万葉雑記 色眼鏡 九二 韓国語と万葉集について考える
今回、少し、韓国語と『万葉集』について考えてみたいと思います。なぜ、このテーマを取り上げたかと云うと、ここのところ難訓歌に関係するものを取り上げていますので、資料参照のためにインターネット検索を掛けると、なぜか、難訓歌の解読を通じて、「万葉集は韓国語で書かれており、韓国語でなければ解読できない」と云う主張に遭遇します。
その主張で取り上げられる代表的な歌を二首ほど紹介しますが、真面目に『万葉集』を原文から鑑賞すれば良いのであって、そこには無理に「近代疑似韓国語」で解釈する必要性はありません。参考として韓国語でなければ解読できないと主張する難訓部分は、集歌9の歌では「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」であり、集歌156の歌では「已具耳矣自得見監乍」の部分だそうです。
幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。
十市皇女薨時高市皇子尊御作謌三首
標訓 十市皇女の薨(みまか)りし時に高市皇子尊の御(かた)りて作(つく)らしし謌三首
集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
訓読 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
私訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。
先ほど「近代疑似韓国語で解釈する必要性はありません」と述べましたが、この「近代疑似韓国語」と云う言葉を使った背景には、古代韓国語(母語新羅語?)で『万葉集』を読解する場合には万葉集歌の原文表記の特性から特殊な言語読解技法を使う必要があるからです。それは、『万葉集』が漢語+音訓漢字(万葉仮名)だけで表記されているため、「韓国語でなければ読解出来ない」と主張する時、近世まで朝鮮半島で使われていた国語文章表記法である「吏読(りとう)」と云う万葉仮名と同等な音訓字表記方法でもって解読する必要があるからです。その吏読は現代韓国語ではハングルに置き変わっており、すでに使われない表記方法となっていますし、さらに近々の韓国語言語進化の過程から文中に漢語・漢字表記を使わない方向に進んでいます。また、音訓漢字とみなす文字を吏読法での発声によりハングルに翻訳したとしてもその発声の基準が古語音か、現代語音か、さらに発声から復元された言葉に対する解釈は古代韓国語と現代韓国語で同じかの問題があります。さらに扱う『万葉集』テキストでの作品作歌時期が三国時代から統一新羅国に関係しますと、その歌の言語が高句麗語、新羅語、百済語の内のどれに拠ったのかも重要な問題となります。中国文献によると三国時代に百済人が新羅人や高句麗人の通訳を行ったと記録しますから、それぞれの言語は異なっていたのであろうと推定されています。
ここで、『日本書紀』や仏像光背・木簡資料などから推古天皇以前では漢字による音字表記は秦・漢時代の古音発音であったことが確認されています。また、朝鮮半島では天智・天武天皇の時代に活躍した記録に残る人々の名前は秦漢古音による表記であったことも日本に残る資料などから確認されています。ところが、日本では推古天皇以前に使われていたその秦漢古音表記が天智天皇から天武天皇の時代に、突然、呉音表記に切り替わります。歴史ではこれを政治・文化交流における半島経由から大陸への直接アプローチによる体制変換の結果と推定します。そして、『万葉集』は「ト」の音に「止」の文字を使わない、また「意」を「オ」の音字に使わないと云う用例に見られるように呉音表記を選択的に使って表現された作品であることが確認されています。つまり、日本では同じ音訓漢字(万葉仮名)であっても時代により発声は違うことが明らかにされていますし、同じ大和言葉であっても「なつかし」の言葉に代表されるように時代で言葉の意味は変化しています。(「慣れ親しみたい→心が惹かれる→心に残る→昔のことが思い出される」への変化、古語「ユリ」での「百合」と「後」など)
従いまして、『万葉集』の歌が朝鮮半島の言語表記である「漢語+音訓漢字(吏読)」で表記されたものと主張する場合には、『万葉集』の歌が詠われた時代、古代朝鮮語の吏読音字は秦・漢時代の古音による発音を使わなければいけないと云う制約条件が付きます。この制約を取り除く場合、六世紀前半から後半の時期に朝鮮半島で古音から呉音への民族または支配者階級の入れ替えが起きたとしなければいけませんが、統一新羅の成立以外の歴史伝承ではそのような史実はありません。つまり、民族交代はなかったと思われます。また、韓国語において現代と古代では同じ発音で表される言葉の意味は時代変化が少ないことの証明も必要となりますが、韓国古代語の研究自体が資料不足により進まないためにそれは困難なようです。
こうした時、李寧熙氏の集歌9の歌の「漢語+音訓漢字(吏読)」による解釈がそのような秦・漢時代の古音発音に強く影響を受けた古代朝鮮語によるものかは不明です。そのため、紹介しましたように「近代疑似韓国語」とキャプションを付けざるを得ないのです。
<李寧熙氏による韓国語読みに対してひらがな音字ルビ付けをしたもの>
吏読文 莫囂(まげ)円隣之(どんぐるりじ)大(くん)相七兄(さちえ)爪謁(じょつある)気(げ)吾瀬(おら)子之(じゃじ)射(そ)立為兼(いっすに)五(お)可新(がせ)何本(よろぼん)
