スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王将戦&第三部定理九備考からの帰結

2018-02-08 19:02:53 | 将棋
 3日と4日に大田原市で指された第67期王将戦七番勝負第三局。
 久保利明王将の先手。かなり駆け引きのある序盤戦から先手の四間飛車,後手の豊島将之八段が中飛車から向飛車に振り直す相振飛車になりました。後手が角損の代償に飛車を成り込むという進展。乱暴な攻め方にも思えましたが,いい勝負になっていました。
                                     
 後手が2日目の昼食休憩も挟んで3時間11分の大長考で桂馬を打った局面。ここでの大長考はどうやら芳しい展開がなかったからだったようです。第1図は7二にいた玉を後手が引き,先手が4五に歩を打ったところで生じたのですが,玉を引いたのがよくなく,銀を9三に上がって壁型を解消しておけば,まだいい勝負が続いていたようです。
 角取りですから逃げるのが第一候補で,それでも先手はやれていたようです。しかし58分の考慮時間で☗4二同角成と踏み込みました。これだと☖同金☗4四歩までは必然です。
 先手が長考したのはここで☖1九角と打つ手があるからです。これには☗4七王の一手で,☖4六歩が打ち歩詰めのために逃れている形。この変化が大丈夫と読み切るのに要したのが58分だったということでしょう。
 ☖9九龍が詰めろ飛車取りですが☗3七歩と角道を遮断。☖8八龍と飛車を取れるのですがそれは☖4三歩成で先手の上部も手厚くなる形。なので☖5一香と角に働きかけたのですが☗4三歩成☖5四香☗4二とと進めて先手の勝勢になっています。
                                     
 第2図から後手は☖9三銀と上がったのですが,これは☖7一王が不発に終わった形。先に☖9三銀なら難しかったであろうことはここからも理解できます。
 久保王将が勝って2勝1敗。第四局は19日と20日です。

 第三部定理九備考でいわれている事柄は万人に妥当します。善悪は真偽と異なり,永遠aeterunusで普遍的な概念notioではないからです。同時に,これによってなぜ僕たちが善bonumとみなしていたものを悪malumとみなすようになったり,逆に悪とみなしていたことを善とみなすようになったりすることが生じるかも分かるでしょう。人間の欲望cupiditasはその場その場によって変じるものであるからです。つまり,あるときにはAを欲望し,また別のときにはBを欲望するということがあります。このとき,AとBが相反するものであるなら,善とみなされていたAが悪とみなされ,悪とみなされていたBが善とみなされるようになるのです。原子力発電所は事故を起こせば危険である悪とみなしていた人が,運転されれば長期間にわたって事故を起こさず恩恵を受けるがゆえに善とみなすようになり,しかし一度でも事故を起こすとやはり危険であったという思いからまた悪とみなすようになるのは,その人間の欲望の変化に応じて対象である原発に対する善悪の評価が変じているのです。
 自由の人homo liberはこうした変化が起こり得るということ,すなわち善悪は真偽とは無関係であるということをしっかりと理解しています。とりわけ,自分自身の欲望すなわち善悪の規準について理解しています。ですから自身が善とみなすものが真verumであり,悪とみなすものが偽であるというような思い込みをすることはありません。ところが真理veritasの規範を見失う無知の人は,このことに自覚的ではありません。とりわけ自分自身の欲望が善悪の判断規準になっているということを見失ってしまうので,自身が善と判断するところのものを真であるとみなし,悪であると判断するところのものを偽とみなしてしまうことが起こり得るのです。したがって,スピノザは万人に妥当するように,人間は希求するところのものを善とみなし,忌避するところのものを悪とみなすといったのですが,同時に,人間には自分が希求するものを真とみなし,忌避するものを偽とみなすような傾向,危険な傾向があるということもまた事実であると僕は思います。とりわけ善悪が真偽より重要だと判断する人には,この危険性が強いのではないでしょうか。

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