「一九四六」神戸展
画・江嵜 健一郎
「一九四六」神戸展が、王子動物園と道一つ隔てたところにある「原田の森ギャラリー」で開催、最終日、9月4日、午後訪れた。魯迅美術学院、王希奇教授(62)が中国東北部から船に乗る日本人難民の様子を描いた大作「一九四六」の前で会場の様子をスケッチした。
王希奇先生は会場で配布された挨拶文の中で「私は11年前に偶然にも、「遺骨を抱いた男装の少女」の写真に惹かれ「一九四六」を構想し創作を始めました。あの戦争で,加害者と被害者という異なる二つの境遇を一身に強いられた日本人について考えました。敗戦直後の引揚の歴史的事実を、縦3m横20mの絵画「一九四六」シリーズで描きました。戦争の悲惨さと平和の大切さ、命の尊さを伝えようと思ったからです。5年半の歳月を掛け、2016年に完成させることが出来ました。」とあった。
上記の「遺骨を抱いた男装の少女」は大作「一九四六」の中心部下に描かれていた。150万が満州に渡ったが日本に帰ることが出来なかった人は50万人近い。残留日本人や集団自決したなどと会場のパネルで紹介されていた。
同じく会場展示資料の中に、昭和18年(1943)5月に神戸市がまとめた満州開拓団応募要項が展示されていた。「渡航費は無償。必要経費は倍額支給。現地での開拓には家畜その他を無償で用意する」などの好条件が列記されていた。
1942年6月に太平洋戦争のターニングポイントと言われるミッドウエイ海戦で空母4隻を失うなど壊滅的被害を日本海軍は既に受けていた。ところが大本営発表では勝った勝ったまた勝ったと今でいうフエイクニュースが連日報道されていたと伝えられる。
1945年8月8日、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄、対日宣戦布告、満州の残留邦人含め多くの日本人に犠牲者が出た。満州移住日本人を最後まで守ると約束していた日本軍の姿はなかったと伝えられる。
「一九四六」の絵に戻る。会場で配布された資料の解説によれば「絵画には米国と日本船舶が4隻描かれている。右奥の島の先端に停泊している船舶に乗り込もうとして、船の階段を登る邦人難民を目にすることが出来る。手前の2隻の船舶へは乗り込みが終わり,これから出航するのでしょうか?満州からの邦人引き揚げに、米国が提供したLST輸送船85隻、リバティ輸送船100隻、病院船6隻。」とあった。
太平洋戦争に日本が負けて77年経過した。今年2022年は日中国交正常化50周年の年に当たる。「一九四六」展は2017年9月に東京、あと舞鶴、宮城、高知と来て神戸展を迎えた。
会場には「満州から1歳半で帰国した。自分も大作「一九四六」に描かれているに違いないと思う」と語る歌手の加藤登紀子さんのニューアルバムの曲が静かに流れていた。(了)