万葉雑記 色眼鏡 三〇五 今週のみそひと歌を振り返る その一二五
今週から巻十三の短歌の鑑賞に入っています。この巻十三は長歌を集めた巻の様相を持ち、短歌はその長歌に添えられた反歌の位置にあります。このため、本来からしますと短歌だけを鑑賞することは邪道です。ただ、弊ブログは短歌だけ、長歌だけと区分して鑑賞していますから、時にこのような邪道が生じています。従いまして、邪道的な鑑賞であることをご了解ください。
今回に鑑賞します歌は集歌3234の長歌に添えられた歌です。特段、変哲もない歌です。
集歌3235 山邊乃 五十師乃御井者 自然 成錦乎 張流山可母
訓読 山辺(やまのへ)の五十師(いつし)の御井(みゐ)はおのづから成れる錦を張れる山かも
私訳 山辺の五十師にある御井は、自ら織りあげた錦を広げたような山に向い合うでしょう。
ここで集歌3235の歌に詠う山辺の御井に注目しますと、巻一に次のような歌があります。弊ブログでは歌に注意書きを加え鑑賞しています。
和銅五年壬子夏四月、遣長田王于伊勢齊宮時、山邊御井謌
標訓 和銅五年(712)壬子の夏四月、長田(おさだの)王(おほきみ)を伊勢の齊宮(いつきのみや)に遣はしし時に、山邊の御井の謌
集歌81 山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
訓読 山し辺(へ)の御井(みゐ)を見がてり神風(かむかぜ)の伊勢処女(をとめ)どもあひ見つるかも
私訳 山の辺の御井を見たいと願っていたら思いもかけずも、神風の吹く伊勢の国へ赴く女性たち(長田王とその侍女たち)にお会いしました。
注意 原文の「伊勢處女」の「處女」には、親と共にその場所に居住する女性のような意味合いですから、「伊勢處女」とは斎宮で主に従う女達の意味になります。つまり、集歌81の歌は、一般の解釈とは違い、斎宮に仕える女性とそれを引率する長田王への餞別の歌です。
集歌82 浦佐夫流 情佐麻弥之 久堅乃 天之四具礼能 流相見者
訓読 心(うら)さぶる情(こころ)さ益(ま)やし久方の天し時雨(しぐれ)の流らふ見れば
私訳 うら淋しい感情がどんどん募って来る。遥か彼方の天空に時雨の雨雲が流れているのを眺めると。
注意 原文の「情佐麻弥之」の「弥」は、一般に「祢」と変え「情(こころ)さ数多(まね)し」と訓みます。感情の捉え方が違います。
集歌83 海底 奥津白波 立田山 何時鹿越奈武 妹之當見武
訓読 海(わた)し底(そこ)沖つ白波立田山いつか越えなむ妹しあたり見む
私訳 海の奥底、その沖に白波が立つ。その言葉のひびきではないが、その龍田山を何時かは越えて行こう。麗しい娘女の住むところを眺めるために。
左注 右二首今案、不似御井所。若疑當時誦之古謌歟。
注訓 右の二首は今案(かむが)ふるに、御井の所に似ず。若(けだ)し疑ふらくに時に當りて誦(うた)ふる古き謌か。
ここで参考として集歌3234の長歌を紹介します。
集歌3234 八隅知之 和期大皇 高照 日之皇子之 聞食 御食都國 神風之 伊勢乃國者 國見者之毛 山見者 高貴之 河見者 左夜氣久清之 水門成 海毛廣之 見渡 嶋名高之 己許乎志毛 間細美香母 挂巻毛 文尓恐 山邊乃 五十師乃原尓 内日刺 大宮都可倍 朝日奈須 目細毛 暮日奈須 浦細毛 春山之 四名比盛而 秋山之 色名付思吉 百礒城之 大宮人者 天地 与日月共 万代尓母我
訓読 やすみしし 吾(わ)ご大皇(おほきみ) 高照らす 日の皇子の 聞(きこ)し食(め)す 御饌(みけ)つ国 神風の 伊勢の国は 国見はしも 山見れば 高く貴(とふと)し 川見れば さやけく清し 水門(みなと)なす 海も広(ゆたけ)し 見渡しの 島も名高し ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに畏(かしこ)き 山辺の 五十師(いつし)の原に うちひさす 大宮仕(つか)へ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき 百礒城(ももしき)の 大宮人は 天地 日月とともに 万代(よろづよ)にもが
