ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

吉原十二月(よしわらじゅうにつき)

2011年05月16日 | 読みました

        「なでしこ」 種から育てました どんな色か楽しみでした   (11-5-12)


昨日は『神戸まつり』だったようですね。同じ震災を経験した神戸市からエールを
送ろうと「神戸から愛と元気を」を合言葉に掲げたそうです。東北地方の人たちに
とっても、地震と津波と言う違いはあっても、根本は同じ自然災害で家をなくして、
16年目必死に立ち直った神戸の人からの励ましは特別ではないでしょうか。

100万人を越える人出だったようです。本当にあの荒れ果てた神戸を知っている
私としては、故郷・神戸が頑張って、立ち直ってくれてほんとに嬉しい。東北を故
郷に持つ方々にも、今の私と同じ気持ちになっていただくように、前を見つめて生
かされた命を大切に、一歩一歩前進してください。命ある限り見守っております。


          吉原十二月     松井今朝子

吉原の花魁二人、性格も生き方も対照的な「小夜衣(さよぎぬ)」と「胡蝶(こち
ょう)」のお話です。

廓には色んな催しや仕来りがあります。それを大籬(おおまがき・大店のこと)の
主人舞鶴屋庄右衛門の語り口で書かれています。

花魁にも色んな格があって、小夜衣、胡蝶は「呼出し昼三の花魁」である。これは
お昼のお座敷でも3分金かかるという、最高の花魁。

あの花魁の髪、月に一度しか洗わないそうですよ。なぜなら大きな髷を崩して結い
なおすのは大変だからだそうです。それで皆その日を楽しみにしていて、長い髪は
なかなか乾かないので禿が団扇で扇ぐのですが、そこそこ乾くまで身動きできない
ので、その日は昼見世はやすんで、各人は夕七ッ時(午後4時)から迎えるそうで
すが、その日は気分がいいので、大概の花魁はお馴染みの中でも深間のお相手を
選んで迎えるそうです。

『高き天から見れば、われら人間とて地に湧く蛆虫同然。一寸先は闇の世の中
を、なんだか分かったような顔をして、日々ぞわぞわとうごめいて居るばかりでし
て。いかなる知恵者も天の采配を見抜くことは出来ず、この世に生きる者はみな
天から垂れ下がった糸に引かれる操り人形のように振り回されてしまう。』


上の言葉は廓の世界の浮き沈みを舞鶴屋の主人の呟きなんですが、今の世の中も
同じですね。東日本大震災で使い古された「想定外」と言う言葉を思い出しません
か? 自然災害やそれに端を発する出来事は人間が想定したり、見抜くことなんて
出来ないものなのだ、と言うことです。

遠い昔に在った「廓」のお話、面白かったです。137回芥川賞・直木賞ダブル受
賞の「吉原手引草」を読んで、この本で2冊目です。

松井今朝子さんって、どんな方なんでしょうね? 江戸の吉原の研究家なんでしょ
うか? 興味深々です。

            ☆明日お休みします 






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お疲れ様でした 白井さん!

2011年05月13日 | 今日この頃

            「ニゲラ」 今年もこぼれ種で咲き始めました   (11-5-13)

昨日まで3日間と打って変わって、今日は良いお天気でした。お出かけするのが
決まっていたので、天気予報が当たってくれますようにと祈っておりました。

元尼崎市長白井文さんに感謝、「お疲れ様でした」と言う気持ちを表す、ご町内の
皆さんとの、こじんまりとした「お食事会」でした。市会議員の高濱さんも参加され
て、総勢12人でした。

女の集まりですから、白井さんの今週のテレビのコメンテーターのときのお洋服が、
白井さんのイメージにあっていなかった、と言う話題になりました。

白井さん曰く「今週はテレビ局のお仕着せで、メインキャスター、アシスタント、私と、
トータルファッションになっているのです。サイズは11号ですといっているのに、用
意されているのは何時も9号なんです」あ~それでなんだか腕の付け根辺りが窮屈
そうだな~と感じていたのです。

毎週、自前と言うのも大変ですから、お仕着せも助かる一面、今週のように、似合
わない服装の白井さんを見るのは、私達の方も嫌ですよ。

その点、今日は自前ですから、すっきりと白井さんらしい服装で綺麗でしたよ。

         

