この前に書いた、大阪で発覚した強姦事件の冤罪に付いて、再審開始決定があったと報道された。
被害者だと言った、当時14才の女性は「嘘だと言い出せなかった」と語るらしいが、思い出すのは御殿場事件だ。この冤罪も自称被害者は「やられた」と訴えたが、その申告した時間には彼氏と一緒だったことがバレてしまい「実は違う日」と変更した。でも、その日は台風襲来日。女は、その雨の中で強姦されたことになるが、全く濡れなかった。
大阪の事件は、「被害者」が真実を告白したことから無実が明らかになったが、御殿場事件では、未だに平然としている。
大阪の事件では「14才の女性が嘘を言うはずがない」として有罪にされたそうだが、何時も通りに検察の重大な不正行為がある。
被害者は「病院で診察して貰った」と言ったことから、弁護士は「診察記録を」と要求したらば、「ない」と返答したのだ。この診察記録が、今度の再審公判に提出されたのだが、そこには「強姦された痕跡はない」とあったと言う。
今日の新聞には、この診察記録を提出させないで「嘘を言うはずがない」て有罪判決を下した裁判官を批判する記事はあったが、証拠を隠した検察を批判する記事がない。
いくら警察や検察が無能だとは言え、強姦被害が申告されて、ただ話を聞くだけの捜査を行うはずもない。当然「3回、診察を受けた」の事実に付いて裏付け捜査をしただろう。もちろん、診察記録をも見ただろう。
ここからが、昔も今も変わらない警察と検察のやり方だ。警察は「申告」の事実に合わない証拠は無視し、検察は、その証拠を隠して「犯人だ」と主張し続ける。変わらないよなぁ。
御殿場事件でも、高橋詳子とか言った裁判官は、女の言葉だけを信用して、色々な矛盾を退けて有罪とした。真実を見抜く感覚を持たない裁判官は悪いが、証拠を隠す検察こそ、悪の最たる存在ではないのか。
客観的な証拠を隠した検察を、証拠隠滅罪で裁く法律は、絶対に必要だ。
そのことを改めて教える、大阪の再審開始決定だった。
被害者だと言った、当時14才の女性は「嘘だと言い出せなかった」と語るらしいが、思い出すのは御殿場事件だ。この冤罪も自称被害者は「やられた」と訴えたが、その申告した時間には彼氏と一緒だったことがバレてしまい「実は違う日」と変更した。でも、その日は台風襲来日。女は、その雨の中で強姦されたことになるが、全く濡れなかった。
大阪の事件は、「被害者」が真実を告白したことから無実が明らかになったが、御殿場事件では、未だに平然としている。
大阪の事件では「14才の女性が嘘を言うはずがない」として有罪にされたそうだが、何時も通りに検察の重大な不正行為がある。
被害者は「病院で診察して貰った」と言ったことから、弁護士は「診察記録を」と要求したらば、「ない」と返答したのだ。この診察記録が、今度の再審公判に提出されたのだが、そこには「強姦された痕跡はない」とあったと言う。
今日の新聞には、この診察記録を提出させないで「嘘を言うはずがない」て有罪判決を下した裁判官を批判する記事はあったが、証拠を隠した検察を批判する記事がない。
いくら警察や検察が無能だとは言え、強姦被害が申告されて、ただ話を聞くだけの捜査を行うはずもない。当然「3回、診察を受けた」の事実に付いて裏付け捜査をしただろう。もちろん、診察記録をも見ただろう。
ここからが、昔も今も変わらない警察と検察のやり方だ。警察は「申告」の事実に合わない証拠は無視し、検察は、その証拠を隠して「犯人だ」と主張し続ける。変わらないよなぁ。
御殿場事件でも、高橋詳子とか言った裁判官は、女の言葉だけを信用して、色々な矛盾を退けて有罪とした。真実を見抜く感覚を持たない裁判官は悪いが、証拠を隠す検察こそ、悪の最たる存在ではないのか。
客観的な証拠を隠した検察を、証拠隠滅罪で裁く法律は、絶対に必要だ。
そのことを改めて教える、大阪の再審開始決定だった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150227-00000577-san-soci&utm_content=buffercfa98&utm_medium=social&utm_source=facebook.com&utm_campaign=buffer
この事件は検察側から刑を執行停止して釈放した事から、捜査当初から診断書について裏付けを取っていなかったのは恐らく事実だと思います(ここでもし嘘をついていたら、数年前の村木さんの冤罪事件の二の舞で大変な事になります)。再審請求で弁護士が提示した証拠や証言を知ってあわてて釈放したんだと思います。
ろくに裏付けをとらずに起訴した検察の責任も桜井さんがおっしゃる通り思いと思いますが、それ以上に裁判官が本来すべき仕事を怠った責任は検察以上だと思います。
控訴審で診断書の提出と被害者尋問が弁護士から求められた時、高裁の裁判官達は一顧だにしなかった。頭から被害者の言い分を全面的に信じて、被告側の言い分など全く聞く耳を持たなかった。人一人の人生を左右する重要な判断がこんな傲慢な姿勢の裁判官達に委ねられていた、という事です。
報道で出ている限りの控訴審でのやりとりは:
弁護側「被害者が病院で診断を受けたのなら、診断書がある筈。証拠として提出して欲しい」
検察側「無い」
弁護側「被害者の再尋問をしたい」
裁判所「却下」
とありますが、こんなやり取りでそのまま有罪が下るとは、実態を色々見聞きしてはいましたが、それでも腰が抜けます。
被害事実の証明が被害者本人の証言だけで、存在すると言われている診断書についても検察官がどういう了見なのか判りませんが、診断書など存在しないかの様な回答をする。それに対して裁判所は何の突っ込みも無い。
本来であれば
裁判官「検察官が「無い」と言うのは、診断書そのものが存在しないのか、それとも手元に「無い」という意味なのか?」
位の突っ込みはあって当然でしょう。
ましてこの事件は否認事件なのですから、被告側として被害事実の証明を求めるのはごく当たり前の話です。それを裁判所は全く一顧だにせず却下する。これは、一体何なんですか?ひょっとして、どうせ被告人が苦し紛れに証拠調べをしたいと言っているに違いない、被害者は未成年の少女だし被害事実を証明する為の診断書を裁判で提出させるのは、プライバシーに関わるしかわいそうだから深く追求しないでおこう、などという理由で却下したんでしょうか?
高裁(控訴審)や最高裁の裁判官達がこの事件の裁判官の様に頭から被告側の言う事に耳を傾けず、検察側の言い分だけ聞く様な姿勢であるのなら、彼らは一体何のために居るのでしょうか?今の高裁や最高裁は単に有罪のお墨付きを与える為の存在に成り下がっている気がします。検察官の言う事だけ聞いて有罪判決だけ書いてればそれは仕事は楽に違いないでしょう。
※記事を読み返して気づいたのですが、弁護士からの診断書について突っ込みがあったのはてっきり一審だと思っていましたが、実は控訴審での指摘でした。一審では診断書の存在についてなぜ争いがなかったのでしょうかね。