このところ、青少年会館の存続問題だけにとどまらず、今の大阪市の市政改革のあり方を考えるために、新書本サイズのものばかりですが、経営学関係の本を読むことが増えました。そのなかの一つ、三品和広『経営戦略を問いなおす』(ちくま新書)を読んだときに、「ハッ」とさせられた点がいくつかありました。「そうだ、市政改革に企業的な経営の視点を導入するといっても、その経営の視点はいろいろありうるのではないか?」ということに気づかされたのです。以下、同書から思いつくままに、面白かった点を挙げてみましょう。
まず、経営戦略の「コンテクスト依存性」(p.53)という点、これがまず面白かった。つまり、「経済や社会の状況、技術やインフラ、人口構成や法体系、そういう外部要因」(p.53)に囲まれて存在する以上、企業はこのような外部要因(これがコンテクスト)にさまざまな制約を受ける、ということ。だから、ある企業でうまくいった手法が、そのコンテクストの異なる別の企業で通用するかどうかはわからない、ということになりますね。これを市政運営にスライドさせれば、「他の政令指定都市でうまくいった改革手法を大阪市にもってきたからといって、本当にうまくいくかどうか?」ということになりますね。
それから、経営戦略は「アナリシス(分析)の発想」(p.60)とは相容れない、ということ。これも面白かった。というのも、著者の主張を私なりにまとめると、経営にかかわる個別の要素をどう統合して方針を提示するかが「経営戦略」であり、予算や決算の分析という視点とは異なるからだ、ということですね。となると、財政上の諸問題を解決するために大阪市の予算・決算関係の書類を見ることは一定必要でしょうが、問題は「それを見て、どういう方針を決定するのか?」という次元にある、ということになりますね。
また、経営戦略がどこにあるかといえば、「経営者の頭の中です。組織や文書に戦略が宿るということなど、ありえません」(p.132)とか、「大企業ともなれば、どこにも『経営企画』を名乗る部署があります。そこが立派な資料を作成して、戦略の全社的な共有を図ります。(中略)これらを、戦略と勘違いしてはいけません。そこにあるのは、戦略の入り口にある分析だけです」(p.132)という著者のコメントも、なかなか面白かった。これを読んだら、「市政改革マニュフェスト」や各種の帳票づくりに一生懸命励んでいる大阪市職員は、どう思うでしょうか? この本の著者の論理からすると、書類ばかり増えても、改革がうまくいくとは限らない、その書類を読んで市長以下の上層部がどういう方針を打ち出すかが大事だ、ということになりますよね。
さらには、この本の著者は、経営戦略について、「ある時点で誰かに『つくる』という作業を委託すれば、それは走る列車から途中下車するに等しいため、どんなアウトプットも『作文』に終わることを避けられません。タマが飛んでくるところでしか、戦略はできないのです」(p.135)ともいいますね。となれば、大阪市長は批判や非難の声が矢のように飛んでくるところでしか、市政の経営戦略は練られないはずで、それを外部委員に頼んでいるようじゃダメだわ、ということにもなりかねませんよね。
ついでに、この本の著者は、経営戦略は「世界観」や「人間観」「歴史観」などの「観」にもとづくもので、その土台が「教養」と「経験」ということも言います。となってくると、市長以下の市政の上層部が、どういう「教養」と「経験」にもとづいて、今の大阪市政の状況をみて、どんな方針を立てるかが大事だ、ということになりますね。
そして、この本の著者は、「最近は、リエンジニアリングだの、アウトソースだの、ビジネス・モデルだの、テクニカルな手法の流行が目立ちます。(中略)その程度の手法や仕組みや仕掛けで、会社が本当に変わると思いますか。変わるはずなどないでしょう」(p.211)ということもいいますね。また、「創業の理念」とか「社員の気風」といった、企業で働く人々の持つ「知的精神文化遺産」(p.212)に注目することの大事さも説いています。となってくると、実は「今の大阪市政の改革においても、最も大事にすべきなのは市職員の間で蓄積されている各種のノウハウだ」という見方だってできなくもないですよね。
これまでもどこかでいったかもしれませんが、基本的に「企業経営と市政運営は別物」と考えてきたのが、私の立場です。ただそれでも、「企業経営の論理を大阪市の市政運営に導入する」という形で今の市政改革を推進するのであれば、その「企業経営の論理だって、実はひとつではなく、いろんな筋道があるのではないか」と言いたくなりますね。そして、この本の著者のいうような「経営戦略」に対する考え方であれば、市政運営に多少なりとも反映できる部分はあるように感じましたね。