緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

管理会計の名著『レレバンス・ロスト』を読む(1)

2019-11-29 23:40:01 | 学問
『レレバンス・ロスト』(H.T.ジョンソン、R.S.キャプラン共著)についての考察 【第1回目】

(注)
この記事は公開としておりますが、殆どの方が関心の無い分野です。
この方面の経験が無い方には、恐らく全く面白くも役立つこともありません。
公開扱いとしましたが、殆ど自分自身のために書いているようなものなので、無視していただいて構いません。


【はじめに】

私は大学時代に原価計算、管理会計を専攻し、卒業後就職した企業(電気機器製造業)においても、これまでの勤務年数の殆どの期間にわたって、これらの業務に従事してきた。
2008年、2017年に勤務先で全社大の基幹系システムを導入し、その中の一分野である原価管理システム導入時の中心メンバーとしての経験、更にシステム導入前の伝統的な原価計算業務の経験の他、上記2回にわたり導入された原価管理システムによる日々日常の実務体験をもとに、原価計算や管理会計といった学問分野で説明される個々の理論や手法、あるいは実際に実務に導入されている計算や管理手法について、常々疑問や課題として感じていたことを、実務者の立場から、いつかまとめてみたいと感じていた。

そのような折、たまたまこの『レレバンス・ロスト -管理会計の盛衰-』(RELEVANCE LOST :THE RISE AVD FALL OF MANAGEMENT ACCOUNTING)(H.T.ジョンソン、R.S.キャプラン共著,1988年初版、鳥居宏史訳、日本語訳初版1992年、白桃書房)という著作に出会った。



この著作を最後まで読んでいないが、タイトルの『レレバンス・ロスト』(適合性の喪失)が示すとおり、現在の管理会計システムの経営環境に対する適合性の喪失した理由、背景、喪失した具体的内容を提示し、これを解決するための管理会計の新しい手法と適合へのアプローチを提示する内容だと思われる。
この著作は、管理会計の分野では名著と位置付けられている。

実務者としての体験からこの本に対する考察について記事を書くと言っても、もちろん勤め先の内部事情等はオープンに出来ない。
従って述べることを甚だ抽象的にせざるを得ないが、もし仮に同業の方が目にする機会があったとしたら、理解してもらえるのではないかと思う。
当然、ブログでの公開なので、このような分野に関心を示す人は極めて少ないだろうし、読んでもらうこともあまり期待していない。
それでもこのブログでこの著作に対する考察を記事にしようと思い立った理由は、自己陶酔に浸りたいという密かな野心や欲求が無いわけではないが、公開型のこの日記で記事にすることにより、この本をより強制的に精読する方向に気持ちを駆り立て、かつ考察結果もただ読んだだけよりもはるかに整理できると考えたからである。
250ページにわたる本であるが、1週間に2、3ページの頻度で考察した結果を記事にしていけば、約2年ちょっとで精読が完了する計算になる。
どこまで続くか分からないが、とにかく続けてみようと思った。


1.緒言(ⅶ~ⅸページ)に関する考察

【概要】

・著者は、企業の管理会計システムの(今日の経営環境に対する)適合性が下落したのは、比較的最近の現象とみる。

・著者は、企業の管理会計システムが現在のところ適切でないのは、比較的最近になって適合性が下落したのが原因であり、決して旧来の財務会計システムを現代の経営管理ニーズに適用するのが遅れたことが原因ではないと認識されると主張する。

・著者が読者に望むのは、過去半世紀の間に管理会計システム上の革新がなぜほとんど起きなかったかの理由だけでなく、綿密な調査分析によってのみ発見できる豊富な歴史的伝統を学ぶことにも価値がある、現行の管理会計システムが陳腐化した背後にある理由を理解することで、企業変革に対するすぐれた理論的根拠が得られるはずだ、という点である。

【考察】

●「綿密な調査分析によってのみ発見できる豊富な歴史的伝統」とは何か。
⇒これは読み進めていかないと分からないが、推測するに、20世紀初頭に現れ、第二次世界大戦までの間に発展した原価管理システムが、既に完成度の高い内容であったために、発展の余地を失ったということか?(今は理解不能)。

●「現行の管理会計システムが陳腐化した」→「陳腐化した現行の管理会計システム」とは何か。
⇒「管理会計システム」の内容としては、中期経営計画(短期利益計画)、予算編成、予算実績進捗管理、原価計算、原価管理、収益性分析(損益分岐点、限界利益による固定費回収シミュレーションなど)、個別意思決定問題(設備投資計画、内製化・外注化の選択、製品の受注、廃止の決定に伴う収支シミュレーション等)などがあげられるが、この中でも進化していないのが、「原価計算」、「原価管理」手法だと思う。
⇒「陳腐化した現行の管理会計システム」とは私見では、財務会計に組み込まれた標準原価計算制度ではないかと思う。
標準原価計算の運用には大きく分けて以下の2つがある。

