goo blog サービス終了のお知らせ 

Days of taco

やさぐれ&ヘタレtacoの日常と非日常

水と風と雪と

2021年05月15日 | 映画など
藤元明緒監督「海辺の彼女たち」を見る。
ベトナムから日本にやってきた
技能実習生の若い女性たちの労働と生活。
彼女たちの一挙手一投足をじっと見ていたら、
いつのまにか打ちひしがれていたという。
映画の力をまざまざと見せつけられた88分。


日本に出稼ぎに来た
3人のベトナム人女性たちの労働現場を描く本作。
台詞を追いかけていくうちに
おぼろげながら彼女たちの置かれた立場がわかってくる。
不法就労であること、人権を無視した労働を課せられていること。
それでも故郷に仕送りを欠かせないこと。
休みの日には、他愛のない話をしながら、
私は医者と結婚したいとか、韓流スターみたいな人がいいとか
恋バナのようなものが出ること。

彼女たちの一人、フォンという女性が
妊娠していることがわかったあたりから、
映画はいきなり動き出す。
不法滞在だから外国人の在留カードもないし、
保険証もないので、病院にかかることもできない。
フォンは大金をはたいて偽造カードをつくり、
病院でお腹の赤ちゃんを診てもらうシーンに、
これまでの彼女の人生と、置かれた過酷な環境と
生きることと死ぬことと、命の大切さと儚さが交差する。

日本のどこか北の地で、
静かに静かに聞こえる叫び、そして悲しみ。
社会に向けて告発するための映画であることは明らか。
でも、その前に映画としての力に圧倒される。傑作。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨と銃と影

2021年05月06日 | 映画など
リチャード・フライシャー監督
「静かについて来い」を見る。
おお。完璧な映画というのは
こういう映画のことを言うのだろう。
上映時間はたったの60分で、
一瞬のうちに見る者の心と体を痛快に通り抜けていく。


何が完璧かというと、映像だ。
冒頭のタイトルバック。
女の足が映し出され、地面に
激しい雨が降り注いでいるだけでスリリングだ。
これから何が起こるんだろうというわくわく感。

何が完璧かというと、登場人物だ。
サイコな殺人犯を追う刑事とその相棒。
バディものとしてのお約束がありつつ、
事件を追う三流雑誌の美人記者がからむ。
刑事と記者はきっとデキちゃうんだろうな、
と思いつつ、事件の謎解きと恋のさや当てが重なり合う。

何が完璧かというと、演出だ。
犯人の顔を最後の最後まで見せないようにして、
いよいよというところで、ハッタリをかます。
観客は驚きつつも、そのあとの展開を固唾を呑んで見守る。

感動するわけでもないし、
特別なメッセージなど何もない。
ただただ面白さと高揚感があるのみ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

突破口はシスターフッド

2021年04月18日 | 映画など
祖出由貴子監督「あのこは貴族」を見る。
今度はスクリーンを間違えずに見ることができました。
ちゃんと門脇麦と水原希子が出てきてホッとする。
でもそのホッとした気持ちがだんだんささくれ立ち、
それでも、かなりの清涼感を与えてくれる映画。なんという傑作。


正真正銘のお嬢様、っているんだな。
って映画の中の話ではあるけれど、
本作の主人公、華子(門脇麦)は、
開業医の娘で、何不自由なく生きてきた。
結婚こそが女の幸せという価値観のもと、
しきりに婚活を続け、上流階級出身で
ハンサムな弁護士の幸一郎(高良健吾)と結婚する。

門脇麦のお嬢様ぶりがすごい。
挨拶の仕方やお茶を飲む所作の上品さ。
おしとやかではあるけれど、
自分の確固とした意志がないところ。
彼女と対照的な女性として
出てくる美紀(水原希子)との差といったら、ない。

その美紀は猛勉強の末、慶応大学に入るのだけど、
たたき上げの彼女は、幼稚舎からの内部生との格差に愕然とする。
やがて実家の経済状況が傾き、
学費を払えず中退する彼女は、
水商売の仕事をせざるを得なくなり、
在学中に接点のあった幸一郎と腐れ縁になる。

