スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑲-2&単独の事象

2023-06-22 19:32:01 | ポカと妙手etc
 第92期棋聖戦五番勝負第三局を採用する理由についてはで説明しましたので,今回から本格的にこの一局を考えていきます。
 実はこの将棋は,このブログで取り上げた以前の局面から,非常に難解で,そのゆえに考えるのが楽しい将棋でした。指されてからかなりの時間が経過しましたので,ここでは取り上げていない局面から始めていきます。あまり遡っても仕方がありませんから,第1図から始めることにします。
                                     
 銀取りになっていますが,たとえば☗5七銀などと逃げると,☖5五角と出る筋が生じてしまいます。なので先手は☗2二飛成☖同金と取って☗5四歩と取り込んでいきました。
                                     
 後手の手番ですが,先手からは☗3一角と☗4四角というふたつの狙いがあって,後手はそれを受けることはできません。また☖3九飛と王手をする手はあるものの,☗5九桂と受けておけば先手玉が簡単に詰むという局面にはなりません。なので第2図のように進めて先手は勝ちであると判断していました。
 実際はこの判断は誤りで,第2図は後手が勝ちになっています。

 説明を容易に理解してもらうために,ここまでは高慢superbiaを経由した愛amorについて考察してきました。それによって,個別の愛のゆえに個別の親切をなしたとき,それは個別的には合倫理的であるけれど,その個別の親切をなしている人間が全面的に合倫理的であるといえるわけではないということは納得してもらえたのではないかと思います。そしてこうしたことは,別に高慢という,それ自体で非倫理的といえるような感情affectusを経由せずとも,単に個別の愛だけを抽出した場合でも成立することがあります。そうした具体例をひとつ呈示しておきましょう。
 ある国家Civitasが存在して,その国家の最高権力者であるAが現実的に存在すると仮定します。そのAが自身の子どもBへの愛のゆえに,Bを権力の中枢に抜擢するとしましょう。このとき,AのBに対する愛は,理性ratioに従っているがゆえに生じる愛ではなく,受動的な愛であるということは明白です。なぜなら,権力の中枢にある人物を抜擢するのであれば,抜擢する人物の能力potentiaを図るべきであって,もしもAが理性に従っているなら,つまり有徳的であるのならそのような仕方で人選することになりますが,ここでは愛のゆえに抜擢するという仮定になっていますから,この愛は受動的な愛なのです。
 AはBに対する愛のゆえにBを権力の中枢に抜擢するという親切をなしました。この個別の親切はBに対しては合倫理的であると僕はいいます。いい換えればAのBに対する愛は合倫理的であるといいます。これは一般に,現実的に存在する人間が隣人を愛することは合倫理的であるということの一部ですし,あるいはもう少し狭く,一般的に親が子どもを愛することは合倫理的であるということの一部です。ですから,AがBを愛し,Bを権力の中枢に抜擢するという個別の親切だけを抽出すれば,僕はAが合倫理的であるということを否定しません。
 しかし,だからAが国家の最高権力者として合倫理的であるといえるかといえば,そうではありません。このことはたぶんここまでの論述からほとんどの人が納得するところだと思います。ただ,なぜそのようにいうことができるのかということについても,論理的に説明します。

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