桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

稲荷祭り

2008-12-15 | Weblog
昨日は地区、中田切のお祭りだった。
昔は、地区の全員が宿と呼ばれる家に集まり、3日間、朝から飲んで豊作を祈り、願う神事をこなすシキタリだった。しかし、専業農家は減り、勤め人が大半となっては、そのシキタリも維持出来なくなり、今では1日のみの行事で、稲荷神社に幟を立て、神事を行うだけになった。
昨日は雨。午前中に立て、夕方には撤去する幟ゆえ、それも中止になり、農家の神事的な稲荷祭りも先細り。やがては廃止になりそうな感じだ。
中田切地区は、その中が上坪、中坪、下坪と区切られ、家屋数は50軒に満たない小さな地区だ。各坪ごとにも宿が持ち回りで決められて、年に一度の懇親的な行事として存在した稲荷祭りだが、宿になった家や女性の負担が大きすぎるとの声が上がり、我が中坪は廃止になり、それからは参加者も年々に減り、今年は19軒中、10軒しか参加しなかった。
祭り好きの俺、一度は稲荷祭りの宿も経験したかったが、本当は今年だったらしくて、宿主が造るらしい、中坪が守る庚信塚に飾るしめ縄編みをした。
時代は変わり、古いものは消えて行くしかないのかも。

国連報告会

2008-12-13 | Weblog
昨夜は水戸での開催。もう何度も話したことなので、少し新鮮さが消えてしまったが、自分の中に刻まれた新たな明日への思いは話せた。
参加者に水戸修習中の人たち7名がいた。どんな思いで聞いてくれたか判らないが、これを切っ掛けに将来を考えてくれる人が一人でもいれば嬉しい限りだ。
報告会後に忘年会。
20名で楽しく語り、飲んだ。

本日も仕事

2008-12-12 | Weblog
今日は最高裁前の朝宣伝。更に、衆議院議員会館での集会をした後、再審冤罪問題連絡会の総会に行く予定だったが、会社に出た。
昨日のネット張りが終わらなくて、6メートルの単管パイプにネットを張る高所作業は苦手な人ばかりで、ぜひにと言われて予定を変更した。高いところでも身軽に動ける俺は、かなり元気かも知れないと感じる1日だった。年齢を忘れてるかも知れない。

今日の仕事

2008-12-11 | Weblog
久しぶりの仕事。取手市で解体する家の周りに、粉塵や物が飛散するのを防止する幕を張るために、単管パイプを組んだ。6メートルの高さ。かなり高いので、そこで作業するのは大変。高いところでの作業を苦にしない俺なので、明日の幕を張る作業にも出て欲しいとなって、明日の最高裁、再審での集いには参加できないことになった。
しかし、今日は手の指が攣ったのには驚いた。重い物を持つことも、そろそろ身体が負担と感じ始めたのかも知れない。

大鶴補充書批判7

2008-12-11 | Weblog
大鶴基成最高検察庁検事名で提出された補充書にある具体的な記載に対する批判は終わった。これ以上は何も言わずとも結果は見えていると思うが、最後に一言書きたい。
検察庁は犯罪者だ。証拠を隠す犯罪者。そう言っても反論はできまい。できようはずは無い。私が書いたこと確実な資料に基づく事実だからだ。布川事件の真実であり、歴史的事実だからだ。この真実の前に大鶴補充書は虚しい。あれは41年前、私に自白を迫った吉田賢治検察官は「君の言葉には、人の心を打つ響きが無い。たとえ裏付けが無くても真実ならば心に響くものがある。でも、君の言葉には、それが無い。真実とは思えない。」と言った。この大鶴補充書と特別抗告申立書には、真実も無ければ、もちろん心を打つ響きなどあり様が無い。それどころか、証拠を隠して裁判所に誤った判断をさせた、その決定にしがみ付く無様で哀れな姿しか見えない。
警察が、私への不当な取り調べ時間を隠そうとして、その記載を改ざんして提出した「留置人桜井昌司に対する出入り状況表」というのがあることは書いた。それを使って「留置場への帰房時間」と表現する言葉があるが、私は留置場内の看守勤務者が仮眠室として使っていた部屋で調べられていた。端から留置場内にいた者が帰房もないだろう。この補充書は、どこまでも間違っている。真実の欠片も無い
41年前、吉田検事が私に語りかけた言葉は、今でも検察官は使うらしい。「私が修習中に、桜井さんが言われたと同じことを言う検察官がいましたよ、君の言葉には心を打つ響きが無いって」と、つい先日、話してくれた若手弁護士がいる。犯罪手口は同じかと、みなで大笑いしたが、今も昔も検察庁は同じ。起訴した人を有罪にするためならば、どんな手段でも使う。来年に始まる裁判員制度の中でも、必ず同じことをするだろう。布川事件を作り上げたと同じように、警察の証拠ねつ造を許し、自らは証拠を隠すに違いない。
反省しない者は、人も組織も同じ過ちを犯す。私は裁判官となる国民に、この事実を語り続ける。そして、今、検察庁の犯罪行為で有罪とされる仲間とともに、貴方たちを犯罪者として裁ける社会を求めて闘う。
これからも樋渡利秋を頂点とする検察庁を追及する。真実と正義の体言の場であるべき裁判で証拠隠しという犯罪行為を続ける検察庁を追及する。


大鶴補充書批判6

2008-12-10 | Weblog
補充書の最後は「自白の信用性に関する事実誤認」を主張している。
簡単に言えば、「短時間の調べで自白しているので信用性が高い」、「実際の体験なくしては述べられないような具体的供述が含まれている」からだと書いている。
警察が偽証をして隠した自白テープについては、既に批判したが、ここでは11月に吹き込んだテープを使い、あれやこれやの部分を抜き書きして「食い違ったことを言うとすれば、裁判なんかでもひっくり返せると思ってました。それで言えなかったのです。などと供述の変遷等についても自分の言葉で説明していることからも自白の信用性が認められる」と主張する。
自分の言葉とは、何を根拠とするのだろう。大体、私は初めて逮捕され、法律にも無知だった。百戦錬磨の早瀬四郎警部補の思考の現れが、この言葉の本質に過ぎないのだ。
杉山の自白テープについては「杉山の口調はとつとつとしたものであるが、一言ずつ正確に述べようとする様子が分かる上、特に会話部分などは、自分自身が体験したからこそ述べられるもの」と主張するが、全く違う。口が上手くて歌も上手いと自認している私とは違い、杉山は語ることが苦手。口より手が早い暴力派だ。一言ずつ正確に述べようとするのじゃなくて、それは作られた調書に添って語っている姿の現れなのだ。体験せずとも会話は作れる。殺人事件体験者の経験談を豊富に聞き知っている捜査官ならば、想像力を使って聞き重ねることなで、容易な手段と言うもの。補充書の記述に信用性が無いことは明白だろう。
こんな記述もある。「借金申し込みに二度行った話は、これは捜査官として把握していなかった事実である」と。だから秘密の暴露と書いてくれれば、馬鹿じやなかろうかと言えたが、そこまでは書いてない。しかし、捜査官が知らない事実を語ったとは書かれている。ここが理解できない。
確かに二度行ったとは話した、町の噂話で殺人の時間が9時ころと聞いていたし、どう殺したとすれば良いものか、すぐには話を作れなかったために、早瀬の質問に急かされて「一度帰った」となったが、二度行ったとの話を、何で証明できるのだろうか。何によって証明できたと言うのだろうか。いずこの社会であろうとも事実とは裏付けされたことを言う。いかに検察官が事実と力んだところで、架空の作り話は事実にはならない。二度行った話は事実と裏付けられてはいない。このような主張をするところに検察による特別抗告の不当さが現れているし、大鶴補充書の主張の限界が現れていると言えるだろう。
ここで大鶴さんが一番主張したかった部分は、これだろう。
「自白内容の一部に変遷があるが、記憶違いなどによるもののほか、強盗殺人の重い刑責を免れるためにあえて虚偽事実を織り交ぜて供述していた可能性もあると考えられる。このような自白の変遷等については、確定審も当然十分認識した上で、各審級においてもそれぞれについて慎重に検討を加えて、犯行の大要については請求人らの自白は信用性が認められると判断したのであり、新旧証拠の総合評価によっても結論が揺るぐことはあり得ない」
検察庁の任務は警察のバックアップ。真実の守護者では無い。一旦起訴した者はしゃにむに有罪とする。有罪とするためには手段を選ばない。無実を示す証拠を隠す。自白テープを改ざんし、捜査資料にも数々の不正を行った警察と較べて、兄たり得ても弟たり得ず。似たりよったりだろう。
大鶴補充書は書くが、真に「新旧証拠を総合評価しても結論は揺るがない」と思うのか。
改ざん自白テープ、毛髪鑑定書、死体検案書、小貫目撃証言、福田てる子アリバイ証言調書と裏付け検証調書、取り調べ時間の不正が明らかになった「桜井出入り状況表」、割印の不正が明らかになった「桜井捜査報告書」、まだまだ弁護団が指摘した疑惑はあるが、これらは検察庁が長年にわたって隠してきた証拠だ。これらの証拠を隠してきた検察庁は、我々を冤罪に陥れた犯罪者だ。
ゆえに事実を曲げ、真実に目を閉ざすのだろうが、特別抗告書と補充書に現れているものは、正義に背を向ける検察庁の無惨な姿であり、検察官の人間としての無惨な姿だろう。
検察官が証拠を隠して裁判官を欺き、誤った判断をさせた罪は免れない。一言すれば、欺かれた裁判官にも責はあろう。唯々諾々と検察官の主張に乗り、まともに真偽の判断をしない体たらくを重ねるから欺かれるのだ。勿論、騙す組織の悪辣は言うまでも無い。未だに過去の判断にしがみついて、あれこれの世迷いごと的詭弁を重ねる検察庁に言いたい。恥ずかしくないですか?
まだまだ布川事件には沢山の証拠が隠されている。確実な根拠をもって指摘できる杉山の自白テープの一本目、小貫目撃証言の初期供述調書、角田目撃証言調書など、隠し続けている。
検察庁は証拠を隠すな!総ての証拠を開示しろ!