私訳 国土を余すことなく統治為される我々の大王の天上までを御威光で照らす日の皇子が、御統治なされる御饌を献上する国、神の風が吹く伊勢の国は、国を眺めると、山を見ると高く貴くあり、川を見るとさやらかで清らかで、船が泊まる湊を作る海は広く、見渡す先の島も名が有名で、このことを、真に称賛されるのか、口にするのも非常に恐れ多いことです。山の辺の五十師の原で、日が射し照らす宮で朝廷(みかど)に仕え、朝日の時には真に称賛され、夕日の時には優れて美しく、春山のように若き乙女のように生命に溢れて素晴らしく、秋山は色美しく想いに深ける、沢山の岩を積み上げたような大宮に仕える人たちは、(天皇が統治する)天地や日月とともに、永遠で在ってほしい。
標準的な解釈では長歌に詠う「山邊乃五十師乃原尓」は大和の山辺道にある五十師の原と解釈し、その五十師の原は三重県鈴鹿市山辺町付近ではないかとします。
他方、奈良時代に陸路伊勢に赴くに平城京から都祁・山添街道を使い伊賀上野に出、次いで伊賀街道を使い五百野(津市美里)に行き、ここで奈良街道に接続して伊勢に至る順路がありました。この都祁(つげ)は平城京にもっとも近く交通の便の良く冬の気候が厳しい高原地帯であったためか、奈良朝廷御用の氷室が置かれた場所でした。つまり、天皇が口にする氷を製造・保管する厳しであり斎しの地でした。なお、これらの歌が伊勢参宮に関係するとしますと、五十師の原は三重県鈴鹿市山辺町付近とはなりません。鈴鹿市山辺町付近では奈良から伊勢に向かう奈良街道とは関係がない地域となります。
さて、気を取り直して、弊ブログでは奈良時代の地理と万葉集の歌から山辺の御井は都祁村に鎮座する都祁水分(つげみまくり)神社に湧く泉と考えています。
この解釈から先ほど参考として紹介しました集歌81の歌から集歌83の歌までの三首組歌は、奈良時代には奈良から伊勢への参宮ルートに二通りのものがあったことを前提にして詠ったものと云うことが判ります。
集歌81の歌は陸路を使い奈良から都祁・山添を抜け伊賀に出て五百野の衢で奈良街道に入り伊勢に参宮する女性たち一行に都祁村に鎮座する都祁水分神社近辺で出会ったことになります。それに対して集歌82の歌や集歌83の歌は難波から船行して紀伊国から伊勢国に入るルートを詠ったものになります。そのため、集歌83の歌は奈良から難波に出る暗越奈良街道の様子を詠ったと思われるのです。集歌83の歌の左注に「不似御井所。若疑當時誦之古謌歟」とありますが、これら三首を組歌としますと、都人である若き娘たちの伊勢神宮への務めの旅立ち、その都から遠く離れた異郷の地での娘たちの神道奉仕の日々への思い、さらに神聖な伊勢神宮への海道を使った参詣と云う組み立てになり連携します。歴史と当時の街道を踏まえますとそこには違和感が生じることはないのです。
これと同様に集歌3234の長歌は伊勢の国を誉める前段とその道中の都祁水分神社近辺を誉める後段に分かれていますし、集歌3235の反歌は長歌の反歌でもあるのですが、歌の歴史として集歌81の歌をも踏まえたものとなります。
今回も弊ブログ特有の酔論と与太話に終始しました。標準的な解釈では山辺の御井や五十師の原の地理的な位置は現在の伊勢神宮に比して大きく違いますが国文学的には大勢に影響はありませんし、この「違う」ということを指摘しますと万葉学に従った地域の観光協会に大きな影響が生じます。平安文学をまじめに学ぶと宮城県が大恥をかくことに似たものがあります。
