非国民通信

ノーモア・コイズミ

常識を身につけた分だけ不寛容になる例

2012-01-26 22:55:08 | 社会

教えて!ウォッチャー…会社宛は「御中」と書き直さなきゃダメ?(教えて!ウォッチャー)

教えて!gooに、こんな相談が載っていました。lugalさんは、あることに納得がいきません。それは、企業が用意した返信用封筒の宛先の下に「○○行き」と書かれているのを、わざわざ「○○御中」と書き直す必要があるとされていること。

「御中と書き直すのは常識?」

親からは、書き直しをしない人は就職などの出願のときに「はじかれる」と言われます。しかし、印刷されている部分をグチャグチャ消して、隣に書き直す方が見苦しいと感じてならない質問者さんは、「そんなの知るかい」と思うのが正直なところです。

■「行き」のままでは「呼び捨てと同じ」か

内心馬鹿らしいと思いつつ書き直してはいますが、郵便局で聞いたところ、最近では大学受験の願書にも「御中」と書かない人が増えたのだとか。であれば、いずれこんな文化は消えるのではないか。「皆さんはどう思われるでしょうか?」

常識は文化やマナーと同様、「暗黙の了解」の一種であり、価値を共有しない人同士ではなかなか分かり合えないもの。回答者からは予想通り「私は馬鹿らしいとは思わない」という反論が見られます。

「常識というより、ビジネスマナーとして最低限の行為」(yumi0215さん)

「『○○様』や『御中』にして出さなければ、相手を呼び捨てにするのと同じです」(inu-cyanさん)

「会社は差出人の常識を判断しているのかも知れませんね」(ocean-banさん)

 さて、大雑把に言えば「御中と書き直すのは常識?」と問いかけた質問者に対して、他人に説教したくてたまらない人がここぞとばかりに押しかけたようです。一連の回答者は自信満々に「常識」を説いているわけですが、では実際のところはどうなのでしょう。一般に「御中」と書き直すのは常識とされています。ただし、「御中」と書かなかったからといって「はじかれる」かどうか、少なくともビジネス上の文書であれば、まずそんなことはありません。封筒の宛名が「御中」になっているかどうかをチェックする人なんて、普通はいないですから。封筒はおろか送り状だって速やかにゴミ箱行きの運命、「御中」に書き直そうが「行き」のママにしておこうが、その違いに気づかれる可能性の方が低いと思われます。

 ただし、それは会社と会社との関係など、基本的に対等なビジネスの場合に限った話です。しかるに上下関係、というより一種の「権力関係」が絡むと話は変わってきます。質問者の親御さんが言うように、就職などの出願のときに「はじかれる」可能性は否定できません。大学受験の願書でも学力重視の大学ならいざ知らず、人間形成に力を入れてしまうような学校ともなれば「はじかれる」こともあるのではないでしょうか。なぜなら、彼らは「落とす理由」を探している、減点できるポイントを探しているからです。

 

これに対し質問者さんは、指摘されたことは知っているが、「常識がないのではなく、必要がないと感じている」と反論します。「行き」が「御中」になっているからといって、「この人は礼儀を守る人なんだ」と感じたこともなく、逆に「行き」のままが失礼だと思ったこともありません。「人がチェックするのは文章 であって、封筒の表面ではないからです」

 ここで質問者が言うように「チェックするのは文章であって、封筒の表面ではない」場合、つまり通常のビジネス上の文書などであれば、「行き」か「御中」かを気にするような暇人に遭遇する可能性は極めて低いわけです。ところが就職などの場合は事情が異なります。採用側がチェックするのは、中身とは限りません。むしろ外面の方だったりするものです。封筒の宛名が「行き」になっているか「御中」になっているか、そういう時点から採否を図っている可能性は否定できないでしょう。

 とりわけ昨今では、「教えればすぐにできること」が「初めからできている」を求められる傾向にあるように思います。たとえば電話応対ですとか基本的なビジネスマナーの類ですね。この辺、新社会人は躓きがちなポイントかも知れませんが、そうは言っても1ヶ月もあれば誰でも身につけられるものではあります。最初に「できていない」としても、特に気にするようなことではありません。しかるに、電話応対すらできない、ビジネスマナーを知らない云々と新人の出来の悪さを嘆く言説は増加傾向にあるのではないでしょうか。こんな時代だけに、宛名が「行き」のママか、それとも「御中」に直してあるかみたいな些末なポイントで採用側が差を付けようとしたとしても不思議に思うことは何もありません。

