非国民通信

ノーモア・コイズミ

面の皮が厚い奴の方が役に立っている

2012-01-10 22:53:20 | 政治・国際

「がれき騒ぐほどでは」知事、受け入れ問題(朝日新聞)

 東日本大震災で発生したがれきの受け入れ問題について、佐竹敬久知事は5日にあった能代商工会議所の新年祝賀会のあいさつで、「食べもしないがれきの10、20ベクレルで、ギャーギャー騒ぐほどのことではないのではないか」と述べた。一般食品に含まれる放射性物質の新基準が、1キロあたり100ベクレルに設定されたことをふまえて語った。

 能代市内であった「新春のつどい」には来賓も含め約300人が出席。県によると、佐竹知事はこのほか「絆というなら、何でもないがれきぐらい受け入れてほしい」などと話し、がれき処理への協力を求めた。

 佐竹知事は6日にあった連合秋田の賀詞交換会でもがれき問題に触れ、「岩手のがれきを受け入れないということになれば、東北はひとつとは恥ずかしくて言えない」と話した。

 さて、被災地のガレキ処理を巡っては受け入れを表明した自治体に対して脅迫が相次ぐなど、お寒い状況もまた少なからず目立ちます。自治体によっては脅迫に屈してガレキ受け入れを撤回するところもあり、被災地復興の足を引っ張る形となっているわけです。一方、被災地のガレキは危険だとの偏見に基づいてガレキ受け入れを阻もうと抗議や脅迫を繰り返す輩の声を意に介さず「黙れって言えばいいんだよ、そんなの」と言い放ったのは東京都知事の石原慎太郎でした。発言当時、東京都にも3000件程度の受け入れ反対意見が寄せられていたそうですが、このときばかりは石原慎太郎の傲岸不遜ぶりが功を奏したようです。

 そして今回、秋田の佐竹知事が「ギャーギャー騒ぐほどのことではない」と語ったとのこと。こうして記事にされているからには、朝日新聞的には問題発言として扱いたいのかも知れません。まぁ、石原発言もそうですが政治家の言葉としては乱暴ではありますね。ただ、「ギャーギャー騒ぐほどのことではない」のは間違っていません。ある種の人々は放射線の影響は何万倍、何十万倍あるいはそれ以上に拡大解釈してはその危険を説いて回りますが、現実の放射線にそんな力はないわけです。福島第一原発の外壁とかならいざ知らず、単に沿岸部のガレキ、ましてや今回言及されている岩手県のガレキともなれば、放射性物質を気にしなければならないような話ではありませんから。

 もっとも、積み上げられたガレキは放っておくと自然に発火したりするなど、放射線とは全く無関係なところでそれなりに危険だったりします。とかく放射能の脅威ばかりが煽られる一方で、放射線「以外」のリスク要因に関しては目を背けられがちなのが2011年でしたが、ガレキ処理に関して同様の愚を犯すことがあってはならないでしょう。被災地に積み上げたまま処理が追いつかずに放置されるなんてことになったら、それこそ危険です。余力に乏しい被災地に代わって、ガレキ処理ぐらい他の自治体が手を貸すのは当然、「絆というなら、何でもないがれきぐらい受け入れてほしい」ですし、「岩手のがれきを受け入れないということになれば、東北はひとつとは恥ずかしくて言えない」わけです。

 しかしまぁ、石原慎太郎にせよ今回の佐竹知事にせよ、こういう面の皮が厚い人間の方が役に立っていることの意味を、我々の社会はよく考えなければいけないように思います。デリカシーに欠ける発言ではありますが、少なくとも偏見を植え付け差別を煽り、福島/被災地に纏わる諸々の排除を訴える連中に比べれば、言葉の乱雑さなど可愛いものです。ここで変にガレキ受け入れ反対を掲げる人の「安心」に配慮して、「安全」なガレキの受け入れすらをもストップさせてしまうような首長であったらどうでしょうか? それは国民の声に耳を傾ける首長なのか、それとも単に無責任なだけなのか。ガレキ受け入れを拒んでも困るのは被災地であって受け入れ(予定)の自治体ではありません。そしてガレキを受け入れることで非難の矢面に立たされるのは受け入れの自治体側です。批判に耳を傾ける、というのは一見すると大切なことですが、毎回それに頷いていれば済むのでしょうか?

 何でも御都合主義的に、自説に添うものであるかどうかで態度を決めてしまう人も多いわけです。つまり、自説に好都合であれば「批判/異論にも耳を傾けよ」と説きながら、自説と異なるものであれば「そのような見解を認めるべきではない」との立場をとる人も目立ちます。たとえば反原発論に関してはトンデモの類でも無視すべきではないと要求し、一方で歴史修正主義に関しては根拠なし、異論として認めるのではなくきっぱり否定しなければダメと退ける等々。私に言わせれば、何であれエビデンスに基づかないものはマトモに相手をするべきではないように思うのですが、政治的立場(反原発など)が絡むと、その政治的な目的にかなうものには甘くなってしまう人も少なくありません。

 一見すると、どんな意見にも耳を傾けるのが理想と考えられがちです。しかし、自身の妄想に基づいて外国人の害を訴え、その排除を求めるような人々とまで、「中立的な立場で」真面目に話し合う首長がいるとしたら、これはいかがなものでしょうか。まだ平時なら許せるかも知れませんが、被災地のガレキ受け入れは早急に進めなければならない問題でもあります。妄想や偏見を振りかざし、被災地からのガレキに限らぬ諸々を排除すべしと訴える人との対話に時間を費やし、被災地のガレキ処理を遅らせるとあらば、それこそ非難を浴びてしかるべきものです。トンデモに配慮することは世間に誤ったメッセージを発信することになります。時には、きっぱりと相手を退ける、それは真摯に相手をせねばならないようなものではないと態度で示すこともまた必要な場面がある、そして今がそのときなのではないでしょうか。