①標準原価計算を財務会計の機構に組み込み、勘定間の有機的な連関機能を持たせ、標準原価と実際発生額との差額を要因別に分類、計算するとともに、各種原価差額を売上原価又は棚卸資産原価に直課あるいは配賦することで、財務会計と管理会計の両面の目的を達成することを企図した方法。

②標準原価計算を財務会計の機構外の運用とし、財務会計側の原価計算を実際原価計算とする方法。この場合の標準原価計算は管理会計目的に特化して行われるので、財務会計のルールに縛られることなく、企業、部門の目的、ニーズに合わせ、計算対象範囲、計算実行時期、標準設定レベルを任意に設定することで、実際原価との差異分析を可能とする(以前勤め先で導入し、このしくみを採用していた基幹系システムにおいては、標準原価計算は月次の実際原価計算と同時並行して実行されるのが基本仕様であり、それ以外に標準原価計算はいつでもスポット的に実行することが出来た)。

ここで「陳腐化した現行の管理会計システム」と考えるのは①の「標準原価計算を財務会計の機構に組み込んだ、標準原価計算制度による運用」の方である。
ちなみに私の実務体験上、勤め先がこれまで導入した基幹系システムにおける原価計算システムとしては、①、②の両方の経験を有する)。

<理由>

・標準原価の精度に不備がある、又は標準原価の定義づけがあいまい、固定費の配賦方法に恣意性があるなどの問題があると、得られる原価差額が分析に貢献できない。
「標準原価」とは、「あるべき目標コスト」とするのか、年度開始時点の「基準原価」とするのか、当期の予算編成における「コストダウン年度目標額」を織り込んだレベルとするのか等、また操業に関しては、設備、人的資源をフル稼働して得られる操業度で設定するのか、過去の平均操業度で設定するのか、当期予算での操業度により設定するのか等、明確な設定根拠と全社的にオーソライズされた定義付けが必要となる。

・原材料、仕掛品、半製品、製品、製造総費用等の各勘定で計上される各種原価差額(※)が損益計算上、一括して売上原価へ配賦又は、良くても品種単位で売上原価と棚卸資産残高に配賦されるような計上方法を採用しているため、原価差額が大きくなるほど、損益計算に歪が生じる。
 またこのような運用方法だと、各種勘定で計上される原価差額が品目、製番単位で詳細にアウトプットされるのに対し、損益計算上の原価差額の計上に関しては、その配賦方法が恣意的、簡略化されているというギャップを生じさせているという問題のみならず、調整計算された損益ベース上の原価差額と、各種生産プロセス(勘定)で計上された発生ベース上の原価差額との直接的な連関性が無くなり、損益計算上の原価差額の分析、説明が困難となる。
※受入価格差異、完成差異(工数差異、消費量差異)、標準単価改定差異(評価差異)、配賦差異。

・製番付きでない原価差額、すなわち配賦差異や見込生産品の完成差異などの原価差額が最上位の製品にまで積み上がらないため、実績としての製品原価情報が得られない。

・売上原価に配賦された原価差額が固変分解できない。費目別に展開できない(一括計上、一括表示のため)。

・実際原価のように、操業の変動に応じた単位製品原価の変動が把握できない。
標準原価計算制度においては、操業における実際と標準の差異は配賦差異として、原価部門単位、または一歩進めても品種単位でしか把握できず、個別品目、個別製番別に計上されない(売上原価比率等で強引に配賦させることは可能であるが、そもそも正攻法でないし、配賦結果は実態に対し著しく歪められる)。
 顧客側の生産増、競合他社の撤退・不具合等による納入停止により、注文増となり、生産稼働が増大したことにより、固定費負担額が減少し、例えば従来の製造原価@36,000円であったのが、増産により@25,000円にまで低下し、利益率向上、利益額増大につながるというような結果が、標準原価計算制度では製品単位で把握することが出来ない。
 逆に、受注減、生産減により操業が低下し、結果固定費負担の増大による単位当り製造原価が増大、収益性が低下するというような個別製品単位での操業低下による業績悪化の程度を把握することができない。

標準原価を設定するためには、正確な原価集計の確保の前提条件であるBOMの整備、購入品目の標準購入単価、工程、手順等の標準単位工数、工程毎の標準レートの設定などが必要となるが、高度経済成長時代を過ぎて主流となった多品種少量生産形態を採るような企業では、品目、工程数が膨大となり、BOMや標準値をあまねく設定するだけで膨大な作業となる。
 製品の中には当面の原価管理の必要性が低いもの(成熟・衰退・撤退製品、製造実績後に売価を決めるような特殊性、独自性を有する製品)もあり、このような製品も含めて全て財務会計と管理会計の両方を満たす標準原価を設定することの作業困難性と管理の有効性に対する疑問を感じる。
 すなわち労多くして体制整備したのに、結果が部門管理者に分かりにくい、改善に役立っていないというような矛盾した問題を生じさせている。
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4 コメント

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問題意識は (あきかぜ)
2019-12-16 14:02:00
> 第二次世界大戦までの間に発展した原価管理システムが、既に完成度の高い内容であったために、発展の余地を失ったということか?

