万葉雑記 色眼鏡 百二十 農作の節の諌言を鑑賞する
ずいぶん昔に「難癖か 諌言か 『農作(なりわい)の節の諌言とは、神道反対の抗議』」と云うテーマで集歌44の歌を鑑賞しました。
歌自体より付けられた左注が面白いと云う作品で、その左注は当時の宗教論争を物語るものですし、一見、理がありそうな論説でも真面目にその論説の根拠とそれを取り上げた背景を調べると、確信犯的な詭弁であることもあると云う典型的な事例を紹介したものです。
さて、『日本書紀』にあたかも忠臣かのように扱われる三輪朝臣高市麻呂の「農作の節」と云う有名な諫言に関係する歌が『万葉集』にあります。それが、次の歌です。
石上大臣従駕作謌
標訓 石上大臣の駕(いでまし)に従ひ作れる謌
集歌44 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
訓読 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
私訳 私の恋人をさあ(いざ)見ようとするが、いざ見の山は高くて大和の国は見えない。国を遠く来たからか。
漢文 右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄肆廣瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位撃上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。
注訓 右は、日本紀に曰はく「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戊辰、浄肆廣瀬王等を以ちて留守の官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂その冠位を脱ぎて朝(みかど)に撃上(ささ)げ、重ねて諌めて曰はく『農作(なりはひ)の前に車駕(みかど)いまだ以ちて動くべからず』といふ。辛未、天皇諌(いさめ)に従はず、遂に伊勢に幸(いでま)す。五月乙丑の朔の庚午、阿胡の行宮(かりみや)に御(おは)す」といへり。
この歌自身は平凡な旅先の歌ですが、この歌の面白いのは「朱鳥六年の伊勢御幸の従駕の歌」としても良いところを、わざわざ“農作の節”の諫言の解説が付いていることです。それも『万葉集』の編集者によってではなく、ずいぶんと後に付けられ注釈文です。
この「農作の節の諫言」の説話は『日本書紀』にも見ることが出来ます。つまり、平安時代以降の古代史改訂時代では大事件にしたかった出来事だったようです。
<日本書紀の記事>
三月丙寅朔戊辰。以浄広肆広瀬王。直広参当麻真人智徳。直広肆紀朝臣弓張等、為留守官。於是。中納言三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位。上於朝。重諫曰。農作之節。車駕未可以動。
古来、この左注の説話の内容や『日本書紀』での記事から三輪朝臣高市麻呂は農民の生活を考えた忠臣とされています。
ただし、この説話において人々が期待するように三輪高市麻呂が忠臣となるには重要な条件があります。それは、春三月が「公式の農業の季節」でなければいけません。農業の季節には地域性がありますから、公式の農繁期の季節が定まっていない場合、天皇は農作業を踏まえると真冬以外に御幸が出来なくなります。また、随伴する人の苦労を考えると厳冬期の御幸もまた控えるべきものかもしれません。従いまして、思想や立場が違う者にとって、朝廷や上位の行うことが気に食わなければ、どっかの国と同じで、いかようにも難癖を付けることが出来ます。また、農閑期となる冬の時期も北陸、畿内、中四国、九州地方では違います。
ここが味噌なのです。畿内での農繁期を避けての御幸の時期を定めても南九州では、もう、農繁期かもしれませんし、中国故事を引用していますと呉国に相当する揚子江下流域では旧暦三月は農繁期かもしれません。しかしながら奈良時代の貴族は集歌760の歌の標題が示すように本人自身が“庄”と云う自己の里村を管理し農作業に関与していましたから、この“農作之節”と云う農作業に関する季節には敏感です。平安貴族とは違い、まだ、農村に生活の基盤を持っていました。そのため、朱鳥六年の時点では三輪高市麻呂は相手にしてもらえていません。