国勢に参加するための準備時間ではないかと言う噂が在るようですが「政治活
動は、『市長職』を最後としたいと思います」とはっきり仰いました。

私達の仲間内でも「次は国会議員やね~」と言う方も居ましたが、私は「それはな
いと思うよ、貴女は国会議員が市長より上と思っているの?」「違う?」「私は違う
と思うよ、市長というお役は1職1人、国会議員のように大勢居ないから、重い役
だと思うよ」と会話したことがあります。人によれば、もっとひどい「今度は県会議
員に出られるかもね」と言う人も居ました。

今日のお話を聞いていまして、私の考え方に間違いはなかった。白井さんも同じ思
いで居られるということが分かって、ホッとしました。

10日ほど早かったのですが、今月が白井さんの誕生月と言う事で、バースディケ
ーキをプレゼントしました。その係りが私だったものですから、一寸大人びたケー
キにしたいと思ったことと、お食事処でのお相伴ですから、初めから切り分けてあ
るものをと言う事で「市松模様」のデコレーションケーキを近所のケーキ屋さんで
お願いしました。
     


イチゴのショートケーキとモンブランの生地にちっちゃな金箔の載った2種類のケ
ーキで大人の感じのバースデイケーキが出来上がり、皆さんも喜んでくださいまし
たので、責任が果たせたと一安心でした。

今度は十一月の末に集まることになりました。長~い先、暑さが去って、その先で
すが、その楽しみに向かって体に気をつけてがんばり、その日を迎えたいと思って
います。  
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そうか、もう君はいないのか

2011年05月12日 | 読みました

      「藤」   宝塚・花の道の側で…     (11-4-19)


この3日ほど雨ばかりで嫌になります。でも一寸嬉しいこと?もあったのです。

ガスコンロがとうとう壊れてしまいました。もう何ヶ月かの間にだんだん火の付が
悪くなって、とうとうつかなくなりました。レンジは3つ口ですからあと二つあるので
すが、左を集中して使うものですから、壊れました。

仕方がないので、右を使っていたのですが、隣が壁と言うこともあって、実に使い
にくい、思い切って買い換えることにしました。

ガス・ショップに行きましたら、幸運にも入り口に「ガスレンジ40%引き」と書いて
ありました。

契約をしたのですが、「製品が震災地に重点的に送られる事になっていますので、
入荷次第ご連絡いたします」と言われました。3日後の昨日我家に新しい『ガスレ
ンジ」がやって来ました。

「ガラストップ製品」を購入したので後片付けが簡単で、タイマーも付いているの
で、便利に使えます。「畳」だけではなく、何でも新しいものはいいですね。

オール電化の呼びかけにフラフラとなびこうかと思ったのですが、原発問題が起き
ています。反原発運動が盛り上がるかもしれないと考え、ガスレンジにしました。

オール電化でお客さんを奪われたでしょうガス屋さん、お客が戻ってくるかも知れ
ませんね。ここにも原発問題で得する商売がありました。そんなものですよ世の中
って!

         そうか、もう君はいないのか    城山三郎

このご本は、唱歌の学校の八田さんが貸してくださいました。

城山さんの作品も何冊か読んでいます。この本は題名が示すとおり、なくなった奥
様に話しかけて、「あ~そうだ、もう君はこの世に居ないのだ」と思われた気持ち
をそのまま題名にされたようです。

私は母を亡くした頃の事を思い出しました。母が亡くなってしばらくの間は、何か
嬉しかったり、悲しかったりした時、「帰ってお母さんに話そう!」と一瞬思うので
す、そして「あ~もうお母さんは居ないんだわ」と思ったことが何度もありました。

奥様は容子さんとおっしゃいます。容子さんとの出会いから、結婚、その生活と書
き綴られているのですが、城山さんの自伝と言うよりは、容子さんとの接点の自伝
と言うものでしょうか。

「文學界新人賞」を貰ってから何かと忙しくなり、それを避けるために、茅ヶ崎に転
居し、電話も引かず、気の赴くままの生活に入った。「直木賞」受賞した時も、第一
報は近所の八百屋さんの電話番号をしらべ、そこからしらされて、文芸春秋からの
正式な通知もやっぱり八百屋さん経由だったそうです。

