世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

駆け抜けた一日

2012年10月15日 22時01分19秒 | Weblog
「なんなの!?」というような忙しさだった。

今日は制服の業者さんの対応1件。
来週、社長や他の社員に各社から出された提案を見せる。
そして選んでもらうので、比較できるようにまとめた。
特徴、価格など。ちゃんと説明できるように。


経費が締ったので、その加工。
経費分析は置いておいて、稟議書の処理。
溜まった伝票類の処理。

極めつけは、某店舗スタッフからのクレーム対応である。
「扶養控除御から抜けて、給料が少ないので制服をクリーニングに出せません。手洗いしたいんです」
というものである。
私だって、少ない給料から捻出し、仕事で着るスーツはクリーニングに出す。
店舗で販売員をやっていたときもそうだったし、他の社員だってそうだ。

ぶち切れしそうになったが、宥めすかし、その場はおさまったが、社長に報告させてもらった。
社長、ぶち切れ。

…ご愁傷様です…。


嗚呼、疲れた…。

喫茶店に立ち寄り、夕飯兼一服。
メールをチェックすると、週末の合コンの件にて先方より確認の件が届いていた。
ハンバーガーを齧りながら返信。
「楽しみにしています☆」って、ポチっとな。



ふ~。
やっと一息。

明日も頑張ろう!


「永山則夫 100時間の告白」~封印された精神鑑定の真実~

2012年10月15日 21時21分20秒 | Weblog
この気持ちは何なんだろう。そうだ。初めて映画「砂の器」を観たときと同じ類のものだ。
胸の奥でずしんと何かが響き、そして広がっていく。痛みを持って。

昨晩観たドキュメント。
「ETV特集「永山則夫 100時間の告白」~封印された精神鑑定の真実~」は重かった。

番組HPより
 1968年秋、全国で次々と4人が射殺される連続殺人事件が起きた。半年後に逮捕されたのは永山則夫、青森から集団就職で上京してきた19歳の少年だった。いわゆる永山事件は、永山の貧しい生い立ちから「貧困が生んだ事件」とも言われてきた。しかし、これまでの認識を再考させる貴重な資料が見つかった。
永山則夫自身が、みずからの生い立ちから事件に至るまでの心情を赤裸々に語りつくした、膨大な録音テープ。ひとりの医師によって保管されていた。医師は、278日間をかけて、患者の治療に使う「カウンセリング」の手法で、かたくなだった永山の心を開かせ、心の闇を浮き彫りにした。
100時間を超える永山の告白は、想像を絶する貧しさだけでなく、“家族”の在りようについて訴えかけている。それは、親子の関係、虐待の連鎖など、時代が変わり、物質的な豊かさに恵まれるようになった現代でもなお、人々が抱え続けている問題だった。
番組は録音テープの告白を元に、罪を犯した少年の心の軌跡をたどりながら、永山事件を改めて見つめ直す。そこから家族の問題や裁判のあり方など、現代に通じる諸問題について考察をめぐらす。



永山則夫について(Wikiより)
1949年6月27日、北海道網走市呼人(よびと)番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる。父親は腕のよいリンゴの枝の剪定師だったが、稼ぎの大半を博打につぎ込み、家庭は崩壊状態。現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。母親代わりの長女は婚約破棄や堕胎から心を病み地元の精神科病院に4年間入院。 1954年(当時5歳)に、母親が青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。兄弟全ての電車賃が出せないため、則夫を含む4人を網走に残したままの家出だった(後に書いたノートで母は悔いている)。残された則夫を含む4人兄弟は、漁港で魚を拾ったり、ゴミ箱を漁ったりして極貧の生計を立てていたものの、年少の則夫は始終兄や姉たちから虐待を受けていた。しかし、1955年、近隣住民が福祉事務所に通報したのをきっかけに、4人は板柳の母親の元に引き取られた。その後、母親は行商で生計を立て、兄弟を育てた。
板柳中学時代に、函館と福島に家出した。
1965年3月、板柳から東京に集団就職する。渋谷の高級果物店・西村総本店に就職した彼は、北海道育ちのため「東北弁コンプレックス」も無く、接客を要領よくこなしていた。やがて新規店を任される話が持ち上がるほどの信用を勝ち得る。しかし、戸籍謄本の本籍が「網走無番地」だったため、「網走刑務所生まれ」だと誤解されてからかわれ、さらに過去の板柳での集団就職のための衣類の窃盗を店長が知り、店内での立場が微妙になり、結局、退職。その後も宇都宮市、守口市、川崎市など職や住所を転々とするものの、どこも長続きしなかった。それでも、新宿区の牛乳店で働きながら勉学し、1967年4月、明治大学附属中野高等学校の夜間部に入学。しかし同年7月に不祥事で除籍処分を受ける。永山が新宿区の喫茶店ヴィレッジヴァンガードで早番のボーイとして働いていた時、ビートたけしが遅番のボーイとして働いていた。その後、熱海市で定期便トラックをヒッチハイクして神戸に向かい、密航を企てるも失敗、横浜に戻る。杉並区の牛乳店で働きながら1968年4月、同校に再入学し、クラス委員長に選ばれる。その後、退学し故郷の板柳町に帰る。そして、陸上自衛隊試験に落ちた。
初めての検挙は、横須賀の米軍基地内での自販機荒らしで、この時は横浜少年鑑別所に収容され保護観察処分となっている。