大伴坂上郎女従竹田庄贈賜女子大嬢謌二首
標訓 大伴坂上郎女の竹田(たけたの)庄(たところ)より女子(むすめ)の大嬢(おほをとめ)に贈賜(おく)れる謌二首
集歌760 打渡 竹田之原尓 鳴鶴之 間無時無 吾戀良久波
訓読 うち渡す竹田(たけだ)し原に鳴く鶴(たづ)し間(ま)無く時(とき)無し吾が恋ふらくは
私訳 広々と広がる竹田の野原に啼く鶴の声が間無く時を択ばず聞こえるように、間無く時を択ばず私は貴女を心に留めています。
現在の標準的な季節感が首都東京を基準とするならば、飛鳥浄御原宮や平城京に都があった時代は奈良盆地を中心とする畿内の季節をもって基準としたのではないでしょうか。南九州でも、揚子江河口域でもないはずです。議論を行うとき、そのスタート地点を決めることが大切です。当然、詭弁を述べる場合は、そのスタート地点は曖昧なままとします。明確にされたのでは詭弁自体が成立しません。
さて、そうすると問題は農繁期となる公式の「農作の節」なのですが、これを調べましてもその時期が明確ではありません。“農作の節”の諫言を行った人物として三輪高市麻呂を紹介しますが、その肝心な“農作の節”とは何時から何時までかを的確に示した人はいません。
およそ、公の時期の判定の拠り所になりそうなのが「暦」と思います。この暦の内の二十四節気の中で、農業に直接関係するものが「穀雨」と「芒種」ではないでしょうか。この「穀雨」は旧暦三月下旬(4月20日頃)になりますし、「芒種」は旧暦五月上旬(6月6日頃)となります。集歌44の歌の左注にある「春三月丙寅朔戊辰」は、この年の旧暦三月三日であり西洋暦換算では3月28日です。『日本書紀』によると伊勢国御幸は旧暦三月六日(新暦3月31日)に大和を出発し、十七日に伊勢で祭事を行い、三月二十日(新暦4月14日)に大和の浄御原宮に還っています。つまり、朱鳥六年三月の伊勢国御幸は、暦の上で春の農作業が始まる「穀雨」の前に終わっていることになります。
また、これらの御幸の日程は『日本書紀』に載る外の記事から推測しますと御幸の出発以前に近隣諸国から警護の騎兵や作業員としての丁になる人手の招集命令を発動していますから、相当前に御幸の日程等が調整され決められています。つまり、三輪高市麻呂の「農作の節の諫言」によって予定されていた日程を変更し「穀雨」以前に都に還る日程に組み替えた訳ではありません。農業暦とも云われる当時の暦から推定して、この御幸は季節的には「農作の節」には当たりませんし、実際に行われた行幸と帰京の日程は、本来の暦から推定される「農作の節」を外すことを踏まえての行事日程です。また、当時、藤原京建設の真最中ですから、御幸によって飛鳥浄御原宮から多くの人々を一時的に明日香から外部へと移動させ、明日香で生活する庶民への生活負荷を減らすことは民生への援助になります。社会人ですと、この行政側面を忘れることは出来ません。
ここで少し視線を変えますと、公式の「農作の節」となる時期を推認させる行政通達あります。それが養老八年正月二十二日格と云うものです。それを次に紹介します。
新任国司に対する給粮規定 養老八年正月二十二日格(『令集解』田令在外諸司条所引令釈);
凡新任外官、五月一日以後至任官、職田入前人。其新人給粮、限来年八月卅日。若四月卅日已前者、田入後人、功酬前入。即粮料限当年八月卅日。
この行政通達は地方官などに任命された時に官人に支給される職田の耕作とその収穫物の所有権について定めたもので、毎年5月1日を以って農作業での収穫物の所有者を定めています。同様な問題を取る扱う令を調べてみますと賦役に載る水旱条と云うものがあり、ここでも農作物の自然災害からの損害認定は5月1日から収納を終える11月30日までを農期としていたと考えられます。従いまして、朱鳥六年より後年にはなりますが、大宝律令の定める公式の「農作の節」とは畿内での実際の農作業の時期から5月1日から11月30日までです。
ここで、「暦」や「行政法」から、もう少し視点を変えてみます。