吏読文 茜(ごく)草(どしょん)指(さち)武(ぼ)良(ら)前(せく)野(ぼる)逝(がね)標(びょる)野(ぼる)行(がね)野(ぼる)守者(じきしゃ)不(あに)見(ぼ)哉(じぇ)君(ぐぜ)之(が)袖(さ)布流(ぼるよ)
さらに吏読の伝承では7世紀後半から8世紀前半の人で、新羅の大学者である薛聡(せつそう)が儒教の経典を新羅に広めるためにこの吏読を考案したとします。この薛聡による吏読考案説を採用する場合は『万葉集』において制作年代や作歌者を示す標題や左注がすべて創作ではない場合には『万葉集』に載る歌が先に詠われ、標題や左注を含めてそれが人々の間に口伝され、そして後に漢語+音訓漢字(吏読)によって表記・採録されたとの時間経過となりますし、時間軸において『古事記』・『日本書紀』に載る民謡や歌謡の説明は不能となります。
次いでその韓国語の歴史についてインターネットに情報を求めますと、東京外国語大学大学院 総合国際学研究院 趙義成研究室が公開していますHP「趙義成の朝鮮語研究室」に載る「ビビンバ 朝鮮語を知る」から韓国語の来歴や歴史を知ることが出来ます。そこから次のような解説を見ることが出来ます。
なお以下の解説を補足しますが、七世紀後半以降に成立した統一新羅国以前の三国時代(高句麗、新羅、百済)までにおいて朝鮮半島でどのような言語(李基文氏区分での古代語)が使われていたかは現在に至るまで学問上では不明となっています。従いまして、李寧熙氏などが主張する「韓国語でなければ読解出来ない」の「韓国語」が意味するものが、高句麗語か、新羅語か、はたまた百済語であるのかも不明です。ただ、万葉時代の朝鮮半島の言語は近世語や現代語でなかったことは明らかです。
韓国語の来歴
ルーツを探るというのは,何につけても人びとを魅きつけるものである。朝鮮語のルーツについても,昔から現在に至るまで,学術的にも民間でも,数々の話が出ては消えている。しかしながら,残念なことに,朝鮮語のルーツについてはまだはっきりしたことが分かっていない。一時期,朝鮮語は日本語とともに,アルタイ諸語(モンゴル語・チュルク語などが属する言語の一群)に属するのではないかという説があった。しかし,総合的に判断すると,朝鮮語・日本語はアルタイ諸語と関連があると断言するに十分な証拠を見いだすことが困難であるというのが,現在の言語学の定説である。
朝鮮語が「アルタイ語族」に属するという説を支える例として,例えば語頭にr音が来ないというものがある。これは日本語にもいえることだが,アルタイ語族と朝鮮語・日本語はrで始まる固有の単語がない。試しに朝鮮語・日本語の辞典を引いてみても,rで始まる単語はどれも漢語か外来語である(助詞・助動詞は接辞なので単語とみなさない。また,日本の古語辞典には「ろうたげなり」などラ行の単語があるが,これも元をただせば漢語起源である)。しかし,このような音の特徴の類似があるにもかかわらず,単語の類似性が全くない。インド=ヨーロッパ語族では,例えば英語の「father」,ドイツ語の「Vater」,ラテン語の「pater」がそれぞれ対応する単語としてあるが,朝鮮語・日本語とアルタイ語族の間にはこのような対応がない。これらの事実が,朝鮮語をアルタイ語族と見なすことのできない根拠の1つとなっている。
韓国語の歴史
日本社会の歴史は縄文時代から始まって弥生時代,古墳時代,奈良時代,平安時代…というように区分される。朝鮮語という言葉の歴史も同じように区分がなされる。日本の著名な朝鮮語学者であった故・河野六郎博士は,次のように区分している。
1. 古代朝鮮語(訓民正音創製以前;~15世紀中葉)
2. 中期朝鮮語(訓民正音創製から秀吉の朝鮮侵略まで;15世紀中葉~16世紀末)
3. 近世朝鮮語(秀吉の朝鮮侵略以降;16世紀末~)
朝鮮語の歴史区分は学者によって異なりがあるが,例えば韓国の朝鮮語学者である李基文(イ・ギムン)博士は次のような区分を提唱しており,韓国国内ではこの区分が一般的ある。
1. 古代語(統一新羅以前;~10世紀初頭)
2. 前期中世語(高麗時代;10世紀初頭~14世紀末)
3. 後期中世語(李氏朝鮮建国から秀吉の朝鮮侵略まで;14世紀末~16世紀末)
4. 近世語(秀吉の朝鮮侵略~開化期まで;16世紀末~19世紀末)
5. 現代語(開化期以降;20世紀以降)
中期朝鮮語は,ハングルが作られた時期の言葉で,この時期にはハングルで書かれた文献も豊富なため,朝鮮語史の上でも最も研究がさかんな時代である。
もう少し、この話題で遊びます。
李寧熙氏の、その主張によると現代に伝わる「万葉集原文表記の歌」とは韓国語で詠われた『万葉集』の日本語翻訳バージョンなのだそうです。それも平安時代のものだそうです。だから、現代において難訓歌以外の歌は現代日本語で鑑賞できると云うことのようです。そうしますと、難訓歌は平安時代に日本語へと翻訳する時にどうしても翻訳できないものが残ったと云うことなのでしょう。
さて、和歌の作歌技法に本歌取りと云う重要な技法があります。この技法から和歌を辿りますと、『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』などと連続する和歌の歴史を見ることが出来ます。その代表例を次に紹介します。大伴家持の歌は「村」「竹」「風」の三字を除くと一字一音万葉仮名表記の三十一文字の短歌です。その家持の歌を吏読による郷歌とすることが、さて、可能でしょうか。
