オーストラリアのランドウィック競馬場で行われたクイーンエリザベスステークスGⅠ芝2000m。
ユニコーンライオンは逃げるレース。道中は1馬身くらいのリードで終始しました。そのまま直線に入り,残り300mくらいまで先頭で粘りましたが,そこから並んで追ってきた後続の馬たちに差され,突き抜けて勝ったDubai Honourから概ね3馬身4分の3差の5着でした。
この馬は鳴尾記念と福島記念を勝っていますが,日本で大レースを勝つというのは大変というレベルの馬。その馬がこの路線では日本ほどのレベルにないオーストラリアに遠征してどのくらい走れるのかというのが注目点。コース設定がコーナーの中間からの発走となっていて,逃げたいこの馬にとって大外枠になったのは著しく不利でした。勝ち馬はイギリスからの遠征馬で,その馬には能力面で敵わなかったとみるべきでしょうが,2着とは僅差でしたから,条件に恵まれればもう少し上位の着順もあったように思います。勝ちタイムが遅くなっているのはスローペースの影響もありましたが主因は馬場状態の影響で,この点に関しては勝ち馬には有利に働いたしユニコーンライオンにはマイナスであったのではないでしょうか。勝つためにはどこかで後ろを引き離さなければならなかったのですが,そういうシーンを作れなかったのは馬場状態の影響があったのだろうと思います。
共通概念notiones communesがどの範囲まで共通しかつ特有であるのかまでは分からないにしても,共通かつ特有ということにレベルの差があるということは現実的に存在する人間は確実に知ることができます。つまり共通概念の一般性にはレベルの差がある,一般性の高い共通概念もあれば一般性の低い共通概念もあることを僕たちは知ることができるという結論になります。つまり,第二部定理三八が共通概念の理論としてどのような位置づけとなるのかとは関係なく,第二部定理三九がこの結論を保証していると僕は考えているのです。これが,共通概念には一般性のレベルに差があると僕が考えることの根拠になります。
したがって,福居が第二部定理三八は共通概念の一般相であり,第二部定理三九はその具体相であるというとき,もしもそれが,前者がすべてに共通するもののことであり後者がいくつかのものに共通かつ特有であるもののことを意味し得るとするならその見解opinioを否定しません。ですが福居のこの見解は,考察の中で説明したようにこのような意味を有するものではありません。ですから,僕は福居のこの見解については全面的に否定します。一方,ドゥルーズGille Deleuzeが第二部定理三八は共通概念の適用の秩序を示し,第二部定理三九が共通概念の形成の秩序を示すといっていることについては,後者が形成の秩序を構成しているということについては同意します。前者については肯定はしませんが否定はしません。ただし,第二部定理三八と第二部定理三九の間に,共通概念の論理としてある断絶があるということは認めます。これは第二部定理三八を第二部定理三八系と合わせたものとして考えた場合にも同様です。共通概念の形成の秩序というのを文字通りに共通概念が形成されることと解するなら,第二部定理三八系は確かに共通概念の形成の秩序を示しているとみることが可能でしょう。ですが,第二部定理三八系で示される共通概念は,すべてのものに共通であるものの共通概念ですから,共通概念に一般性のレベルの差があるということを僕たちに教えることはありません。この点では明らかに第二部定理三八およびその系Corollariumと第二部定理三九の間には,断絶があります。
ユニコーンライオンは逃げるレース。道中は1馬身くらいのリードで終始しました。そのまま直線に入り,残り300mくらいまで先頭で粘りましたが,そこから並んで追ってきた後続の馬たちに差され,突き抜けて勝ったDubai Honourから概ね3馬身4分の3差の5着でした。
この馬は鳴尾記念と福島記念を勝っていますが,日本で大レースを勝つというのは大変というレベルの馬。その馬がこの路線では日本ほどのレベルにないオーストラリアに遠征してどのくらい走れるのかというのが注目点。コース設定がコーナーの中間からの発走となっていて,逃げたいこの馬にとって大外枠になったのは著しく不利でした。勝ち馬はイギリスからの遠征馬で,その馬には能力面で敵わなかったとみるべきでしょうが,2着とは僅差でしたから,条件に恵まれればもう少し上位の着順もあったように思います。勝ちタイムが遅くなっているのはスローペースの影響もありましたが主因は馬場状態の影響で,この点に関しては勝ち馬には有利に働いたしユニコーンライオンにはマイナスであったのではないでしょうか。勝つためにはどこかで後ろを引き離さなければならなかったのですが,そういうシーンを作れなかったのは馬場状態の影響があったのだろうと思います。
共通概念notiones communesがどの範囲まで共通しかつ特有であるのかまでは分からないにしても,共通かつ特有ということにレベルの差があるということは現実的に存在する人間は確実に知ることができます。つまり共通概念の一般性にはレベルの差がある,一般性の高い共通概念もあれば一般性の低い共通概念もあることを僕たちは知ることができるという結論になります。つまり,第二部定理三八が共通概念の理論としてどのような位置づけとなるのかとは関係なく,第二部定理三九がこの結論を保証していると僕は考えているのです。これが,共通概念には一般性のレベルに差があると僕が考えることの根拠になります。
したがって,福居が第二部定理三八は共通概念の一般相であり,第二部定理三九はその具体相であるというとき,もしもそれが,前者がすべてに共通するもののことであり後者がいくつかのものに共通かつ特有であるもののことを意味し得るとするならその見解opinioを否定しません。ですが福居のこの見解は,考察の中で説明したようにこのような意味を有するものではありません。ですから,僕は福居のこの見解については全面的に否定します。一方,ドゥルーズGille Deleuzeが第二部定理三八は共通概念の適用の秩序を示し,第二部定理三九が共通概念の形成の秩序を示すといっていることについては,後者が形成の秩序を構成しているということについては同意します。前者については肯定はしませんが否定はしません。ただし,第二部定理三八と第二部定理三九の間に,共通概念の論理としてある断絶があるということは認めます。これは第二部定理三八を第二部定理三八系と合わせたものとして考えた場合にも同様です。共通概念の形成の秩序というのを文字通りに共通概念が形成されることと解するなら,第二部定理三八系は確かに共通概念の形成の秩序を示しているとみることが可能でしょう。ですが,第二部定理三八系で示される共通概念は,すべてのものに共通であるものの共通概念ですから,共通概念に一般性のレベルの差があるということを僕たちに教えることはありません。この点では明らかに第二部定理三八およびその系Corollariumと第二部定理三九の間には,断絶があります。
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