枝野経済産業相は24日午前、東京電力の西沢俊夫社長らと経産省内で会談した。
枝野氏は「(賠償金支払いに)公的資金を使うので、10年間で2・5兆円のリストラ策は最低でも特別事業計画に盛り込んで欲しい」と述べ、国の支援は厳しいリストラが前提との意向を強く示した。
東電は11月にリストラ策と、国に対する支援申請を盛り込んだ緊急特別事業計画をまとめる。
枝野氏は西沢社長に「被害者の目線に立った計画にしてほしい」とも述べ、賠償を円滑に進めることを優先した内容にするように求めた。
緊急計画のもとになる、東電の経営を調査した「経営・財務調査委員会」の報告書は、東電の当初の試算額の約2倍にあたる2兆5455億円のコストが削減できると分析していた。
この枝野という議員は衆愚政治を体現していると言いますか、いわゆる「民意」の中でも聞き入れるべきではない(聞き入れることが社会にとってマイナスに作用すると思われる)部分を、ことごとく代弁してくれているような気がします。ある意味では国民目線に近いのでしょうけれど、それが国民のためになるとは限らないことを、枝野は身を以て示し続けることでしょう。
さて枝野は「被害者の目線に立った計画にしてほしい」との触れ込みで、東京電力にリストラを迫ったそうです。「被害」を与えているのは東京電力だけではなくて、謂わば火事場泥棒的に自説(実態からかけ離れた放射能の脅威)を広めては風評被害を煽り、福島近隣住民に脅しをかけ続けている人々なんかも含まれるべきではないかと思われるのですが、まぁそういう人が幅を利かせることを防げなかった責任は我々の社会が全体として負担するしかない、つまりは税金で賄われるしかないものなのかも知れません。ともあれ、枝野は東京電力にリストラを迫りました。しかし、これは何を招くでしょう。東京電力の人員削減が進めば、賠償や事故の収束が円滑に進んだり、今後の電力供給が安定化したりするのでしょうか?
何かに連れ「罰」が最優先されてしまうのも民意には違いありません。被告人の罪を最大限に厳しいものにしようと頑張ってこそ「被害者目線」として扱われがちな時代でもあります。こういう時代の空気に考えなしに同調してしまう政治家ほど、まずリストラありきみたいな発想になって、それが賠償などの円滑化や電力供給の安定化に結びつくのか、あるいは足を引っ張ることにはならないかといった配慮は二の次にしがちです。しかるに世間の耳目を集めた事件の「加害者」を強く罵倒すれば罵倒しただけ世間の支持は得られるものであるにせよ、それが問題解決に結びつくとは限りません。むしろ厳罰化論がそうであるように、犯人を罰することにばかり関心が集まり、被害者のケアが背景に追いやられることだってあるわけです。
そもそも、本当に無責任で儲けにしか関心がないような会社であったなら、リストラ策はむしろご褒美です。人員削減を強行して不足分は労働強化で補わせ、賃金もギリギリまで抑え込んで利益を確保しようとする企業は枚挙に暇がありませんが、一応はそういう企業を批判的に見る向きもあります。だけど、政府がその背中を押し、それを主導してくれるとなったらどうでしょう? 東京電力にブラック企業と同じことをやれと、枝野/民主党政権は迫っているわけです。どうしても日本の世論上は、一般労働者に経営責任を負わせるのは当たり前、財務状況が悪いなら労働条件の不利益変更も当然のことと、資本主義とは異なる道徳律が優先されがちです。その道徳律に沿った実績が積み重ねられていくことで、いずれは公務員や東京電力社員に止まらず、民主党政府推奨の元あなたの給料が下げられてゆくことにも繋がりますが、それもまた民意に添った結果です。東京電力がここで歯止めを掛けてくれることを期待するほかありませんね。1人の労働者として東京電力を応援します。
ギリシャでは、公務員と民間企業の労働者が肩を並べて政府に抗議する光景が見られます。公務員の賃下げは遠からず民間企業の賃下げにも繋がること、労働者の権利を守るために共に戦わねばならないことを理解しているのでしょう。翻って日本では、世論こそが政府に賃下げを迫っているわけです。あいつらが高給を取っているからダメなのだ、あいつらの給料を下げるべきなのだと、そう固く信じて疑わない国民達が行政に圧力を掛け、賃金カットを求めてきました。そして民意に応えようとする政府と企業経営者の元、日本で働く人の給与は順調に低下を続け来たと言えます。きっと日本人のアイデンティティは「他罰」なのでしょう。それはすなわち「我欲」の対極にあるもので、自分の立場を間接的に危うくすることになろうとも、他人が良い思いをすることを許さない、そういう精神です。
かつて菅直人は「首切りのうまい経営者は優れた経営者であるはずだと言ってたくさんの給料をもらっている。国は国民をリストラすることはできない。国民全体を考えたら、リストラする経営者ほど立派だという考えは大間違い」と言って日産のカルロス・ゴーンを批判していました。しかしゴーンが首を切ったのは自社で働く人たちです。自分の会社に出資する人や顧客を切り捨てたわけではありません。そして菅直人が切り捨てようとしていたのは日本政府で働く人――つまり議員なり公務員なりです。公務員の削減や給与カットで国民に媚びを売ろうとしている政治家がカルロス・ゴーンを批判するとは、何とも臍が茶を沸かすような話ではないでしょうか。
政府を企業に喩えるなら、社員に相当するのは公務員です。では国民は? 立場的に近いのは政府のためにお金を出す人々、つまり投資家であり株主に該当するのが国民と言えます。ゆえに、国民に向けて公務員の削減を訴える政治家とは、会社に喩えるなら株主に向けてリストラの強行をアピールする経営者みたいなものです。そしてリストラする経営者ほど立派だという考えは大間違い、と宣う首相がいた一方で、公務員/東京電力社員を削減する政治家ほど立派だという考えは全く反省されてすらいないのではないでしょうか。国民全体を考えたら、それは間違いに他ならないと私は思いますけれど。ましてやゴーンのリストラは経営立て直しのためであるのに対し、菅/民主党がやろうとしているリストラは投資家/国民に「我々は頑張っています」とアリバイ作りをするため、点数稼ぎをするためのものでしかありません。ゴーンと日産株主よりも、民主党政権と世論はもっとタチが悪いです。
税金(公的資金)が投入される先に対する国民の態度は、強欲な投資家が会社に対して見せる態度よりもずっと思慮分別に欠けるケースが目立ちます。株主の中には「会社は我々のものだ」と主張して、従業員の負担など省みることなく、ひたすら自分たちの利益ばかりを追い求める人もいますけれど、では国(政府)にお金を出している国民(納税者)は彼らを批判することができるのでしょうか? 税金が使われる先で働く人に対して、国民がどれほど傲慢なまなざしを向け、働く人の権利をどれほど蔑ろにしているかを思えば、まだしも投資家筋の方が歯止めが利いているようにすら感じるところです。自分たちの金が投入される先で働いているからと言って、それを理由に相手を支配することができるわけではないのですが、「会社は株主のもの」と語る投資家よりも、その辺の普通の人の方がずっと、自分が出した金が使われる先に対して横暴に振る舞っているような気がしてなりません。我々の「民意」は、実は経団連なんかよりもよほど、財界寄りなのではないでしょうかね。
まあそう言ってみて帰って来るであろう答えは「だからギリシャは赤字で首が回らなくなるんだ!」といったものでしょうけど。
確かに「自分の立場を間接的に危うくしますよ?」というのは説得材料にはならないでしょうね。
しかし、今の日本では「税金」がからむと、管理人さんご指摘のように、「民意」はいまだに他罰傾向が強く冷静さを欠き、社会にとっても経済にとっても悪くなる一方の「画期的なコストカット」や「公務員や教員の給料を下げるべし」というプロパガンダが流され、市民も同調してしまってい(あるいは同調しているようにメディアで喧伝され)ますね。
先だっての反格差デモ(それ自体に様々問題があることはおくとして)にしても、市民の側からの共感や注目があまりに少なかったことが、この日本の病態を示していると思います。分断統治の生きた見本のようにも思えます。