万葉集 大伴家持
原文 和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母
読下 吾が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも
古今和歌集 藤原敏行 (推定原文:変体仮名一字一音表記)
原文 あききぬとめにはさやかにみえねともかせのおとにそおとろかれぬる
読下 秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
林下集 藤原実定
原文 あききぬとおとろかれけりまとちかくいささむらたけかせそよくよは
読下 秋来ぬとおどろかれけり窓ちかくいささ群竹かぜそよぐ夜は
新古今和歌集 藤原公継
原文 まとちかきいささむらかてかせふけはあきにおとろくなつのよのゆめ
読下 窓近きいささむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢
現代に伝わる『万葉集』が平安時代に日本語に翻訳されたものとしますと、その翻訳は伝在する『万葉集』原文からしますと、「漢語+吏読表記の歌」を「漢語+万葉仮名表記の歌」に翻訳したことになりますし、同時に作歌者の時代に合わせて、漢詩体歌、非漢詩体歌、常体歌、一字一音万葉仮名歌の各種の表記スタイルとし、なおかつ短歌は三十一音のスタイルに作り替えたことになります。非常に難しい翻訳作業を李寧熙氏は要求しますし、新羅郷歌と和歌三十一音との比較における音字数の問題はどのように扱うのでしょうか。
また他方、『万葉集』には柿本朝臣人麻呂歌集に載る歌を本歌取りした類型歌も存在しますから、本歌取り技法で歌を詠った人物にとって平安時代での翻訳では遅すぎることになります。万葉歌人の時代順序からすると李寧熙氏が云う翻訳は少なくとも人麻呂歌集の成立直後まで遡る必要があります。ところが、その時、大伴家持はまだ生まれていませんから、漢語+万葉仮名表記が流通する時代に大和人である家持が漢語+吏読表記の歌を詠う可能性はなくなります。
<柿本朝臣人麻呂歌集に載る歌;漢詩体歌>
集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し利(と)きし足踏みて死なば死なむよ君し依(よ)りては
私訳 貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足が触れる、そのように貴方の“もの”でこの身が貫かれ、恋の営みに死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。
<類型歌;常体歌>
集歌2636 剱刀 諸刃之於荷 去觸而所 殺鴨将死 戀管不有者 (殺は、煞-灬の当字)
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し上(うへ)に行き触れにそ死にかも死なむ恋ひつつあらずは
私訳 床に置く貴方の剣太刀、そのような貴方の諸刃の上に行き触れたい。貴方の“もの”でこの身を貫かれ、その男女の営みで死ぬなら死んでしまいたい。この恋と云う「愛の営み」を続けることが出来ないならば。
困りました。李寧熙氏の指摘に従うと、万葉歌は最初期には「漢語+吏読表記の歌」を詠い、次いでそれを「漢語+万葉仮名表記の歌」に翻訳し、それを下に次世代歌人が「漢語+万葉仮名表記の歌」を詠い、さらに誰かが「漢語+吏読表記の歌」に翻訳し直し歌集として編み、その歌集を再び平安時代になって「漢語+万葉仮名表記の歌」に翻訳し直して現在に伝わる万葉集が成立したことになります。そして、肝心な「漢語+吏読表記での万葉集原本」は痕跡も残さずに永遠に失せた書物であるようです。
さて、先に例題などで紹介しましたように詠われた時代毎にその表記スタイルが明確に違いますが本歌取りの和歌の歴史がありますと、現在に伝わる原文表記の『万葉集』は平安時代に日本語に翻訳された歌集であるとの「論理の逃げ」は難しいのではないでしょうか。
また、日本語言語の特性の一つとして開音節言語からの同音異義語による言葉遊びがあります。その言葉遊びが『万葉集』の歌に見ることが出来、それが『古今和歌集』では掛詞の技法へと進化します。ここにも『万葉集』から『古今和歌集』への連続性が確認出来ます。
再掲になりますが、同音異義語を使った言葉遊びの万葉集歌を歌の表記スタイルから選抜して紹介します。なお、これらの歌を韓国語の「漢語+吏読表記」スタイルを用いたものへと訳せるものか、非常に興味あるところです。平安時代に日本語へ翻訳したとするなら、本来の原本への復元は『万葉集』が読解できる韓国人であるならば、その人物にとって韓国人としての文化的責務ではないでしょうか。
<浄御原宮時代初期:漢詩体歌>
集歌2334 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
訓読 沫雪(あはゆき)し千里(ちり)し降りしけ恋ひしくし日(け)長き我し見つつ偲(しの)はむ
私訳 沫雪はすべての里に降り積もれ。貴女を恋い慕って暮らしてきた、所在無い私は降り積もる雪をみて昔に白い栲の衣を着た貴女を偲びましょう。
<別解釈>
試訓 沫雪し散りし降りしけ 戀し来(き)し 故(け)なかき我し 見つつ偲(しの)はむ
