スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

燦燦ダイヤモンドカップ争奪戦&Yさん

2018-08-05 19:11:57 | 競輪
 松戸記念の決勝。並びは吉田に中村‐伊勢崎の千葉,石塚‐松岡‐村田の近畿,太田‐桑原の四国中国で中川は単騎。
 桑原がスタートを取って太田の前受け。3番手に中川,4番手に吉田,7番手に石塚で周回。残り3周のホームから石塚が発進の構えをみせると吉田が合わせて上昇。バックでは前受けの太田が突っ張り,内に差し込んだ石塚と外の吉田で4番手を併走する隊列に。残り2周のホームから外の吉田が再上昇。太田を抑えてバック。ここから石塚が発進。吉田も踏み込んで打鐘。この先行争いは吉田が制し,浮いた石塚は脱落。伊勢崎の後ろに松岡がスイッチ。後方になった中川は単騎で動き,バックでは松岡の後ろの村田の横あたり。そのまま勢いよく捲った中川が吉田を飲み込み,あとは抜け出す一方で優勝。吉田の番手から差してきた中村が3車身差で2着。コーナーで中川を追うように自力で発進した松岡の後ろから,直線は松岡の内を伸びた村田が4分の3車身差で3着。
 優勝した熊本の中川誠一郎選手は先月の宇都宮記念以来の優勝で記念競輪5勝目,GⅢ6勝目。松戸記念は初優勝。このレースは太田,吉田,石塚と若い先行選手が揃ったので,何かしらの先行争いが起こることが予想され,単騎でも脚を溜められそうな中川には有利な展開になりそうでした、実際に吉田が抑えにきたところで一旦は太田が突っ張り,吉田が叩いた後で石塚が発進して先行争いになるなど,早い段階から激しいレースに。地区的には太田ライン追走でもおかしくありませんでしたが,そうではなく単騎でも自力勝負を選んだのがよかったのだと思います。

 Yさんはかつての母の同僚です。ただ,Kさんは僕が3歳の頃から小学校を卒業するまで母が勤務していた中学校の同僚で,Yさんは僕が中学校に入学した年に母が転勤した中学校での同僚です。母が特殊学級,現在でいう特別支援学究を担当するようになったのは,この中学校で勤務していたときでした。
 Yさんには母の癌について詳しいことを知らせてあったわけではありません。ただ,年賀状を出しましたので,その中で,大腸の手術をしたということは書き添えておいたそうです。Yさんの旦那さんが薬剤師で,その文言にピンとくるものがあったようです。それでこの日に訪ねてきました。もっともそれは突然の訪問とは少し違います。年賀状を読んだYさんが事前に電話をかけてきたので,そこで母が詳しい話をし,この日の訪問が決定したということです。
 1月7日,日曜日。この日はKさんが訪問してきて,一緒に夕食を摂りました。妹はグループホームに滞在中のため不在でしたが,来日中の伯母がいましたので,母と僕と合わせて4人での夕食です。なお,基本的に伯母の来日中は伯母が家事のほとんどをこなします。例外は風呂の掃除で,これは僕にとっての始まりの日以降は必ず僕が担当することになっています。したがってこの日の4人分の夕食の支度をしたのは伯母でした。
 1月9日,火曜日。母と伯母,僕の3人で墓参りに行きました。日野公園墓地にある僕の家の墓に行くことができたのは,前年の7月19日以来ですから,およそ半年ぶりのことでした。
 1月12日,金曜日。妹を迎えに日野の作業所に行きました。墓地と作業所は同じ日野で,墓地は作業所からでいえば帰るときのバスから見えます。ただ日野公園墓地というのは非常に敷地面積が広いため,僕の家の墓に行くという場合には,この帰り道にある入り口から入ると中をかなり歩かなければならないことになります。
 グループホームで過ごした週末のことについて妹に尋ねましたが,カラオケはすることができたようです。また,妹はこれまでと比べると睡眠時間が激減している筈で,昼寝をしてもいいと言っておいたのですが,それはしなかったようです。

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