容子さんとの別れはこの様に記されています。

『あっという間の別れ、と言う感じが強い。
癌と分かってから4ヶ月、入院してから2ヶ月と少し。
四歳年上の夫としては、まさか容子が先に逝くなどとは、思いもしなかった。もち
ろん、容子の死を受け入れるしかない、とはおもうものの、彼女はもう居ないのか
と、時折不思議な気分に襲われる。容子がいなくなってしまった状態に、私はうま
く慣れることが出来ない。ふと、容子に話しかけようとして、われに返り「そうか、
もう君は居ないのか」と、なおも容子に話しかけようとする。』

城山さんは容子さんの死後7年間、一人で暮らした後、容子さんの元に旅立たれました。

     
     




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どのように育つのが幸せか?

2011年05月11日 | 新聞から

          「シラー」 今年は8輪も咲きました   (11-5-8)


曽野綾子さんのこんな文章が載っておりました。

『苦しみに耐えられる強い性格に
…前略… 原爆を受けた広島は60年間は草一本も生えないだろう、と言われた。
今の広島の繁栄を見るとその予測は間違いだったのだが、いままで原爆を投下さ
れたことのなかった当時の人の体験の範囲では、答えは出せなかったのである。

放射性物質を含む校庭は表土を取った後なら、子ども達に戸外で運動させてもいい
のかどうか、今の所では誰も分からないのだから、私はそういう論議は無駄なよう
に思うもし幾分でも危険が予想されるなら、今後一切、校庭で運動をさせなければ
いいのである。別に戸外で運動をしなくとも、教育にも人間形成にも、何の妨げに
もならない …中略… 

戦争中、今度の東日本大震災とは比べようもない大きな災害を受けながら、軍人と
原爆の被害者以外の一般国民は、家と家財のすべてを空襲で焼かれ、預金が紙く
ずになっても一円の補償もなかった。

子ども達は空襲に怯え、目の前で親が死んでも、心的外傷ストレス障害の治療を受
けることもなかった。しかしほとんどの子どもがまともなおとなになった。犬のように
自分で自分の心の傷をなめて直したのだろう。むしろそのお陰で、苦しみに耐えら
れる強い性格を贈られた。

自分と同じ苦しみはさせないほうがいい、と誰しもが考える。しかし時々今の時代
の考え方はあまりにも過保護で、だから強い人間が出来なくて気の毒だと思うこと
はある。

おとなが背負う運命なら、子どもも同じように背負えば良いと私は考える。…後略…』

この文章を読んで、日ごろ、私が心でかんじていることが、そのものずばりと書か
れていると思いました。

戦火にすべてを失って、老いた親と幼い子どもを抱えた母はどんな気持ちだったの
だろうか? 寝る間も惜しんで家族を養う為に働き続けた母を思うと、このたびの
震災ですべてを失ったと言えども、人の善意に支えられた人は、まだまだ幸せだと
思うのです。この思いは阪神大震災のときも持ちました。

福島の原発の件も、家がありながら住めない苦しみはあるでしょう。でもそれは、
後から文句を言われないように、早目に予防しておけば良いという政府の生き残り
策の犠牲だと思うのです。そのために海外にまで「風評被害」を撒き散らしてしま
いました。

戦争孤児ほど悲惨な子どもはなかったと思います「浮浪児」と蔑まれ疎まれても、
自分ひとりで生きていかねばならなかったのです。人は皆自分の生活で手一杯で、
よそのこの事を考える余裕はなかったのです。

何年か経って、戦争孤児の寮ができました。私の学校にもその寮から通っている子
が居ました。

田舎で育った友に聞きますと、田舎は空襲もないし家は焼けなかったし、戦後の食
糧難も、自家製の米や野菜があって戦争による不自由は何も知らなかったと言い
ます。

同じ年代に生きても、この差です。いまさらながら、戦争ですべてっを失っても、なん
の補償も得られず、それでも必死で家族を養い生きた母の年代の人の強さは凄いと
思います。

どんな時でもどんなことでも、不公平はあります。今があまりにも平和でありすぎ
るから、すべてを失った自分が惨めに感じると思うのです。でも日本中の善意が
支えようと頑張っています。「がんばって!」とは言わないでという人もあるよう
なので、助かった命を大切に生きて頂きたいと言う言葉しかありませんが…。




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浜岡原発に飛び火!