となると、幸一郎という男をめぐって、
美紀と華子が対立する映画だと思いきや、
彼女たちは、お互いを認め合い、
それぞれの仲間たちと新しい人生に立ち向かうのだ。

自分の意志で動くことがなかった華子は、
幸一郎や彼の一族による
古い価値観に押しつぶされそうになりながら、
親友のバイオリニストと新しい仕事を始め、
一方の美紀も同郷の親友と会社を立ち上げる。
門脇麦の親友を演じる石橋静河、
そして水原希子の親友役の山下リオも素晴らしい。

男をめぐって女の戦いが始まるとか、
上級国民と平民の格差を描くとか、
そんなわかりやすい映画にするつもりなど
まったくないのが、見ている間にわかってきて、
そうか、これは女性たちの自立と再生の物語なんだなと。

映画の後半。
とぼとぼと歩いて帰る門脇麦が
ふと向こう側の道路に自転車で
二人乗りをしている女の子たちと手を振り合う場面。
決して深く交わることはない、さりげない接点に
シスターフッドの心意気がほとばしる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後ろ向きで前向きで

2021年04月13日 | 映画など
クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」を見る。
そうなのか。いまのアメリカってこうなっているのか。
これがフロンティアスピリットなのか。
なんともいえない絶望感と共に
慈しみのあふれたロードムービーに感じ入る。


フランシス・マクドーマンド演じる
60代の女性ファーンは、
それなりに社交的で、礼儀正しく、
働くときもテキパキしているし、表情は基本的に笑顔だ。
そんな彼女が路上生活者であること。
アメリカのあちこちをクルマで移動しながら、
アマゾンの巨大な倉庫を始め、工場や飲食店で
期間限定の労働をしながら生活していること。
夫を亡くし、住んでいた街の産業が途絶え、
出て行かざるを得なかったことなどが静かに語られる。

アメリカの道路を走る彼女の視界には、
圧倒的に広がる大自然があり、そこに寄り添い、
対話をするようにたたずむ場面が多く映し出される。
移動と風景の美しさが際立ち、
観客(自分、だ)もファーンのような体験がしたいと
思わせてしまうほどの魅力に溢れている。

でも、それでいいのか。と。
映画はファーンが路上生活者になった原因をつくった
アメリカの社会を告発したりしないし、
いかにも批判の対象になりそうな
アマゾン巨大倉庫での労働状況も、過酷そうではあるけれど、
それをことさらに強調することはない。
また、ファーンたちと対照的な、
たとえばアメリカの裕福層の人間を出して、
この国の格差ぶりを見せつけることもない。

社会から分断され、不安定な状況に置かれ、
貧困や病気との恐怖におびえて生きるのとひきかえに、
ファーンたちはロードムービーの登場人物となり、
自然と対話できる資格を得ているかのよう。

とある本にこんなフレーズがあった。
幸福は達成するものではなく、感じるものだ、と。
達成するのは「成功」とか「目標」と呼ばれるものであり、
幸福とは、ただ「ああ幸せだなあ」と感じれば、それが幸福だと。

本作はそんな幸せの意味を観客に問いかけてくる。
移動と風景の、極上とも言えるショット、
そこに淡く染みこむような人間たちが描かれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

罪と罰

2021年04月07日 | 映画など
ロベール・ブレッソン監督
「バルタザールどこへ行く」を見る。
学生のときに見て以来だから何十年ぶりだろう。
あらためて傑作だと思いつつ、
少し複雑な思いで錯綜してしまったという
なんとも罪作りな作品というか。


少女マリーがこれでもか、と転落していく姿。
両親は人に騙され、財産を失い没落し、
彼女に言い寄る男どもの欲望と搾取の対象となり、
そのクズぶりがなんとも非道極まる。
翻弄されるばかりの彼女は、決して報われることがない。

そんなマリーのそばにいるロバのバルタザール。
何も言わないし、彼女を助けるなんてことも
当然できるわけもなく、ただ佇み、これまた
クズな人間たちに言いように扱われる。

人間の罪深さをただ傍観するこのロバの存在は
本作を見ている観客と同じだ。
ひたすら地獄に墜ちていく彼女を見つめるだけ。
そんな残酷な物語を淡々と描く監督の底意地の悪さ。