 

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コンサルや 博打は他人に 打たすもの

2012-01-08 23:08:56 | 雇用・経済

リクルートスーツは不要、卒業後3年以内もOK──ソニーのユニークな新卒採用方針(ITmedia)

 「卒業後3年以内も対象」「服装は自由」──ソニーが2013年度新卒採用でユニークな方針を掲げている。「多様な人材がいるからこそイノベーションが生まれる」として、「それぞれの個性を大切にするため、日本特有の“シューカツ”というルールを変える」という。

 対象に卒業後3年以内の人も含めることで卒業後に海外留学したり、起業したりといった「様々な選択肢を歩んだ人と出会いたい」という。マニュアル化された面接を避けるため、選考方法では複数のコースを用意。ワークショップや企画提案、プログラミング手法のディスカッションなどから選べるようにする。

 さて、ソニーの2013年度新卒採用方針が、ちょっぴり話題を呼んでいるそうです。まだ就職の決まっていない2012年卒業予定者をこれから大々的に採用しようとか言うのなら画期的と思えるところですが、その中身はどんなものでしょう。このソニーの新卒採用方針を大きく紹介するメディアでは「卒業後3年以内も対象」「服装は自由」という点を指して「ユニーク」と呼んでいます。へー。「卒業後3年以内も対象」って割と最近に民主党政権が言い出したことだったはずですが、その当時のことを忘れている人もいるのでしょうか。

 民主党内閣が「卒業後3年以内も」新卒者と同様に扱うべしとの提案をした時には、周囲の反応も随分と白けたものだったように思います。何を馬鹿げたことをと失笑を買うばかりであったように記憶しているのですが、同じことをソニーが言い出したら「ユニーク」なものとして紹介される、この点に関してばかりは民主党内閣に同情してしまうところです。まぁ、実際に採用の権限を持っている民間企業と、ただ笛を吹くだけの政府とでは、掲げたものが同じでも意味合いが異なってくることはあるのかも知れませんが。

 どのみち、「卒業後3年以内も対象」「服装は自由」とか、その程度のレベルで「ユニーク」なものに思われてしまう日本の就職活動って何なんだろうと、首を傾げるばかりです。とりあえず新卒一括採用を否定しておけばOKみたいなマンネリ化した日本型採用批判みたいなもので、「ユニーク」の基準が少しばかりずれているように思います。では本当に「ユニーク」な採用を目指すなら、果たしてどうしたら良いのでしょうか。

 奇をてらわずに手堅く、それでいて従来の就職/採用活動に変化をもたらすためには、有名どころでは極端に保守的な採用方針を誇るユニクロのやり方(参考)を裏返してみると良いかもしれません。つまりユニクロですと「早ければ大学1年からでも採用」「採用したらユニクロでアルバイト」「卒業したら店長に」みたいに日本の就職事情を悪臭が漂うまで凝縮したかのような方針が掲げられているわけですが、この逆をやれば確実です。すなわち「大卒見込に限らず採用、採用時期は遅くても良い」「学生のうちは会社の外での経験を重視」「卒業したら就職ではなく、本人に稼ぐ必要が出てきた時点で本採用」――このようにユニクロとは正反対のことをやれば、多少は風向きも変わってくると思います。ソニーはまぁ、60点くらいですかね。

 なお「人生の選択肢は無限にあります」とソニーの採用サイトでは掲げているのですが、例示されているのは「海外の大学に留学する」「起業する」「海外の企業でインターンシップを経験する」「家業を手伝う」「世界を旅する」と、どうにも通俗的な代物ばかりです。どうせだったら「パチンコや競馬にはまって身を持ち崩す」とか「部屋に引きこもって外に出ない日々を送る」とか「ひたすらネット上でソニー製品を擁護し任天堂もしくはアップル製品を叩き続ける」みたいな選択肢も認めてくれたら良さそうな気がするのですが、そこまでの覚悟はなさそうに見えます。「無限にあります」と大きく出たのですから、世間的にはネガティヴに扱われがちな生き方だって肯定してみせろよ、と思わないでもありません。

 それはさておき、「起業する」のもソニー公認の「人生の選択肢」のようです。コンサルなど、とかく無責任な人ほど他人に起業を勧めたがるものですが、しかし本人がその気になって起業して、若くして少なからぬ借金を背負うようにでもなったら誰が責任をとってくれるのでしょう。万が一、起業に成功したらソニーに就職する必要もなくなりますので起業に成功した人が応募してくる可能性は極小です。では起業に失敗して借金漬け、居場所がばれたら職場にまで取り立ての電話がかかってくるようになった人とかでも、ソニーは積極的に採用してくれるのでしょうか。

 起業なんて本人からすれば博打に等しい、当たれば大きくても大抵は外れるものです(言うまでもなく、景気が悪ければ悪いときほど当たる確率は下がります)。そして外れたときのダメージは小さくない、下手をすれば家族や友人をも巻き込みます。身内に起業しようなんて言い出す人が出てきたら、それは全力で止めないとダメです。もちろんあなたが筋金入りのギャンブラーなら話は別ですけれど(でも身内に賭博癖を持つ人がいたら、趣味を改めさせたくもなりますよね?)。