2011年05月10日 | 気にかかる

   「頬紅エニシダ」  おか目インコを思い出しました   尼崎・塚口の町角で    (11-4-29)


6日に菅さんが「浜岡原発の停止を要請した」と聞き驚いた。中部電力の社長が
7日に取締役会を招集したが、結論が出ずに終わった。9日又臨時取締役会で要
請受諾され、近日中に原発停止が決まりました。

そして2年後の防波堤が出来上がれば、再開を容認する意向。原発が在る為に地
元にへの交付金は支払い続けると言うのです。なんだか矛盾を感じませんか? 地
元の市の財政の40%が交付金でまかなわれているそうです。市はそれでいいかも
しれませんが、原発で生活している人達の勤め(生活)はどうなるのですか?

東北の方にお金が要ります。途方もない金額でしょう? 0からの出発に等しいの
ですから、今度こそ、二度と津波の影響を受けない場所に住居を作るために、でき
るだけの事をしてあげて欲しい、と思っています。 

又、防波堤を造るのに、何故2~3年も掛かるのでしょうか?これも不思議です。

お金がいくらあっても足りない時に、電力も足りない時に何で又止めるの? 原子
力が一番とは言いません。しかし、物事には順序と言うのがあるのではないですか?
原子力に代わるものを作り上げてから廃棄しても遅くないと思うのです。

私達の関西電力にも電力を廻すようにと、お鉢が廻って来ました。節電せよと言う
のでしょうか? 私は協力しませんよ。今まで通りクーラーは使わせてもらいますよ。
この年になって我慢の生活は嫌ですよ。

原発を推進したのは自民党かも知れませんが、民主党のマニフェストにも、原発増
進が書かれているそうですね。一言も言いませんね、ずるいよ!

それなのに、唐突な菅さんの要請、何だかな~と思っていましたら、アメリカが、浜岡
の原発が福島と同じようになったら、風向きで横須賀の第七艦隊が機能しなくなる
と言うことで、アメリカからの突き上げが1ヶ月前から水面下で来ているそうです。
「な~んだ、そうだったのか」と菅さんの態度に納得がいきました。

アメリカの要望を呑んだのですね。「国の主権をアメリカに売ることによって、自
らの権力を守ろうとしている」と読みました。

そして、今度は原発の目途が立つまで、首相としての歳費を要らないといっていま
す。ありがたいとは思いませんよ。

しかし、そんなにしてまでも、首相の座にしがみ付いていく気ですか?



     「モッコウバラ」  大きな見事な樹でした  尼崎・上坂部公園で     (11-4-29)
     
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お陰さまで

2011年05月09日 | 雑誌から

          「西洋オダマキ」   今年も沢山咲きました 一重が消えたようです



退院して1週間が経ちました。やっと普段の生活を取り戻したような気がします。
人間恐ろしいもので、1ヶ月も今までと違った生活をしていると、それが日常の生活
だと錯覚するようです。昼ごはんを食べると、「さ~病院に行かなくっちゃ」と思って
しまうのです。「もう行かなくてもいいのよ」と何度となく言い聞かせる日々でした。


今年の初めに、左手の痺れに痛みが加わったと言う事で、ホームドクターの紹介状
を持ち、阪大病院にいきました。3年前にも、診断を受けたのですが、痛みが来る
まで、このままで様子を見ましょうということでした。

痛みが来ているので手術は早いほうがいいだろうと言うことになりましたが、阪大
病院には7月まで病室の空きがありません。そこで先生の非常勤勤務の病院を調
べていただきましたら、4月に空きがあると言うことで、即4月1日入院、2日手術
と決まりました。

3ヶ月先というのは長い気もしましたが、その日はあっというまにやって来ました。

休肝日なしにお酒を飲んでいる主人は麻酔が効かないと困ると言う事で、5日前か
ら断酒することになりました。その最後の日、何時もの芦屋の焼き鳥屋さんに行き
ました。芦屋市議のご主人も居られて希望通り「政治談議」も弾みました。しかし、
「4月いっぱい(できれば5月連休後まで)で店をたたむ」と告げられ、ビックリ仰天、
寂しいな~と思いました。(ご主人は芦屋市会議員選挙で再選されました)でもう
直接「おめでとうございます」とお声を掛けることは出来ません。残念です。