美少女を映画に出して、徹底的に虐める。
それを崇高な映画だとベタ褒めするっていうのは
どうなのだろう、と。このブレッソンという監督は、
「少女ムシェット」でも「やさしい女」でも、
素人の美少女に、転落しまくりのヒロインを演じさせている。
これって、ラース・フォン・トリアーとか、
キム・ギドクの映画に受け継がれているんだろうなと。

ブレッソンが監督して、主演が映画初出演となる
アンヌ・ヴィアゼムスキーという、シネフィルにとっては
最強のカップリングなのだけれども、
そんな映画を見て喜ぶ自分は、
ここに出てくるクズな男と大して変わらない。
そんな思いに至ってしまったという。
でもね、すいません。大傑作なんですよ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フツーで正面突破

2021年03月29日 | 映画など
田村啓介監督「DISTORTION GIRL」を見る。
「フツーの十代なんて、ひとりもいない」
というサブタイトルがつくこの映画。
実は見るつもりなどまったくなく、
本作の存在すら知らなかったのです。
というのもシネコンで
「あのこは貴族」を見ようとしたのけど、
スクリーンを間違ってしまい、
たまたま同時刻に上映された本作を見てしまったという。
いつまで経っても門脇麦や水原希子が出てこず、
あれえ。なんか森七菜に似た女子高生が出てきたな、
「あのこは貴族」って女子高生のロックバンドの映画だっけ、
と頭の中が疑問符で一杯になりつつ、
いつのまにか映画に引き込まれていたのでした。


フツーでいなさい。
と言われる高校生って今でも多いのだろう。
つまりは同調圧力に屈しなさいと
大人の多くは子どもたちに強いるわけで。
本作の主人公も普通であることを親から強要され、
学校でも周りに調子を合わせ目立たないようにしている。
しかし、廃部の危機にある軽音学部の
揉め事に足を突っ込んでいるうちに、次第に自分を解放し、
ついにはバンドのボーカルとしてコンテストに出場することに。

本作の見どころは、
バンドのメンバーを演じるキャストの女の子たちが
自分でちゃんと演奏していることだ。
決して上手くはない演奏だし、
素人っぽいボーカルも不安定だけど、
リアルな迫力というか、
役を演じ、楽器を演奏する彼女たちの姿が、
劇映画なのにドキュメンタリーの様相を見せてくる。

脚本も演出もゆるいし、登場人物も類型的。
完成度だってそれほど高いわけではない。
でもそんなことはどうでもいい。
クライマックスのライブシーン。
彼女たちの晴れ舞台に、大いに心を動かされたのでした。
ガールズバンドの映画につまらない映画はない、
というのは真実だ。

本作はYouTube製作の映画らしく、
PCでフツーに見られるようだけど、
スクリーンで見る方がずっと何倍も感動すると思う。
見る機会があったら是非。
というか、「あのこは貴族」を見る機会はあるのかな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぼくは大人になった

2021年03月21日 | 映画など
庵野秀明総監督
「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を見る。
前作「Q」から8年。待望の、というか
コロナで公開延期になったりして、
ようやくのお目見えとなった。
はてさて。何を書いてもネタバレになってしまうなあ、と。


主人公のシンジが大人になれば、
このアニメは終了する。そういう意味で、
本作は完結編と言っていいのだろう。これってネタバレですか。

父親のゲンドウに認めてもらえず、
いつまで経ってもうじうじしているシンジに
TVシリーズからずっと付き合ってきたファンにとって、
彼は成長したり、大人になったりしてはいけなかったのだと思う。
だって、あれだけいじけていても、
エヴァには乗れるし、ヒーローにもなれる。
たとえ大失敗しても、構ってくれる美少女がたくさんいる。
シンジは不幸な振りをしているだけで、
その状況に甘んじていると罵倒するアスカの言い分は、
たぶん正しい。そのアスカもメンヘラが激しすぎるのだけど。

