非国民通信

ノーモア・コイズミ

運動はいかにして失墜するのか

2009-05-23 22:51:35 | 編集雑記・小ネタ

 昔々、家が貧しくて苦労している青年がいました。それでもいつの日か成り上がってやろうと苦学を重ね、ついには松下政経塾に入塾、時の為政者達と同様の価値観を身につけ、彼は政治家としての一歩を踏み出しました。しかるに自らが信奉する政府与党の門を叩いたものの、5代にわたる名門中の名門にして後の総理大臣である某議員から「キミのような貧乏人の小倅を日本の総理にはできないわなあ」と一蹴され、彼は挫折します。失意の中、やむなく野党第一党に合流、自民党に加わるのではなく、自らが自民党になることを目指すことになりました――民主党、前原誠司の誕生の瞬間です。

 ……というのは勿論、全部です。部分的に当たっている箇所はありますが、あくまで捏造です。でもまぁ、麻生だったらそれくらいは言いそうですし、政策面から判断すれば前原氏は生粋の自民党政治家に見える、ただ政治家の子供に生まれなかっただけ、そういうフシはありますよね。そんな前原氏が、先の民主党代表選では岡田氏を推していたせいなのか、前原氏の政策=自民党の政策に否定的な人の中には、岡田氏をも否定的に見る人が少なからずいました。あの前原が推しているからには、岡田も同類に違いない、と。

 確かに岡田氏にも微妙なところが多々あるわけですが、しかるに対立候補であり、結果として勝利した鳩山兄はどうなのでしょうか? 岡田とは反対で、実質的に小沢が推していたところが大きかったのかも知れません。前原が推す候補となると怪しいが、小沢が推す候補なら…… このように政権交代論者から際立って嫌われているのが前原であるわけですが(その反動で自民党筋や極右層からは一目置かれていたり)、しかし河村たかしや土屋たかゆきなど、言語道断な歴史修正主義者や極右扇動家は民主党内にも少なくありませんし、鳩山にしたって自民党と一緒に改憲を目指す仲です。それでも前原だけが嫌われるとしたら、ある意味で氏は民主党の問題を矮小化するためのスケープゴートの役割を果たしているのかも知れませんね。党そのものへの批判をかわすための。

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 手段と目的、理由と口実、この辺を区別すべきだと何度となく書いてきました。しばしば両者は入れ替わるものですから。

 「目的」が同じであれば、「手段」が異なっていても同志と呼べるでしょう。ところが、当初は同じ目的を共有していたはずの人々の中でも、手段が目的化することで次第に溝が生まれることがあります。例えばそう、昨今の政治情勢に対する問題視、後先を考えない企業優先の政策や目的としての軍事力行使(それが手段であるならば、もっと安価な方法が選択されていなければなりません)を止めるため、不利な立場にある人々でも安心して暮らせる社会の実現のため、そういう「目的」が共有されていたとしましょう。これが運動の第一段階です。

 次に、この「目的」達成のための「手段」が問われます。どうしたら? ある人はこう答えました「自民党にこれ以上、政権を持たせていてはダメだ、もっと他の党がタクトを握る必要がある」すなわち「政権交代が必要」だと。では、政権交代のためには何が必要でしょうか? ある人はこう答えました「最も政権交代に近い位置にある政党に力を託すのが有効である」すなわち「民主党を勝たせよう」と。私はもうちょっと別の手段もあると思いますが、まぁそういう考え方もアリでしょう。ちゃんと元来の目的を見据えていれば、ですけれどね。

 というのも昨今の政治ブログ界隈では、どうみても当初の目的を見失っているとしか思えない言論が目立つわけです。政治を良くするための手段としての政権交代ではなく、政権交代そのものが目的になっている、政権交代の手段としての民主党集中制が、いつの間にか民主党の勝利自体が目的になっている、そうとしか読めない言論が急速に増えています。かつては手段として支持した民主党なのに、いつのまにか(民主党を支持した)自分の正しさを証明するために躍起になっているかのように見えるケースもちらほら。こちらで書いた「トルシエサッカー」的なる状態に嵌り込んでいる政権交代論者も少なくないのではないでしょうか。

 アフリカの内戦ではしばしば、「どうして戦っているのか誰も知らない」場合があるそうです。ちょっと誇張されているかも知れませんが、そう言うこともあるでしょう。戦っているうちに、理由なんてどうでも良くなってしまうものです。ただ、目の前の勝利を目指すのみ、と。昔年の左翼運動の終末期って、たぶんこういうものだったのではないかとも思います。何のための革命か、そんなことはどうでも良くて、気がつけば自らの党派や組織の勝利のために戦っているわけです。

 私のように明示的に左翼を称していると、昔年の左翼的なるものの負の部分にも自覚的であらざるを得ませんが、逆に自称中道(=反左翼)やガチガチの民主党支持者(=反共産党)ですと、無自覚であるがゆえに轍を踏みやすいところもあるのではないでしょうか。自分はこれだけ左翼を否定している、共産党に批判的なのだから、その失敗とは無縁に決まっている、そう思いこんでいるかも知れませんが、実態は逆です。極右層の考え方がが北朝鮮や中国の政府と似るように、しばしば人は憎悪している対象と似るものです。ならば中道を称して、政権交代のために共産党は民主党に道を譲れと訴えているような人ほど……

 「クリーンな政治」の実現が目的であるなら、その手段として何を訴えるかはさておき、小沢一郎にも批判的にならざるを得ないはずですし、歴史修正主義に反対しているのなら、河村たかしの当選を喜ぶなど論外です。そして新憲法制定議員同盟が掲げるような路線での憲法改正に反対であるならば、言うまでもなく鳩山など話になりません。それでもその議員が「民主党だから」「政権交代のため」といって無批判になる、あるいは宗旨替えして擁護するのなら、その時点で間違いなく、当初の目的は失われているのです。それが元々の目的に矛盾しようとも躊躇しないわけですから。何のために民主党を推していたかなど、とっくに忘れているのでしょう。

 まぁ、所詮は狭いブログ界の話です。選挙の勝敗を決めるのは、もっと「軽い」人々の票なのでしょう。民主党支持(往々にして「自分は別に民主党支持ではないが」と中立ぶるものですが)の一部ブロガーがどれだけ迷走したところで、大勢に影響はないのかも知れません。ただ、当初は「目的」を共有する同志(私は共産党支持、彼らは民主党支持と目的実現のために選んだ手段は違ったにせよ)だと思っていた人々が、その目的を見失って「党の勝利」のため盲目的になっている様を見るのは、いい気分はしませんね。

 

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