農業の専門家が指摘することですが、飛鳥時代に水稲稲作を行うのに「田起し」や「苗代作り」を行ったかは不明です。現在は、「田起し」や「苗代作り」を行う明治中期以降に主流となった「乾田起耕苗植法」に分類される水稲稲作農法が中心ですが、飛鳥時代の当時の主流は「深田不起耕直播法」に分類される水稲稲作農法ではなかったかとされています。
この「深田不起耕直播法」とは、沼のような泥田で稲作を行う農法で、その地形から鋤や鍬などを使う田起こしはしません。また、苗を育て・植えることもしません。種を直に泥田に播く農法です。この「深田不起耕直播法」による稲作は、水がぬるみ深田に体を沈めても寒くない旧暦五月上旬に当たる「芒種(麦や稲の種を播く季節)」頃からが、当時の「農作の節」の季節ではないでしょうか。また、『万葉集』に載る歌などから推測して、詠われる歌には農作業の中で、田の草取りや山際にある田の猪や鹿などの獣から収穫物を守ることが辛いとしますが、占い神事以外では苗を用いる集団での田植え姿は見えません。どうも、当時は開墾作業を除くと、水稲稲作自体は「深田不起耕直播法」が標準的な作業方法ではないでしょうか。
このように、暦と農作業の実務の面から「農作の節」を見てみますと、朱鳥六年三月の伊勢国御幸と実際の農作業の時節としての「農作の節」とは、関係が薄いと思われます。すると、実際の農作業の時節としての「農作の節」とは関係の無い、言いがかりからの嫌がらせとして行った三輪高市麻呂の「農作の節の諫言」とは何だったのでしょうか。ただ、しかしながらここまで紹介して来ましたが、大人でしたらで紹介したような、その時代での暦、行政法、農法などを確認してから「三輪高市麻呂の農作の節の諫言」と云うものを説明するべきではないでしょうか。毎度ですが、表面的な漢文読みだけが根拠でしたら専門家としたら寂しいことです。
さて、三輪高市麻呂が、朱鳥六年三月にこの「農作の節の諫言」をしたとき、『日本書紀』によると彼は近江令での理官(治部省の卿相当官)です。当然、彼は、職務上、伊勢国御幸を反対した、その理由である「御幸が農作の節に当たる」と云う異論が行政上の「暦」からしますと理屈に合わないことを十分知っていますし、実際に計画されている御幸の日程は「扈従する人々が行う農作の節に重ならないこと」を踏まえており、その時期以前に帰京することも知っています。
さらに重要なことには、この持統天皇が行った朱鳥六年三月の伊勢御幸の目的が、亡くなられた草壁皇子の豊受神宮(俗称、伊勢外宮)への最初の遷宮祭(本来は落慶の入魂祭)であることも知っています。こうしてみますと、三輪高市麻呂は「誰に何を諫言したのか」と云う疑問が生じます。さて、三輪高市麻呂は持統天皇に対して「豊受大神宮で神道により草壁皇子の霊を祭る」ことに反対したのでしょうか。それとも、天武天皇の御霊を伊勢神宮内宮(皇大神宮)に、草壁皇子の御霊を伊勢神宮外宮(豊受神宮)に祀ることを指揮した高市皇子の政治方針に反対したのでしょうか。すると、三輪高市麻呂の詭弁による伊勢神宮参拝反対運動には農民への負担と云う綺麗ごとではなく、政治的背景か、宗教的背景からのものがあったと考えられます。場合によっては継体天皇以降の天皇が抱えた神道と仏教との宗教論争が根底にあるのかもしれません。
そうしますと、「農作の節の諫言」の事件では三輪高市麻呂の宗教的立場が重要となります。そこで、その観点から当時の時代と三輪高市麻呂の背景を見てみたいと思います。
現代の私たちは不思議な感覚に陥ると思いますが、飛鳥時代を代表する仏教信者の、それを代表する人物が三輪高市麻呂であり、彼は飛鳥仏教の大檀那です。江戸期までの三輪一族ゆかりの三輪山は、三輪高市麻呂の飛鳥時代頃から明治二年の廃仏毀釈まで、大三輪寺と大御輪寺の二つの大寺院を中心に仏教寺院が立ち並び、戒壇を持つような仏教の聖地、それも政府公認の僧侶認定機関を持つほどの格式のある仏教寺院でした。それを飛鳥時代に創建し、維持・管理したのが三輪高市麻呂です。ただし、大三輪寺と大御輪寺は共に政府による官寺ではなく、三輪氏の私寺の性格を持つ寺です。この歴史を語るものが奈良名物である三輪素麺の歴史です。江戸中期となる嘉永六年(1853)に創業し、現在まで伝わる中谷酒造のHPには次のように、やんわりと本当の大三輪寺と大三輪寺の歴史を伝えます。