完成度が高いのではなく、時代の変化に追いついていないということです。
また、問題は標準原価計算のことではありません。

伝統的な原価計算は、もはや測定の正確性、意思決定への有用性、作業の効率性などの点で不十分だということです。作業の効率性はその後IT化で解決しましたが。

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Unknown (緑陽)
2019-12-16 21:34:47
あきかぜさん、2つのご指摘に対し回答致します。
まず、1つ目ですが、著者が言う「綿密な調査分析によってのみ発見できる豊富な歴史的伝統」については、後章で説明されており、記事の文面で断りを入れたとおり、現時点で見解を回答することはできません。
この後読み進み、この文章の意味が判明した時点で、必ず回答させていただきます。

次に2つ目のご指摘ですが、全く説得性が感じられません。
肝心の「伝統的な原価計算」が「何なのか」ということについての説明が全くなされていないために、後段の「不十分」な理由が判読できません。
「伝統的な原価計算」が引き起こす「不十分さ」とは、システム面によるものですか、理論面ですか、計算方式の相違によるものですか。
システム面での不十分さで言えば、伝統的かどうかは関係ありません。
私は3年ほど前に基幹系システムのベンダーの採用に携わったことがありますが、5、6社のプレゼンを聞いて、各社によりシステムの規模、どこまで精緻に計算できるか、分析ツールの抱負さ、などかなりのレベルの差を感じました。
現代の管理会計システムにおいて、「測定の正確性」、「意思決定への有用性」など、どこまで可能なのかは、システムの規模と精緻さに依存します。
また原価の測定の正確性に関しては、原価管理システムよりも生産管理システムによる影響の方が大きいです。
すなわち、生産管理システムにおける投入(消費)や完了漏れ、それを起因とするマイナス在庫、BOMの設定誤り等の発生と、生産システム内でのチェック能力の脆弱さが要因で、いくら精緻な原価管理システムを構築しても、「測定の正確性」は担保できません。実務上は、この点が大きな課題、障害として、最大の注意事項として認識されております。
また原価の集計単位をどこまで精緻にできるか、これも生産システムと連動した問題ですが、例えば見込み生産品においてもロット別にオーダーが紐づけられているのであれば、オーダー別の原価計算が可能かどうか、分割入庫の場合、分納の原価を計算できるか、等です。これはシステムの能力の問題です。
すなわち、実績の不備をどこまで感知し警告できる体制になっているか、計算の細かさをどこまでできるか、といったものは、ベンダーの提供するシステムのレベルに依存するものであり、伝統的かどうかは無関係なのです。
(上記の精緻なしくみだって、現実的ではありませんが、多大な時間と労力を使えば、昔の手作業でだって理論的には可能なのですから)
原価計算の理論面は確立されています。これからも発展の余地はないでしょう。
せいぜい固定費の配賦をいじるくらいです。
実務上は配賦の仕方や売上原価が固変分解可能か等は多少問題にされますが、むしろ、採用する原価計算方式(標準原価のみか、実際原価と標準原価の併用か)や、原価計算の結果を使って、製品の改廃や、競合他社を意識した戦略的な価格設定のシミュレーション等に活用することの方に重点が置かれています。
実務面では、原価計算の理論が伝統的かどうかが問題にされるのではなく(理論そのものは先ほど述べたように進化していない)、どこまで管理や意思決定に有効で多角的な情報が得られる体制を敷いているか、どこまで正確な原価が計算される体制を構築できているかどうかが重要視されています。

