スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&神と超人

2009-03-26 19:36:47 | 将棋
 共に3勝ずつを上げて最終局に持ち込まれた第58期王将戦七番勝負の第七局は,昨日から指され,決着しました。
 振駒で先手は深浦康市王位。羽生善治王将の横歩取り△8五飛戦法に。1日目から角交換に桂交換。さらに封じ手直後から2筋で大きな振り換りがあり第1図に。
           
 ここで後手は△5二金打と受けました。ここに金を使ってしまうと後手玉への詰めろが消えてしまいますし,この局面は駒割りだけでいえば先手が角金交換でやや駒得でもあるので意表の一手。しかしこうして玉の固さで勝負にいった判断が非常に優れていたようです。
 先手は長考して▲7二角成と平凡な手を指していますので,この展開は予想外であったのでしょう。後手は△5四桂と角取りに打ち,▲3五角に△7四銀と桂を取りました。
           
 これに対しては▲同歩でなければ不自然ですが,実戦は▲7三馬。仮にこれがこの局面では最善であるとしても,△6五銀と逃げられては先手がよい筈もありません。つまりここではもう見た目以上に大きな差がついてしまっているようです。実戦も受けに回った後手が手堅く指し,最後に反撃を決めて勝ちました。快勝といっていい内容だと思います。
 ということで4勝3敗で羽生善治王将の防衛。このシリーズ,スコアこそ競り合いましたが,この将棋もそうであったように,途中で差が開いてしまう将棋が多かったのはちょっぴり残念ではありました。

 スピノザの哲学の立場から,ニーチェの哲学を批判しようとする場合には,以上のような注意が必要なわけですが,それでもなお,この反論は一定の意味を持っているのではないかと僕は考えています。
 スピノザの哲学における神というものに対しては,それが超越的存在であるという批判はたぶん適当ではありません。スピノザはまず第一部定義五で,様態というのが実体の変状であるということを名目的に定義し,第一部公理一では,自然のうちには実体と様態,すなわち実体の変状だけが存在するということを示しました。そして実在論的な意味においては,実在する実体は神が唯一であるということを第一部定理一四で証明しています。このことから,実在的意味においては,自然のうちには神と神の変状だけが存在するということになっています。僕はそう理解することには反対ですが,スピノザの哲学が汎神論とみなされる根拠のひとつがここにあって,こうした形式によってスピノザは,たとえ神といえどもそれは自然を超越することはない,あるいは汎神論的言明をするなら,神とは全自然そのものなのであって,それを超越するような存在ではあり得ないということを示しているわけです。ですから,スピノザが神ということばを用いているとしても,そのゆえにその思想内容が超越論であるということは不可能であると思われます。
 ところで,単に実在論的立場に立つなら,ニーチェも超越論は否定します。そこで,たとえばニーチェの哲学における超人という存在が,実在するという意味であるといわれるならば,まさに現実的に実在するあるものとしてあるというか,そうでなければ認識論的な意味でのみ一種の超越的存在としてあるというかのどちらかであるということになります。というか,そうでないならば,スピノザの立場からの反論が有効であるということが,すでに明らかになっているといえるのではないでしょうか。

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