ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

華の人

2013年10月10日 | 読みました

   「?」  よく知っているはずはなのに名前が出てきません   神戸・サンチカ   (13-10-4)


暑い! 10月半ばですよね。ランチは窓を開け放し、アツパッパを着て、「ソー
メン」を食べました。こんな10月ありましたか? 朝干した洗濯物は昼には
乾き、昼干したものも乾きました。まるで真夏ですよね。


華の人     伊藤 緋紗子


この本を読むことになったのは、偶然のことでした、前回図書館に本を返しに
行ったとき、次に借りる本がなかったのです。それで小説を1冊と、伝記モノ
が好きなので、其の棚から選んで、借りてきたのがこの本だったのです。

有田の陶器の家に、北海道から嫁ついで来た美しく、モダーンな女性(敏子)
の物語だったのです。

其の家は、夫(進)の父が、香蘭社の次男として生まれたので、兄が会社を継
ぎ、自分は別に深川製磁という会社を興して、海外に日本の陶器を売り出した
人だったのです。

本の中で、深川製磁の特徴として「青」がありその色は「深川ブルー」と呼ば
れて、会社を有名にしていると書いてありました。

それを読んだ時、家の飾り棚に入っている「ブルーの椿の花瓶」が、突然頭に
浮かびました。「私をひきつけた、あのブルーの色の壷が『深川ブルー』では
ないだろうか?」半信半疑で壷を取り出し、壷底を改めました。なんと! そ
こにはまぎれもなく「深川製磁」という字が刻まれていたではありませんか。
その字は、深川製磁の紋章の富士山に川をあしらった下にありました。




   ↑  花瓶ですから クルクルと廻して撮ってみました   ↓  壷底の銘
          

こんな偶然もあるのですね~。たまたま手に取った本の中の会社の「壷」が我
家にあるなんて、本当に驚きました。この壷が我家に来た経由は、わかりませ
ん。勤めていた船会社の船が長崎の造船所でも造られていましたので、主人が
出席した、其の進水式か何かでの「引き出物」ではなかったろうか? と考え
ています。

と言いますのが、是も前に書きましたが、私は工務課にいましたので、「船会
社にいるのだから、一度は進水式を見てきなさい」と部長の招待状を頂いて、
進水式に参列したことがあります。そうしますと、一般席ではなく、上の階で、
進水式で、船の艫綱を切ると、くす球が割れるという場面が、目の前で見れる
席で、観たことがあります。その時に「引き出物」として、「錫の酒器」を頂
きました。部長が「持っていなさい」とくださいましたので私と一緒にお嫁に
来て、今でも家にあります。

 

香蘭社の食器は濃いブルーで有名ですが、綺麗だと思いますが、私は食器は
「淡い色のブルー」や「土の色茶系」が好きなので、是も頂き物ですが「宝
の持ち腐れ」頂いた時は嬉しかったのですが、あまり使うことなく、食器棚に
眠っております。


  ↑   香蘭社の小皿


進の父忠次は初めから敏子の味方だった。

敏子が有田の家を一人で訪れた時、帰宅に当たって、進が東京まで送ることに
なった。両親にはない書で、神戸に下車し、一晩を共にする。妊娠する。

佐賀県出身で、武士の葉隠れ思想を受け継いだモト(忠次のつま、姑)は、それ
でいて東京に華族女学院で英語も習得していた。忠治にはわが身を忘れた献身
振りの良妻賢母のお手本でした。

恋愛はこの時代にあって、も家族制度の土台を揺るがす障害物として罪悪視さ
れていた。ましてや。結婚前の妊娠など、世間では「自堕落な行為」とみなさ
れた当選であったから、モトは夫の説得がなければ二人の結婚など認めるつも
りはみじんもなかった。

作者が敏子を知るきっかけになったのは有田で出会った人々との会話であった。
「大正時代に有田に嫁いで来たおしゃれで美しいモダンガールがいた。という
今でも語り継がれて何時、敏子の噂話だった。敏子は早世したので、約80年
前のことだったのに…。

敏子の実家井内家と深川家の絆の強さは今でも続いているそうです。

進は俊子がなくなってからは、深川製磁社長としての仕事と剣道に一生を捧げ
ました。

モトは残された3人の息子達を愛情深い祖母として一生懸命育て、長生きして
81歳(H21年)まで精一杯生きました。孫たちもモトに育てられた事を感
謝しています。

この本はモトが亡くなられた翌年・H22年に出版されています。




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