3ヶ月前には神戸の行きつけの寿司屋も突然の閉店、これで、昔からのおなじみの
店は神戸に行ったときの昼を食べる「トンカツ屋」だけになってしまいました。いまさ
ら、新規に店を開拓する元気もありませんし、本当にがっかりしてしまいました。


話が逸れました。4月1日の午前中に「麻酔科」に行き注意を受け、署名に捺印し
ました。午後から入院病棟に行き、入院しました。「明日の朝9時から手術ですの
で、奥さんは8時には来てください」と言われました。

家を7時前には出なければなりませんから、寝坊してはいけないと思うと(私は目
覚ましを使わないので、その存在を忘れていました)1時間ごとに目が覚めました。
8時前には病院に到着しました。

5階の病室から2階の手術室に案内され、主人は右の手術室へ、私は左の手術待
合室へと別れました。

待合室で待っている時間は不思議な感覚でした。全身麻酔を受けるのは主人も初
めてです。

主人は今は麻酔が効いて人間ではなく、物体になっているわけです。そして私がこ
こにいるのは「まさかの時」の為に留め置かれているのです。「黙ってこの場を離れ
ないように、出て行かれるときには5階の看護師に伝えてからにしてください」と注
意を受けました。

この手術に関しては、命の危険性はないわけですが、手元の狂いで0.2%の手術ミ
ス?で肢体麻痺で寝たきりになる可能性があるというのです。それだけ「首」と言
うところは難しい手術だと言うことです。

手術時間は2時間から3時間ですと言われました。2時間経過したあたりで集中治療
室の看護師さんが来られて、色々説明を受けました。

2時間たっても、終わった連絡が入りません。3時間ほどたったころでしょうか、助手
の先生(担当医は、手術後、「学会があるのでそちらに行きますから、経過報告は
別の先生です」と事前に言われていました。)が来られて「今終わりました。手足
も動いていますから、もう少しすれば、看護師がお迎えに来ます」と告げられました。

それから30分、そして、集中治療室に入りました。管に繋がれた主人に「終わった
ね。如何だった?」「疲れた…」「え~、麻酔が効いてて何も分からなかったでしょう
に!?」「うん」私をちらっと見ただけで、安心したのか目を閉じたので「一度帰っ
て、夜また来るから」と言って退出しました。集中治療室は2~3時と夜の7~8の
1時間ずつしか入れないのです。

「一般病棟に移動しました」病院から電話がありました。時間制限がなくなったので、
息子と病院に向かいました。

今にして思えば、主人の「疲れた」と言う言葉は、手術前の気持ちの葛藤を言って
いたのではと思います。

4月1日に入院して、5月2日に退院するまで32日間、JRとバスを乗り継いで
の往復2時間あまり、やっぱり疲れました。通っても何をすると言うこともないの
です。病院ではベットの側で、テレビを見たり本を読んだりするだけなんですが、
1ヵ所にじ~っとしているのが疲れるのですね。

主人の入院中は好きな時にパソコンが使えると思っていたのですが、8時ごろ帰
宅して、パソコンに向かっても、ブログを書くのが精一杯で、後はテレビも見ずに
早々に寝てしまい、目覚めれば翌日になっていました。

32日の入院生活で、色んな人がいるのを知りました。どうにかして、1日でも長く
病院にいたい人、仕舞いには看護師さんが「予約が入っているので、空きのベッド
はありません」とまで言われても、まだがんばろうとする人。

昔は「別荘行き」と言えば「刑務所」でしたが、今は「病院」だそうですね。一人暮ら
しの人は、三食、ベット付き、風呂も週2回ですが在ります、その上に健康管理して
くれる看護師付です。自宅に帰ればすべてを自分でしなくてはなりませんから、そ
の気持ちも分からないではありません。

