今日の草履は、私が作ったものではありません。詳細は後ほど。
今年の五月でしたか、国籍がさまざまな外国人の若者がゾロゾロお越しです。ひとりのお若い女性が集合時刻などを指示し、若者たちは思い思いに散策をはじめました。そのお若い女性がひとり、実演席近くのベンチに腰を下ろしています。ちょっと興味があってお声をかけてみました。
聞いてみると若者たちは秋田市内の大学へ通う学生で、その日は「日本探索」を趣旨に角館散策なんだそうです。そして女性はと言うと、今春都内の大学を卒業したばかりの新米職員さんなんですね。どうりで学生たちと変らない年代に見えたわけです。
出身を訊ねると秋田市内、つまり東京からふるさとへ就職したんですね。女性は言いました。
『こっちから都内の大学へ行った友人が何人もいて、秋田で就職したい人もいたんですけど、思うように就職先が見つからなくて…。私は幸運でした』。
雇用の場が少ないと云われて久しい秋田県、私は女性の言葉を聞きながら頷くしかありませんでした。
今日都内からお越しの男性、昨晩宿泊したホテルで来月のお祭りを聞いたそうです。男性は、『県外に出てる人たちが、お祭りにずいぶん戻って見えるらしいですねぇ』。ほんとにそうなんです、角館に生まれ育った人たちが、たとえお盆に帰らずともお祭りには戻って来るんですね。
私がお返した言葉は、『あの人たちが全員角館で暮らせたらイイんですけどねぇ』。
エッセイ「父親稼業」その二十一に登場している、子ども五人の家族。帰郷して何年かは家族七人で頑張っていましたが、お父さんの収入がいかにも都会との差が大きく、やがてひとり東京へと戻っていきました。いわゆる単身赴任というやつですね。
その後お母さんは五人の子どもの面倒を見ながら、私と共に「はっぴい・マム」の設立に参加したり、別に赤ちゃんサークルの立ち上げなどに尽力しました。
お母さんは私のカミさんと同い年で、互いの子どもも同年代。小学校PTAでは同じ時期に同じ空気を吸い、部活が一緒の子ども送迎では互いに協力したものです。家も近くですからときに一緒に飯を食ったり、よくある家族ぐるみの付き合いが十年近く続いていました。
やがて子どもの成長と共にオヤジの存在が重要になり、『やっぱり一緒に東京で暮らそうと思って…』と言われたのが今年の初めでした。
私は子どもが一定の年齢に達するまで、家族全員が離れないことを「良し」と考えています。お父さんが単身東京へ戻ることを知ったときも、もし家族全員で戻ることを決意したら笑顔で送り出すつもりでした。
ただひとつ、子どもたちを田舎で育てたいとする両親の願いは、私も実によく分かるんです。結果そのときは、お父さんの単身上京となりました。
「今日の草履」は、私のカミさんが十日もかけて少しずつ編んだ草履です。もちろん贈る相手は五人の子どものお母さん、去り行く友へ「友情の草履」なんです。
土踏まずもつかない、形も決して美しくない草履なれど、込められた想いは私が日々編み続ける草履となんら変らない、むしろそれ以上かも知れません。
これでまたお父さんと一緒に暮らすことが出来ます。それはそれで嬉しいことなんですが、悔やまれるのは少ない雇用の場、そして賃金格差でしょうか。今の時代、子ども五人を安定的に育てる経済力は、並大抵ではありません。
東京への出立は明日午前、私は西宮家で草履を編みながら、彼らの健闘を祈りまたこれまでの縁に感謝したいと思います。