スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋士の勝負哲学&国家の合倫理性

2023-06-23 19:23:01 | 将棋トピック
 『透明の棋士』の著者である北野新太の,「報知新聞の北野です」と同様に.棋士の記者会見でよく耳にするのが「朝日新聞の村瀬です」というフレーズです。北野が朝日新聞に転職したことによって,このふたりは現在は同僚になっています。その村瀬信也の著書が『棋士の勝負哲学』です。
                                        
 昨年1月に幻冬舎から出版されました。僕がもっているのは第二刷ですが,1月25日に発行されたものが2月10日に増刷されていますから,発売直後の時点で当初の見込みより好調な売れ行きだったということでしょう。
 村瀬が21人の棋士について記したもの。6つの章に分けられています。
 第1章は「藤井聡太という天才棋士の異次元の強さ」で,この章は藤井聡太竜王・名人だけです。
 第2章は「最強棋士だけに見える前人未到の世界」。ここは渡辺明名人と羽生善治九段のふたり。
 第3章は「時代を築いたトップ棋士の新たな戦い」。佐藤康光九段,森内俊之九段,谷川浩司十七世名人の3人です。
 第4章は「勝負師たちの苦悩と矜持」。木村一基九段,藤井猛九段,先崎学九段,深浦康市九段,久保利明九段,山崎隆之八段の6人です。
 第5章は「若き将棋指しの不屈の闘志」。豊島将之九段,永瀬拓矢王座,佐藤天彦九段,広瀬章人八段,斎藤慎太郎八段,佐々木勇気八段の6人と里見香奈白玲の7人です。
 第6章は「語り継がれるレジェンドの勝負哲学」。米長邦雄永世棋聖と加藤一二三九段のふたりです。
 この21人は,村瀬自身が日々の取材をする中で,とくに書きたいと感じて選抜されています。もともとは連載コラムをまとめたもので,そのコラムのための取材もされています。著書はそのコラムにさらに手が加えられています。

 国家Civitasにとって合倫理的であるということが何を意味するのかといえば,国家を構成する市民Civesが融和することによって,あたかも国家が個物res singularis,第二部定義七でいわれている,多数の個体がすべてある結果effectusに対する原因causaとして,個々の活動actioにおいて協力するような個物になるということです。現実的にはこのことはきわめて困難なことといわなければなりませんが,国家の最高権力者の合倫理性は,国家がこの方向へと進むことを目指すことにあるのであって,これに反するようなことは非倫理的といわなければなりません。そこで,もしも国家の最高権力者が,自分の子どもへの愛amorのゆえにその子どもを権力の中枢に抜擢するということがあるとすれば,それは国家を構成する市民の一致や融和を齎すよりは,亀裂とかあるいは最高権力者自身への政治的信頼の失墜という方向へ向かわせるでしょう。よってこのようなことをする最高権力者は,子どもを愛するという意味では合倫理的であったとしても,国家の最高権力者として合倫理的であるかといえばそういうわけではなく,むしろ非倫理的であるといわなければならないのです。ですから,僕は愛は一般的に合倫理的な感情affectusであるといいますが,個別の愛によって個別の人間に対して親切をなす人間が,全面的に合倫理的であるということを肯定しているわけではなく,その人間のその個別の愛だけでなくその他の事情を考慮すれば,その人間自身は非倫理的であるという場合があるということは認めます。
 僕はここで具体的事例として示した例を,この最高権力者Aの,子どもであるBに対する愛が,市民に対する愛を抑制ないしは除去するという仕方で解します。少なくともAのBに対する愛が,Aの市民に対する愛と同じ程度であるならば,Bに対しても市民に対しても同じだけの親切をなそうとするのですから,Bだけを権力の中枢に抜擢するということは生じ得ない筈だからです。もちろんAは,当初から市民に対する愛を有していなかったという場合がないわけではないのであって,僕の解釈は一面的であるかもしれませんが,たとえその場合であっても,Bに対する愛が市民に対する愛を抑制していることは間違いありません。

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