 会社に対する従順さを問われる場面でもあります。「行き」のママでは企業という神聖な存在への冒涜として扱われることもあるでしょうし、引用元における回答者もまた、そのように考えているであろうことが窺われます。ただ困ったことに、「御中」書きレベルならまだしも、しばしばビジネスマナーの「常識」は日本国内ですら、どこでも同じように通用するものではなかったりするわけです。自分の語っていることこそ「常識」だとご満悦の回答者の思惑とは裏腹に、「社会人としての常識」なんて代物は、それこそ会社の数だけあります。ある組織の中では「常識」とされることでも、他の組織の中では「非常識」とされることも少なくないのです。

 たとえば、最初から「御中」で印字されている返信用封筒を送りつけてくる会社もありますが、この辺も一部の了見の狭い会社からは非常識と見なされることもあるのではないでしょうか(「行き」を「御中」に書き改めるのが常識であって、最初から「御中」では非常識だと)。他にもたとえば挨拶の言葉とお辞儀のタイミングなんてのも解釈の分かれるところで、挨拶と同時に頭を下げるのが正しい派と、挨拶を終えてから頭を下げるのが正しい派がいるわけです。宛名の書き方でも「課長○○様」派と、「○○課長様」派がいたりして、本則は前者とも聞きますが後者を使っている人が多い気がします。いずれにせよ、前者に従えば後者を信じている人からは失礼と思われ、逆に後者に従えば前者を信じている人から非常識と扱われる、そういうこともあるのです。例を挙げればキリがありませんが、ある会社で「常識」とされることを守っていたところで、他の会社では非常識と見なされることも当たり前のようにあります。引用元で鼻息を荒げて「常識」を語る回答者もまた、別の場所では非常識とみなされている可能性はありそうです。

 

そんな反論にもかかわらず、回答者からは「ビジネスマナーの意味を理解すれば、当たり前なことだと分かるはず」という意見が大勢を占めています。中には「自分が正しいと思うなら貫いてみればいい」「世間がそれをどう思うだろうか」という声のほか、「ご両親のおっしゃっている『はじかれる』というのは、あながち間違いではありません」とまで言う人もいます。ちょっと怖いですね。

 それでもビジネスマナーの曖昧さを理解できず、自身の正しさを信じてやまない回答者の説教は続いたようです。奢りだな、としか言いようがありません。結局、必要がないのではないかとの質問者の問いには答えられていないわけです。たしかに、「行き」が「御中」に書き改められていないことを以て非礼とする人はいます。しかし、人はいかにして「行き」では無礼だと感じるようになるのでしょうか。「行き」が「御中」に書き改められていないことを失礼と感じるかどうか、その辺の子供に訊いてみたらいいと思います。まぁ、学生でもいいですけれど。

 誰かに教わることなく自然と「行き」に気分を害する人は、おそらく存在しないでしょう。ただ、外部から「行き」を「御中」に書き改めないのは礼を失することなのだと、そう教え込まれることで初めて「行き」との表記を非常識と感じるようになるわけです。果たして、このようなビジネスマナーもしくは常識を身につけることは、その人にとって幸福なことなのでしょうか? そんな「常識」を知らなければ、封筒の宛名ごときに気分を害されることなどないわけです。しかし、「常識」をすり込まれた結果として、封筒の宛名一つで相手にネガティヴな印象を抱くようになる――まさに人格が損なわれています。

 男性のネクタイとかスーツとか、あるいは女性の化粧とかも、これと似たようなものであるように思います。ノーネクタイやノーメイクを、産まれながらにして無礼と感じる人などいないはずです。しかし、ノーネクタイでは失礼だ、化粧もしないのは恥ずかしいことだと、そういう「常識」の刷り込みが行われた結果として、ノーネクタイなりノーメイクなりが非礼として成り立つようになります。「常識」を知らなければ失礼と感じることはない、特に気分を悪くするようなことはなかったのに、「常識」を身につけた結果として他人をマナーに欠けると感じるようになるとしたら、何とも馬鹿げたことではないでしょうか。常識なりビジネスマナーを身につければ身につけた分だけ、他人を非常識で不快な存在と感じるようになる、自ら了見を狭くしているわけです。

 

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