あほう鳥②の中で,この楽曲にはことば遊びが取り入れられているということを示しました。こういったことば遊びとは別に,歌には音の遊びというものがあると僕は感じています。意図して作られているのかどうかは定かではないのですが,歌詞というのはメロディーに乗せて歌われるものなので,それがメロディーと合致することによって,心地よく聞こえたり,気持ちよく歌えたりすることが生じます。この感じ方は人それぞれの筈で,万人に妥当するということはないのですが,僕が感じているところをふたつほど書いてみます。
「鳥になって」には次のような一節がありました。
子供の国へ 帰れるくらい
これはメロディー上は,子供の,国へ,帰れる,くらい,という4つのパートに分けられます。その4つがいずれもカ行で始まっています。このカ行が無声音で歌われるとき,僕はとても美しさを感じるのです。
初期の楽曲に「五才の頃」というのがあります。いつつの頃,と読みます。この楽曲に次の一節があります。
時は流れ過ぎて 大人になって
涙流しながら 泣けなくなった
これは漢字とひらがなが入った歌詞を読むだけでは分からないかもしれませんが,「な」という音が異様に多く出現しています。口に出して読めば分かると思います。この「な」の多さによって,メロディーに乗せて歌うとき,一種の快感を得ることが僕にはできるのです。
数学には数列の稠密性に対する考え方の相違があります。数列が稠密でないとすると,ある数とある数の間に空虚が存在することになります。僕は数学に詳しくないので的外れな見解opinioかもしれませんが,これでみると集合論は数列の稠密性を否定する数学の一種か,そうでなくともそういう考え方をする数学理論と相性がいいのかもしれません。
ゼノンの逆説の発端は,数列が稠密であるとすると様ざまな矛盾が生じてしまうという点にあります。僕がかつて重点的に考察した,アキレスは亀に追いつくことができないという逆説も,数列は稠密であるとする考え方から生じたものでした。いい換えればゼノンは,数列は稠密ではないと主張したかったことになりますから,この考え方は集合論者に受け入れやすい考え方かもしれません。スピノザはそれに対して,この矛盾は数列が稠密であるがゆえに発生してしまう矛盾なのではなく,自身でそれに気が付いていたかどうかとは別に,ゼノンが運動motusは静止quiesの集積であるという認識cognitioを有していたから発生する矛盾であると主張し,運動しているものは静止していないといって,数列は稠密であることを正当化したのでした。つまりスピノザの哲学は,これは空虚の存在を否定するのですから当然そうなるのですが,数列の稠密性については肯定するのです。もし集合論が数列の稠密性を否定するような理論を内包しているなら,あるいはそれを内包させていなければ成立しないような理論であるなら,この点でもスピノザの哲学と対立的であることになるでしょう。
ただ,上野の発言をその文脈から理解すると,僕には空虚の存在を認めるということは集合論の骨格をなす考え方ではなく,いわばその骨格から必然的にnecessario発生してくる性質であるように思えます。スピノザの哲学では本性と特質の間に大きな差があり,集合論が空虚を認める,あるいはそれを必要とするのは,集合論の本性essentiaであるというより集合論の特質proprietasであると僕には考えられるのです。そしてこのときその本性に該当するのが,集合論は外延と内包を含んでいなければならないという点です。そこでこれを本性とした場合にどうなるかについても僕の見解を示します。
「鳥になって」には次のような一節がありました。
子供の国へ 帰れるくらい
これはメロディー上は,子供の,国へ,帰れる,くらい,という4つのパートに分けられます。その4つがいずれもカ行で始まっています。このカ行が無声音で歌われるとき,僕はとても美しさを感じるのです。
初期の楽曲に「五才の頃」というのがあります。いつつの頃,と読みます。この楽曲に次の一節があります。
時は流れ過ぎて 大人になって
涙流しながら 泣けなくなった
これは漢字とひらがなが入った歌詞を読むだけでは分からないかもしれませんが,「な」という音が異様に多く出現しています。口に出して読めば分かると思います。この「な」の多さによって,メロディーに乗せて歌うとき,一種の快感を得ることが僕にはできるのです。
数学には数列の稠密性に対する考え方の相違があります。数列が稠密でないとすると,ある数とある数の間に空虚が存在することになります。僕は数学に詳しくないので的外れな見解opinioかもしれませんが,これでみると集合論は数列の稠密性を否定する数学の一種か,そうでなくともそういう考え方をする数学理論と相性がいいのかもしれません。
ゼノンの逆説の発端は,数列が稠密であるとすると様ざまな矛盾が生じてしまうという点にあります。僕がかつて重点的に考察した,アキレスは亀に追いつくことができないという逆説も,数列は稠密であるとする考え方から生じたものでした。いい換えればゼノンは,数列は稠密ではないと主張したかったことになりますから,この考え方は集合論者に受け入れやすい考え方かもしれません。スピノザはそれに対して,この矛盾は数列が稠密であるがゆえに発生してしまう矛盾なのではなく,自身でそれに気が付いていたかどうかとは別に,ゼノンが運動motusは静止quiesの集積であるという認識cognitioを有していたから発生する矛盾であると主張し,運動しているものは静止していないといって,数列は稠密であることを正当化したのでした。つまりスピノザの哲学は,これは空虚の存在を否定するのですから当然そうなるのですが,数列の稠密性については肯定するのです。もし集合論が数列の稠密性を否定するような理論を内包しているなら,あるいはそれを内包させていなければ成立しないような理論であるなら,この点でもスピノザの哲学と対立的であることになるでしょう。
ただ,上野の発言をその文脈から理解すると,僕には空虚の存在を認めるということは集合論の骨格をなす考え方ではなく,いわばその骨格から必然的にnecessario発生してくる性質であるように思えます。スピノザの哲学では本性と特質の間に大きな差があり,集合論が空虚を認める,あるいはそれを必要とするのは,集合論の本性essentiaであるというより集合論の特質proprietasであると僕には考えられるのです。そしてこのときその本性に該当するのが,集合論は外延と内包を含んでいなければならないという点です。そこでこれを本性とした場合にどうなるかについても僕の見解を示します。
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