スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ヒューリック杯棋聖戦&合倫理的な人間

2023-06-24 19:18:25 | 将棋
 淡路島で指された昨日の第94期棋聖戦五番勝負第二局。
 佐々木大地七段の先手で相掛り。中盤で先手が有利になりましたが,一失あったために終盤は後手の藤井聡太棋聖が勝ちの局面になりました。
                                        
 この局面は後手玉が詰めろになっていません。なので後手が先手玉に王手か詰めろの連続で迫っていくことができれば後手が勝ちます。
 ☖7六歩☗8六玉☖7八龍という手順で迫りました。☗同銀なら先手玉が詰みますので,これは条件を満たしているようにみえます。ところが☗5五角という返し技がありました。
                                        
 これは王手になっているので後手は対応しなければなりません。☖同銀が普通の手で実戦もそう指されましたが,その瞬間は先手玉への詰めろが解除されているため,今度は先手が王手か詰めろの連続で迫っていけば勝ちという局面になり,逆転しました。第1図は☖7五銀打としておくのが安全でしたし,☖7八龍では☖7三桂としておけば後手の勝ちでした。
 佐々木七段が勝って1勝1敗。第三局は来月3日に指される予定です。

 XのAに対する愛amorが,XのBに対する愛によって抑制されたり除去されたりすることがあるとしても,愛が一般的に合倫理的な感情affectusであるということには影響しません。XはAに対する愛によってAに対して個別の親切をなし,同様にBに対する愛によってはBに対する個別の親切をなすからです。しかし,だからXが一般的に合倫理的な人間であるということを意味するのではありません。つまり,愛が一般的に合倫理的な感情であるということと,他人を愛する人間が一般的に合倫理的な人間であるということは異なります。愛は個別の感情の集積として合倫理的であるといわれるのですが,人間はある個別の愛あるいは個別の親切だけで合倫理的であるといわれるわけではないのです。ここでひとつの事例として示した国家Civitasの最高権力者の場合のように,自分の子どもに対する愛のゆえに市民Civesに対する愛を抑制したり除去したりするということがあるとすれば,その最高権力者は単に有徳的ではないといわれるだけでなく,合倫理的ではないあるいは非倫理的な最高権力者であるといわれなければならないでしょう。
 なおこのことは,合倫理的であるといわれ得るすべての感情について妥当します。この考察では愛のほかに憐憫commiseratioについてもそれは一般的に合倫理的な感情であるといいましたが,どのような感情であってもそれは個別の感情ですから,XのAに対する憐憫がBに対する憐憫を抑制したり除去したりするということはあり得ますし,XのAに対する憐憫がBに対する愛を抑制したり除去したりするということも起こり得ます。憐憫は悲しみtristitiaの一種ですから,憐憫を感じる時点でその人間は有徳的であるということはできないのですが,憐憫を感じたからといってその人間が全面的に合倫理的であるということができるというわけでもありません。憐憫が合倫理的であるといわれるのも個別の憐憫の集積としてそのようにいわれるのに対し,憐憫を感じる人間について合倫理的であるかそうでないかを決定するのは,個別の憐憫だけでそのようにいわれるわけではないからです。
 『はじめてのスピノザ』に関連する考察はこれで終了します。明日からは日記に戻ります。

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