本作をずっと応援してきたファンは、
自分が大人になりきれないのをシンジのせいにしていなかったか。
シンジやアスカのこじらせっぷりに大いに共感し、
エヴァが永遠に続けばいいと思っていなかったか。
かくいう自分もそうだったかもしれない。

意味深なカットバック。回収されそうでされない伏線。
映像にのめり込もうとする観客を拒否するようなメタ視線。
相変わらず作画も演出も驚異的で、
すごいものを見た、という印象がまず先に来る。
でも、これくらいにしといてあげてよろしくてよ。
いい加減大人であることを引き受けて、
落とし前をつけなさいよ、と真希波マリに
言われているような気がしたのは自分だけだろうか。
彼女を劇場版の途中から、
新キャラとして出した意味は
そこにあるのかな、と勝手に思っている。

歳を取らない(取りそこなった、とも言える)シンジたちが、
大人になったトウジや委員長が地道に働く避難村に
身を寄せる前半部分が素晴らしい。美術も背景も。
どこか懐かしく、でも限りなくディストピア感のある村は、
昔の日本映画とか、ジブリの映画を見ているような錯覚に陥る。

ともあれ、庵野監督をエヴァの呪縛から
解放してあげるための本作だと思う。
もしかしてこの先、
続編とかスピンオフとかがあるかもしれないけれど、
それは大人の事情ということで、やり過ごしていきましょう。
監督はじめ、スタッフキャスト、制作会社にスポンサー。
そしてファンのみなさん、おつかれさまでした。
明日からは違う明日が待っています。逃げちゃダメだ逃げちゃ。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わきまえない女がここにも

2021年03月07日 | 映画など
カーロ・ミラベラ=デイヴィス監督
「Swallowスワロウ」を見る。
痛い。そして素晴らしい。
ある若い主婦の不安と孤独。自己否定。
そこから抜けだそうと、必死でもがく姿。
異物をのみ込む「異食症」の女性を描いた映画ではあるけれど、
そこから一歩も二歩も進んだ着地点に唸る。


何が痛いって、ポスターにあるように
画びょうなどの異物を呑み込む主人公が、とにかく痛い。
ビー玉から始まって、チョークや電池などを飲み込み、
それをトイレで出して、呑み込んだものをひとつずつ
並べていく場面の恐ろしさ。
端から見たら異常に見える行為だけれど、
大きな喜び、というか充足感を得ていくのだ。

まさに玉の輿、とも言えるセレブな夫と
豪邸に住み、何不自由なく生活でき、
おまけに妊娠して、もう幸せ一杯、のはずなのに。
彼女はまったく満たされていないことが描かれる。
夫も、優しくてリベラルに見える彼の両親も、
実はただのクズ人間であり、お金があっても、
社会的地位があっても、高い教育を受けていても、
一人の女性の苦しみにまったく向き合うことができない。

映画は、この恵まれた家庭がものの見事に
崩壊していく展開になっていくけれど、
目を見張るのは、脇を固める登場人物の特異性だ。
主人公の心のケアをするカウンセラーは
ひどくメンタルの弱そうな黒人女性だし、
異物を飲まないように四六時中監視するのは
シリアの戦火から逃れてきた中年男だ。
マイノリティーと言われる人たちが、
同じくマイノリティーである女性を
保護、監視する図式にぞっとするのは自分だけだろうか。

ひとりの女性の
目に見えない孤独とトラウマを描きながらも、
映画はついに、彼女を突き放し、
もっと俯瞰的に、そして大きなスケールで、
女性たちの苦悩ぶりを見せつける結末に
呆気にとられる人も多いだろう。

シネフィル的には、
主人公を演じたヘイリー・ベネットは、
ボブヘアだし、妊娠した若妻という役柄ということで、
どうしても「ローズマリーの赤ちゃん」の
ミア・ファローを連想してしまう。
ある意味、本作は「ローズマリーの赤ちゃん」を
現代の米国でリメイクしたようにも思えるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

くたばれ小市民

2021年02月24日 | 映画など
西川美和監督「すばらしき世界」を見る。
なんという傑作だろう。
見終わったあと、映画館を出たら
外の風景が少し違って見えたほど、だ。


