スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

名古屋大賞典&認識と超越

2009-03-25 19:05:59 | 地方競馬
 今年はJBC競走が行われることになっている名古屋競馬場。前哨戦というわけではまったくありませんが,JBCクラシックと同じ舞台で今日は名古屋大賞典(動画)が争われました。
 発走後,内の方では少しごちゃついたようにも見受けられましたが,外の各馬には関係なく,スマートファルコンの逃げ。ワンダースピードが2番手でしたが,いつもより差を開いての逃げに。とはいえ,マイペースで,暴走といった類のものではありませんでした。
 後方にいたメイショウトウコンが1周目の正面を回ったあたりから上昇を開始,レースを動かしにいったのですが,前の2頭にはあまり関係なし。2頭の差も3コーナー近辺では一旦は縮まったものの,まだ余裕があったスマートファルコンがまた突き放して優勝。2着にもワンダースピードで,追い上げたメイショウトウコンが3着。きわめて堅い決着になりました。
 優勝したスマートファルコンはこれで昨年11月から浦和記念,兵庫ゴールドトロフィー,佐賀記念と重賞4連勝で5勝目。あえて相手関係が楽なところを使っていて,名より実を取っているという感じですが,これもひとつの立派な方法であると思います。実力上位だからといって勝つというのは簡単なことではなく,馬も関係者も誉められるべきでしょう。父はゴールドアリュール
 鞍上は岩田康誠騎手で,2006年以来の名古屋大賞典2勝目。管理する小崎憲調教師はこのレース初制覇です。

 もちろんこのニーチェへの反論は,そっくりそのままニーチェの哲学に対して妥当するわけではありません。というのは,ニーチェの哲学は平行論を採用しているわけではなく,認識論的なものに大きく関係しますから,超越的ということの厳密な意味が,この場合にはスピノザの哲学とは相違すると考えることもできるからです。
 僕たちは,単に認識の上でのことであれば,そう意識しているかどうかはまた別にしても,容易に超越的な存在を虚構します。たとえばある人間が,後世の人びとに対して責任を負わなければならないとか,後世の人びとに対して恥ずかしくない行動をしたいと思うとすれば,このとき,後世の人々としてこの人間の精神のうちに形成されている認識というものは,一種の超越的存在といえます。常にそうであるとは僕は主張しませんが,こういう場合は一般的には後世の人間が具体的に表象されているわけではないからです。しかし,だからといってこうした認識を,単に超越的であるというだけで,スピノザの立場から批判できるということにはならないのです。なぜなら,この認識が同時にこの認識のこうした超越性を含んでさえいるならば,この限りではこれはスピノザの哲学における虚偽と誤謬との関係においては,単に虚偽に妥当するだけであって,この認識をなす人間はいっかな誤謬を犯しているとはいえないからです。
 これと同様の関係が,ニーチェに対する反論に対しても成立はします。ニーチェがそうしたことを認めるかどうかということはまた別の議論になってしまうのですが,ニーチェが自己を超克するというとき,超克された自己というのは,単に認識論的な問題としてのみ超越的にあると主張することができるからです。ニーチェがそう主張すると僕はいいません。しかしそう主張しても,ニーチェの主張全体の意図は,必ずしも困難にさらされることはないだろうと思います。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ビワハイジ&ニーチェへの反論 | トップ | 王将戦&神と超人 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

地方競馬」カテゴリの最新記事