大鶴補充書批判5

2008-12-10 | Weblog
事件の夜に桜井と杉山に会ったと言った証人は、渡辺を除いて5人いる。どの人も会った日にちを勘違いしたか、させられたのだが、高裁は「これらの目撃場所というのは、いずれも請求人らの日常的な行動圏内といってよく、そこで請求人らが目撃されたからといって、これを本件犯行と結び付けて考えるのは相当ではない」と、至極当たり前に判断した。当然のことだ。我孫子駅、布佐駅、栄橋は、そこを通らくては家に帰れない場所なのだ。日常的に通る場所にいるのが犯人の証拠になるのならば、利根町で犯罪があったときに我々がいれば、それで犯人、有罪だということになる。こんなバカな話は無いだろう。
しかし、補充書は、こう書いて決定を批判する。
「渡辺も加えると、我孫子駅、布佐駅、栄橋、被害者方前の4ヵ所で順次、目撃されているのであり、各目撃地点が4っの点となり、一本の線となって、互いが補強し合っており、確定判決の事実認定はいささかも揺るがない」
点が線となりなどの表現は、なかなか文学的だが、どのような美文を使ったところで、その証明力が増すものではあるまい。ただ一点、裁判官心理を突いた巧い指摘があるらしい。「(各目撃証人によって東京にいたと述べるアリバイが否定されるのだから)強盗殺人の刑事責任を問われている以上、虚偽のアリバイ主張を撤回して、真実の行動経過を明らかにするはずであるところ、請求人らは、それでもなお、このアリバイ主張を続けている。この点からも、請求人らが本件強盗殺人に関与していることは明らかである」
二人が利根町に帰って来たことは証明された、それでも東京にいたと言うのは利根町に帰ったと言えない事情があるからだ、それは殺しをしてるからだ、と三段論法的に言うのだが、こういう指摘が裁判官は好きらしい。一番有罪と食い付き易いらしい。アリバイの嘘を言うのは犯人の証拠だ!節穴の目を持つ裁判官は、こう短絡に考えてしまうらしいのだ。それを聞かされて、改めて裁判官の厄介な思考性を考えさせられるが、高裁判断のように「利根町に住む人が帰っただけのこと、犯行には結び付かない」と考えるのが常識か、それとも大鶴補充書の「アリバイの嘘を言ってるのが犯人の証拠」と考えるのが常識か、それこそ常識はどちらかと社会に問いたい。
補充書は、高裁決定が杉山を目撃したとする布佐駅員の証言は正しい認めたことを特筆して書くが、弁護団の指摘した疑惑が消えたわけでは無い。捜査本部が被害者宅の住所番号を正しく認識したのは何時か。利根町役場から捜査本部に被害者宅の住所番号が違っていたと知らされた日にちに関する資料を、検察は隠していないだろうか。
布佐駅員の「杉山を見た」と書かれた捜査報告書作成日には、まだ判ってないはずの被害者宅の住所番号が正しく書かれていて、他の捜査報告書の改ざん、差し換えと同様の疑問がある。このような資料を判断材料とすることが誤っているし、この点の高裁判断は間違いだ。
補充書は「アリバイ主張を裏付ける事実がないことも明らか」だと書くが、そうだろうか。
桜井が11時30分には店で飲んでいたと書かれた福田てる子氏の証言、あれは何だろうか。警察は、我々を犯人として布佐駅から西武新宿線野方駅まで電車を乗り継いだ検証もしている。確か、11時47分着と検証されたと思うが、この17分差は、僅かに17分、無視して構わないと言うのだろうか。帰り着かないものは帰り着かない。
野方駅に着く、ホームに降りる、改札口を出る、アパートへ歩く、アパートで着替えてバージュンへ行く、これが自白内容だ。17分差に、この行動時間を加えたならば、果たして何時にバーへ入ることになるか。当時の閉店は12時。「11時30分には飲んでいた」とはならないために、検察庁は、この証拠を35年も隠していたのではないのか。隠し続けたのではないのか。何度でも書くが、検察庁は証拠を隠すな!犯罪的な証拠隠しをやめろ!

九州大学

2008-12-10 | Weblog
昨日は九州大学での講演だった。
私と杉山、それに北九州出身の井浦弁護士の三人で参加して事件の話をして来た。
講義の参加者は百名くらいだったが、全く居眠りする人を感じなかったのには驚いた。それだけ井浦先生の講義が判りやすくて面白かったのだろうが、九州大学の学生の資質をも感じた。その後、豊崎ゼミ生とのディスカッションを三時間くらいした。これが楽しかった。
捜査、裁判での法律問題などを語り合ったが、刑事訴訟法などや捜査規範など、人権に絡む法律は、如何に効果的かとか、有効的かとかではなく、法哲学として立法すべきであり、施行すべきなのだ。日本には、その法哲学が存在しないと思う。もっと語り合いたかったの思いを抱いて帰って来た。