試訳 沫雪よ、天から散り降っている。その言葉の響きではないが、何度も貴女を恋い慕ってやって来たが、貴女に逢うすべが無くて、私は遠くから貴女の姿を見つめ偲びましょう。
<浄御原宮時代初期:非漢詩体歌>
集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)反(かへ)り萎(し)ひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は脚が萎えてしまったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
<別解釈>
試訓 待つ返り強ひにあれやは三栗し中上り来ぬ麻呂といふ奴
試訳 貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。
<天平年間初期:常体歌>
湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌640 波之家也思 不遠里乎 雲井尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 愛(はしけ)やし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
私訳 (便りが無くて) いとしい貴女が住む遠くもない里を、私は雲居の彼方にある里のように恋い続けています。まだ、一月と逢うことが絶えてもいないのに。
<別解釈>
試訓 はしけやし間近き里を雲井にや恋ひつつ居らむ月も経なくに
試訳 ああ、どうしようもない。出掛ければすぐにも逢える間近い貴女の家が逢うことが出来なくて、まるでそこは雲井(=宮中、禁裏のこと)かのように思えます。私は貴女を恋焦がれています。まだ、貴女の身の月の障りが終わらないので。
<天平年間中期:常体歌>
集歌3854 痩々母 生有者将在乎 波多也波多 武奈伎乎漁取跡 河尓流勿
訓読 痩(や)す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻(むなぎ)を漁(と)ると川に流るな
私訳 痩せに痩せても生きているからこそ、はたまた、滋養強壮の鰻を捕ろうとして川に流されるなよ。
<別解釈>
試訓 易す易すも生けらば有らむを波多や波多鰻を漁ると川に流るな
試訳 すごく簡単に鰻が潜んでいたら捕まえられるだろう、だが、川面は波だっているぞ。その鰻を捕ろうとして、川に流されるなよ。
<天平年間後期:一字一音万葉仮名歌>
集歌4128 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
<別解釈>
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅の途中の貴方に宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。
今回は以前に紹介したものをまとめたようなもので紙面を稼ぎました。実に、反省する次第です。
ただ、感じることは、正統な万葉集研究者はその教育的、研究者的責任において世に出回る与太話で歴史問題や将来の研究に影響を与えるであろう話題や問題には対しては真摯に対応し、そのような与太話を世に流す者に適切に指摘・指導・教育を行う義務を有していることを理解していないのではないかと危惧することです。
弊ブログでも紹介しましたが、『万葉集』に関係するところにおいて、『日本後記』には平安時代初期に藤原氏や百済氏は権力と金力で氏族伝承の記録を簒奪・改竄し、歴史ある氏族の先祖や祖神を変えたり、その係属に入り込んだと記録します。そして、その結果が現在の関東での藤原氏の伝承ですし、近江での小野氏の伝承です。そのために柿本人麻呂の氏素性に小野氏説や猿女説が生まれたり、藤原不比等関東生誕説が流布します。このように虚偽は虚偽であると明確に否定しないと、千年の後、歴史を持たない者に歴史を奪われても取り返しはつきません。
珍説では奈良時代の教養ある日本人の大多数は百済人であり、その百済人達によって『万葉集』は百済語で創られたとするようです。そして、その百済語が現在の韓国語と日本語のルーツとします。この背景があるために言語のルーツが同じ百済語で創られた『万葉集』は現代韓国語でも読めるのだそうです。ただ、こうの珍説において先に紹介した古音と呉音の関係はどのように説明するかは興味あるところです。
もう一つ、平安時代初期、国風暗黒時代とも称された時代に『新撰万葉集』が編まれました。これは遣唐使に選抜された菅原道真が大唐に赴くときに日本の詩歌の水準(=文化水準)を紹介するために和歌秀歌を当時のアジア文化圏での文化基準である漢詩へと菅原一門によって翻訳された対訳詩歌集です。プロト的な解説では韓国知識階級は伝統的に両班などの身分制度を背景にした漢語・漢文文化体制です。そのような文化世界において、なぜ、李寧熙氏の指摘する「万葉集」が「郷歌・漢詩対訳詩歌集」の形で編纂されなかったのでしょうか。それとも、それは存在したが現在には痕跡も残さずに消えたのでしょうか。実に不思議です。
さて、お金さえ出せば世界中に与太話を流布することはとても簡単な世の中になりました。
で、大丈夫でしょうか。
