『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』がフラゼマケルJan Hendrikzen Glazemakerによって早い段階で蘭訳されていたことを窺わせる,スピノザがイエレスJarig Jellesに宛てた書簡四十四の内容をまとめておきます。
1671年2月17日付で出されたもの。イエレス宛なので原書簡はオランダ語で,遺稿集のオランダ語版De Nagelate Schriftenにはそれがそのまま掲載されたとのこと。イエレスは編集者のひとりですから,そうしたことは可能でした。ラテン語版Opera Posthumaは編集者がラテン語訳したもので,スピノザの生前の訳ではないようです。
冒頭部分が『神学・政治論』の蘭訳の出版を阻止するようにとの依頼です。この部分でスピノザがそれは善き知人たちの念願だというとき,僕はその知人をヨハン・デ・ウィットJan de WittやフッデJohann Huddeのような,政治的役職にあった知人であったと解しています。
次に『政治的人間』と題された匿名の著書への書評が書かれています。スピノザはこの本は人間によって考えられ得る最も有害な本と酷評しています。スピノザによればこの匿名の著者にとっての人間の最高の善bonumは金と名誉gloriaで,それを追求する手段が示されているとのことです。僕はこの本の内容は知らないので,書評に関しては何もいえません。ただスピノザがその本をそう解釈したなら,それを酷評するのは哲学的にいって当然だということは分かります。
最後にこの酷評と関連して,ミレツスのターレスという紀元前のギリシャの哲学者の逸話が紹介されています。ターレスは自分のような賢者が富を所有しないのは,それが不可能だからではなくそうしたくないからだとし,それが正しいということを示すために,富を所有してみせました。不可能ではないことを実証したターレスは,その利益を人びとと分配したというのがこの逸話のおおよその内容です。これが『政治的人間』に対する批判になっているのは明白といえるでしょう。
第二部定義二と第一部公理六から分かるのは,真の観念idea veraすなわち十全な観念idea adaequataは,その観念の対象ideatumとなっている事物の本性essentiaと一致するということです。したがって一般にXの本性とXの十全な観念というのは同じものであるといえます。観念はいうまでもなく思惟の様態cogitandi modiですから,僕たちはXの本性を認識するcognoscereことによってのみXの本性を知ることができます。ですから僕たちの精神mensのうちにXの十全な観念がある,いい換えればXを十全に認識しているということと,僕たちがXの本性を知っているということは同じことを別の角度から述べていることになります。そして僕たちはXの本性をこれ以外の仕方で知ることはできません。このゆえに少なくとも僕たちにとっては,Xの本性とXの十全な観念は同じものである,あるいは同じものとしてしか知られ得ないことになります。
第二部定理一三がいっているのは,人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseを構成する観念の対象はその人間の身体humanum corpusであるということでした。ですからこれでみれば明らかなように,人間の身体の本性というのと,その人間の身体の十全な観念とは実質的に同じものだということになります。第五部定理二二でいわれている観念がこうした観念であるから,第五部定理二三証明ではそれがその人間の精神の本性に属さなければならないとされているのです。つまり人間の身体の本性とはその人間の精神であり,それらの十全な観念というのはその人間の精神のうちにあることはできませんが,神Deusの中にはあることができます。その神の中にある人間の身体の十全な観念すなわちその人間の精神がその人間の身体の本性と同じといえるのですから,一般に人間の本性とその人間の精神とを同一視することができるのです。したがって人間の精神の中の「あるものaliquid」が永遠aeterunusであるとは,その人間の本性が永遠であるという意味なのであって,特権が与えられているのは精神ではなくて本性であるというように僕は解するのです。
ただ,人間の本性と人間の精神が等置できるのであれば,人間の本性に特権が付与されているというのは,人間の精神に特権が与えられているというのと同じだと解さなければならないでしょう。
1671年2月17日付で出されたもの。イエレス宛なので原書簡はオランダ語で,遺稿集のオランダ語版De Nagelate Schriftenにはそれがそのまま掲載されたとのこと。イエレスは編集者のひとりですから,そうしたことは可能でした。ラテン語版Opera Posthumaは編集者がラテン語訳したもので,スピノザの生前の訳ではないようです。
冒頭部分が『神学・政治論』の蘭訳の出版を阻止するようにとの依頼です。この部分でスピノザがそれは善き知人たちの念願だというとき,僕はその知人をヨハン・デ・ウィットJan de WittやフッデJohann Huddeのような,政治的役職にあった知人であったと解しています。
次に『政治的人間』と題された匿名の著書への書評が書かれています。スピノザはこの本は人間によって考えられ得る最も有害な本と酷評しています。スピノザによればこの匿名の著者にとっての人間の最高の善bonumは金と名誉gloriaで,それを追求する手段が示されているとのことです。僕はこの本の内容は知らないので,書評に関しては何もいえません。ただスピノザがその本をそう解釈したなら,それを酷評するのは哲学的にいって当然だということは分かります。
最後にこの酷評と関連して,ミレツスのターレスという紀元前のギリシャの哲学者の逸話が紹介されています。ターレスは自分のような賢者が富を所有しないのは,それが不可能だからではなくそうしたくないからだとし,それが正しいということを示すために,富を所有してみせました。不可能ではないことを実証したターレスは,その利益を人びとと分配したというのがこの逸話のおおよその内容です。これが『政治的人間』に対する批判になっているのは明白といえるでしょう。
第二部定義二と第一部公理六から分かるのは,真の観念idea veraすなわち十全な観念idea adaequataは,その観念の対象ideatumとなっている事物の本性essentiaと一致するということです。したがって一般にXの本性とXの十全な観念というのは同じものであるといえます。観念はいうまでもなく思惟の様態cogitandi modiですから,僕たちはXの本性を認識するcognoscereことによってのみXの本性を知ることができます。ですから僕たちの精神mensのうちにXの十全な観念がある,いい換えればXを十全に認識しているということと,僕たちがXの本性を知っているということは同じことを別の角度から述べていることになります。そして僕たちはXの本性をこれ以外の仕方で知ることはできません。このゆえに少なくとも僕たちにとっては,Xの本性とXの十全な観念は同じものである,あるいは同じものとしてしか知られ得ないことになります。
第二部定理一三がいっているのは,人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseを構成する観念の対象はその人間の身体humanum corpusであるということでした。ですからこれでみれば明らかなように,人間の身体の本性というのと,その人間の身体の十全な観念とは実質的に同じものだということになります。第五部定理二二でいわれている観念がこうした観念であるから,第五部定理二三証明ではそれがその人間の精神の本性に属さなければならないとされているのです。つまり人間の身体の本性とはその人間の精神であり,それらの十全な観念というのはその人間の精神のうちにあることはできませんが,神Deusの中にはあることができます。その神の中にある人間の身体の十全な観念すなわちその人間の精神がその人間の身体の本性と同じといえるのですから,一般に人間の本性とその人間の精神とを同一視することができるのです。したがって人間の精神の中の「あるものaliquid」が永遠aeterunusであるとは,その人間の本性が永遠であるという意味なのであって,特権が与えられているのは精神ではなくて本性であるというように僕は解するのです。
ただ,人間の本性と人間の精神が等置できるのであれば,人間の本性に特権が付与されているというのは,人間の精神に特権が与えられているというのと同じだと解さなければならないでしょう。
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