「江戸時代、庶民の大日如来信仰が娯楽を兼ねた伊勢参りになり、大坂から長谷寺経由で伊勢に向かう旅人の宿場として桜井は栄えました。明治の廃仏毀釈の前ですから、大神神社というより大三輪寺(大御輪寺)でしたが、これも栄えました。三輪素麺は、伊勢参りの興隆と共に全国にその名を広めました」
また、明治の廃仏毀釈により仏教の大三輪寺を廃止、神道の大三輪寺へと変わったとき、大三輪寺の仏様が移された先が聖林寺です。このように歴史と云うものは百年位で作ろうと思えば出来るということのようです。
ここで、同じ三輪一族ですが、名字で大神(みわ)朝臣は大神神社を祀る氏上です。他方、名字で三輪(みわ)朝臣は大三輪寺と大御輪寺とが代表する三輪寺院群の大檀那での保護者の立場です。そして、この事実は明治二年以降から昭和二十年八月までは、皇統派国家神道の人にとって知ってほしくない事項だったようです。それで歴史好きには有名な事実ですが普段の人には知られていなくて、現在の日本史において三輪山信仰がひどく誤解されています。
一方、天武天皇や太政大臣高市皇子が治めた飛鳥時代は、朝廷によって天皇家の伊勢皇大神宮を頂点とする国家神道を形成する時期に当たります。朱鳥三年頃から伊勢の皇大神宮、豊受神宮と月読宮が整備されて行きますし、国家が扱う神道神事としては天武天皇の時代から龍田神社・廣瀬神社の祭礼も始まります。それに伴い現代に伝わる祝詞や礼拝儀礼が整備されたようです。ただし、飛鳥時代からの伊勢皇大神宮を頂点とする国家神道は中国の仙人道教や墨家の思想と古くからの大和の自然崇拝信仰とが融合し、それをさらに洗練した近代宗教であって、古くからの自然発生的な信仰からの発展ではありません。天皇家を頂点とする国家神道は各地の豪族たちへの従来からの優越する身分の保証とその身分の由来を神話で担保し、その神話からの身分で朝廷での官位や昇階のルールを規定するような律令体制と結びついた公的な規定持つものです。さらに、各氏族が神社を保持する場合は、その神田・社田の保有への公的な保証と免税特権を許す実利のある規定を持っています。
このような天皇家を頂点とする近代国家神道が創られつつあった時の、一大イベントが朱鳥六年三月の草壁皇子の豊受神宮での最初の遷宮祭です。他方、これに対抗したのが飛鳥仏教界最大の大檀那である三輪高市麻呂です。
さて、三輪高市麻呂は実際の農作業とは全く関係ない「農作の節の諫言」でもって、持統天皇に対して何を抗議したのでしょうか。仏教を信仰する持統天皇が草壁皇子の豊受大神宮での最初の遷宮祭に参加することでしょうか、それとも、仏教国家ではなく、天皇家を頂点とする近代国家神道による国家運営を行っていく新しい国家戦略でしょうか。
歴史では、飛鳥時代を築いた太政大臣高市皇子と左大臣丹比嶋が亡くなられた後、失脚していた三輪高市麻呂は仏教にのめり込んだ持統太上天皇の下で復権します。場合により、三輪高市麻呂は国家神道により内戦を行うことなくして大和国を統一した太政大臣高市皇子の政策と天武天皇の御霊と草壁皇子の御霊を伊勢の神宮で祀ることに反対したのかもしれません。当時の仏教は善人が死ねば四九日で成仏しこの世から縁が切れますから、魂の抜けた抜け殻は焼いて野に撒くのが好ましい姿です。人麻呂歌に、度々、詠われていますように、人は西方に向く初瀬の、または、石上国見山の西麓で散骨しています。三輪高市麻呂は皇族にもその姿を求めたのかもしれません。三輪高市麻呂が復権した持統太上天皇の時代以降、皇族は神道と仏教との二つの宗教であの世へと送られます。それは世界でも稀な姿です。
これは宗教戦争だったのでしょうか。
最後に、三輪素麺と大三輪寺との歴史などを思いますと、詭弁であろうが、為にする話であろうが、その気になれば百年位で“本当の歴史”から誰かが思う“そうあるべきと云う歴史”へと変えることは出来るようです。実に恐ろしいことです。「農作の節の諫言」もまた然りです。
