『明暗』における夏目漱石のほかの小説との相違において,主要な登場人物が多いということだけでなく,その中に,社会主義者とみられることに喜びを感じるような人物がいるという点も挙げられるのではないかと思います。つまり登場人物の量的側面だけでなく,質的な面においても,『明暗』にはほかの小説と異なった点があると思うのです。
もっとも,社会主義者とみられることに喜びを感じると表現したように,この小林という人物が,僕たちが理解するような意味で社会主義者であるといえるかどうかは微妙なところです。清水忠平氏は『漱石に見る愛のゆくえ』という著書の中で,この小林について,「アナーキストまがいの貧民代表」といっていますが,確かにこの方が,小林という人物の特徴をよくつかんでいるような気はします。
貧民といえるような登場人物に関しては,それまでの漱石の小説の中にも登場していなかったわけではありません。たとえば『それから』の平岡とか,『門』の宗助などは,必ずしも裕福な暮らしを送っているわけではないといえるでしょう。ただ,平岡というのは事業の失敗により生活に困窮するようになったわけですし,宗助も,産まれ自体が貧しかったというわけではありません。しかし小林との最大の相違は,小林というのは確かに貧民の代表であるということ,いい換えれば小林という人物は自分が貧民であるということに自覚的であり,その立場から行動するという点です。
いかに小林自身の口からドストエフスキーに言及する場面があるとはいえ,この点に関しては,漱石とドストエフスキーの関係において,必ずしも漱石が一方的に受けた影響であるとはいえないかもしれません。しかし小林という人物が登場することによって,『明暗』という小説に,ドストエフスキーの小説に似たような匂いが含まれるようになったということは,否定し難いように思えます。
ここまでのことを踏まえて,第二部定理四九系の証明Demonstratioに入ることにします。
第二部定理四九系というからには,これは第二部定理四九からの帰結事項です。なのでまずはそこから証明されるということになります。
「精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も,すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない」。
この定理Propositioが意味しているところは,意志作用volitioというものがあるとすれば,現在は人間に関してのみ考察していますから,もし人間の精神mens humanaの中に何らかの意志作用というものがあるとしたら,それはある観念ideaの中にしかないということです。しかし同時にこれは,もしも人間の精神のうちにある観念が存在するならば,この観念のうちには必ずこの観念の肯定affirmatioないしは否定negatio,すなわち意志作用が含まれているということも意味しています。これは,後で説明しますが,この定理のスピノザによる証明からも明らかです。
ところで知性intellectusとは個々の観念であり,意志voluntasとは個々の意志作用ですから,前述のことを一般的にいえば,意志は知性のうちにあり,知性は必ず意志を含むということになります。いい換えれば知性と意志の相違は,ある思惟の様態cogitandi modiについて,これをどういう観点から説明するか,つまり単純にある思惟の様態を形相的な側面から説明するのか,それともその観念がいかなる肯定ないしは否定を含んでいるのかという側面から説明するのかという相違であるということにほかならず,実際には同一のものであるということになるでしょう。
これが『エチカ』における論理の順序です。しかしここでは第二部定理四九系をこれ単独で経験論的に補強するという主旨を企てていますから,この第二部定理四九からの帰結事項としての証明では少し不備があるといえます。そこで,第二部定理四九系というのを,それ自体で,つまり第二部定理四九には依存しないで証明するということを試みたいと思います。
もっとも,社会主義者とみられることに喜びを感じると表現したように,この小林という人物が,僕たちが理解するような意味で社会主義者であるといえるかどうかは微妙なところです。清水忠平氏は『漱石に見る愛のゆくえ』という著書の中で,この小林について,「アナーキストまがいの貧民代表」といっていますが,確かにこの方が,小林という人物の特徴をよくつかんでいるような気はします。
貧民といえるような登場人物に関しては,それまでの漱石の小説の中にも登場していなかったわけではありません。たとえば『それから』の平岡とか,『門』の宗助などは,必ずしも裕福な暮らしを送っているわけではないといえるでしょう。ただ,平岡というのは事業の失敗により生活に困窮するようになったわけですし,宗助も,産まれ自体が貧しかったというわけではありません。しかし小林との最大の相違は,小林というのは確かに貧民の代表であるということ,いい換えれば小林という人物は自分が貧民であるということに自覚的であり,その立場から行動するという点です。
いかに小林自身の口からドストエフスキーに言及する場面があるとはいえ,この点に関しては,漱石とドストエフスキーの関係において,必ずしも漱石が一方的に受けた影響であるとはいえないかもしれません。しかし小林という人物が登場することによって,『明暗』という小説に,ドストエフスキーの小説に似たような匂いが含まれるようになったということは,否定し難いように思えます。
ここまでのことを踏まえて,第二部定理四九系の証明Demonstratioに入ることにします。
第二部定理四九系というからには,これは第二部定理四九からの帰結事項です。なのでまずはそこから証明されるということになります。
「精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も,すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない」。
この定理Propositioが意味しているところは,意志作用volitioというものがあるとすれば,現在は人間に関してのみ考察していますから,もし人間の精神mens humanaの中に何らかの意志作用というものがあるとしたら,それはある観念ideaの中にしかないということです。しかし同時にこれは,もしも人間の精神のうちにある観念が存在するならば,この観念のうちには必ずこの観念の肯定affirmatioないしは否定negatio,すなわち意志作用が含まれているということも意味しています。これは,後で説明しますが,この定理のスピノザによる証明からも明らかです。
ところで知性intellectusとは個々の観念であり,意志voluntasとは個々の意志作用ですから,前述のことを一般的にいえば,意志は知性のうちにあり,知性は必ず意志を含むということになります。いい換えれば知性と意志の相違は,ある思惟の様態cogitandi modiについて,これをどういう観点から説明するか,つまり単純にある思惟の様態を形相的な側面から説明するのか,それともその観念がいかなる肯定ないしは否定を含んでいるのかという側面から説明するのかという相違であるということにほかならず,実際には同一のものであるということになるでしょう。
これが『エチカ』における論理の順序です。しかしここでは第二部定理四九系をこれ単独で経験論的に補強するという主旨を企てていますから,この第二部定理四九からの帰結事項としての証明では少し不備があるといえます。そこで,第二部定理四九系というのを,それ自体で,つまり第二部定理四九には依存しないで証明するということを試みたいと思います。
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