佐木隆三の「身分帳」が原案。
殺人罪で長年服役していた極道の三上(役所広司)が
シャバに出て、一般人の世界でなんとか生きていこうとする物語。

これが昭和の時代だったら、
三上は男気のある任侠として、
それなりに居場所があり、
けっこうな地位を築いていたのかもしれない。
でも今は令和の世の中だ。
ポリコレとかコンプライアンスがまかり通り、
「反社」の一言で完全なマイノリティ扱いだ。

6畳一間のアパートで、
慣れないスマホをいじりながら、必死に就活や
生活保護の問い合わせをする三上。
保護司や役所の担当員など、善意のある人たちのサポートで
なんとか普通の市民になろうとするが、
ときおり感情が暴発してしまう危うさ。

とにかく、三上を演じる役所広司に尽きる。
どうしてこの俳優さんはこんなに上手いのだろう。
役に憑依してしまうというか、
こんなに怖くて、かつ愛おしい男がいるなんて。
水道からホースを引いて、洗髪する場面。
人を殺したことを淡々と語るこの男の
人生がすべて詰まっているような仕草と言葉。

映画は彼の幼少時代まで遡っていく。
生き別れになった母親を探して、
かつて自分が育った施設を訪れる場面も素晴らしい。
いきなり泣き崩れる三上の姿に、
観客の多くも彼と同じ気持ちになるだろう。

なぜ彼が普通に生きていけないのか。
彼を阻んでいるものはなにか。
西川監督の映画はいつも観客に問いかけてくるものがある。
その問いに答えは出るのかな、というか正解なんかあるのかな。
と考えながら映画館を出てしまったのです。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

殺戮のかなた

2021年02月12日 | 映画など
ヴァーツラフ・マルホウル監督「異端の鳥」を見る。
憎悪と欲望と嫉妬が渦巻き、
それらが殺戮を呼び起こす地獄絵図のあれこれが、
美しいモノクロ映像の中で繰り返される169分。


タイトルにあるように、
鳥が頻繁に出てくる。この鳥の意味は何だろう。
と思いながら、見る。

主人公の少年はどうやらユダヤ人で、
ホロコーストから逃げていること。
舞台は第二次大戦中の東欧のどこかというのが
うっすらとわかってくる。
少年を保護するのは、ひとり暮らしの老婆であったり、
怪しげな祈祷師、粉ひきの夫婦、教会の司教、
さらにはソ連軍の兵士だったりする。
少年はこれでもか、という虐待を受けながら、
次第にしたたかさを身につけ、狡猾となり、
いつのまにか被害者から加害者の顔つきになっていく。

そうした少年のまわりにはいつも鳥がいて、
籠にとらわれた鳥たちを解放しようとして、
それが叶わなかったり、無残にも焼き殺されたりする。
少年を見守っている存在なのか、それとも身代わりの犠牲なのか。

ドイツ軍やソ連軍の残酷さは、目を覆うばかりで、
どうだ、この世は地獄だぞ、という場面を見せつけつつ、
悪魔のような人間たちが見せる、ほんのたまの善意。
こんなところにしか希望がないのだろうか、
と絶望しつつ、心が安らぐ瞬間というか。

ナチに捕らえられた少年が、
命乞いのために、ナチの将校の靴を必死で磨く場面。
その将校のつるんとした顔の
なんともいえない酷薄さと、わずかに滲む慈悲。
少年を優しく保護するソ連軍の兵士は、
その穏やかな目を一変させ、スナイパーとして
人々を容赦なく撃ち殺していく。

地獄のなかに救いがあるのかどうかを
考えながら、スクリーンに映し出されるものを
ただひたすら見続けるしかない。
そのあいだに少年は成長していく。
どんどん表情が変わっていくところの頼もしさと恐ろしさ。

似たような映画を見たことがある。
ソ連映画の「炎628」(85) だ。
ベラルーシで起こったドイツ軍による村人虐殺事件を、
少年の視点から描いた作品で、最初は素朴な表情を見せていた少年が
虐殺を目の当たりにして、その表情が恐ろしいほどに
変わっていく映画だった。

人生はかくも過酷である。でも、
生きていかないといけないんだなあ、と溜息。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする