非国民通信

ノーモア・コイズミ

いかにも経済誌らしい考え方

2014-07-04 22:16:04 | 雇用・経済

チベットの少女から学んだ「仕事の本質」(PRESIDENT Online)

90年代になり、中国政府の方針変更によって寺院の再建が始められた。ガンデン寺も修復工事が始まり、建築物は少しずつ復元されている。修復工事といっても、重機などは一切使われていない。ほとんどを人手に頼っている。建物に使われる重い石材を年端もいかない少女たちがいくつも背中に背負わされ、舗装もされていない急坂の上り下りを繰り返している。

(中略)

すると、ローさんは小さな声でこう私に囁いた。「でも、彼女はお寺の再建の仕事をしているから幸せなのです」。

私はガーンと頭を殴られたようなショックを覚えた。それはけっして高地で空気が薄いからではなかった。

年端もいかない少女が背中に重い石を積んで運ぶ。その姿だけを見れば、あまりにも理不尽で、非人間的だ。常識的な人間であれば、そんなことをさせてはいけないと感じるだろう。

でも、チベットの人たちにとって、彼女の仕事は単なる「石運び」ではない。彼女は「お寺の再建」に関わっている。だから、仕事の内容がどうであれ、彼女は幸せなのだとローさんは言うのだ。

彼女自身がどう思っているかは知る由もない。しかし、おそらくローさんと同じ思いを持って仕事に励んでいるのだろう。
 
私たちは仕事の「価値」を社会的、客観的な物差しで判断しがちだ。たとえば、警察官や医者、看護師といった仕事は社会的に役に立ち、価値が大きいと評価する。

それはそれで間違ってはいないのだが、実は仕事に対する物差しはもうひとつある。それは仕事の「喜び」だ。周囲から「つまらない」「大変そう」と思われようが、その仕事を通じて「喜び」を感じることができるのであれば、それはけっして苦痛ではない。主観的な物差しである仕事の「喜び」がなければ、どんな仕事も無味乾燥なものになってしまう。

「何をしているのか?」(What)だけが大事なのではない。「なんのためにしているのか?」(Why)も大事なんだよということを私はチベットの少女に教えてもらった気がしている。

 

 何と言いますか、いかにも日本の(自称)経済誌らしい記事ですかね。それっぽく美談にまとめているつもりのようですが、まぁ経済誌のヨタを真に受けてしまう頭の弱い読者もいるだけに、これでも通用してしまうところもあるのでしょうか。チベットの少女に教えてもらった云々と締められていますけれど、目の当たりにしたと称する事例を出汁に自説を仮託しているだけなのではないかと思えないでもありません。

 この記事を読んで私が真っ先に思い浮かべたのは、ワタミのことです。今でこそ一定の批判も出てきたとは言え、その会長は自民党政権時代には自民党から、民主党政権時代からは民主党から支援されて選挙に出たりするなど、一貫して日本の政府与党公認の存在でした。目立ちすぎたが故にクローズアップされているところもありますが、日本的な仕事観の最大公約数的なものとしてワタミイズムは確立されているように思います。ここで引用した作文もまた、ワタミ的なるものをよく体現しているのではないでしょうか。

 その昔、オウム真理教の経営するパソコンショップがありました。独特の呼び込みに眉を顰める人こそいたものの、地下鉄サリン事件の前まではネタとして親しまれていたものです。販売価格は常に秋葉原の最安値を争っていることから敢えてオウムと知って買いに行く人もいたわけですが、その安さの秘密は専ら「人件費がタダだから」と噂されていました。信者を修行と称して無償で働かせている、店員に給料を払う必要がない分だけ安く販売できるのだ、と。

 本当かどうかはさておき、オウム真理教的なビジネスモデルはその後の日本のデフレ時代には幅広く受け入れられていったと言えます。新興宗教の手法はセミナー商法引いては企業向け研修に採用されていったりもするものですけれど、まぁ我が国にはそういう土壌があるのかも知れません。人件費を低く抑え、従業員に無理を強いてその分だけ安価なサービスを提供することでシェアを伸ばす、そういうビジネスモデルが持て囃されてきたわけですが、これは一足早くオウム真理教が実践してきた類でもありますから。

 とかく日本的経営においては、仕事をビジネスと見なすことが好まれないようです。社訓という名の社長(もしくは創業者)の恥ずかしいポエムを朗唱させられ、働くのは金のためではないとして「やりがい」を提示される、それが日本の職場というものです。本来なら誠意とは言葉ではなく金額なのですが、労働への対価が明示するのではなく、情緒的なスローガンで誤魔化そうとするのが日本的経営であり、「ありがとうを集める」云々と宣うワタミなどは象徴的存在であると言えます。

 そして冒頭の引用もまた然り、労働への正当な対価が支払われずとも「お寺の再建の仕事をしているから幸せ」だの「主観的な物差しである仕事の『喜び』が」等々と、いかにも日本らしい繕い方が披露されているわけです。「幸せ」なり「やりがい」なり「自己実現」といった美辞麗句を提示することでビジネスにおいて本当に大事な金の問題から目を背けさせ、理念への共感を求める、こういうのはいかにも日本の経済系の論者にありがちな話の進め方ですが、まぁ日本経済の低迷をどういう人が主導してきたかがよく分かりますね。

 

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コメント (7)
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