ずいぶん昔に「難癖か 諌言か 『農作(なりわい)の節の諌言とは、神道反対の抗議』」と云うテーマで集歌44の歌を鑑賞しました。
歌自体より付けられた左注が面白いと云う作品で、その左注は当時の宗教論争を物語るものですし、一見、理がありそうな論説でも真面目にその論説の根拠とそれを取り上げた背景を調べると、確信犯的な詭弁であることもあると云う典型的な事例を紹介したものです。
さて、『日本書紀』にあたかも忠臣かのように扱われる三輪朝臣高市麻呂の「農作の節」と云う有名な諫言に関係する歌が『万葉集』にあります。それが、次の歌です。
石上大臣従駕作謌
標訓 石上大臣の駕(いでまし)に従ひ作れる謌
集歌44 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
訓読 吾妹子(わぎもこ)をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
私訳 私の恋人をさあ(いざ)見ようとするが、いざ見の山は高くて大和の国は見えない。国を遠く来たからか。
漢文 右、日本紀曰、朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰、浄肆廣瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位撃上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。
注訓 右は、日本紀に曰はく「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔の戊辰、浄肆廣瀬王等を以ちて留守の官となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂その冠位を脱ぎて朝(みかど)に撃上(ささ)げ、重ねて諌めて曰はく『農作(なりはひ)の前に車駕(みかど)いまだ以ちて動くべからず』といふ。辛未、天皇諌(いさめ)に従はず、遂に伊勢に幸(いでま)す。五月乙丑の朔の庚午、阿胡の行宮(かりみや)に御(おは)す」といへり。
この歌自身は平凡な旅先の歌ですが、この歌の面白いのは「朱鳥六年の伊勢御幸の従駕の歌」としても良いところを、わざわざ“農作の節”の諫言の解説が付いていることです。それも『万葉集』の編集者によってではなく、ずいぶんと後に付けられ注釈文です。
この「農作の節の諫言」の説話は『日本書紀』にも見ることが出来ます。つまり、平安時代以降の古代史改訂時代では大事件にしたかった出来事だったようです。
<日本書紀の記事>
三月丙寅朔戊辰。以浄広肆広瀬王。直広参当麻真人智徳。直広肆紀朝臣弓張等、為留守官。於是。中納言三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位。上於朝。重諫曰。農作之節。車駕未可以動。
古来、この左注の説話の内容や『日本書紀』での記事から三輪朝臣高市麻呂は農民の生活を考えた忠臣とされています。
ただし、この説話において人々が期待するように三輪高市麻呂が忠臣となるには重要な条件があります。それは、春三月が「公式の農業の季節」でなければいけません。農業の季節には地域性がありますから、公式の農繁期の季節が定まっていない場合、天皇は農作業を踏まえると真冬以外に御幸が出来なくなります。また、随伴する人の苦労を考えると厳冬期の御幸もまた控えるべきものかもしれません。従いまして、思想や立場が違う者にとって、朝廷や上位の行うことが気に食わなければ、どっかの国と同じで、いかようにも難癖を付けることが出来ます。また、農閑期となる冬の時期も北陸、畿内、中四国、九州地方では違います。
ここが味噌なのです。畿内での農繁期を避けての御幸の時期を定めても南九州では、もう、農繁期かもしれませんし、中国故事を引用していますと呉国に相当する揚子江下流域では旧暦三月は農繁期かもしれません。しかしながら奈良時代の貴族は集歌760の歌の標題が示すように本人自身が“庄”と云う自己の里村を管理し農作業に関与していましたから、この“農作之節”と云う農作業に関する季節には敏感です。平安貴族とは違い、まだ、農村に生活の基盤を持っていました。そのため、朱鳥六年の時点では三輪高市麻呂は相手にしてもらえていません。
