スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

朝日杯将棋オープン&自律

2024-02-11 19:32:03 | 将棋
 有楽町朝日ホールで指された昨日の第17回朝日杯将棋オープンの決勝。対戦成績は藤井聡太朝日杯選手権者が15勝,永瀬拓矢九段が6勝。千日手が二局あります。
 振駒で先手になった永瀬拓矢九段の矢倉。後手の藤井朝日杯選手権者は中住いに構えました。先手の研究が深かったようで,ずっと互角の形成が続いたものの,消費時間には大きな差がつく展開に。
                                        
 ここで後手は☖5四馬と引きました。この将棋に敗着があったとすればたぶんこの手で,ここは☖6三歩と打った方が均衡を保てました。しかしここからの先手の手順がうまかったといった方がいいのではないでしょうか、
 ☗6五歩と打つのは手筋の一着。☖同金に☗6六歩と打ちました。
 ここで☖6四金と引くのが最善とAIは示していましたが,ここで金を引くくらいなら第1図で☖5四馬とは引きません。☖7六金と進出して攻め合いを目指すのは僕には当然と思えます。
 これに対しては受けが必要なので☗6五銀。そこで☖4五馬と桂馬を取るのが後手の狙いの一手。おそらく☗7六銀☖1八馬☗同香で飛車を取って一勝負というのが後手の読みだったと思うのですが,先手は金は取らずに☗1五竜と逃げました。これが好手。何とか攻めを続けなければならない後手は☖4八銀不成としましたが☗6四桂の王手が厳しく先手の勝勢となりました。
                                        
 永瀬九段が優勝。2012年の新人王戦以来となる3度目の棋戦優勝。朝日杯将棋オープンは初優勝です。

 このこともスピノザの哲学を利用して説明しておきましょう。
 スピノザは第二部定理四三備考で,観念はキャンバスに描かれた絵画のように無言mutumのものではないという主旨のことをいっています。このことにはふたつの意味があります。ひとつは,観念ideaというのはその対象ideatum,備考Scholiumの比喩でいえば描かれる絵画の対象がなくても存在し得るということです。これは絵画で説明するよりも,おそらく写真で説明する方が分かりやすいでしょう。スピノザがいっているのは,観念というのは何かを撮影した写真のようなものではないということなのであって,写真というのは必ず撮影の対象を必要とするのに対し,観念はそれが存在するために観念対象を必要とするわけではないということです。
 もうひとつは観念は無言ではないということです。無言ではないといってもそれが話をするという意味ではありません。ある観念は別の観念を発生させるというような意味です。1枚の写真が別の写真を発生させるということはなく,写真というのは1枚1枚それぞれ別個に撮影されるのでなければなりません。観念はそのようなものではなく,ひとつの観念は別の観念と因果関係で結ばれているのであり,ある写真と別の写真との間には存在し得ないようなある関係があるということです。
 デカルトRené Descartesが自分の精神mensが存在するというときには,こうしたことが前提されていると解しておく必要があります。つまりデカルトは,自分の精神というのが存在するために自分の身体corpus,もっともこれもスピノザの考え方で,スピノザによれば第二部定理一三により,現実的に存在するある人間の精神humanam Mentemの観念対象はその人間の身体であるとされていますが,デカルトがそれを認めるかどうかは別に,デカルトの精神が存在するためにデカルトの身体が存在することは不要であると考えているのは確かなのです。そして同時に,すべてのことを疑っている自分の精神というものが,対象を撮影した写真のようなものではなく,自律的に独自の思惟作用を展開する思惟の様態cogitandi modiであるとも考えているのです。
 僕たちは〇〇があるというとき,何らかの物体corpusが存在するというイメージでそれを解釈しがちです。

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