大鶴補充書批判4

2008-12-09 | Weblog
「著しく正義に反する重大な事実誤認」という大業なタイトルで決定を批判した内容部分を読めば、これも相変わらずの我田引水だ。
我々を目撃したと嘘を言う渡辺証人を雲の上までも持ち上げて「その証言の信用性は極めて高い」と主張する。
大丈夫かいな、大鶴さん!と言いたくなる。
1、渡辺は利害関係が無く、あえて虚偽の供述をする事情が無い、2、二人と面識があり、二人を認識することも可能で検証結果で裏付けられた、3、確定審で様々な観点から尋問されても桜井と杉山を見たと一貫して述べている、4、顧客先やガソリンスタンドなど、立ち寄り先関係者の供述などで裏付けられている、5、「忘れたなどの証言は記憶の薄れで当然である
このような根拠で渡辺証言は真実だと述べるが、最もらしい主張だけれども歪んだ思考だ。
渡辺の証言が出現した経過は、この補充書が言うような「証人出廷などを躊躇していた」ものではない。我々が犯人だと報道され、たまたま事件当夜に玉村さん方前を通過していた渡辺は、その性格から「俺は見たんだよ、あの二人を」と自慢気に得意先に話して歩いたのだ。それが有罪にする証拠を求め続けていた警察の網に掛かかって証人になったのだ。一度嘘を言ってしまえば利害は生まれる。嘘と認めれば、その嘘を言い回った得意先との関係に困るだろう。現に、渡辺証人は得意先から警察に話が持ち込まれたと、検察は関係者供述として書面を提出している。渡辺証言に利害が無いというのは間違っている。
識別が検証結果によって裏付けられたと言うが嘘だ。あれはバイクの後ろ席に乗った裁判官が検証し得たのであって運転者が識別できたのでは無い。大体、道路中央をバイクで走り、「道端に立った人の顔がライトに入って判った」などと言う証言は絵空事の極みだろう。そんな照射角度は無い。頭で作り話を作っているから、こんな実体とは違う、あり得ない話になるのだろう。
桜井、杉山だと一貫して述べているとあるのには笑った。どこが一貫なのか、普通の感覚があれば、こうは言えまい。渡辺が現場前で見た人を、誰か判らなかったと言ったこともある。判らなかったが、その直後に学生たちと出会い、その中の顔と被害者宅前で見た人の顔が似ていて記憶に残ったと話した、あの良く意味の判らない証言部分は何だと言うのか。大鶴さん、嘘を書いてはいけない。誇張してはいけない。「全く揺らいでいない」どころか、揺らぎに揺らいでいる。