傷跡が痛い痛いと言う割には、食欲旺盛で、目方は減らない主人。疲れには甘い
物がいいからと、大好きな甘いものを食べ続け、何時もは夕食は6時なのに、病院
から帰ると8時になり、背中とおなかが引っ付きそうにおなかが空いているので、
ついつい食べ過ぎました。少しは減量できるかと、ひそかに期待していたのが大
はずれ、元のまんまの似たもの夫婦…。

リハビリを残して居ますが、「頚椎症頚髄症」という病とのお別れは、日にち薬と
言うことになりました。




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帝国ホテルの不思議

2011年05月06日 | 読みました

          「桃色タンポポ」   尼崎・スポーツクラブ・ウッディー   (11-5-3)


暖かい日で、洗濯物が良く乾いて、気持ちの良い一日でした。昼からは唱歌の学
校に行きました。暖かい日でしたので、皆さんも春らしい装いに変わっておられま
した。その中で私一人「春はまだ遠い」装いです。少し恥ずかしかったのですが、
私はとても寒がりなんです。

今日もごとうさんの手作り野菜「サラダ菜」を頂きました。明日、焼き豚とともに頂く
つもりです。

焼肉店の「ユッケ」とやらで死亡者が出て、大変な騒ぎですね。問題の日の2~3
日前、テレビであのお店を取材して、べた褒めだったそうですね。ツイッターでは、
その番組を見て行った人も死亡者や重症者の中に居るかもしれない、テレビは知
らん顔しているが、責任はないのか?と話題になっているそうです。でももし責任が
あるとすれば、今流行の食べ歩き番組は成り立たなくなりますね。 



        帝国ホテルの不思議     村松友視

本当は名前の「視」と言う字は「示」なんですが、私の力ではどうしても「示」にな
りません。名前の字が違って申し訳ないことだとおもって居ます。

主人が東京転勤の8年間の間に何十回と東京のホテルに泊まったのですが、何
時も「第一ホテル」か「赤坂東急ホテル」で、「帝国ホテル」に、一度は泊まってみ
たいと思っていたのですが、泊まったことがありません。

その上に何十回と東京に行きながら、何処にも行かずにホテルで、テレビを見なが
らクロス・ステッチ」をしてすごしていました。今から思えばもったいないことだ
と思います。

朝食はホテルで、夜は主人が色んなところに連れて行ってくれたのは覚えておりま
すが、一人きりで昼食をどうしていたのか、さっぱり覚えていないのです。

この本を読んで、帝国ホテルに泊まりたいなんて、分不相応な事を思っていたのだ
な~と言うことが良く分かりました。名前の通り「大日本帝国」と言う流れを汲んで
いるホテルだと言うことが良く分かりました。

オペラ歌手の「藤原義江」氏が住居として使っておられた事くらいしか知らなかっ
たのです。知らないと言うことは強いですね。「盲目蛇に怖じず」(こんな言葉差
別語?)と言うたとえ通りです。

ホテルの職種ですが、30種類もあるんですね。本文は、その持ち場の責任者達
へのインタビューで綴られています。とても面白く読みました。帝国ホテルならで
はと言う職種もあるようですが、さすが772室の客室を持つホテルだな~と思い
ました。

やっぱりVIPの方が多いそうですから、すべての職種で待たせることのないよう
にとか、食べ物の好みを知っておくとか、色々と覚えておかなければならないこと
が多いようです。記憶力が強くないと勤まらないようです。

○ 海外のお客様のパーティーの場合は空調の温度設定が違うそうです。基本的
に欧米のかたの場合はけっこう低めに設定する。又、会議なんかでは水を飲まれ
る量が半端じゃないそうです。日本人はお手洗いが近くなると言うので、水はあま
り飲まれないケースが多いのですが、海外の方は良く飲まれるそうです。

○ 外国の方は本当に靴に対する愛情が凄いですから、雨の日なんかは「オーバ
ーシューズ」を付けて、館内に入ったら、取り外して、ポケットに入れる。特にアメリ
カのビジネスマンは凄く「靴」を大切にするそうです。欧米の靴屋さんには必ず「オ
ーバーシュウーズ」は置いてあるそうです。

