福島10市町村がコメ作付け 「国の制限受け入れ難い」(河北新報)
福島県の2011年産米から1キログラム当たり100ベクレル超500ベクレル以下の放射性セシウムが検出された地区について、国がことしのコメの作付けを制限する方向性を打ち出したことに対し、該当する12市町村(56地区)のうち10市町村が国の考えに反して例年通り作付けする方針であることが分かった。市町村の担当者は「作付け中断は耕作放棄と離農を招き、受け入れ難い」と話している。
10市町村は福島市、伊達市、本宮市、田村市、白河市、川俣町、桑折町、国見町、大玉村、西郷村。河北新報社の18日までの取材に、いずれも「ことしも作付けしたい」と回答した。残る二本松市と相馬市は「国の判断を待つ」と結論を留保している。
福島市で100ベクレル超500ベクレル以下が検出されたのは16地区で、作付け制限されれば約800戸の農家が影響を受ける。国の現行の暫定基準値の500ベクレルを上回り、既に作付け制限の対象になっている2地区の約500戸を含めると計約1300戸に上り、市内の全農家の4分の1を超す。
市は「1年でも耕作をやめれば田んぼは荒れ、高齢の農家は生産意欲を失う」(農政課)と判断。農林水産省に「国の方向性を改め、全域で作付けさせてほしい」と要請した。除染と放射性物質検査を徹底させ、新基準値(100ベクレル以下)を満たしたコメに限って出荷するとしている。
新基準として食品に含まれる放射性物質の基準値が100ベクレル/kgに厳格化されるわけですが、その影響で新たに作付け制限を受ける見込みの地域も少なからずあるようです。この新基準値導入によって低減が見込まれる被曝量は年間で0.008mSvと推計されており、原発とは無関係の放射性カリウムなどによる被曝量が年間0.41mSv程度であることを鑑みれば、安全面ではほとんど意味のない規制であることがわかります。また食品に限らぬ外部被曝なども考慮すれば原発事故などなくとも世界平均で年間2.4mSv程度は被曝しているわけで(東日本は世界平均より低めではありますが)、ここで0.008mSvの増減があろうとなかろうと、何かが変わるものではありません。約2.4mSvから0.008mSvを引いても約2.4mSvのまま、誤差の範囲ですから。
「新基準が施行されれば広範な田畑が作付け制限を受けることは必至です。福島の農業が壊滅的打撃をうけることになる。これは、豊かな農業県でもある福島復興の道を閉ざすことに等しいです。福島に生き生活するものとしてとうてい容認できません」
以上はコープふくしまの理事、佐藤理氏による放射線審議会第122回会合での発言です。消費者が新基準値によって得られるものは、ほぼ純粋に精神的な「安心」に限られる一方で福島の生産者は大きな打撃を被ることが懸念されています。得られるものと失うものを比べてみると、大いにバランスを欠いていますね。それこそ「健康のためなら死んでもいい」の世界で、本末転倒と言うべきでしょうか。あるいは、もっとタチが悪いのかも知れません。「放射能を避けるためならどんなことでも」とばかりに東京から西日本に移住しては生活を破綻させたりするくらいなら犠牲になるのは本人、最悪でも本人の家族までに止まります。しかるに今回の新基準値では、福島の生産者という「他人」を犠牲にしてしまうわけです。
消費者の安心のための新基準値でよいのか?(FOOCOM.NET)
一昨日、昨日と、私は福島県にいて、農業者の話を聞いた。新基準値案の影響はもう、いろいろなところに出始めているようだ。
何人もの人が言ったのは、「500から100下げても、気にする人は安心しない。500から100にしたのなら、次はゼロだ、となるはず」というものだ。実際に、大手食品メーカーに「もう、福島のコメは使えない」と言われ、今年の契約を切られるかも、という生産者が出て来ている。
昨年は、原発事故直後だったが契約は切られなかった。今年の方が放射性セシウムの量は少ないと予想されるのに、「使えない」と言われる。ゼロ志向の消費者に商品を測定されて、小さな数字であっても検出され騒がれるリスクを、大手食品メーカーは考慮に入れざるを得ない。「福島切り」がはじまっている。