 期待値として、博打を打つ本人は儲からないものです。その代わり、博打を「打たせる」側が得をするようにできているわけです。起業とは要するに、そういうものなのでしょう。つまり起業に成功すれば大きいものの、ほとんどは失敗する、でもそのリスクは起業した個人(及びその身内など)に負わされます。これが社会全体から見たらどうなのか、誰かが起業に失敗しても、それが他人である限りにおいて痛くも痒くもありません。しかし、万が一でも誰かが起業に成功すれば経済にとってはプラスになります。あたかも起業さえすれば上手く行くかのように甘言を弄して若者を惑わそうとする人は後を絶ちませんが、それは少なくとも本人のためを考えての言葉ではないように思われます。

 

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消費税についてのまとめ

2012-01-06 22:56:03 | 非国民通信社社説

 さて、野田内閣の下いよいよ消費税増税が現実味を帯びてきました。基本的に不況期の増税は極めてリスクの高い行動であり避けるべきものと思われますが、特に消費税の場合は不況でなくとも問題が多い、そこで今回は消費税特有の問題点について、整理してみましょう。

1,税が複雑化する

 税がシンプルであることを理想とするかは論者によるのかも知れませんが、一般論として税はシンプルであるべきとされています。そうした点からすると究極系は所得税/法人税など直接税への一本化が頭に浮かぶところで、余計な煩雑さを付け加えるばかりの消費税を筆頭とした間接税など止めてしまえと思わないでもありません。何も税は消費税だけではないのですから、これに固執する必然性はないわけで、シンプルに所得税の累進課税や法人税、社会保障費の企業負担といったところを引き上げれば済む話です。

 確かに日本の消費税は軽減税率なし、インボイス制度なしの手抜きっぽい制度となっているために諸外国の付加価値税に比べればシンプルではあります。ただこのシンプルな税をストレートに引き上げるともなれば、消費税による逆進性は洒落にならないものとなってしまうわけです(逆進性については後述します)。この逆進性を緩和すべく、「日本より消費税が高い」とされる国の多くは食料品などの生活必需品、書籍や新聞などの文化財、医療や福祉、公共交通機関といった類いには消費税が課せられなかったり、あるいは著しく低い率に止められていたりするものです。そこで日本でも、こうした軽減税率の設定が議論されていますが、軽減税率を設けることによって別の問題もまた発生してしまうのではないでしょうか。

 まず第一に逆進性を緩和できるだけの軽減税率を設けるとなると、必ずしも税収が増えるとは限らなくなってしまいます。嗜好品には高い税を課しても食料品は免税ともなれば、トータルでの税収はいかがなものでしょう。これでは何のための増税なのか、単に社会を混乱させるために税を弄んでいるだけなのではないかという世界です。そして品目によって課せられる税率を個別に設定するともなれば、当然ながら税は煩雑化します。そもそも日本では消費税導入と引き替えに廃止された「物品税」が、ヨーロッパにおける付加価値税よろしく生活必需品を避けての間接税として存在していたわけで「消費税に軽減税率を設ける」=「消費税導入前の物品税に戻す」という側面も否定できません。まったく、何のための消費税導入だったのかと今さらながらに呆れますね。

 他にも逆進性緩和措置としては各種控除や低所得者向けの現金給付も検討されているようですけれど、これもどうなのでしょうか。もちろん低所得者向けに社会保障を強化していくのは悪いことではありません。ただ、増税によって生じた逆進性緩和のためにそれが行われるとあらば、なんだか10mの穴を掘ってそれを埋めさせるような、果てしない無駄を感じさせてくれます。わざわざ新たに制度を作ってまで補償するくらいなら、初めから逆進性の強い増税プランは避ける、それがシンプルで無駄のない財政計画と言えるはずです。消費税の逆進性を緩和するためには新たな社会保障支出が発生しますが、その財源もまた消費税増税?

2,滞納が多い

 普通の人にとっては死語だと思いますけれど、その昔は「クロヨン」とか「トーゴーサン」という言葉がありました。すなわち「9/6/4」「10/5/3」、源泉徴収を受けるサラリーマンと、そうでない自営業者や農林水産業者の課税所得捕捉率を指したもので、少なからず誇張はありそうな気がしますが、自営業者や農業従事者は所得を隠して税金から逃れているといったイメージを形作るものだったわけです。サラリーマンは源泉徴収されて容赦なく税金を搾り取られているのに、自営業者や農業従事者は所得を誤魔化し、本来納めるべき税金を懐に入れている――そういうイメージを作って不公平感を煽り、誰でも支払わされる「公平」な税として消費税が紹介されることもありました。というか、時代錯誤の消費税増税論者の中には今尚そういうイメージを持ちだしてくる人もいるので笑うしかありません。

 所得が真ん中くらいで扶養家族のいるサラリーマンともなれば、実は最も控除が厚い層になるだけに所得税はそんなに払う必要がなく、本物の富豪は分離課税のおかげで課税から逃れ、実質的に所得税が重くのし掛かってくるのは大手テレビ局とか大手新聞社に勤める人くらいと言う気もしますが、それ以前に今さら自営業者や農業従事者を僻むような発想を持っている人の存在の方が不思議です。もう、自営や農業で儲かる時代ではない、そういう人のチンケな所得隠しぐらい放っておこうよと思うのですけれど、まぁ経済を語っているつもりでひたすら道徳を語り続ける人は数知れません。脱税(節税)する人がいるのはけしからん、それを防ぐためには消費税しかないのだと――

