5月31日に指された第6期清麗戦挑戦者決定戦。対戦成績は西山朋佳女流三冠が12勝,加藤桃子女流四段が11勝。NHK杯の予選を含んだ成績です。
振駒で加藤女流四段の先手となり,西山女流三冠の角道オープン三間飛車。後手から角を交換して向飛車に進みました。
第1図で後手は☖5三銀と上がりました。先手は☗3六歩。後手が☖5五歩と突いたところで☗3一角と打ち込み,☖3二飛☗5三角成☖同金☗2四歩☖同歩☗同飛の強襲をかけました。
駒損ですが2筋の突破が約束され,先手が優勢に。手順中☗3六歩と突くのが重要なところで,これがないと☖1四角という手筋が成立します。後手としては第1図から☖5三銀~☖5五歩としたのが危険で,☖3五歩とか☖3三桂のような手を指しておくべきだったのではないでしょうか。
加藤女流四段が勝って挑戦者に。清麗戦五番勝負には一昨年以来の出場。第一局は来月10日に指される予定です。
『スピノザー読む人の肖像』でいわれていることと関係ありませんが,ここでスピノザの哲学で思惟作用を表す用語について改めてまとめておくことは徒労ではないでしょう。
第二部定義三説明でスピノザは,事物を概念するconcipereということと事物を知覚するpercipereということの相違を説明しています。この説明では,概念するは精神の能動actio Mentisを意味し,知覚するは精神の受動passioを意味することになっています。よく知られているように,『エチカ』においてもこの用法は遵守されているわけではありません。ただスピノザがこのようにいっているという事情に鑑みて,このブログの中では,精神が能動によって事物を認識するcognoscere場合は概念するといい,精神が受動によって事物を認識する場合には知覚するといういい方をします。僕が単に認識するという場合は,どちらの場合も含むときか,そうでなければそれが精神の能動であるか受動であるかをとくに重視しないという場合です。また,知覚するはともかく疑念するは日本語ではあまり使われることがありませんから,僕はそれを単に考えるconcipereということがあります。僕が考えるというときはそれは概念するという意味なのであって,精神が何かを知覚するときには考えるといういい方はしないという点に気を付けてください。
思惟作用に限らず,僕はすべての作用は作用するものの能動であるか受動であるかのどちらかであって,能動でも受動でもない作用はないと考えます。このことはとくに思惟作用に留意すれば第三部定理一から明らかです。この定理Propositioから,もし能動でも受動でもない思惟作用が生じるとすれば,十全な観念idea adaequataでも混乱した観念idea inadaequataでもない何らかの観念があるということが帰結します。しかしそのような観念は存在しません。つまりあらゆる思惟作用は精神の能動であるか受動であるかのどちらかなのであって,要するにそれは,すべての思惟作用は概念conceptusであるか知覚perceptioであるかのどちらかであるということになります。よって僕はすべての思惟作用は,精神が事物を概念するという思惟作用と,精神が事物を知覚するという思惟作用の二種類に分類することができると考えますし,その考えの下に思惟作用に関する語を使用します。
振駒で加藤女流四段の先手となり,西山女流三冠の角道オープン三間飛車。後手から角を交換して向飛車に進みました。
第1図で後手は☖5三銀と上がりました。先手は☗3六歩。後手が☖5五歩と突いたところで☗3一角と打ち込み,☖3二飛☗5三角成☖同金☗2四歩☖同歩☗同飛の強襲をかけました。
駒損ですが2筋の突破が約束され,先手が優勢に。手順中☗3六歩と突くのが重要なところで,これがないと☖1四角という手筋が成立します。後手としては第1図から☖5三銀~☖5五歩としたのが危険で,☖3五歩とか☖3三桂のような手を指しておくべきだったのではないでしょうか。
加藤女流四段が勝って挑戦者に。清麗戦五番勝負には一昨年以来の出場。第一局は来月10日に指される予定です。
『スピノザー読む人の肖像』でいわれていることと関係ありませんが,ここでスピノザの哲学で思惟作用を表す用語について改めてまとめておくことは徒労ではないでしょう。
第二部定義三説明でスピノザは,事物を概念するconcipereということと事物を知覚するpercipereということの相違を説明しています。この説明では,概念するは精神の能動actio Mentisを意味し,知覚するは精神の受動passioを意味することになっています。よく知られているように,『エチカ』においてもこの用法は遵守されているわけではありません。ただスピノザがこのようにいっているという事情に鑑みて,このブログの中では,精神が能動によって事物を認識するcognoscere場合は概念するといい,精神が受動によって事物を認識する場合には知覚するといういい方をします。僕が単に認識するという場合は,どちらの場合も含むときか,そうでなければそれが精神の能動であるか受動であるかをとくに重視しないという場合です。また,知覚するはともかく疑念するは日本語ではあまり使われることがありませんから,僕はそれを単に考えるconcipereということがあります。僕が考えるというときはそれは概念するという意味なのであって,精神が何かを知覚するときには考えるといういい方はしないという点に気を付けてください。
思惟作用に限らず,僕はすべての作用は作用するものの能動であるか受動であるかのどちらかであって,能動でも受動でもない作用はないと考えます。このことはとくに思惟作用に留意すれば第三部定理一から明らかです。この定理Propositioから,もし能動でも受動でもない思惟作用が生じるとすれば,十全な観念idea adaequataでも混乱した観念idea inadaequataでもない何らかの観念があるということが帰結します。しかしそのような観念は存在しません。つまりあらゆる思惟作用は精神の能動であるか受動であるかのどちらかなのであって,要するにそれは,すべての思惟作用は概念conceptusであるか知覚perceptioであるかのどちらかであるということになります。よって僕はすべての思惟作用は,精神が事物を概念するという思惟作用と,精神が事物を知覚するという思惟作用の二種類に分類することができると考えますし,その考えの下に思惟作用に関する語を使用します。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます