できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

1881年「開拓使官有物払下げ」事件

2006-10-22 18:54:10 | いま・むかし

今日は青少年会館条例「廃止」の問題を少し離れた話題を先に2つ書き込みましたが、これも同じです。ただし、大阪市の市政改革にかかわるテーマであることは、先の2つと同じです。

さて、大阪市の市政改革のキーパーソンともいえるある人が、その市政改革プランに関連して「平成の払い下げ」という言葉を連呼しています。これはおそらく、先の「タケノコ生活」の話ではありませんが、例えば大阪市が持っている財産のうちで民間に売却できるものを売ったり、あるいは、大阪市の行っている事業のなかで民間(これはたぶん、企業もしくはNPOなどだと思いますが)にゆだねることが適当なものはそっちにゆだねる、ということを考えているのでしょう。

ですが、「払い下げ」という言葉を聞いて、「そういえば、こんなこともあったな~」と、高校日本史のある授業の内容を思い出しました。1881(明治14)年におきた、北海道開拓使の「官有物払い下げ事件」です。以下、私の手元にある『角川日本史辞典(第二版)』(角川書店、1974年)から、「開拓使官有物払下げ事件」の項目を引用しておきます。

<以下、『角川日本史辞典(第二版)』からの引用>

かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん 開拓使官有物払下げ事件

 1881(明治14)北海道開拓使がその官有物を民間に払下げようとした時に、世論の反対を受けて取りやめた事件。明治維新後、政府は北海道開拓に1400万円を投じたが、10年計画の満期にあたって、開拓長官黒田清隆は、これを38万円余で、同郷(薩摩)の五代友厚らの関西貿易商会に無利息30か年賦で払い下げようとした。これに対して、参議大隈重信や民間の自由民権派から激しい抗議がおこり、伊藤博文ら政府首脳は払下げを取り消すと同時に、自由民権はを孤立させ弾圧すべく、大隈ら政府部内の反対派を罷免する明治14年の政変を断行、同時に国会開設詔勅を発布した。

<引用おわり>

これを読んで、どう思いますか? 私などは「いわゆる官有物件等の払い下げって、過去の歴史上、自分たちの有力支持者への新たな利権誘導の方法だったのかな」なんてことを思ってしまいますね。たぶん、そうならないように、今の市政改革を推進している人々は、「平成の払い下げ」は「入札制度」などルールに則って、ということを考えているのかもしれませんがね。しかし、過去の公共事業の「入札」にだって「談合」などもあったわけですから、はたして、改革推進派の思っているとおりにいくのかどうか・・・・?


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ここをどう考えるのか?

2006-10-22 17:51:25 | ニュース

続いて、もうひとつ、青少年会館条例「廃止」に関連する問題とは別に、大阪市の市政改革全般に関するニュースから。

これも昨日か今日かの新聞記事あたりで、市政改革推進会議のメンバーが市職員の削減数をさらに上乗せして、どこかの市と同水準にまで持っていくよう提案したとか言ってますね。

これについても、私などは「こういう提案をする人たちって、例えば正規の市職員を削ったあとに、有期雇用契約の嘱託や非常勤の職員を入れなければまわらないような、そんな市政の現場だってあるはず」ということを言いたいです。

大阪市役所として、住民に対してある一定水準のサービスを提供する責任を法的に負っているのであれば、その責任を果たすために、一定数の職員配置は必要不可欠です。したがって、人員削減を乱暴にやりすぎてしまえば、住民に対する一定水準のサービス保障に職員数の面から穴が出てきますし、その穴を埋めるためには、別の雇用形態で不足する職員を補充しなければまわらなくなります。

逆にいえば、一定水準のサービス保障を最優先して職員数をキープしつつ、別のところでの財政削減を行うという、そういう行財政改革案が可能なはずです。要するに、行財政改革というのは、「ただ市職員のアタマ数だけ減らせばいいってものでもない」ということではないのか、ということです。

もっと具体的にいえば、「こういう職員数であれば、こういう施策を実施し、こんなところまで住民サービス保障ができます。しかし、経費がこのぐらいかかって、そのうちの何割を住民税で負担しなければできません」ということを、大阪市民にきっちり説明して、それでも住民側が「高サービス・高負担をとる」というのであれば、それもひとつの住民の選択だ、ということです。自分たちの生活の快適さや便利さのために、一定額の税金を支出するのだということであれば、それなりに納得もできるでしょう。

しかしながら、今の市政改革は、やたらと手法の部分と帳簿上の数字のことばかり議論をしていて、「その結果、住民サービスは具体的にどうなるのか?」ということに対する説明が、あまり十分にできていないような気がしています。このへんについて、私は大変、今の市政改革の進め方について疑問を感じますね。マスメディアはぜひ、ここをつついてほしいです。


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タケノコ生活か、「焼け石に水」か

2006-10-22 17:35:40 | いま・むかし

少し青少年会館条例の「廃止」方針問題を離れて、今の大阪市政改革全般にかかわる話を。

先日、読売新聞の記事かなにかで、大阪市が外郭団体などに委託している駐車場の管理を、今度から民間に委託する形で入札をしたら、今までの数倍の月額賃料で入札があいついだとか。どちらかというと、新聞記事は好意的な書きかたで、「だから官から民への移管が大事なんだ」というような論調でしたね。

でも私は、「ふ~ん、だからどうした?」と思います。というのも、これって結局、大阪市の財政破綻回避策として導入されようとしているのだ、という観点から見れば、「あ~、とうとうタケノコ生活をはじめたか」「いや、今となってはこれで多少収益があがったところで、財政状況の好転にどの程度つながるのだろう? もはや焼け石に水では?」と思ってしまうわけです。

よく考えてください。こうやって「官から民へ」と、特に「民」が一定、収益をあげそうな物件などを次々に大阪市の財産から切り売りしていく。名義上は市がもったままの貸し出しならまだしも、切り売りしたら、結果的に「市民の税金で手に入れた財産」を、どんどん「民間のフトコロにまわす」わけですよね。これって「バラマキ型政治」の新たな手法、という見方だってできますし、売ってしまったら結局、「官がますますやせ、民がますます太る」わけですよ。しかもその「民」というのは、個々の市民ではなくて、「民間企業」の「民」ですよ。

そして、この「タケノコ生活」、「民間企業」の「民」が引き取ってくれそうな、売れるものがあるうちはいいですが、売れないものしかもう残っていないということになれば、そこで終わりですね。だからこそ、「これって、もはや焼け石に水では?」と思うわけです。

ついでにいうと、どうもこの間の青少年会館条例の「廃止」問題についても、この「タケノコ生活」の延長を考えているような気がしてなりませんね。跡地の多目的スポーツ施設化とか、そのスポーツ施設の管理運営への公募による指定管理者制度導入とか、いろいろ言っていますが・・・・。


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