 ところが、実際の租税滞納状況はいかほどのものでしょうか。国税庁によると、平成22年度の新規発生滞納額は以下の通りです。

源泉所得税  333億円
申告所得税  558億円
法 人 税  548億円
消 費 税 1162億円

 はい、一つだけ桁が違いますね。桁違いに滞納が多い税、それが消費税なのです。別に脱税は所得税だけで発生するものではないわけです。むしろ、消費税でこそ滞納が発生しやすいことは統計からも明らかで、不法な税金逃れによって懐を暖めようとする輩を成敗しようというのなら、まず消費税なんか止めてしまいましょう。所得をごまかす悪徳個人事業主だったら、納めるべき消費税額だって同様にごまかすものなのです。それをケシカランと憤るのなら、滞納の温床たる消費税という欠陥税制を見直してみることも必要と思われます。

3,負担者が曖昧

 間接税とは要するに、負担者が「直接」納税するのではなく、別の人が「間接」的に納める税のことです。つまり、AさんがB商店で105円の商品を買ったとして、これにかかる消費税5円を負担するのはAさんですが、実際に納税するのはB商店、そういう仕組みになっているわけです。ところで計算が簡単になるように「105円」という数値を例示しましたが、これが「98円」の商品だったらどうでしょう? 105円の商品ですと、本体価格100円に5円の消費税が上乗せされているイメージが強い、購入者であるAさんが5円の消費税を負担しているように見えると思います。しかし98円だったら? 約5円の消費税を負担しているのは、98円を払ったAさんでしょうか、それとも商品を98円で販売するB商店なのでしょうか?

 かつては「980円(税込1029円)」みたいな価格表示が主流であったことを覚えている人も多いと思います。この表示方式ですが、「総額表示」が義務付けされて以降は禁止されてしまいました。今では「1029円」と表示しなければならないことになっています。小売店にとっては、まさに悪夢のような制度改正でした。もちろん、値札の付け替えが地獄のような作業だったこともあります。しかし真の問題は、今まで「980円」で売っていたものを「1029円」と表示しなければならなくなったこと、これによって顧客に値上がりしたかのような印象を与えてしまうことだったのです。もちろん小売店の取り分は変わらないのですが、店頭で表示される金額は変わってしまいます。それでも売り上げに影響はないと、そう強気に構えていられた小売店は決して多くなかったはずです。

 結局のところ「980円(税込1029円)」で売られていた商品は総額表示義務付け後、専ら「980円(本体価格933円)」で売られることになりました。この辺も密かにデフレを進める要因になった気がしないでもありませんが、ともあれ小売店側が負担する形で「店頭表示価格」が維持されるケースも目立ったわけです。そしてこのとき、消費税を負担しているのは誰だったのでしょうか? 「980円(税込1029円)」であるなら、購入者が消費税を負担しているように見えます。しかし「980円(本体価格933円)」であれば、むしろ販売店側が負担しているように見えはしないでしょうか。そして「実際に」どちらが負担しているのかは永遠に曖昧なままです。

 制度として、「納税者」は決まっています。商品(サービス)を販売した側が納税します。しかし、納税すべき金額を販売側が価格に転嫁している/できているかどうかは把握する方法がありません。永遠のグレーゾーンです。果たして290円の牛丼に課せられる消費税を負担しているのは客なのでしょうか、それとも店なのでしょうか。過去の消費税導入時/引き上げ時には値上げした店もあれば、値上げ「できなかった」店もあったはずです。あるいは企業同士の取引でも「609万円、出精値引9万円(合計600万円)」みたいな形で時に端数を切ったりしますが、こういうケースでも例によって仕入れ側と納入側のどちらが消費税を負担しているのか曖昧です。結局のところ消費税とは、価格に転嫁するだけの立場の強さがない、「弱い」側が負担する税なのではないでしょうか。いずれにせよ、実際の負担者が曖昧であることは税の公平性という面から著しい欠陥であり、このような制度を存続させるべきではないと言えます。

4,立場の強い企業、とりわけ輸出企業にとっては益税になりがち

 上述の通り、消費税の負担者は曖昧である一方で、手続きとして納税する人は明確に定められています。そしてもう一つ、消費税の「還付」を受ける人もまた明確です。つまり、消費税は「仕入れにかかった消費税」の還付を受けることができるのですが、この還付金を受け取るのは「仕入れ側」と決まっています。以下は極限まで簡略化した例ですが――

A商店より1050円で砂糖玉を仕入れ、B社が2100円でレメディとして販売した場合
・A商店は消費税を「50円」納税
・B社は消費税を「100円」納税
・B社は仕入れにかかった消費税として「50円」の還付を受け取る

 ……大雑把に言えば、こういう仕組みになっているのです。これだと、あまり問題がなさそうに見えますね。では、次の場合はどうでしょうか?

A商店より1050円で砂糖玉を仕入れ、B社が25ドルでレメディとして「輸出」した場合
・A商店は消費税を「50円」納税
・輸出には日本の消費税が課せられないので、B社は消費税を納めません
・B社は仕入れにかかった消費税として「50円」の還付を受け取る

 はい、この場合B社は消費税を「納めた」額よりも「受け取った」額の方が大きいわけです。輸出先での納税状況次第では消費税の分だけ余計に儲けている疑いがありますし、日本政府の税収にも繋がりません。A商店の販売額が「1050円」と、いかにも「消費税を転嫁した」かのような価格になっていると、B社が消費税を「負担」しているように見えるので問題ないものとして扱おうとする人もいるようですが、しかるにA商店からの仕入額が「980円」とか「1000円」であったならばどうでしょう? 実際のところ、消費税をどこが「負担」しているかは力関係次第、制度の仕組み上、常に曖昧なのです。にもかかわらず、消費税の還付を受ける対象は明確です……

 たとえば上で例に挙げた「609万円、出精値引9万円(合計600万円)」みたいな仕入額であっても、仕入れ側は約29万円の還付を受け取ることができます。実質的には仕入れ側と納入側で折半しているかに見えそうな金額ですが、還付を受けるのは片方だけです。ここで立場の強い側、すなわち弱い側に消費税負担を暗に押しつける側には儲ける機会が生じます。特に輸出が絡む時には「輸出戻し税」などとも呼ばれるものですが、トヨタとかキヤノンなど大手輸出企業は「消費税を納めた額」より「消費税の還付を受け取った額」の方が何倍も多い、消費税が上がれば上がるほど「受け取る」税が増えるようになっています。誰が消費税を負担しているかは定かでないのに、税金を受け取る人は決まっている、何とも不思議な税ですね。とりあえず、なぜ法人税には強い忌避感を示す財界筋が消費税には概ね肯定的なのか、なぜ同じ税金でも片方を負担と訴え、もう片方の増税を意に介さないのか、その理由は考えてみるべきでしょう。

5,逆進課税である

 子供にも外国人居住者にも一律に課せられる日本の消費税ですが、どれだけ納税するかは「どれだけ消費するか」にかかってきます。そして所得に占める消費の割合は、どうしたって低所得者の方が高くなるのが一般的です。収入が21万円で消費も21万円の世帯であれば納める消費税は1万円、一方で収入が63万円で消費が42万円の世帯であれば納める消費税は2万円となります。収入に占める課税比率は前者が5%であるのに対し、後者は約3%、すなわち低所得層の方に重く課税されていることになる、このようなケースが一般的であるが故に消費税は逆進課税となるのです。

 この逆進性に対応するためには何が必要なのか、デンマークなどでは最低賃金が2000円超となっており(マトモな為替レートの時代なら2500円超!)、これであれば最低賃金で働いても日本の中流相当の収入になりますから消費税が高くても大丈夫みたいな発想もありますが、10円にも満たない最低賃金の引き上げですら大騒ぎするような日本社会では真似できないでしょう。では次善の策として軽減税率を設けるとか現金給付を云々とした場合の問題点は冒頭で述べた通りです。どうあっても消費税は逆進的、弱いものいじめ、あるいは社会を混乱させるだけのものになってしまいます。そこで目くらましとして所得税(の累進課税)も強めるとのプランもあるようですが、はっきり言って民主党案では微増の範囲、高度経済成長期に比べて累進課税が著しく緩和された状況であることには変わりなく、例によって分離課税も放置とくれば誤魔化しも良いところです。

 ところが、さらなる誤魔化しとして「消費税は逆進的ではない」との主張もあります。たとえば「誰しも最終的には全ての所得を消費するので、誰にとっても税率は同じだ」などと言い出す人もいました。これは方々で失笑を買った奇妙な想定で、現実には相応の資産を残したまま人生を終える高所得者と、カツカツの収入を使い果たして死んでゆく貧乏人に分かれるわけです。当然ながら所得に占める消費税納税額の比率は貧乏人の方が高い、やはり消費税は逆進的と言うことになります。流石に本人も現実離れしたものと気づいたのか、改良型として「死んだときに残された分は相続税として重く課税されるから、決して逆進的ではない」という主張もあるのですが、ではこれのどこがおかしいのでしょう?

 相続税なんて、ごく一部の金持ち限定の話だろうというのはさておき、ローンを組むことの意味が理解できる人なら、それはおかしいと気づけると思います。つまり支払いを先送りにできるのかどうか、あるいは即座に支払わねばならないのか、トータルで払う金額は同じであっても、支払い側にとっての負担は同じではないわけです。上記の消費税公平論の発想は、昨今では原発のコスト計算に適用されることが多いでしょうか。つまり廃炉や廃棄物の保管など将来のコストを無限に高く見積もった挙げ句、そうしたコスト全てを一括して「原発は高い」と結論づける安易な見解が目立つのですが、とりわけ運転資金にも苦労するような財政状況になればなるほど、「将来のコスト」と「直近のコスト」の持つ意味は異なってくるのです。それが理解できないようでは、消費税の不公平制もまた理解できません。

 日々の生活にも事欠くようなギリギリの生活をしている人にとって「買い物の都度に支払わなければならない税金」と「自分が死んだ後に支払えば済む税金」、どちらが優しいでしょうか。トータルの支払金額が同じでも意味合いは全く異なることが、少なくともローンを組んだことがある人ならわかると思います。一生お金に不自由しない産まれながらの富裕層であれば、いつ支払いを求められても同じなのかも知れません。しかし貧しい人にとって、支払いを先にできるかどうかは人生を通して切実な問題であり続けます。誰にでも容赦なく即時の支払いを求める消費税が弱者に厳しい税制であることは言うまでもないことです。

