スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

確知することと疑わないこと&化学変化

2023-02-02 19:28:14 | 哲学
 確知と確実性は異なるといったときに,僕は確実性certitudoについてはスピノザに従っているけれども,確知するcerto scimusということについてはそうではないといいました。僕は確知するということと疑わないということの間にほとんど差を設けていませんが,スピノザはおそらくそこに差を設けているからです。
                                   
 どういう差があるのかということも僕は分からないわけではありません。というのも,ある知性intellectusが何事かを確知するというのは,その知性についてのある積極的表現であるのに対し,ある知性が何かについてそれを疑わないというのは,その知性についての消極的表現であるからです。したがって,ある知性が何らかの事柄についてそれを疑わないという大きな区分があって,その区分の中に,ある事柄についてそれを確知するということの一部が含まれるのです。すなわち,ある虚偽falsitasについてそれを真理veritasであると思い込むこと,これはその知性が誤謬errorを犯しているというのと同じことですが,そういう誤謬を犯しているということは疑わないということの一部を構成するのです。よってこの場合は,確実性の一部と疑わないということの一部にまたがる形で,確知するという思惟作用があるということになります。
 ただ,誤謬を犯しているということと,単にある虚偽についてそれを疑わないということの間に実質的な差異を設けることは僕には困難だと思えるのです。なぜなら,僕たちはある事柄について,それを真理であるか虚偽であるのかということを常に意識するわけではないからです。僕たちの精神mensを構成する観念ideaは,十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataのどちらかです。いい換えれば真理であるか虚偽であるかのどちらかです。ですが僕たちは,ある観念についてそれが十全な観念であるか混乱した観念であるかは気にしないという場合があるのであって,その場合は単に疑っていないというべきか,それとも誤謬を犯しているというべきか分かりません。なのでその人間がそれを確知しているともいえるし確知しているわけではないともいい得ます。
 このような理由から僕は確知することと疑わないことの間にほぼ差を設けません。差を設けることができないといった方が正確かもしれません。

 補足の本編はここからです。
 一般にある事物の本性essentiaならびに形相formaに変化が齎されるというのは,物体corpusでいうなら,ある物体が別の物体になるということを意味します。たとえば木が燃えて炭になるという現象がそれに該当します。これは木という物体が炭という物体になったという意味ですが,それと同時に,木の本性を有する物体が炭の本性を有する物体になったという意味であり,同様に,木の形相を有する物体が炭の形相を有する物体になったという意味であるからです。
 このとき,木が炭になるというのは一種の化学変化であって,この化学変化にはいくつかの物体が関係します。これは木の本性のうちにそれが炭になるということが含まれているわけではないということから明白です。したがって木が炭になるときは,木の本性以外にも何らかの原因causaがあって,その原因から働きを受けるpatiことによって,木は部分的原因causa partialisの一部を構成しつつ炭になるのです。最も単純にいえば木は燃えることによって炭になるので,木以外にも火という物体がこの変化には関与しているというように理解するだけで十分です。
 こうした化学変化が一般的に生じるとき,確かに木は炭になるとはいえ,あるいはもっと一般的にAという物体がBという物体になるとはいえ,この変化に関与するすべての物体について,それを分子レベルで考えれば,分子の結合の仕方に変化が生じるのであったとしても,全体の分子の質量に変化が生じるわけではありません。つまり分子全体のレベルで考えれば,本性の変化も形相の変化も生じていないことになります。いい換えればそれは,全体の分子の中に起こることではありません。なので僕はこうした事象についても,無限知性intellectus infinitusはそれを認識するcognoscereことはないと考えます。第二部定理九系によれば,ある観念の対象ideatumの中に起こることの認識cognitioはその観念ideaを有する限りで神Deusのうちにありますが,分子全体レベルの観念が神の無限知性の一部を構成しなければならないとはいっても,その観念対象の中に何かが起こっているわけではないからです。よってこうした観念は,たとえば炭になるとされる木の観念を有する限りで神のうちにあるといわれなければなりません。

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