今週から巻十三の短歌の鑑賞に入っています。この巻十三は長歌を集めた巻の様相を持ち、短歌はその長歌に添えられた反歌の位置にあります。このため、本来からしますと短歌だけを鑑賞することは邪道です。ただ、弊ブログは短歌だけ、長歌だけと区分して鑑賞していますから、時にこのような邪道が生じています。従いまして、邪道的な鑑賞であることをご了解ください。
今回に鑑賞します歌は集歌3234の長歌に添えられた歌です。特段、変哲もない歌です。
集歌3235 山邊乃 五十師乃御井者 自然 成錦乎 張流山可母
訓読 山辺(やまのへ)の五十師(いつし)の御井(みゐ)はおのづから成れる錦を張れる山かも
私訳 山辺の五十師にある御井は、自ら織りあげた錦を広げたような山に向い合うでしょう。
ここで集歌3235の歌に詠う山辺の御井に注目しますと、巻一に次のような歌があります。弊ブログでは歌に注意書きを加え鑑賞しています。
和銅五年壬子夏四月、遣長田王于伊勢齊宮時、山邊御井謌
標訓 和銅五年(712)壬子の夏四月、長田(おさだの)王(おほきみ)を伊勢の齊宮(いつきのみや)に遣はしし時に、山邊の御井の謌
集歌81 山邊乃 御井乎見我弖利 神風乃 伊勢處女等 相見鶴鴨
訓読 山し辺(へ)の御井(みゐ)を見がてり神風(かむかぜ)の伊勢処女(をとめ)どもあひ見つるかも
私訳 山の辺の御井を見たいと願っていたら思いもかけずも、神風の吹く伊勢の国へ赴く女性たち(長田王とその侍女たち)にお会いしました。
注意 原文の「伊勢處女」の「處女」には、親と共にその場所に居住する女性のような意味合いですから、「伊勢處女」とは斎宮で主に従う女達の意味になります。つまり、集歌81の歌は、一般の解釈とは違い、斎宮に仕える女性とそれを引率する長田王への餞別の歌です。
集歌82 浦佐夫流 情佐麻弥之 久堅乃 天之四具礼能 流相見者
訓読 心(うら)さぶる情(こころ)さ益(ま)やし久方の天し時雨(しぐれ)の流らふ見れば
私訳 うら淋しい感情がどんどん募って来る。遥か彼方の天空に時雨の雨雲が流れているのを眺めると。
注意 原文の「情佐麻弥之」の「弥」は、一般に「祢」と変え「情(こころ)さ数多(まね)し」と訓みます。感情の捉え方が違います。
集歌83 海底 奥津白波 立田山 何時鹿越奈武 妹之當見武
訓読 海(わた)し底(そこ)沖つ白波立田山いつか越えなむ妹しあたり見む
私訳 海の奥底、その沖に白波が立つ。その言葉のひびきではないが、その龍田山を何時かは越えて行こう。麗しい娘女の住むところを眺めるために。
左注 右二首今案、不似御井所。若疑當時誦之古謌歟。
注訓 右の二首は今案(かむが)ふるに、御井の所に似ず。若(けだ)し疑ふらくに時に當りて誦(うた)ふる古き謌か。
ここで参考として集歌3234の長歌を紹介します。
集歌3234 八隅知之 和期大皇 高照 日之皇子之 聞食 御食都國 神風之 伊勢乃國者 國見者之毛 山見者 高貴之 河見者 左夜氣久清之 水門成 海毛廣之 見渡 嶋名高之 己許乎志毛 間細美香母 挂巻毛 文尓恐 山邊乃 五十師乃原尓 内日刺 大宮都可倍 朝日奈須 目細毛 暮日奈須 浦細毛 春山之 四名比盛而 秋山之 色名付思吉 百礒城之 大宮人者 天地 与日月共 万代尓母我
訓読 やすみしし 吾(わ)ご大皇(おほきみ) 高照らす 日の皇子の 聞(きこ)し食(め)す 御饌(みけ)つ国 神風の 伊勢の国は 国見はしも 山見れば 高く貴(とふと)し 川見れば さやけく清し 水門(みなと)なす 海も広(ゆたけ)し 見渡しの 島も名高し ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに畏(かしこ)き 山辺の 五十師(いつし)の原に うちひさす 大宮仕(つか)へ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき 百礒城(ももしき)の 大宮人は 天地 日月とともに 万代(よろづよ)にもが