6,消費を抑制する

 消費そのものに課税するのですから、これは当然のことですね。税金を払いたくて仕方ない奇特な人もいるのかも知れませんが、大多数の人はなるべく税金は払いたくないもの、それが消費の度に課税されるともなれば消費が抑制されるであろうことは考えるまでもありません。現に消費税が5%に引き上げられた結果、バブル崩壊後のショックから立ち直りつつあった日本経済は再びどん底に叩き落とされ、現在に至るも復興する様子を見せていないどころか輸出依存度を高めるばかりです。そして景気低迷の結果、消費税増税前よりも税収は減りました。消費税が引き上げられた1997年は他にもマイナス要因が少なくなかったにせよ、不況要因に事欠かない中での消費税増税がどれほど危険な愚行であるかは、絶対に忘れてはならないことです。消費税増税は、せめて消費を抑制する必要があるときにやってください。むしろ今は、消費されずに残った「余り」に課税することを考えるべきでしょう。

・・・・・・

 以上6点の他にも、色々と問題は出てくると思います。アリバイ作り的に提案された所得税増税案の貧弱ぶりがかえって証明するように、政権交代を経てもなお我が国の政府は消費税増税への固執を続けていますが、果たしてそれは賢明なことなのでしょうか。少なくともここで挙げた6点の問題に対して、消費税増税に固執する人たちは解決策を見いだしていないどころか、向き合うことすら拒んでいるかのようです。最も簡単な解決策は、消費税増税「以外」にも税収を増やす手段は存在しており、かつてはそれで成功していたことを思い出すことです。ギリシャは消費税率を引き上げましたが財政破綻しました。消費税「以外」にも視野を広げることができなければ、ただただ社会を混乱させ、低所得層を絞り上げるだけにしか繋がらないことでしょう。意図して後者を狙ってるんじゃないかと思えてくるフシがないでもありませんが!

 

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少年よ大企業を目指せ

2012-01-04 23:10:48 | 雇用・経済

糖尿病:中小企業、患者割合高く 経過観察、約7割「何もせず」--調査(毎日新聞)

 従業員300人未満の中小企業に勤める人ほど、糖尿病患者の割合が高く、企業側から従業員に対する検査や指導などの働きかけも少ないことが、独立行政法人労働者健康福祉機構の研究班(班長=佐野隆久・中部労災病院副院長)の調査で分かった。企業の規模や取り組みによって、有病率に差があることが判明したのは初めて。研究班は「勤務と治療の両立を後押しする仕組みが必要」と話す。
 
 調査は、昨年から今年にかけて愛知県内の企業323社に実施した。従業員が50人未満の小企業、50~299人の中企業、300人以上の大企業に分けて解析した結果、1000人あたりの糖尿病の従業員の割合は、大企業39・4人、中企業47・0人、小企業63・0人と企業規模が小さいほど高かった。また、大企業の約6割は、定期健診で経過観察が必要になった従業員に定期的な検査や指導をすると答えたものの、中小企業の約7割は「何もしない」との回答だった。
 
 労働安全衛生法に基づき、大企業の多くは産業医が常勤する一方、中小企業の大半は、非常勤か不在だ。中小企業では、平日は受診しにくいなど治療継続が難しく、勤務と治療の両立に苦労する人が多いとみられる。

 中小企業と大企業で生涯年収に大幅な差が出てしまうのは、よく知られた話と言うより常識のようなものなのかも知れませんが、いざ調査してみると糖尿病患者の割合でも結構な差が観測されたようです。おそらくは糖尿病に限らず、多種の疾病に関しても同様であろうと推測されます。なんだかんだいって勤める企業の規模によって差は出てくるもの、給与は元より福利厚生や雇用の安定度合いや休暇日数などでも大企業と中小企業、零細企業とで差は大きい、これに加えて従業員の健康管理の面ですら企業規模による格差が見られるですから、まぁ企業選びは大切ですね。選ぶ余地がある限りは大企業を選ぶべき、それが間違いのない選択と言えます。中小企業勤めで健康を損ねてから後悔しても遅いですよ!

 有病率に差が生じる原因については引用元記事でも伝えられているところで、大企業であれば定期検診だけで終わらず後々のフォローがある一方、中小企業は7割が「何もしない」とのことです。自社の従業員の健康管理に取り組む意思のある企業もあれば、健康管理は自己責任とばかりに何もしない会社もある、おそらくは従業員が通院などで会社を休むことに非協力的な職場も多いことでしょう。そしてデータとして従業員の健康に配慮しない会社は中小企業に多いことが明らかにされているわけです。不祥事でも労働問題でも、どうしても名前の売れた会社(≒大企業)が槍玉に挙げられることが多いですけれど、より雇用主として悪質なのは中小企業の方であって、少なくとも相対的には大企業の方がマシと言えます。

 一口に大企業、中小企業といってもピンキリで、中小でも優良な企業もあれば大企業でもいわゆるブラック企業は多々あります。故に「大企業でなくとも優良企業は存在する、中小企業に目を向けろ」と説くコンサルタントの類いは後を絶たないわけです。ただ、それは個別の企業を見れば例外が存在することを示すのみであって、中小企業全体、もしくは大企業全体に当てはまるものでは決してありません。冒頭の引用記事からもわかるように、どうしても全体像で見てみれば大企業と中企業、そして小企業の間には越えられない壁があるのです。例外的な「当たり」を引くことを望んで中小企業に応募した先は、当然のように失望が待っていることでしょう。

 特に中小企業の見せかけ上の求人倍率が高くなっていることもまた、コンサルの妄言を産む土壌ともなっているのですが、企業規模に見合わぬ大量もしくは頻繁な求人には注意が必要です。企業規模に比して不自然に多くの求人が出ていると言うことは、それだけ人員補充の必要性に迫られている、すなわち人が次々と辞めていく/辞めさせられる職場であることを意味します。数年前まで、この手の企業が求人を出すのは専ら中途採用向けだったのですが、近年の超・買い手市場の元でブラック企業でも新卒の大学生を簡単に獲得できる環境が整いつつあるため、ブラック企業が新卒市場に進出するケースも目立つようになりました。とりあえず前途ある若者はこのような企業を避けるため、なるべく安全な大手を探すべきでしょう。ブラックなら、後からでも就職できるのですから。

 企業規模は小さくとも優良な企業というものは確かに存在するのですけれど、では大手企業を捨てて中小企業を狙うようになれば、そういう優良企業に就職できるのかと言えば、当然そんな簡単な話にはなりません。私の知る範囲でも、特に近年はニッチな業界で仕事をしていることもあって「世間一般では無名だが実は世界レベルでシェアを持っている企業」みたいなところと取引することが多いのですが、どこも採用には積極的ではありません。優良な企業であるが故に、人が辞めない/辞めさせないので人員補充を急ぐ必要がないのでしょう。逆に担当者がコロコロ変わる、いつも電話越しに怒号が聞こえてくるようなヤバイ会社との取引もありますけれど、こういう会社は採用に積極的です。もちろん、中途採用もやってます。理由は言わなくてもおわかりいただけますよね?

 中小でも優良な企業はありますが、決して中小企業=優良企業ではありません。あくまで例外的なものが存在すると言うだけです。そして全体像を均してみれば、給与などの待遇面だけではなく、あろう事か健康管理においてすらも大企業>中企業>小企業なのです。もし業界に精通しており外から見ただけで会社の内部事情を見抜けるつもりなら、中小企業の中から「例外」を自分の手で探り当ててみるのも良いでしょう。でも、普通の学生にそれは無理な要求だと思います。会社で働くのはこれからという新卒者に、嘘で塗り固められた求人票の中から実態をイメージすることを求めるのは酷でしょう。未来ある新卒者に博打を強いるようなものです。むしろ新卒者には安全な道をこそ勧めるのが親心というものではないでしょうか。「可能な限り大きな会社を選んでください」それが私から新卒者へのアドバイスです。大企業であれば間違いは少ないですし、大企業から中小企業に落ちてゆくのは簡単です(逆は至難と心得てください)。何より大企業に入れるチャンスは新卒であってこそ得られるもの、新卒であるうちは大企業に拘ることをおすすめします。

 

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まずおまえのところの週刊誌を廃刊にしてみたらどうだ

2012-01-02 23:10:27 | 社会

放射能が列島を裂く〈リスク社会に生きる・プロローグ〉(朝日新聞)

 放射能への不安が、列島を分断する。

 東京電力福島第一原発から千キロの佐賀県武雄市役所。11月末、千件を超えるメール、電話が殺到した。

 「安全な九州を守って」。被災地のがれきを受け入れるという市長の方針に向けられた抗議は、ほとんどが県外からだった。

 「離れている方も声をあげて」。首都圏からネットで抗議を呼びかける人々もいた。匿名の脅迫もあり、市長は数日で方針を撤回した。被災地でボランティアを経験した市議は言う。「なんで部外者が口出しをするのか」


 冒頭で例に挙げられている武雄市の件については既に取り上げました(参考)ので繰り返しませんが、これを枕に持ってくる朝日新聞の姿勢は随分と無責任だな、と思います。なぜこのような偏見に基づく排除が横行しているのか、記事には「放射能への不安が、列島を分断する」などと掲げられていますけれど、その不安を煽ったのは誰なのか、偏見が植え付けられてゆくのを指を咥えて眺めていたのは誰なのか、むしろ朝日新聞社(追記、2008年より朝日新聞出版でした。もちろん完全子会社です)から出ている週刊誌などは率先して妄想だらけの放射「能」情報を広めては、福島(及び被災地)に纏わる諸々が危険であるかのごとき誤解を広めてきたわけです。AERAの記事は全面的に誤りであったとして謝罪広告を掲載するとともにAERAを廃刊にするとか、そういう措置をとるでもなく「放射能への不安が~」などと他人事のように語り出す朝日新聞社の良識を疑います。


 不安は家族をも分かつ。

 原発から230キロの東京都目黒区。「夫を置いて西日本へ逃げたい」と4歳の男児の母親(28)は思う。

 原発事故が生活を変えた。幼稚園に通う息子に常に二重のマスクをさせ、晴れていても雨がっぱを着せる。帰宅後はすぐにシャワーを浴びさせ、ペットボトルの水で全身を洗い流す。

 「そんなことやめろ」と夫は言う。けんかはときに、3時間に及んだ。「どうせ分かってもらえない。夫にはもう何も言わない」


 新興宗教にはまり込んでは、夫を置いて(娘を連れて)教団に駆け込んでしまった親戚の話も以前に書きましたが(参考)、まぁ家族にとっては迷惑きわまりない話です。率直に言って子供がかわいそうでもありますが、何かを盲信するようになった人には周りがとやかく言っても手遅れです。新興宗教であれ脱原発カルトであれ、そこにのめり込むまでに他の誰か(この場合は夫)が心の支えになってやれなかったと責めることはできますが、ともあれ巻き込まれた子供にとっては大迷惑、その子の一生に傷を負わせることにもなりかねません。状況によっては、母親の狂気から子供を守るべく周りが強制的な行動をとることもやむを得ないのではないでしょうか。報道されたような事例で専ら被害を被っているのは子供であり、状況によっては母親を子供から引き離す、母親が正常に子供の面倒を見られるようになるまで「母親を休ませる」など、児童虐待の場合と同様の対策が必要であるように思います。少なくとも、事故から9ヶ月以上経過してもなお東京で危険だと信じ込んでいるような人に対しては、もはや話し合いでどうにかなると悠長に構えるべきではないでしょう。