今回、少し、韓国語と『万葉集』について考えてみたいと思います。なぜ、このテーマを取り上げたかと云うと、ここのところ難訓歌に関係するものを取り上げていますので、資料参照のためにインターネット検索を掛けると、なぜか、難訓歌の解読を通じて、「万葉集は韓国語で書かれており、韓国語でなければ解読できない」と云う主張に遭遇します。
その主張で取り上げられる代表的な歌を二首ほど紹介しますが、真面目に『万葉集』を原文から鑑賞すれば良いのであって、そこには無理に「近代疑似韓国語」で解釈する必要性はありません。参考として韓国語でなければ解読できないと主張する難訓部分は、集歌9の歌では「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」であり、集歌156の歌では「已具耳矣自得見監乍」の部分だそうです。
幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌9 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。
十市皇女薨時高市皇子尊御作謌三首
標訓 十市皇女の薨(みまか)りし時に高市皇子尊の御(かた)りて作(つく)らしし謌三首
集歌156 三諸之 神之神須疑 已具耳矣 自得見監乍 共不寝夜叙多
訓読 三(み)つ諸(もろ)し神し神杉(かむすぎ)過(す)ぐのみを蔀(しとみ)し見つつ共(とも)寝(ね)ぬ夜(よ)そ多(まね)
私訳 三つの甕を据えると云う三諸の三輪山、その神への口噛みの酒を据える、神山の神杉、その言葉の響きではないが、貴女が過ぎ去ってしまったのを貴女の部屋の蔀の動きを見守りながら、その貴女が恋人と共寝をしない夜が多いことです。
先ほど「近代疑似韓国語で解釈する必要性はありません」と述べましたが、この「近代疑似韓国語」と云う言葉を使った背景には、古代韓国語(母語新羅語?)で『万葉集』を読解する場合には万葉集歌の原文表記の特性から特殊な言語読解技法を使う必要があるからです。それは、『万葉集』が漢語+音訓漢字(万葉仮名)だけで表記されているため、「韓国語でなければ読解出来ない」と主張する時、近世まで朝鮮半島で使われていた国語文章表記法である「吏読(りとう)」と云う万葉仮名と同等な音訓字表記方法でもって解読する必要があるからです。その吏読は現代韓国語ではハングルに置き変わっており、すでに使われない表記方法となっていますし、さらに近々の韓国語言語進化の過程から文中に漢語・漢字表記を使わない方向に進んでいます。また、音訓漢字とみなす文字を吏読法での発声によりハングルに翻訳したとしてもその発声の基準が古語音か、現代語音か、さらに発声から復元された言葉に対する解釈は古代韓国語と現代韓国語で同じかの問題があります。さらに扱う『万葉集』テキストでの作品作歌時期が三国時代から統一新羅国に関係しますと、その歌の言語が高句麗語、新羅語、百済語の内のどれに拠ったのかも重要な問題となります。中国文献によると三国時代に百済人が新羅人や高句麗人の通訳を行ったと記録しますから、それぞれの言語は異なっていたのであろうと推定されています。
ここで、『日本書紀』や仏像光背・木簡資料などから推古天皇以前では漢字による音字表記は秦・漢時代の古音発音であったことが確認されています。また、朝鮮半島では天智・天武天皇の時代に活躍した記録に残る人々の名前は秦漢古音による表記であったことも日本に残る資料などから確認されています。ところが、日本では推古天皇以前に使われていたその秦漢古音表記が天智天皇から天武天皇の時代に、突然、呉音表記に切り替わります。歴史ではこれを政治・文化交流における半島経由から大陸への直接アプローチによる体制変換の結果と推定します。そして、『万葉集』は「ト」の音に「止」の文字を使わない、また「意」を「オ」の音字に使わないと云う用例に見られるように呉音表記を選択的に使って表現された作品であることが確認されています。つまり、日本では同じ音訓漢字(万葉仮名)であっても時代により発声は違うことが明らかにされていますし、同じ大和言葉であっても「なつかし」の言葉に代表されるように時代で言葉の意味は変化しています。(「慣れ親しみたい→心が惹かれる→心に残る→昔のことが思い出される」への変化、古語「ユリ」での「百合」と「後」など)
従いまして、『万葉集』の歌が朝鮮半島の言語表記である「漢語+音訓漢字(吏読)」で表記されたものと主張する場合には、『万葉集』の歌が詠われた時代、古代朝鮮語の吏読音字は秦・漢時代の古音による発音を使わなければいけないと云う制約条件が付きます。この制約を取り除く場合、六世紀前半から後半の時期に朝鮮半島で古音から呉音への民族または支配者階級の入れ替えが起きたとしなければいけませんが、統一新羅の成立以外の歴史伝承ではそのような史実はありません。つまり、民族交代はなかったと思われます。また、韓国語において現代と古代では同じ発音で表される言葉の意味は時代変化が少ないことの証明も必要となりますが、韓国古代語の研究自体が資料不足により進まないためにそれは困難なようです。
こうした時、李寧熙氏の集歌9の歌の「漢語+音訓漢字(吏読)」による解釈がそのような秦・漢時代の古音発音に強く影響を受けた古代朝鮮語によるものかは不明です。そのため、紹介しましたように「近代疑似韓国語」とキャプションを付けざるを得ないのです。
<李寧熙氏による韓国語読みに対してひらがな音字ルビ付けをしたもの>
吏読文 莫囂(まげ)円隣之(どんぐるりじ)大(くん)相七兄(さちえ)爪謁(じょつある)気(げ)吾瀬(おら)子之(じゃじ)射(そ)立為兼(いっすに)五(お)可新(がせ)何本(よろぼん)
吏読文 茜(ごく)草(どしょん)指(さち)武(ぼ)良(ら)前(せく)野(ぼる)逝(がね)標(びょる)野(ぼる)行(がね)野(ぼる)守者(じきしゃ)不(あに)見(ぼ)哉(じぇ)君(ぐぜ)之(が)袖(さ)布流(ぼるよ)
さらに吏読の伝承では7世紀後半から8世紀前半の人で、新羅の大学者である薛聡(せつそう)が儒教の経典を新羅に広めるためにこの吏読を考案したとします。この薛聡による吏読考案説を採用する場合は『万葉集』において制作年代や作歌者を示す標題や左注がすべて創作ではない場合には『万葉集』に載る歌が先に詠われ、標題や左注を含めてそれが人々の間に口伝され、そして後に漢語+音訓漢字(吏読)によって表記・採録されたとの時間経過となりますし、時間軸において『古事記』・『日本書紀』に載る民謡や歌謡の説明は不能となります。
次いでその韓国語の歴史についてインターネットに情報を求めますと、東京外国語大学大学院 総合国際学研究院 趙義成研究室が公開していますHP「趙義成の朝鮮語研究室」に載る「ビビンバ 朝鮮語を知る」から韓国語の来歴や歴史を知ることが出来ます。そこから次のような解説を見ることが出来ます。
なお以下の解説を補足しますが、七世紀後半以降に成立した統一新羅国以前の三国時代(高句麗、新羅、百済)までにおいて朝鮮半島でどのような言語(李基文氏区分での古代語)が使われていたかは現在に至るまで学問上では不明となっています。従いまして、李寧熙氏などが主張する「韓国語でなければ読解出来ない」の「韓国語」が意味するものが、高句麗語か、新羅語か、はたまた百済語であるのかも不明です。ただ、万葉時代の朝鮮半島の言語は近世語や現代語でなかったことは明らかです。
韓国語の来歴
ルーツを探るというのは,何につけても人びとを魅きつけるものである。朝鮮語のルーツについても,昔から現在に至るまで,学術的にも民間でも,数々の話が出ては消えている。しかしながら,残念なことに,朝鮮語のルーツについてはまだはっきりしたことが分かっていない。一時期,朝鮮語は日本語とともに,アルタイ諸語(モンゴル語・チュルク語などが属する言語の一群)に属するのではないかという説があった。しかし,総合的に判断すると,朝鮮語・日本語はアルタイ諸語と関連があると断言するに十分な証拠を見いだすことが困難であるというのが,現在の言語学の定説である。
朝鮮語が「アルタイ語族」に属するという説を支える例として,例えば語頭にr音が来ないというものがある。これは日本語にもいえることだが,アルタイ語族と朝鮮語・日本語はrで始まる固有の単語がない。試しに朝鮮語・日本語の辞典を引いてみても,rで始まる単語はどれも漢語か外来語である(助詞・助動詞は接辞なので単語とみなさない。また,日本の古語辞典には「ろうたげなり」などラ行の単語があるが,これも元をただせば漢語起源である)。しかし,このような音の特徴の類似があるにもかかわらず,単語の類似性が全くない。インド=ヨーロッパ語族では,例えば英語の「father」,ドイツ語の「Vater」,ラテン語の「pater」がそれぞれ対応する単語としてあるが,朝鮮語・日本語とアルタイ語族の間にはこのような対応がない。これらの事実が,朝鮮語をアルタイ語族と見なすことのできない根拠の1つとなっている。
韓国語の歴史
日本社会の歴史は縄文時代から始まって弥生時代,古墳時代,奈良時代,平安時代…というように区分される。朝鮮語という言葉の歴史も同じように区分がなされる。日本の著名な朝鮮語学者であった故・河野六郎博士は,次のように区分している。
1. 古代朝鮮語(訓民正音創製以前;~15世紀中葉)
2. 中期朝鮮語(訓民正音創製から秀吉の朝鮮侵略まで;15世紀中葉~16世紀末)
3. 近世朝鮮語(秀吉の朝鮮侵略以降;16世紀末~)
朝鮮語の歴史区分は学者によって異なりがあるが,例えば韓国の朝鮮語学者である李基文(イ・ギムン)博士は次のような区分を提唱しており,韓国国内ではこの区分が一般的ある。
1. 古代語(統一新羅以前;~10世紀初頭)
2. 前期中世語(高麗時代;10世紀初頭~14世紀末)
3. 後期中世語(李氏朝鮮建国から秀吉の朝鮮侵略まで;14世紀末~16世紀末)
4. 近世語(秀吉の朝鮮侵略~開化期まで;16世紀末~19世紀末)
5. 現代語(開化期以降;20世紀以降)
中期朝鮮語は,ハングルが作られた時期の言葉で,この時期にはハングルで書かれた文献も豊富なため,朝鮮語史の上でも最も研究がさかんな時代である。
もう少し、この話題で遊びます。
李寧熙氏の、その主張によると現代に伝わる「万葉集原文表記の歌」とは韓国語で詠われた『万葉集』の日本語翻訳バージョンなのだそうです。それも平安時代のものだそうです。だから、現代において難訓歌以外の歌は現代日本語で鑑賞できると云うことのようです。そうしますと、難訓歌は平安時代に日本語へと翻訳する時にどうしても翻訳できないものが残ったと云うことなのでしょう。
さて、和歌の作歌技法に本歌取りと云う重要な技法があります。この技法から和歌を辿りますと、『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』などと連続する和歌の歴史を見ることが出来ます。その代表例を次に紹介します。大伴家持の歌は「村」「竹」「風」の三字を除くと一字一音万葉仮名表記の三十一文字の短歌です。その家持の歌を吏読による郷歌とすることが、さて、可能でしょうか。
万葉集 大伴家持
原文 和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母
読下 吾が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも
古今和歌集 藤原敏行 (推定原文:変体仮名一字一音表記)
原文 あききぬとめにはさやかにみえねともかせのおとにそおとろかれぬる
読下 秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
林下集 藤原実定
原文 あききぬとおとろかれけりまとちかくいささむらたけかせそよくよは
読下 秋来ぬとおどろかれけり窓ちかくいささ群竹かぜそよぐ夜は
新古今和歌集 藤原公継
原文 まとちかきいささむらかてかせふけはあきにおとろくなつのよのゆめ
読下 窓近きいささむら竹風ふけば秋におどろく夏の夜の夢
現代に伝わる『万葉集』が平安時代に日本語に翻訳されたものとしますと、その翻訳は伝在する『万葉集』原文からしますと、「漢語+吏読表記の歌」を「漢語+万葉仮名表記の歌」に翻訳したことになりますし、同時に作歌者の時代に合わせて、漢詩体歌、非漢詩体歌、常体歌、一字一音万葉仮名歌の各種の表記スタイルとし、なおかつ短歌は三十一音のスタイルに作り替えたことになります。非常に難しい翻訳作業を李寧熙氏は要求しますし、新羅郷歌と和歌三十一音との比較における音字数の問題はどのように扱うのでしょうか。
また他方、『万葉集』には柿本朝臣人麻呂歌集に載る歌を本歌取りした類型歌も存在しますから、本歌取り技法で歌を詠った人物にとって平安時代での翻訳では遅すぎることになります。万葉歌人の時代順序からすると李寧熙氏が云う翻訳は少なくとも人麻呂歌集の成立直後まで遡る必要があります。ところが、その時、大伴家持はまだ生まれていませんから、漢語+万葉仮名表記が流通する時代に大和人である家持が漢語+吏読表記の歌を詠う可能性はなくなります。
<柿本朝臣人麻呂歌集に載る歌;漢詩体歌>
集歌2498 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し利(と)きし足踏みて死なば死なむよ君し依(よ)りては
私訳 貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足が触れる、そのように貴方の“もの”でこの身が貫かれ、恋の営みに死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。
<類型歌;常体歌>
集歌2636 剱刀 諸刃之於荷 去觸而所 殺鴨将死 戀管不有者 (殺は、煞-灬の当字)
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し上(うへ)に行き触れにそ死にかも死なむ恋ひつつあらずは
私訳 床に置く貴方の剣太刀、そのような貴方の諸刃の上に行き触れたい。貴方の“もの”でこの身を貫かれ、その男女の営みで死ぬなら死んでしまいたい。この恋と云う「愛の営み」を続けることが出来ないならば。
困りました。李寧熙氏の指摘に従うと、万葉歌は最初期には「漢語+吏読表記の歌」を詠い、次いでそれを「漢語+万葉仮名表記の歌」に翻訳し、それを下に次世代歌人が「漢語+万葉仮名表記の歌」を詠い、さらに誰かが「漢語+吏読表記の歌」に翻訳し直し歌集として編み、その歌集を再び平安時代になって「漢語+万葉仮名表記の歌」に翻訳し直して現在に伝わる万葉集が成立したことになります。そして、肝心な「漢語+吏読表記での万葉集原本」は痕跡も残さずに永遠に失せた書物であるようです。
さて、先に例題などで紹介しましたように詠われた時代毎にその表記スタイルが明確に違いますが本歌取りの和歌の歴史がありますと、現在に伝わる原文表記の『万葉集』は平安時代に日本語に翻訳された歌集であるとの「論理の逃げ」は難しいのではないでしょうか。
また、日本語言語の特性の一つとして開音節言語からの同音異義語による言葉遊びがあります。その言葉遊びが『万葉集』の歌に見ることが出来、それが『古今和歌集』では掛詞の技法へと進化します。ここにも『万葉集』から『古今和歌集』への連続性が確認出来ます。
再掲になりますが、同音異義語を使った言葉遊びの万葉集歌を歌の表記スタイルから選抜して紹介します。なお、これらの歌を韓国語の「漢語+吏読表記」スタイルを用いたものへと訳せるものか、非常に興味あるところです。平安時代に日本語へ翻訳したとするなら、本来の原本への復元は『万葉集』が読解できる韓国人であるならば、その人物にとって韓国人としての文化的責務ではないでしょうか。
<浄御原宮時代初期:漢詩体歌>
集歌2334 沫雪 千里零敷 戀為来 食永我 見偲
訓読 沫雪(あはゆき)し千里(ちり)し降りしけ恋ひしくし日(け)長き我し見つつ偲(しの)はむ
私訳 沫雪はすべての里に降り積もれ。貴女を恋い慕って暮らしてきた、所在無い私は降り積もる雪をみて昔に白い栲の衣を着た貴女を偲びましょう。
<別解釈>
試訓 沫雪し散りし降りしけ 戀し来(き)し 故(け)なかき我し 見つつ偲(しの)はむ
試訳 沫雪よ、天から散り降っている。その言葉の響きではないが、何度も貴女を恋い慕ってやって来たが、貴女に逢うすべが無くて、私は遠くから貴女の姿を見つめ偲びましょう。
