世界の中心で吉熊が叫ぶ

体長15センチの「吉熊くん」と同居する独身OLの日常生活

上善如水という生き方

2012年10月19日 23時09分45秒 | Weblog
昨日読んでいた小説の中で、主人公が美味しそうに日本酒を飲むシーンが描かれていた。




 酒が強い。官僚の言ったとおり日本酒が好きなようで、なみなみとグラスに注がれた冷酒を嬉し気に眺める。
「ああ、こんなおいしいお酒は、ジュネーブではまず飲めません」
 江戸切子のグラスに唇をあて、そしてちゅっと吸った。酒飲みの女がするなまめかしい動作である。すぐに飲み干したので、小原が酌いでやった。
「まあ、ありがとうございます」
 二杯めもすぐに飲み干した。
「私、ジュネーブへのお土産に、よく紙パックの日本酒を頼むんですけど、やっぱり日本で飲むものとはまるで違うわ」
「今、佐伯先生のお飲みになったのは、日高見といって日本でも一、二を争うもんです。うまいのはあたり前かもしれませんね」
(林真理子「アスクレピオスの愛人」より)




このシーンを読んで、涎を垂らしながら「明日の晩は絶対に日本酒を飲もう」と決めた。
今日、仕事からの帰りにスーパーに寄り、日本酒コーナーを徘徊。
まさか「日高見」は売っていないだろう。
どれにしようかな。

ふと、ある瓶に目が止まった。
「上善如水」である。

大学時代、日本酒デビューしたのはこの酒でだった。
「フルーティだよ」
「女の子でもイケるんじゃないかな」
と先導者の言葉で、確か居酒屋・海峡でデビューした。
ちなみに海峡の唐揚げは凄い。お皿に大きな唐揚げが聳え立っているのである。テーブルの中心はいつもこいつだった。
たしか500円ぐらいだったと思う。
初めて見た時は、何かの間違いだと思った。




帰宅後、「上善如水」を久々に飲んだ。
嗚呼、これこれ。懐かしい。



あの頃、「合コン」はあったけれども、今ほど社会の垢にまみれていなく、幼いものだった。
「女子会」という言葉は無く、普通に「飲み」と称されていた。あとは教授を囲ってのゼミのコンパ・ゼミコン。
覚えたての酒を飲んで、ただひたすら笑っていたような気がする。


「上善如水」とは、2500年以上前の中国の思想家・老子の言葉で、「もっとも理想的な生き方(上善)は、水のようである」
という思想のことらしい。たしか大学の哲学の講義でも勉強した。


水のようにたおやかに。
透明で、優しい。
しかし、秘めたエネルギーは巨大。
たしかに理想的な生き方なのかもしれない。

海峡で、仲間たちとケタケタ笑っていたあの頃の自分。
流れ流れて、金曜日にアパートでクマと一人飲みをする今の私になった。
誰もが理想的な自分像っていうものを秘めていると思うが、私にしても然り。
一人で静かに家飲みをする時間が必要な人間っつーのが、たぶん、私のそれに該当するのだ。



開けっぱなしの窓の外からは、秋のひんやりとした空気が入ってくる。
それは火照った頬を掠め続けた。