あと、あきかぜさんは、実務を経験されている方ですか、それとも大学の研究職の方ですが。
このブログのコメントは自由ですが、掲示板のような書き捨てではありません。
簡単でもいいので初めに自己紹介なさっていただいた方が助かります。
返信する
読破したときに残るもの。 (fado)
2019-12-17 18:36:19
緑陽さんこんにちは。
私は、財務や会計には全く疎く、この記事を読みましたが、チンプンカンプンでした。
しかし、この記事を読み終えたとき・・・この書物を読破したときの緑陽さんの顔が目に浮かびました。
専門書を読むとき、理解を通り越して自分の成長を感じることが良くあります。
私は、分かる、分からないではなく、専門書を読むことにより人生に対する自信がみなぎってくることを感じたことがあり、『これなんだよな!』と妙に納得したものです。
私は、若い時、ある会社の『調査部』と言うところに在籍していました。周りの上司(戦中派の年配者)は、東大卒や京大卒がほとんどでした。
仕事は、スタッフとしての役割を担い(ラインと明確に区別されていました)現業系や事務系の調査を行い、改善案を調査した職場に、提案するものです。調査については、『実測(実際に職場の観測すること、タイムスタディやワークサンプリングなどの手法を使う)』『過去の資料調査』『従業員への面接調査』の三つが基本になります。
そこで、膨大な資料を整理して改善案まで持ってゆくための手法として、川喜多二郎著『発想法』『続発想法』と言う本が、バイブルになりました。実務書として、著者は『一つの解説については一つの解釈しかない』と言った書き方がされている。若かった私には、難解なものでした。
本を読みながら、資料をまとめるという日々の中から、その本に書かれている内容がどうのこのと言う前に、『あ~あ・・・このような本は自分を成長させてくれるのだ。』と実感したものです。
その証拠に、その本は、私の人生の方向性や考え方、メディア・リテラシーさえ与えてくれたように思います。
色々な職場で、様々な問題に出くわした時、何らかの手を打つことができたのです。例えば、学習塾に在籍しているとき、若造の私が、全道にある学習塾を電話帳片手に訪れ、何のバックをも持たず、15塾ほどの塾長と面会して『全道私塾連盟』と『その組織の主催による初めての模擬試験』『テレビ局と交渉して入試解答速報』などを具現化しました。
私は思うのですが、正体も明かさず、重箱の隅をつつくような・・・正しい?正しくない?などの解釈を平然と自己主張して悦に入っている人もいます。(このようなことを書くのは私の本意ではありませんが)大切なのは、その本から何を学び、自分を成長させるかが実は、重要なのではないかと私は思います。『発想法・続発想法』は名著なので、50年近くたっても、いまだ発売されています。本屋さんに直行して読んでみたいと思います。
私にとって、緑陽さんのブログは心のつながりになっているものですから、駄文を書いてみました。

天候が暖かくなったり寒くなったり、不調ですが、どうかご自愛ください。
返信する
Unknown (緑陽)
2019-12-17 22:00:35
fadoさん、こんにちは。コメント下さりありがとうございました。
北海道は雪が少ないようですね。この間は氷点下続きで、却って今の時期の方が寒く感じているのではないかと思っておりました。
今回も、fadoさんのコメントに力をいただきました。
fadoさんの文章は、何というか、強いエネルギーが放射されているのを感じます。
そして、考え方がぶれない芯の強さ、まさに「生きている」という実感を強く感じます。
だからfadoさんのコメントに返信するときには、自然に襟を正し、時間をかけて言葉を選びます。
fadoさんの「分かる、分からないではなく、専門書を読むことにより人生に対する自信がみなぎってくることを感じたことがある」というコメント、これよく分かります。
印象に残っているのは、学生時代に読んだマックス・ウェーバーの「理解社会学のカテゴリー」という本。
岩波文庫でページ数の少ない薄っぺらい本でしたが、中身はとても難解で1ページ進むのにも大変時間がかかるものでした。
しかし分からないけど、何度も読み返し、進んでいく、このプロセスが何とも言えなく快感に感じたのです。これが難解な著作で味わった最初の体験です。
「専門書を読むとき、理解を通り越して自分の成長を感じることが良くあります。」
おっしゃるとおりですね。
専門書と言えるかわかりませんが、私が出会った中では、まず高校1年生のときの「総解英文法」(高梨健吉著)。
私は中学まで勉強をろくにしていなくて、すごく嫌な高校しか入れず、そのくやしさから勉強に逃げていたのですが、この「総解英文法」を読み始めたときの感動は忘れることはありません。700ページの大著ですが、半世紀もの間ロングセラーでした。
この本との出会いが無ければ大学に入れなかっただろうし、今の自分は無いと思っています。
次に大学3年生の時に出会った「簿記教科書」(沼田嘉穂著)。
私は大学入学後、それまでの勉強漬けの高校生活の反動で、すっかり勉強しなくなってしまい、授業にも殆ど出ない自堕落な生活を送った結果、3年生にあがるときに単位不足で落第しました(今だから言えるのですが)。
その後も自堕落が続きましたが、ある時ふとこの「簿記教科書」を読んで、急速に惹き込まれました。
「これだ!」と思いました。
それからそれまでの自分がウソだったように、簿記や会計の勉強をし始めました。人気のなくなった夜の大学の図書館で、会計や原価関係の書物や論文を読むのが無上の喜びでした。
そしてこの出会いにより、就職も出来、今の職業につながりました。
何か、こう振り返ってみると書物ってすごい影響力があるんですね。
fadoさんお勧めの『発想法・続発想法』、私も読んでみようと思います。
「読破したときに残るもの」、今、これが本当に必要なことなんだと改めて気づかされました。
私も挑戦してみる力が出てきました。
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