旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

山びこの会「下町界隈歩き」④

2012-02-24 13:22:58 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 待乳山聖天の境内からスカイツリーを見納めて、浅草神社、入谷鬼子母神を経て寛永寺墓地に向かう。浅草神社は明治の神仏分離で浅草寺からきりはなされ隣接するが、浅草寺まではよく来るがこの神社は初めて。解説によれば、浅草寺の建立にかかわった土師真中知(はじのまつちのなかもと)と徳川家康と大国主命の3人を合祀しているというので、神も人間も時を超えて一緒くたに祭るという、いかにも日本らしい神社である。唯一神の窮屈な国に比べて、何とも人間の匂いがしてよい。
 「恐れいりやの鬼子母神」という言葉は随分使わせてもらったが、これまた本体を拝んだのは初めて。人間というものもいい加減なもので、見もしない神社のことを、いかにも知っているかのごとく軽々しく利用する。

 寛永寺から谷中霊園あたりは一度歩いたことがあるが、徳川慶喜の墓を解説付きでつぶさに見たのは初めて。時代の激動期にあっては、将軍といえども苦労は多かったようだ。
 最後は「ゆうやけだんだん」。ここも二度目であったが、下町歩きの最後の場所としては格好の地といえる。三時半ごろで夕やけには早かったが、否応なく「夕焼け小焼け」の曲を思い出した。

  夕焼小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘がなる
  お手々つないで皆かへろ 烏と一緒に帰りませう

  子供が帰った後からは 円い大きなお月さま
  小鳥が夢を見る頃は 空にはきらきら金の星 
 
                     (原文のまま)


 この歌を一度も歌わずに育った日本人はいないのではないか? この情景は当時の日本のどこにもあった。だからすべての日本人はこの歌を唄った。
 中村雨紅が1919年に作り、その詩に草川信が1923年に曲をつけたとされている。そして中村雨紅がこの詩を着想したのがこの“ゆうやけだんだん ”とも言われている。雨紅は1916年から日暮里第二小学校や日暮里第三尋常小学校の教師をしていたので、近くのこのだんだんで夕日を眺めたことは当然予想される。説によればこの詩の情景は、雨紅の生地である南多摩郡恩方村(現八王子市)という。「山のお寺の鐘の音」は、「上野谷中の鐘の音」であったのか、それとも恩方村の、それこそ山寺の鐘の音であったのか…。

 いまやその風情はなく、多くの人が行きかい、ともすれば喧噪の地ともいえるが、野良猫にとっては、階段脇の陽だまりと餌をくれる人の多いことは好都合らしく、無防備に体を伸ばして何匹も眠っていた。

                                      
       


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