大伴坂上郎女従竹田庄贈賜女子大嬢謌二首
標訓 大伴坂上郎女の竹田(たけたの)庄(たところ)より女子(むすめ)の大嬢(おほをとめ)に贈賜(おく)れる謌二首
集歌760 打渡 竹田之原尓 鳴鶴之 間無時無 吾戀良久波
訓読 うち渡す竹田(たけだ)し原に鳴く鶴(たづ)し間(ま)無く時(とき)無し吾が恋ふらくは
私訳 広々と広がる竹田の野原に啼く鶴の声が間無く時を択ばず聞こえるように、間無く時を択ばず私は貴女を心に留めています。
現在の標準的な季節感が首都東京を基準とするならば、飛鳥浄御原宮や平城京に都があった時代は奈良盆地を中心とする畿内の季節をもって基準としたのではないでしょうか。南九州でも、揚子江河口域でもないはずです。議論を行うとき、そのスタート地点を決めることが大切です。当然、詭弁を述べる場合は、そのスタート地点は曖昧なままとします。明確にされたのでは詭弁自体が成立しません。
さて、そうすると問題は農繁期となる公式の「農作の節」なのですが、これを調べましてもその時期が明確ではありません。“農作の節”の諫言を行った人物として三輪高市麻呂を紹介しますが、その肝心な“農作の節”とは何時から何時までかを的確に示した人はいません。
およそ、公の時期の判定の拠り所になりそうなのが「暦」と思います。この暦の内の二十四節気の中で、農業に直接関係するものが「穀雨」と「芒種」ではないでしょうか。この「穀雨」は旧暦三月下旬(4月20日頃)になりますし、「芒種」は旧暦五月上旬(6月6日頃)となります。集歌44の歌の左注にある「春三月丙寅朔戊辰」は、この年の旧暦三月三日であり西洋暦換算では3月28日です。『日本書紀』によると伊勢国御幸は旧暦三月六日(新暦3月31日)に大和を出発し、十七日に伊勢で祭事を行い、三月二十日(新暦4月14日)に大和の浄御原宮に還っています。つまり、朱鳥六年三月の伊勢国御幸は、暦の上で春の農作業が始まる「穀雨」の前に終わっていることになります。
また、これらの御幸の日程は『日本書紀』に載る外の記事から推測しますと御幸の出発以前に近隣諸国から警護の騎兵や作業員としての丁になる人手の招集命令を発動していますから、相当前に御幸の日程等が調整され決められています。つまり、三輪高市麻呂の「農作の節の諫言」によって予定されていた日程を変更し「穀雨」以前に都に還る日程に組み替えた訳ではありません。農業暦とも云われる当時の暦から推定して、この御幸は季節的には「農作の節」には当たりませんし、実際に行われた行幸と帰京の日程は、本来の暦から推定される「農作の節」を外すことを踏まえての行事日程です。また、当時、藤原京建設の真最中ですから、御幸によって飛鳥浄御原宮から多くの人々を一時的に明日香から外部へと移動させ、明日香で生活する庶民への生活負荷を減らすことは民生への援助になります。社会人ですと、この行政側面を忘れることは出来ません。
ここで少し視線を変えますと、公式の「農作の節」となる時期を推認させる行政通達あります。それが養老八年正月二十二日格と云うものです。それを次に紹介します。
新任国司に対する給粮規定 養老八年正月二十二日格(『令集解』田令在外諸司条所引令釈);
凡新任外官、五月一日以後至任官、職田入前人。其新人給粮、限来年八月卅日。若四月卅日已前者、田入後人、功酬前入。即粮料限当年八月卅日。
この行政通達は地方官などに任命された時に官人に支給される職田の耕作とその収穫物の所有権について定めたもので、毎年5月1日を以って農作業での収穫物の所有者を定めています。同様な問題を取る扱う令を調べてみますと賦役に載る水旱条と云うものがあり、ここでも農作物の自然災害からの損害認定は5月1日から収納を終える11月30日までを農期としていたと考えられます。従いまして、朱鳥六年より後年にはなりますが、大宝律令の定める公式の「農作の節」とは畿内での実際の農作業の時期から5月1日から11月30日までです。
ここで、「暦」や「行政法」から、もう少し視点を変えてみます。
農業の専門家が指摘することですが、飛鳥時代に水稲稲作を行うのに「田起し」や「苗代作り」を行ったかは不明です。現在は、「田起し」や「苗代作り」を行う明治中期以降に主流となった「乾田起耕苗植法」に分類される水稲稲作農法が中心ですが、飛鳥時代の当時の主流は「深田不起耕直播法」に分類される水稲稲作農法ではなかったかとされています。
この「深田不起耕直播法」とは、沼のような泥田で稲作を行う農法で、その地形から鋤や鍬などを使う田起こしはしません。また、苗を育て・植えることもしません。種を直に泥田に播く農法です。この「深田不起耕直播法」による稲作は、水がぬるみ深田に体を沈めても寒くない旧暦五月上旬に当たる「芒種(麦や稲の種を播く季節)」頃からが、当時の「農作の節」の季節ではないでしょうか。また、『万葉集』に載る歌などから推測して、詠われる歌には農作業の中で、田の草取りや山際にある田の猪や鹿などの獣から収穫物を守ることが辛いとしますが、占い神事以外では苗を用いる集団での田植え姿は見えません。どうも、当時は開墾作業を除くと、水稲稲作自体は「深田不起耕直播法」が標準的な作業方法ではないでしょうか。
このように、暦と農作業の実務の面から「農作の節」を見てみますと、朱鳥六年三月の伊勢国御幸と実際の農作業の時節としての「農作の節」とは、関係が薄いと思われます。すると、実際の農作業の時節としての「農作の節」とは関係の無い、言いがかりからの嫌がらせとして行った三輪高市麻呂の「農作の節の諫言」とは何だったのでしょうか。ただ、しかしながらここまで紹介して来ましたが、大人でしたらで紹介したような、その時代での暦、行政法、農法などを確認してから「三輪高市麻呂の農作の節の諫言」と云うものを説明するべきではないでしょうか。毎度ですが、表面的な漢文読みだけが根拠でしたら専門家としたら寂しいことです。
さて、三輪高市麻呂が、朱鳥六年三月にこの「農作の節の諫言」をしたとき、『日本書紀』によると彼は近江令での理官(治部省の卿相当官)です。当然、彼は、職務上、伊勢国御幸を反対した、その理由である「御幸が農作の節に当たる」と云う異論が行政上の「暦」からしますと理屈に合わないことを十分知っていますし、実際に計画されている御幸の日程は「扈従する人々が行う農作の節に重ならないこと」を踏まえており、その時期以前に帰京することも知っています。
さらに重要なことには、この持統天皇が行った朱鳥六年三月の伊勢御幸の目的が、亡くなられた草壁皇子の豊受神宮(俗称、伊勢外宮)への最初の遷宮祭(本来は落慶の入魂祭)であることも知っています。こうしてみますと、三輪高市麻呂は「誰に何を諫言したのか」と云う疑問が生じます。さて、三輪高市麻呂は持統天皇に対して「豊受大神宮で神道により草壁皇子の霊を祭る」ことに反対したのでしょうか。それとも、天武天皇の御霊を伊勢神宮内宮(皇大神宮)に、草壁皇子の御霊を伊勢神宮外宮(豊受神宮)に祀ることを指揮した高市皇子の政治方針に反対したのでしょうか。すると、三輪高市麻呂の詭弁による伊勢神宮参拝反対運動には農民への負担と云う綺麗ごとではなく、政治的背景か、宗教的背景からのものがあったと考えられます。場合によっては継体天皇以降の天皇が抱えた神道と仏教との宗教論争が根底にあるのかもしれません。
そうしますと、「農作の節の諫言」の事件では三輪高市麻呂の宗教的立場が重要となります。そこで、その観点から当時の時代と三輪高市麻呂の背景を見てみたいと思います。
現代の私たちは不思議な感覚に陥ると思いますが、飛鳥時代を代表する仏教信者の、それを代表する人物が三輪高市麻呂であり、彼は飛鳥仏教の大檀那です。江戸期までの三輪一族ゆかりの三輪山は、三輪高市麻呂の飛鳥時代頃から明治二年の廃仏毀釈まで、大三輪寺と大御輪寺の二つの大寺院を中心に仏教寺院が立ち並び、戒壇を持つような仏教の聖地、それも政府公認の僧侶認定機関を持つほどの格式のある仏教寺院でした。それを飛鳥時代に創建し、維持・管理したのが三輪高市麻呂です。ただし、大三輪寺と大御輪寺は共に政府による官寺ではなく、三輪氏の私寺の性格を持つ寺です。この歴史を語るものが奈良名物である三輪素麺の歴史です。江戸中期となる嘉永六年(1853)に創業し、現在まで伝わる中谷酒造のHPには次のように、やんわりと本当の大三輪寺と大三輪寺の歴史を伝えます。
「江戸時代、庶民の大日如来信仰が娯楽を兼ねた伊勢参りになり、大坂から長谷寺経由で伊勢に向かう旅人の宿場として桜井は栄えました。明治の廃仏毀釈の前ですから、大神神社というより大三輪寺(大御輪寺)でしたが、これも栄えました。三輪素麺は、伊勢参りの興隆と共に全国にその名を広めました」
また、明治の廃仏毀釈により仏教の大三輪寺を廃止、神道の大三輪寺へと変わったとき、大三輪寺の仏様が移された先が聖林寺です。このように歴史と云うものは百年位で作ろうと思えば出来るということのようです。
ここで、同じ三輪一族ですが、名字で大神(みわ)朝臣は大神神社を祀る氏上です。他方、名字で三輪(みわ)朝臣は大三輪寺と大御輪寺とが代表する三輪寺院群の大檀那での保護者の立場です。そして、この事実は明治二年以降から昭和二十年八月までは、皇統派国家神道の人にとって知ってほしくない事項だったようです。それで歴史好きには有名な事実ですが普段の人には知られていなくて、現在の日本史において三輪山信仰がひどく誤解されています。
一方、天武天皇や太政大臣高市皇子が治めた飛鳥時代は、朝廷によって天皇家の伊勢皇大神宮を頂点とする国家神道を形成する時期に当たります。朱鳥三年頃から伊勢の皇大神宮、豊受神宮と月読宮が整備されて行きますし、国家が扱う神道神事としては天武天皇の時代から龍田神社・廣瀬神社の祭礼も始まります。それに伴い現代に伝わる祝詞や礼拝儀礼が整備されたようです。ただし、飛鳥時代からの伊勢皇大神宮を頂点とする国家神道は中国の仙人道教や墨家の思想と古くからの大和の自然崇拝信仰とが融合し、それをさらに洗練した近代宗教であって、古くからの自然発生的な信仰からの発展ではありません。天皇家を頂点とする国家神道は各地の豪族たちへの従来からの優越する身分の保証とその身分の由来を神話で担保し、その神話からの身分で朝廷での官位や昇階のルールを規定するような律令体制と結びついた公的な規定持つものです。さらに、各氏族が神社を保持する場合は、その神田・社田の保有への公的な保証と免税特権を許す実利のある規定を持っています。
このような天皇家を頂点とする近代国家神道が創られつつあった時の、一大イベントが朱鳥六年三月の草壁皇子の豊受神宮での最初の遷宮祭です。他方、これに対抗したのが飛鳥仏教界最大の大檀那である三輪高市麻呂です。
さて、三輪高市麻呂は実際の農作業とは全く関係ない「農作の節の諫言」でもって、持統天皇に対して何を抗議したのでしょうか。仏教を信仰する持統天皇が草壁皇子の豊受大神宮での最初の遷宮祭に参加することでしょうか、それとも、仏教国家ではなく、天皇家を頂点とする近代国家神道による国家運営を行っていく新しい国家戦略でしょうか。
歴史では、飛鳥時代を築いた太政大臣高市皇子と左大臣丹比嶋が亡くなられた後、失脚していた三輪高市麻呂は仏教にのめり込んだ持統太上天皇の下で復権します。場合により、三輪高市麻呂は国家神道により内戦を行うことなくして大和国を統一した太政大臣高市皇子の政策と天武天皇の御霊と草壁皇子の御霊を伊勢の神宮で祀ることに反対したのかもしれません。当時の仏教は善人が死ねば四九日で成仏しこの世から縁が切れますから、魂の抜けた抜け殻は焼いて野に撒くのが好ましい姿です。人麻呂歌に、度々、詠われていますように、人は西方に向く初瀬の、または、石上国見山の西麓で散骨しています。三輪高市麻呂は皇族にもその姿を求めたのかもしれません。三輪高市麻呂が復権した持統太上天皇の時代以降、皇族は神道と仏教との二つの宗教であの世へと送られます。それは世界でも稀な姿です。
これは宗教戦争だったのでしょうか。
最後に、三輪素麺と大三輪寺との歴史などを思いますと、詭弁であろうが、為にする話であろうが、その気になれば百年位で“本当の歴史”から誰かが思う“そうあるべきと云う歴史”へと変えることは出来るようです。実に恐ろしいことです。「農作の節の諫言」もまた然りです。
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