賃金も待遇も低い立場の人間が、他人に喜んで奉仕などしてくれないだろうことは、ちょっと想像すれば分かるはずですよね。
自分が悪い状況でも頑張るということと、同輩や他人の給与を下げろ、と吠え立てることはイコールではないはずです。
真っ当な待遇なり報酬なりを求める、という正当な権利の主張をしないで、他人の権利を侵害して、結果として自分の首を絞め続けている日本社会は、完全に自家中毒を起こし、末期的状況にあるな、と暗澹たる思いです。
「民意」って言葉は黄門様の印籠のごとく権威を振りかざすために使われていますが、公務員の人員削減はすべきでない、東電のリストラはすべきでないと考える人も居る訳でそういう人の声も聞く事が民意を重んじると言う事では無いのでしょうか?多数派の意見だけを重んじるのは民意を重んじてもいないし、民主主義的とは言えませんね。
まぁ日本人たるもの、自分たちの暮らしが立ちゆかなくなることより政府や自治体の財政を気に掛けてナンボですからね。
>不備さん
リストラで会社の利益を確保しようとする経営者に懐疑的な人はいても、同じことを政府がやろうとするならば何の疑問も感じないような人ばかりなのですよね。自分たちの金(税金)が使われているのだから、自分達に服従して当然、みたいにどんな強欲な投資家も真っ青の傲慢さが民意には備わっています。
>amanojaku20さん
むしろ厳罰化論よろしく、いかに被害者をケアするかより、いかに「加害者」を罰するかが重要なのでしょう。憎き東電を痛めつけることができるなら、賠償が滞ろうが電力供給が滞ろうがお構いなし、それもこれも東電が悪いのだ!と。で、こういうノリに同調しない意見は工作員ということになっているのですから始末に負えません。
しかし、Yahoo!とかのコメントを見ると「詫びる必要なし」というものばかり、「みんな菅野が悪いんだ!」というノリを感じます。
「正しい」ほうが「悪い」ほうの言うことに耳を貸さずに押し切るスタイルのほうが世間受けはする、ということを再確認した次第ですが、しかしそれでは交渉は成り立ちますまい。私は日本ハムのように大人な話し合いができるようにしたいですね。
まぁ読売の囲い込みが半ば球界の合意を得られていた状況だったからこその今回の騒ぎでもあるわけで、こういう突発的な指名が悪いことかというと、その点は疑問を感じる人が多いのは当然だという気はしますね。まぁ、菅野獲得のために有効な戦略であるというのなら頭を下げてみるのも手段なのでしょうけれど、日ハムの「お詫び」は、その戦略の一環なのでしょうか? どうも場当たり的なもの、世間の反応に怯んだだけにも見えますが。
日本社会においては、他人の不幸に対して「本当はお金持っている」といった考えを持っている人が、中産階級を中心に多いような気がします。あと「みんなもっともらっている」という感覚も。基本的に自分は他人より苦労しているという感覚と他人は自分よりも楽して稼いでるという感覚が共通しているようです。何故なんでしょうね?他人に対して協調的に振舞うことや謙遜が悪く出ているのではないでしょうか?それは何よりも日本社会自体がこれまでと同じ慣習ではやっていけない状況になっているからだと思うのですが。結局押し付けられた共同性の裏に奇妙な個人主義が蔓延しているという昔からのベタな社会構造が未だに再生産されているということなのだと思います。感情的には一度そんなのぶっ壊されれば良いと思いますが、自分も含めて経済的に弱い立場の人々が一番割りを食うのは明確なのでしつこく粘り強く変革を追求するしかないと思います。
私としては、高齢者同士の所得格差を税金と社会保障で平準化し、高齢者のお金を介護・福祉分野を通じて若年層に再分配し、購買力の低下と出生率の減少に歯止めをかけ、その流れのなかで新たな成長産業の創出に時間的余裕を作ることが出来れば、現在の日本の経済規模と借金の構成からいって、堅い選択肢であると思うのですが。
政策的にまともなものがないということが、やはり問題なのだと思います。
まず、原子力損害の賠償に関する法律(いわゆる原賠法)第三条には、原子力損害について原子力事業者が責任を負うべきことが定められていると同時に、適用除外の条件についても定められてます(下記)。
【原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。】
今回の代表訴訟は本条ただし書きを根拠とするもので、今回の地震災害は「異常に巨大な天災地変」に該当するとして、東電は自らが免責されることを国に訴えよ(債務不存在確認訴訟または賠償請求)というのが原告の主張です。
それにしても震災以来東電が「加害者」のように扱われています。でも、よくよく考えてみると、どういう手続きで「加害者」と決まったのでしょう?被災地でも東電が加害者として賠償金を払っているような印象ですし、報道もそういう雰囲気になってます。
しかし、結果的に東電に過失ありとなるかもしれませんが、現時点では東電と国との共同責任であり、被災者への補償は、東電と国とが協力して行うべきです。国は汚れ仕事を東電に押しつけて、東電が作った賠償請求マニュアルにケチをつけるなどで東電を悪者にしようとしているように思えます。(これらは原子力行政の歪みを端的に現していると考えますが、本論を逸れるので詳細は割愛します)
枝野のやっていることは、責任が確定していない東電に対して、さも「国が払ってやるんだから身銭を切れ」と言わんばかりにリストラを迫る、あたかも示談屋まがいの行為ではないでしょうか。
現在、東電は免責規定の適用を主張していません。被害者感情に配慮しているのかもしれませんし、風向きを考えると今動かない方が得策だという経営判断かもしれません。
社民党・共産党も大企業(社員含む)は常に悪だという身勝手な原理原則に従って、東電に払わせるのを当然のように思っています。他の党も東電の肩を持てば支持率に響くという打算で黙っているようです。
これが法治国家でしょうか?民主政治でしょうか?
そうなってくると、最後の拠り所は裁判所です。この訴えを個人株主が起してくれたのは幸いでした(東電が自発的に起したら猛烈なバッシングを受けるでしょうから)。株主代表訴訟が通ること、そして、代表訴訟が通ったら東電には必死で国と争って欲しいと思います。私は今後の成行きを見守り、株主や東電を支援したいと思います。
まず、菅野が巨人志望を表明するのは自由だし、日ハムが事前に意思表明せずに黙って指名することも自由です。抽選の結果第一交渉権を得たのは日ハムですし、日ハムに会うも会わぬも菅野の自由だし、菅野に謝るも謝らないのも日ハムの自由です。それが今のドラフトのルールでしょう。
ところで、日ハムが菅野の交渉権を得た途端に、巨人の渡辺オーナーは「ドラフトは憲法違反だ」と息巻いているそうです。まぁ、野球界では渡辺がルールなのかもしれないし、スポーツのルールなんて変えたかったら変えれば良い訳です。ただ、百歩譲って渡辺の一存でルールを変えることができるとしても、憲法第39条前段で事後法の禁止や遡及処罰の禁止が定められているように、渡辺がドラフトの結果までねじ曲げようとしていること自体が「憲法違反」だと思うのです。
それに、憲法違反のように重大な問題があるんだったら何故もっと早く指摘しなかったのでしょうか。職務怠慢です。そもそも、関係者である渡辺だって憲法違反の筈のドラフトを放置してきたことになる訳でしょう?今更こんなことを言うのは寝坊してパジャマで出社する位滑稽なことです。
さて、利害が対立する中で上手に有利なルールを導入することも、広い意味で競技の一部と言えます。日本がオリンピックの柔道で勝てなくなったのも、JOCがそのへんの検討や行動を怠っていたからです。ルールづくりの段階から勝負は始まっていると言えます。
このへんは、青木 高夫「なぜ欧米人は平気でルールを変えるのか」(ディスカヴァー携書) に面白いことが書いてあります。大村 敦志「ルールはなぜあるのだろう―スポーツから法を考える」(岩波ジュニア 新書)もお奨めです。 それにしても、政治家がこのあたりに鈍感だから、ISO9000の導入やBIS規制で遅れを取ってしまっています。昨今話題になっているTPPにも右往左往するばかりで、政府は本当の意味で国益にかなった対応ができるのか心配になってきます。