近頃の日本ではあまり見なくなりましたね。皮でない靴も増えた事もありますが、
外国では家中でも「靴」を履くという文化の違いも在るのでしょうね。

今の若い方はオーバーシューズって見たことない方も多いかもしれませんね。私
も昔は付けていましたから、探してみました。ありましたが、何年も昔のものです
から、バリバリになっていましたけどね。私がハイヒールをはき始めた頃は、ヒー
ル靴は誂えだったんですよ。今のように沢山の既製品の靴は在りませんでしたか
ら、おのずと、大切にカバーを付けていたと思うのです。

○ もう一つ「靴」の話ですが、帝国ホテルには「シューシャイン(靴磨き)」コーナ
ーがあるそうです。イギリスやアメリカではないそうですが、エアポートや駅やバー
バー(散髪屋)に在ることが多いそうです。そういえば日本でも駅に「靴磨きのコー
ナー」があったように記憶しております。座っているのは日本人より、進駐軍兵士が
多かったような気もしますが。

○ 「バイキング」とか「サービス料」とかは帝国ホテルから全世界に広まった名
称だそうですよ。私は外国から来た言葉だと思っていました。

だんだん、ホテルを利用する回数は減りましたが、今度ホテルに行った時、色々と
興味が持てそうです。



        「マグロステンマ」     尼崎スポーツクラブ・ウッディー     (11-5-3)



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やっと、暖かいと感じた子どもの日

2011年05月05日 | 今日この頃

               長浜・黒壁通りのウインドウから    (11-2-10)


「子どもの日」です。息子達が小さい頃は「柏餅」や「粽」を必ず買っていましたが、
近頃は「柏餅」は年中ありますし、あんこの入っていない「粽」はあまり食指が伸
びませんので、買うこともすくないです。

ラジオでも言っていたんですが、「鯉のぼり」を本当に見かけなくなりましたね。息
子達が幼稚園の頃は「鯉のぼり」を作っていましたが、今は、如何なんでしょうね。
子ども達自作の「鯉のぼり」がマンションの窓から泳いでいたものですが、それも
見なくなりました。日本の文化・伝統を守りたいですね。きっと、心の余裕がない
のでしょうね。寂しいことです。


3月7日青山繁春さんの講演会を聞きに行った日、沖縄のことは又日を改めて書き
ますと書いたのですが、その4日後、大震災があって、のびのびになっていました。
記憶も薄れ掛けて、少し調べた事を付け加えながら書いていきます。

青山さんは「沖縄に行かれたら、『ひめゆりの塔』だけではなく、一寸不便なとこ
ろですが『白梅の塔』にもお参りしてください」と言われました。私も沖縄旅行で
『ひめゆりの塔』にはいきました。その時、「『ひめゆりの塔』が第一高女なら、
第二、第三高女の看護隊はなかったのだろうか?」思ったものです。

その第二高女の学徒看護隊の名が、『白梅学徒看護隊』だったのです。初めて青
山さんが訪れた時は「大きな土山で、後ろに廻ると小さな扉があり、開けると、手
前まで、毀れんばかりに遺骨が詰まっていた」と言われました。最近訪れた時は、
驚いたことに立派な塔が立っていたそうです。

私が調べた記事によりますと、その塔の後ろに廻ると、ちいさな石碑があり『白梅
の塔』と刻まれ、裏には元教諭の『散りてなほ 香りい高し 白梅(うめ)の花 昭和
22年1月建立』と刻まれているそうです。

『ひめゆりの塔』は師範学校と第一高女の2校が一緒になった学徒看護隊で人数も
多い為、有名だが、白梅学徒看護隊を初め、あと少人数ながら4校女子の看護隊は
あったようです。

『白梅の塔』の周りには各県の合同塔やその場で自決した兵隊の塔などがあるそう
です。それを読みますと、その場所が、死に場所になっていたのかもしれないと感
じました。

霊感の強い青山さんは硫黄島でもそうでしたが、沖縄のこの土地でも霊感を感じた
といっておられました。実は私も、霊感とまで行かなくかもしれませんが、少しその力
を持っていますし、青山さんのように人間的に強くないので、その場に行くのは少し
辛いかなと言う気がします。