むしろ昨年の方がまだしも、被災地復興に協力しようとする気運は強かったのかも知れません。一方で放射「脳」とでも呼ぶべきゼロリスク幻想を抱く人々は、ワンテンポ遅れて盛り上がっているように見えます。そして、どんなに微細な数値でも放射性物質が検出されれば騒がれる(時には不適切な測定方法によって検出された数値に基づいて騒がれることもあったり)、これを恐れたメーカー側が福島で生産された食品を敬遠する動きは、今年に入ってからの方が先鋭化しているのかも知れません。何とも無体な「福島切り」ですが、「外国人お断り」の論理と同じで、自分が差別するつもりはない、ただ外国人/福島産を嫌う客もいるからと言い訳されてしまうのでしょう。
福島に限らない被災地のガレキ処理の問題でも同様です。意外や福島差別をさんざん煽ってきたアレな人でも宮城や岩手のガレキ受け入れにまでは反対しなかったりする一方、その辺の人々の信者は違うらしく今まで信奉してきた人に呪詛の言葉を向け始める始末で苦笑させられたりと色々ありますが、有名人の中にも山本太郎みたいにガレキ受け入れ反対と公言してはばからない人もいるわけです。そもそもガレキ処理で放射性物質が拡散とかお笑いぐさも良いところだとか、東北の地理を考えればむしろ岩手より千葉や東京の方が福島に近いじゃないかとかツッコミどころは諸々ありますけれど、とにかくダメなものはダメだと騒ぐ人もいます。
とはいえ、ガレキを危険物扱いするのなら(放射性物質「以外」で色々と危険要因はあります。未処理のガレキからアスベストなどの粉塵が富んだり、自然発火したり)、尚更のこと被災地に押しとどめるべきではないはずです。そこは被災地復興に協力するのが筋というものですが、自分が危険だと信じるものを被災地に閉じ込めてしまえ、我々の住む世界から切り離せと、そう考えている人がいるのでしょう。そして上記食品における「福島切り」も然り。無闇矢鱈の危険視もさることながら、自身の「安心」確保のためにリスクを一方的に福島など被災地へ押しつけようとしている人がいるわけです。加えて、こうした安心を求める国民の声に政治が媚びているのもまた実情だったりしますが、その分だけ割を食うのは福島を中心とした被災地です。被災地の切り捨ては、むしろ現在こそ進められているのではないでしょうか。震災の影響とは無縁な地域で暮らす人々の「安心」のために!
その意味では、普段は鼻をつまんで読む産経新聞に
ガレキ受け入れをした島田市長が同紙インタビューに答える形で
「この際、首長の独断でガレキ処理をするしかない」と発言したのは、
納得せざるを得なかった。
「説明」ではなく「治療」が必要な段階だと私は前々から書いてきたわけですが、ガレキ処理問題のように被災地復興を妨害することにもなると、もはや悠長なことは言っていられませんからね。不安を訴える人の「理解」のために被災地をほったらかしにして良いのか、そう思うとこの際「首長の独断」もやむを得ないと言えそうです。
生活保護しかり、社会保障しかり、「無駄」なり「少ない犠牲」なりと認められそうなものなら、コストやリスクという免罪符に言い換えて、どんどん切り捨てて行く。
あまりに無頓着に他者を切り捨てることに人間が慣れすぎていて、被災地も被災者も切り捨てよう、ということなのでしょうか。
あるいは、分かっていて、あえて切り捨てて行く、全体の利益のためなら仕方ない、などとという発想が横行しているのなら、もはや日本は病気であって、近代国家と呼べる理性を失っているとしか言えません。
切り捨て即ち排除の論理ばかりが優先で、誰かを守ると言うことが無駄と呼ばれるようになって久しいですからね。むしろ全体の利益なんて見えてすらいない、ただただ「害」なり「無駄」なりを排することしか頭になくなっているのではないでしょうか。
こういう人たちの言うことを受け売りにしている反対派が、身の回りにもいます。さすがにそこまで酷いとは思っていなかったのですが・・・・・・
ますますもってカルト化が進んでいる感じですね。当初より言うことが支離滅裂で混乱や不安を広めるばかりの人であったわけですが、震災から1年近くがたった今なお彼らのいうことを真に受け続ける人がいる、二次的な被害を食い止めるためには、こうした人への対応ももっと真剣に検討されることが望まれます。
想像を絶するものがあります。管理人さんが言ってきたこともよく分かります。
木下黄太は、完全に教祖の域ですね。外部の人からは白眼視されるけれど、しかし盲信する信者もまた存在する。さらには良識家ぶって木下黄太とは距離をとるように見えても、実は世界観を共有している人もいますし……