事件発覚直後に「通ったが誰も見ていない」と語った最初から、原審高裁での最後の証言までを検証すれば、渡辺が家を出た時間から現場前通過時間、目撃した桜井、杉山の立ち位置から見た相手や状況、訪問先でのテレビ視聴時間から帰宅時間まで、変転しない部分は一つも無い。渡辺証言の変転は「年月による記憶の薄れ」などではあり得ない。著しく変転した渡辺証言に縋らざるを得ない検察の苦況は判るが、小貫証言に厳しい同じ検察官の言葉とは思えない論述だ。
それに立ち寄り先関係者の供述と言うが、なぜ渡辺だけの関係者供述を提出して、小貫証言の関係者供述は提出を拒否するのか。余りにもアンフェアーな話でなないか!
検察庁は、総ての証拠を開示しろ!証拠隠しをするな!
この渡辺証言を真実だと主張する検察と同じ言葉を用いて小貫証言を書けば、彼女に利害関係は無い、自転車で被害者宅を訪ねようとした意識的な目撃は信用性がある、40年間語る目撃状況に揺らぎは無く一貫している、こうなるだろう。
小貫証言を裏付けするに不足する関係者供述を考えるにつけ、検察の開示拒否は異常としか言い様が無い。
大鶴検事、総ての証拠を検討できた貴方は、小貫証言の真実性を理解しているはずだ。事件が発覚してから進んで目撃状況を話した小貫証言は、その8月30日付け調書から同じ話を一貫して語っているはずだ。そして、その話は関係者供述によって証明されているはずだ。だからこそ、検察は小貫証言を不当に難詰して初期供述を隠し、関係者供述を隠し続けているのだ。違いますか、大鶴検事!
検察庁の証拠隠しは犯罪的だ。「著しく正義に反する重大な事実誤認」をしているのは検察庁だろう。
重ねて言うが、正義に反するなどと書いて恥ずかしくないのだろうか?検察官として、人として恥ずかしくないのだろうか?

冤罪仲間

2008-12-08 | Weblog
昨日は、岡山で痴漢冤罪事件に巻き込まれた山本真也さんの闘いを支える会総会に招かれて話をしてきた。山本さんは国鉄、JRの労働者。それが鉄道警察に5ヶ月も尾行された末の痴漢と言うからウロンな話だ。謀略、でっち上げ、筋書き、見え見えではなかろうか。
その集会は、熱い心が満ちていて60人以上の参加者だった。
俺は、何時も通りに布川事件の体験を話し、証拠をでっち上げる警察、証拠を隠す検察の実体を語り、真実を見抜けない裁判所の罪を怒って来た。
冤罪は三位一体、警察、検察、裁判所のトライアングルによって作られる
明るく楽しい布川事件を岡山にも伝えて来た。