<浄御原宮時代初期:非漢詩体歌>
集歌1783 松反 四臂而有八羽 三栗 中上不来 麻呂等言八子
訓読 松(まつ)反(かへ)り萎(し)ひにあれやは三栗(みつくり)し中(なか)上(のぼ)り来(こ)ぬ麻呂といふ奴(やつこ)
私訳 松の緑葉は生え変わりますが、貴方は脚が萎えてしまったのでしょうか。任期の途中の三年目の中上がりに都に上京して来ない麻呂という奴は。
<別解釈>
試訓 待つ返り強ひにあれやは三栗し中上り来ぬ麻呂といふ奴
試訳 貴方が便りを待っていた返事です。貴方が返事を強いたのですが、任期の途中の三年目の中の上京で、貴方はまだ私のところに来ません。麻呂が言う八歳の子より。
<天平年間初期:常体歌>
湯原王亦贈謌一首
標訓 湯原王のまた贈れる謌一首
集歌640 波之家也思 不遠里乎 雲井尓也 戀管将居 月毛不經國
訓読 愛(はしけ)やし間(ま)近き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに
私訳 (便りが無くて) いとしい貴女が住む遠くもない里を、私は雲居の彼方にある里のように恋い続けています。まだ、一月と逢うことが絶えてもいないのに。
<別解釈>
試訓 はしけやし間近き里を雲井にや恋ひつつ居らむ月も経なくに
試訳 ああ、どうしようもない。出掛ければすぐにも逢える間近い貴女の家が逢うことが出来なくて、まるでそこは雲井(=宮中、禁裏のこと)かのように思えます。私は貴女を恋焦がれています。まだ、貴女の身の月の障りが終わらないので。
<天平年間中期:常体歌>
集歌3854 痩々母 生有者将在乎 波多也波多 武奈伎乎漁取跡 河尓流勿
訓読 痩(や)す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻(むなぎ)を漁(と)ると川に流るな
私訳 痩せに痩せても生きているからこそ、はたまた、滋養強壮の鰻を捕ろうとして川に流されるなよ。
<別解釈>
試訓 易す易すも生けらば有らむを波多や波多鰻を漁ると川に流るな
試訳 すごく簡単に鰻が潜んでいたら捕まえられるだろう、だが、川面は波だっているぞ。その鰻を捕ろうとして、川に流されるなよ。
<天平年間後期:一字一音万葉仮名歌>
集歌4128 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
<別解釈>
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅の途中の貴方に宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。
今回は以前に紹介したものをまとめたようなもので紙面を稼ぎました。実に、反省する次第です。
ただ、感じることは、正統な万葉集研究者はその教育的、研究者的責任において世に出回る与太話で歴史問題や将来の研究に影響を与えるであろう話題や問題には対しては真摯に対応し、そのような与太話を世に流す者に適切に指摘・指導・教育を行う義務を有していることを理解していないのではないかと危惧することです。
弊ブログでも紹介しましたが、『万葉集』に関係するところにおいて、『日本後記』には平安時代初期に藤原氏や百済氏は権力と金力で氏族伝承の記録を簒奪・改竄し、歴史ある氏族の先祖や祖神を変えたり、その係属に入り込んだと記録します。そして、その結果が現在の関東での藤原氏の伝承ですし、近江での小野氏の伝承です。そのために柿本人麻呂の氏素性に小野氏説や猿女説が生まれたり、藤原不比等関東生誕説が流布します。このように虚偽は虚偽であると明確に否定しないと、千年の後、歴史を持たない者に歴史を奪われても取り返しはつきません。
珍説では奈良時代の教養ある日本人の大多数は百済人であり、その百済人達によって『万葉集』は百済語で創られたとするようです。そして、その百済語が現在の韓国語と日本語のルーツとします。この背景があるために言語のルーツが同じ百済語で創られた『万葉集』は現代韓国語でも読めるのだそうです。ただ、こうの珍説において先に紹介した古音と呉音の関係はどのように説明するかは興味あるところです。
もう一つ、平安時代初期、国風暗黒時代とも称された時代に『新撰万葉集』が編まれました。これは遣唐使に選抜された菅原道真が大唐に赴くときに日本の詩歌の水準(=文化水準)を紹介するために和歌秀歌を当時のアジア文化圏での文化基準である漢詩へと菅原一門によって翻訳された対訳詩歌集です。プロト的な解説では韓国知識階級は伝統的に両班などの身分制度を背景にした漢語・漢文文化体制です。そのような文化世界において、なぜ、李寧熙氏の指摘する「万葉集」が「郷歌・漢詩対訳詩歌集」の形で編纂されなかったのでしょうか。それとも、それは存在したが現在には痕跡も残さずに消えたのでしょうか。実に不思議です。
さて、お金さえ出せば世界中に与太話を流布することはとても簡単な世の中になりました。
で、大丈夫でしょうか。
民族において革命を認めると、立て前において先の時代の否定ですから先の時代の文化文物は破壊しなければいけません。
中国は儒教の国と云いますが、本質は功利主義であって儒教では無いようです。反って、韓半島が本格的な儒教国家で革命を認めるようです。
それで、古きものが無いのではないでしょうか。ただし、現代の世界では文化の厚みが無いと思われてしまうのが辛いところです。