横須賀市の米軍宿舎から盗んだ22口径の回転式6連発拳銃で、1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。永山は1965年に起こった少年ライフル魔事件の現場近くで働いていたためにこの事件を目撃しており、これに刺激された犯行ではないかという見方もある。
1969年4月(当時19歳10ヶ月)に東京で逮捕された。1979年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所で無期懲役に一旦は減刑されるが、1990年に最高裁判所で「同様の環境的負因を負う兄弟は、被告人のような軌跡をたどることなく、立派に成人している」という理由で死刑判決が確定する。
この判決では死刑を宣告する基準(永山基準)が示された。
1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。48歳だった。全国新聞はいずれも当日の夕刊の第一面で報じた。





永山則夫の作品は『木橋』しか読んでないが、自身の少年時代を綴ったそれだけ読んでも、彼の悲惨な少年時代を垣間見ることができる。昨晩は、カセットテープに収められた永山自身の肉声と、彼の母親の肉声も聞ける貴重な番組だった。
永山則夫の話し方には特徴がある。語尾が「~なのね」なのである。これは私の推測だが、彼は幼少期に親に甘えられなかったから、幼児が母親にするように語尾がああなってしまったのではないだろうか。
母親の肉声は聞いていて腹が立つものだった。則夫の歩き方が憎んでいる夫のそれに似ているというだけで、則夫を殴ったり怒鳴ったりしたと、しゃあしゃあと語っているのである。しかも時々ヘラヘラと含み笑いをしながら。

私が子供を産まないのは、子供嫌いということが第一にあるが、産んだ子を虐待しない自信がないからだという思いも強い。私自身、虐待はされず、むしろ溺愛されて育った方だ。それをいまだに一人占めしたい、我が子にさえも分けたくないという自分勝手な幼さを自覚しているし、私は子供を嫉妬の対象で見てしまいそうなので、今、尼のような生活を送っている。「産んだら可愛いと思えるよ」という他人の意見を鵜呑みにはできない。「可愛く思えなかったら?」という疑問が、このような虐待を見ると絶えず心の中に芽生えてしまう。なので私の場合は虐待の連鎖ではなくて、私の根本的な性格の問題だ。

則夫の母親は産む前にそういうことを考えなかったのだろうか。時代が時代だったし、彼女自身、虐待されて育ったから「虐待の連鎖」という言葉でつい納得しそうになるが、…いやいや、でもこれはあまりにも酷いじゃないか。

野口英世の父親も相当だめオヤジだったが、母親シカさんが愛情を持って育てたので、則夫のように犯罪を犯さなかった。
家族の愛情のあり方など、昨日の放送は本当に考えさせられた。

結局、則夫は死刑でこの世を去る。

番組終了後、母から電話があった。
「永山則夫は生まれてきて幸せだったんだろうか」
「幸せと感じた瞬間ってあったのだろうか」
「…」
ということを話した。
あまりにも重い内容だったので、二人とも無言になってしまう。

「ALWAYS三丁目の夕日」のノスタルジックな高揚の裏に、則夫のような貧困もあった、あの時代。
今だってそうではないと言い切れない。

彼は数多くの作品を獄中で執筆した。
それらが、これからの社会で活かされることが彼の本望だと思う。
第二の永山則夫を出さぬために。


※再放送は2012年10月21日(日) 午前0時50分
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