年(640)の生まれと推定されてきますし、添臥としての額田王の年齢ともバランスがあります。もし、大海人皇子が舒明十二年の生まれとしますと、奇しくも伝承での有馬皇子と同年の異母兄弟になります。偶然ですが、この大海人皇子が舒明十二年の生まれの推定は、興福寺略年代記の記事に似合うようです。
やはり、額田王は謎の人物ですが、次の歌から或る程度の年齢が推定できそうです。この歌を詠ったときを二十歳ぐらいと想定しますと、額田王は舒明五年(633)頃に誕生したことになります。
さて、素人考えで次の歌を見てみます。
明日香川原宮御宇天皇代 (天豊財重日足姫天皇)
額田王謌 未詳
標訓 額田王の歌 未だ詳かならず
集歌7 金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
訓読 秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿(やど)れりし宇治の京(みやこ)の仮廬(かりほ)し念(おも)ほゆ
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を検むに曰はく「一書に『戊申の年の比良の宮に幸すときの大御歌なり』といふ」といへり。ただし、紀に曰く「五年の春、正月己卯の朔の辛巳に、天皇、紀温湯(きのゆ)より至(かへ)ります。三月戊寅の朔に、天皇の吉野の宮に幸(いでま)して肆宴(とよのほあかり)したまふ。庚辰の日に、天皇、近江の平浦に幸(いでま)す」といへり。
この歌は「明日香川原宮御宇天皇代」となっていますから、明日香川原宮の斉明天皇時代となります。ただし、歌の左注の山上憶良の類聚歌林に記す暦の「戊申」は、648年の孝徳天皇の大化四年に相当します。ところが、同じ左注での日本書紀の記事では斉明天皇の近江の平浦への御幸は斉明五年三月となっていますので、歌の季節である「秋の情景」に合いません。集歌7の歌の内容、左注における類聚歌林による年号、日本書紀での平浦への御幸が、それぞれの辻褄が合わないのです。そこで、普段の万葉集の解説では、詞書での「未詳」を歌が詠われた時が不明と解釈して説明します。
ここで、もう一度、左注の「一書には戊申の年の比良宮に幸す」について考えてみたいと思います。ここで、「戊申の年」の年号に注目すると、和銅元年(708)戊申の年の九月に元明天皇は山背国相楽郡(京都府木津川市)の岡田の離宮に御幸されています。場合によっては、山上憶良は類聚歌林で「ある本の記事では」と同じ方面への元明天皇の御幸を紹介した可能性はあります。この場合、偶然に集歌7の歌の内容と元明天皇の御幸とは、その場所も季節も一致します。さらに、歌の歌詞と同じように元明天皇の岡田の離宮への御幸で行宮を建てたことも続日本紀から確認できます。なお、普段の解説のように比良宮を平浦と読み換えることが可能なら、「比」の漢字にある「なら-ふ」の読みを取り比良宮(ならのみや)と読むことも可能です。すると、左注は二つの記事と考えることが出来ますし、左注-2は歌の内容が判らなくなった時代での追記の可能性があります。
左注-1
右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、一書戊申年幸比良宮大御謌。
左注-2
但、紀曰、五年春、正月己卯朔辛巳、天皇、至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野宮而肆宴焉。庚辰日、天皇幸近江之平浦。
すると、困ったことが生じます。皇極天皇から斉明天皇の時代で宇治方面に宮を建てたのは、孝徳天皇の白雉四年秋、山背国の山碕(やまさき)の宮だけなのです。日本書紀の記事から拡大解釈しますと、先の皇極天皇は白雉四年秋に現天皇である孝徳天皇を難波宮に置き去りにして、倭飛鳥河辺行宮に移られ斉明天皇として朝廷を開かれています。つまり、日本書紀での白雉四年秋を斉明即位前紀と見做すことも可能ですから、集歌7の歌は斉明即位前紀としての白雉四年(653)秋の歌と推定することも可能ではないでしょうか。
ここで、最初の額田王の年齢推定に戻ります。額田王がこの歌を詠った時は、斉明天皇の歌を代作するような従者です。裳儀を済ませたばかりの少女の十三歳位ではなく、ある程度の身分の宮中の女性として二十歳ぐらいと想像しますと、白雉四年から逆算して舒明五年(633)頃の誕生の推定が出てくるわけです。そして、倭を里とする額田王に白雉四年(653)秋の倭飛鳥河辺行宮への遷都で、大海人皇子と出会いがあり十市皇女を生んだとしますと、十市皇女は白雉五年(654)頃の生まれとなります。この推定では、天智十年(671)の時点では十市皇女は十八歳となります。懐風藻の記事では、十市皇女の夫である大友皇子が天武元年(672)七月に二十五歳ですから、ほぼ、バランスは取れています。
なお、額田王は大海人皇子の添臥の考え方がありますから、大海人皇子が白雉四年(653)秋に十四歳位としますと舒明十二年(640)の生まれと推定されてきますし、添臥としての額田王の年齢ともバランスがあります。もし、大海人皇子が舒明十二年の生まれとしますと、奇しくも伝承での有馬皇子と同年の異母兄弟になります。偶然ですが、この大海人皇子が舒明十二年の生まれの推定は、興福寺略年代記の記事に似合うようです。
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