 人々は福島を避ける。

 原発から66キロの福島県須賀川市。安全な農作物の直販を売りにしてきた農業生産法人「ジェイラップ」は原発事故後、注文が半分に減った。

 この秋収穫した米や野菜に含まれる放射性物質は、日本より厳しいウクライナの基準を大きく下回った。だが顧客はまだ戻らない。「福島産というだけでブレーキを踏まれる」。伊藤俊彦社長(54)は嘆く。


 そしてこの辺も深刻な問題なのですが、「人々は福島を避ける」状況を作り出そうと先頭に立って旗を振ってきたのが朝日新聞社の週刊誌だったはずです。東京電力は心が広いのか責任感が強すぎるのか、それとも単に反論の機会を与えてもらえないのか他社が撒き散らした被害も黙って自社で受け止めてくれますけれど(でも結局は税金が回りますが)、AERAの発行元だって賠償の責任を負うべきではないでしょうかね。少なくとも良心の呵責ぐらい、朝日新聞社には持ってもらいたいところです。それはさておき朝日新聞本体だって十二分に今の状況を作り出すのに貢献してきたわけで、たとえば「日本より厳しいウクライナの基準~」みたいな書き方はどうでしょうか。こうした誤解を招く表現が積み重ねられたこともまた、福島が避けられる事態を招いているように思います。

 つまり、国によって、あるいは原発事故から経過した時期によって、そして品目によって放射線の基準値は異なるのですけれど、そうしたバラバラの安全基準値の中には事故直後の日本の基準値よりも厳しいものもまた少なくありません。そうした(事故直後の)日本より厳しい基準値だけを選り抜いては、「日本の基準値は緩い、危険だ!」との誤った情報を広めようとする輩が相次いだわけです。言うまでもなく、日本の放射線量に関する基準値は国際的なそれと比べて特に甘いものではないのですが、どうにも間違った印象が広められてしまった、それを朝日新聞を含めたメディアも黙認しがちだったのではないでしょうか。引用記事で触れられているウクライナの基準だって一概に日本より厳しいと言えるのかどうか(少なくとも事故1年目の基準値はウクライナの方がずっと高い)、その辺を朝日新聞は何も考えていないようです。そして、あたかも日本の基準がウクライナ(及び世界標準)よりも緩いかのようなイメージを流布させ、結果的に消費者の不安を煽る、福島が避けられる状況を作り出してきたと言えます。


 1954年、ビキニ水爆実験で「第五福竜丸」が被曝し、魚の放射能汚染に関心が集まった。「子どもを守りたい」と母たちは署名運動に打ち込み、原水禁運動として全国に広がった。

 周囲の視線は、決して温かくはなかった。深夜まで署名の確認作業を続ける母を、父親は「バカなことをするな」と叱った。その姿が、悩み惑う今の母親たちとどこか、重なる。


 今になってみると「魚の放射能汚染」とは心配するポイントが少しばかりずれているように思えますが、核実験への反対と反原発論を同列に語る記者もまた、核保有のために原発維持とか語っちゃう石破みたいな薄ら馬鹿と同レベルで、まぁ苦笑するほかありません。「悩み惑う今の母親たちとどこか、重なる」とのことですけれど、「今」の(一部の)母親がやっているのは児童虐待であって、誰かに迷惑をかけるわけでもない署名運動とは根本的に異なります。核実験への反対が盛り上がっても先軍主義者が苛立つだけで誰かが困窮するというものではないのに対し、上の方で紹介された男児の母親(28)は放っておけば子供を巻き込んで家庭を崩壊させる恐れがあるわけです。どちらも自分の信じる正義のための行動という点では重なるのかも知れませんが、周囲に被害を与えるかどうかという点では全く異なっています。まぁ、署名運動に打ち込むあまり、子供の面倒など見ないようになった、家に寄りつかないようになったというのなら「重なる」と言えますけれど。

 何かにつれ今回の原発事故を過去の被曝事例と並べて論じ、あろう事か広島や長崎あるいはチェルノブイリと同等とかそれ以上であるかのごとく語る連中もいます。実際に起こった被害の規模から見れば全く比べものにならないことは言うまでもありませんが、悲劇の主人公気分でも味わいたいのでしょうか。自転車にぶつかって捻挫した人が、車にはねられて死んだ人と自分を重ね合わせているとしたら、いくらなんでもそれは自分に酔いすぎだと思うところです。今回の事故も十二分に深刻であることは間違いありませんけれど、残念ながら下には下がある、今回の事故よりも桁外れに悲惨なことも過去には起こってきたわけです。その過去と今回の事故を同列に並べている人を見ると、むしろ過去つまり広島や長崎、チェルノブイリの事例を軽く見ている、その犠牲者を冒涜しているように思われてなりません。広島や長崎、チェルノブイリはこんなものでは済まなかったのですから。今回の事故もまた等身大に評価されるべきであって、これを過大に評価することは過大な恐れを生む、世界の破滅ごっこを楽しむ前に、それが風評被害や差別にもつながっていることは意識してほしいものです。

 

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