土饅頭のような墓から心ある人々によって、立派な塔に作り直されて、霊も安らか
になっておられると信じます。沖縄の皆さんを守っておられるのでしょう。




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5月4日は「みどりの日」

2011年05月04日 | 今日この頃

                尼崎・スポーツクラブ・ウッディのカウンター       
              

今日は「みどりの日」ですね。しかし昭和天皇が崩御(1989年)されてから
は、天皇誕生日(4月29日)が、昭和天皇が緑の草木がお好きだったと言う事
で「みどりの日」と呼ばれていました。所が(2007年)から、祭日を増やす為で
しょうか、4月29日を「昭和の日」と改名して、それまで祝日ではなかった5月
4日を「みどりの日」として、連休にしました。しかし18年間も「4月29日」が
「みどりの日」でしたから、未だにぴんときません。

JR大阪駅が、(今まで部分開店していました)全館開店で8っのパートに別れて、
一つのタウンになるようです。その名も「大阪ステイションシティー」と呼ぶそう
です。

映画館を12も集合させた「大阪ステイションシティーシネマ」もあるようで、駅
から近いと言うこと、帰りに買い物が出来ると言う事で、たのしみにしています。

それぞれのパート、パートでそれぞれに違った時計台があるようなのでそれも楽し
みです。ただあまりにも広そうですから、一度には行けそうにありません。

今日は若い人でいっぱいなんでしょうね。あちこちと連携している通路だけはとこ
ろどころ歩いてみましたが、完全にインプットするには時間が掛かりそうです。

いたるところに「エスカレーター」が在って(70基以上あると聞いております)、
新しいですから、色目も鮮やかで気持ちいいです。

大阪駅も新しくなりました。大阪は前進するのでしょうか? なんだか楽しみでも
あります。



                    長浜・黒壁のガラスの兜    (11-2-10)




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宮城県・野蒜小の女の子

2011年05月03日 | 新聞から

     「フリージャー」  混合の球根を買いました 各色2~3本づつ咲きました   (11-4-28)




1ヶ月ぶりにウッディに行きました。歩くことは健康にいいからとよく言われますが、
歩くだけでは体の柔軟は図れないという事を実感しました。

この1ヶ月じ~っとしていたわけではありません、歩き回りましたから、身体は動
かしていました。しかし柔軟体操・ストレッチをしていなかったのです。

私の身体はこの1ヶ月で、柔軟性を失っていました。先生の言われるようにしよう
とするのです、1ヶ月前なららくらくとやれていたことが出来ないのです。しかし、
これには我ながら驚きました。

横目でチラッと周りを見てみました。毎日来ている方は、私より年上の方でもちゃ
んと出来ています。1週間でも寝込んでしまうと、リハビリしないと歩けなくなるとは
聞いていました。でも信じられない気持ちでした。でも今日自分が体験して、本当
だろうと思いました。

又ボツボツと柔軟さを取り戻したいと思っています。2~3ヶ月かかるでしょうね
~?



                    サンケイ新聞からの抜粋です


もう一人皆を支えた野蒜(のびる)小学校の6年生のお話です。宮城県東松島市の
出来事です。指定の避難所になっていた野蒜小の体育館には300人ほどの人が
避難していました。皆、救出されるのを待つ間、迫りくる恐怖と寒さに打ち震えて
いました。

校長先生は生徒は全員2階に避難させましたが、水は2階まで10センチ下まで迫
って来ました。「もう駄目かも知れない」と思ったとき、6年生の女の子が暗闇の中
で声を張り上げました「野蒜小ファイト!」これを聞いた別の児童が「ファイト!」と
返し、暗闇の中、住民達の間にも「ファイト!」の声が広がりました。救い出される
数時間後まで、声を掛け合うことでお互いを支えあった…と言うのです。

私は学校で習った話を思い出しました。船の難破で海に投げ出された人たちが、
歌を歌って救いの手がくるのを待ったというお話です。「唇に歌を持て」でしたか? 
うろ覚えなんですが…。

今も、学校で習っているのか、どうかは分からないのですが、この女の子も、この
話を知っていたのでしょうか? 頼もしいですね。 悲しい震災ではありますが、
こんなすばらしいお話もありました。 「起こってしまった事は戻りません。辛い経験
ですが、生かされた幸せを大切になさってください」と祈っています。
                              (1600回)






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