私訳 国土を余すことなく統治為される我々の大王の天上までを御威光で照らす日の皇子が、御統治なされる御饌を献上する国、神の風が吹く伊勢の国は、国を眺めると、山を見ると高く貴くあり、川を見るとさやらかで清らかで、船が泊まる湊を作る海は広く、見渡す先の島も名が有名で、このことを、真に称賛されるのか、口にするのも非常に恐れ多いことです。山の辺の五十師の原で、日が射し照らす宮で朝廷(みかど)に仕え、朝日の時には真に称賛され、夕日の時には優れて美しく、春山のように若き乙女のように生命に溢れて素晴らしく、秋山は色美しく想いに深ける、沢山の岩を積み上げたような大宮に仕える人たちは、(天皇が統治する)天地や日月とともに、永遠で在ってほしい。
標準的な解釈では長歌に詠う「山邊乃五十師乃原尓」は大和の山辺道にある五十師の原と解釈し、その五十師の原は三重県鈴鹿市山辺町付近ではないかとします。
他方、奈良時代に陸路伊勢に赴くに平城京から都祁・山添街道を使い伊賀上野に出、次いで伊賀街道を使い五百野(津市美里)に行き、ここで奈良街道に接続して伊勢に至る順路がありました。この都祁(つげ)は平城京にもっとも近く交通の便の良く冬の気候が厳しい高原地帯であったためか、奈良朝廷御用の氷室が置かれた場所でした。つまり、天皇が口にする氷を製造・保管する厳しであり斎しの地でした。なお、これらの歌が伊勢参宮に関係するとしますと、五十師の原は三重県鈴鹿市山辺町付近とはなりません。鈴鹿市山辺町付近では奈良から伊勢に向かう奈良街道とは関係がない地域となります。
さて、気を取り直して、弊ブログでは奈良時代の地理と万葉集の歌から山辺の御井は都祁村に鎮座する都祁水分(つげみまくり)神社に湧く泉と考えています。
この解釈から先ほど参考として紹介しました集歌81の歌から集歌83の歌までの三首組歌は、奈良時代には奈良から伊勢への参宮ルートに二通りのものがあったことを前提にして詠ったものと云うことが判ります。
集歌81の歌は陸路を使い奈良から都祁・山添を抜け伊賀に出て五百野の衢で奈良街道に入り伊勢に参宮する女性たち一行に都祁村に鎮座する都祁水分神社近辺で出会ったことになります。それに対して集歌82の歌や集歌83の歌は難波から船行して紀伊国から伊勢国に入るルートを詠ったものになります。そのため、集歌83の歌は奈良から難波に出る暗越奈良街道の様子を詠ったと思われるのです。集歌83の歌の左注に「不似御井所。若疑當時誦之古謌歟」とありますが、これら三首を組歌としますと、都人である若き娘たちの伊勢神宮への務めの旅立ち、その都から遠く離れた異郷の地での娘たちの神道奉仕の日々への思い、さらに神聖な伊勢神宮への海道を使った参詣と云う組み立てになり連携します。歴史と当時の街道を踏まえますとそこには違和感が生じることはないのです。
これと同様に集歌3234の長歌は伊勢の国を誉める前段とその道中の都祁水分神社近辺を誉める後段に分かれていますし、集歌3235の反歌は長歌の反歌でもあるのですが、歌の歴史として集歌81の歌をも踏まえたものとなります。
今回も弊ブログ特有の酔論と与太話に終始しました。標準的な解釈では山辺の御井や五十師の原の地理的な位置は現在の伊勢神宮に比して大きく違いますが国文学的には大勢に影響はありませんし、この「違う」ということを指摘しますと万葉学に従った地域の観光協会に大きな影響が生じます。平安文学をまじめに学ぶと宮城県が大恥をかくことに似たものがあります。
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