非国民通信

ノーモア・コイズミ

構造改革を考える

2007-07-15 20:48:19 | 非国民通信社社説

 「構造改革を止めてはならない」とか「痛みを伴う構造改革が必要」とか、そう語る人もいます。確かに何らかの構造改革は必要でしょうし、それに伴うであろう痛みを乗り越えることも求められるのでしょう。しかるに問題は、今まで「構造改革」と銘打って行われたことの大半が「構造改革」とは名ばかりの安易な切り捨てに過ぎなかったところにあります。

 都合の悪い部分を自分とは切り離し、悪いのはあいつら、自分は悪くない、そう主張するのが自公政権の「構造改革」でした。不採算部門を切り捨て、残る採算性の高い部門を集めただけの財政再建、社会保障や地方財政、中小企業や個人事業主を切り捨てて、不採算部門は「あいつら」の世界の出来事、残った採算性の高い部門を「俺たち」の世界として、「俺たち」の世界を自画自賛するのが今なお受け継がれている「構造改革路線」です。あるいは、無業者層、貧困層、被告人、公務員、社会保険庁、こうした諸々の非難される対象を「あいつら」として他人事と捉え、それを非難する「俺たち」とは別の世界の出来事として扱う、「奴らは汚らわしいが、我らは正しい」そう考えるのが現行の構造改革の精神でしょうか。

 本当に必要な構造改革とは何なのでしょうか? 外国資本が参入できるように手はずを整えること? それともILO基準から見れば灰色の水準に労働条件を引き下げることでしょうか? 構造改革を口にするのであれば、まず日本経済の特徴がどのようなところにあるのか、それを認識した上で行われなければなりません。

 OECD加盟国などの先進国と比較した場合、日本にはどのような特徴があるでしょうか?

①、低い最低賃金
②、正規雇用と非正規雇用の賃金格差が大きい
③、若年層と中高年の賃金格差が大きい
④、中小零細企業が多い
⑤、闇労働参加率が極端に低い
⑥、労働時間が長い、サービス残業が多い
⑦、プロになるのが難しい
⑧、地方自治体の議員報酬が高い

 このほかにも色々とあるわけですが、ともあれ構造改革はどこから着手したらよいのでしょうか? たとえば③の若年層と中高年の賃金格差などは、若年層の給与は低いまま据え置かれ、彼らが中高年になっても薄給に留めおかれる(「実力主義」がこれを正当化します)ことで格差がなくなりそうですが、そんなものは是正でも何でもありません。低いものは低いまま、高いところを削り落とすだけでは単なる切り捨てであり、構造改革と呼べないのは当たり前です。

 そこで①低い最低賃金②同様に低賃金の非正規雇用の問題です。当然、最低賃金は大幅に引き上げる必要がありますし、非正規雇用に対しては同一労働同一賃金の徹底、正規雇用への切り替え、もしくは不安定雇用のリスクに対する相応の保障が必要となります。ところが、これに対して実現は難しいとの意見も根強いわけです。曰く、現行の低賃金労働者の給与を引き上げると雇用側が成り立たない、それが結果として雇用情勢を悪化させると。

 現行の「構造改革」は採算性に問題のある企業や団体を切り捨てて来たわけですが、諸々の労働規制緩和によって結果的にそれを延命させています。すなわち規制緩和によって労働コストを切り下げることが容易になり、従業員にまともな給与を支払えない欠陥企業であっても人件費を切り詰めることで延命できるようにもなっているわけです。しかし、このような在り方をいつまで続けるつもりでしょうか?

 「痛みを伴う構造改革」を主張するのであれば、その「痛み」を乗り越えなければならないわけですが、現状は目先の「痛み」を恐れて延命措置を続けるばかりです。つまり最低賃金の大幅な引き上げや非正規雇用の待遇改善に対応できない事業主、従業員にまともな給与を支払えない雇用主には撤退してもらわねばならないわけですが、これには当然、改革に伴う「痛み」が発生します。改革のためにはその「痛み」を乗り越えなければならないわけですが、その「痛み」を脅しに使って劣悪な労働環境にメスを入れることなく延命させているのが小泉・竹中から安倍政権まで引き継がれている「構造改革」という名の抵抗勢力でもあるのです。

 さて、トヨタに代表される自動車業界では世界を席巻している日本企業ですが、家電メーカーなど一部では苦戦している分野もあります。この両者の明暗を分けるのは宋文洲氏も指摘するように産業集約化の進展の違いにあると考えられます。合併や事業提携で寡占化が進み、国外での競争に注力できる巨大メーカーと、乱立状態のまま国内の過当競争で疲弊しきった中規模メーカーでは、いかに技術面で優位があってもその経営体力の差は歴然でしょう。

 「業績が長い間、振るわないような会社は、自社が抱え込んでいる資金と人材などの社会資源はいったん返上し、さらに効率よく資金や人材を活用できる企業に吸収してもらう。それも大きな社会貢献と言えます。」このように宋文洲氏は語りました。社員にまともな給与を支払えない会社は、もっと労務管理のしっかりした会社に吸収してもらうこと、競争力が無くいずれ破綻するであろう会社は、もっと経営体力のある会社に吸収してもらうこと、このようにして産業の集約化を進めることが本当の意味での「構造改革」を可能にします。

注、
 採算性が低い場合でも、公共性が高い場合は行政の公共部門として吸収されるべきです。上で取り上げなかった日本経済の特徴の中には「公務員が少ない」こともあるのですが、これは医療や福祉、教育など公共性の高い事業をあまり重視してこなかった上に、不適切な民営化が進められた結果でもあります。構造改革に伴う「痛み」によって一時的に雇用が不安定化するのであれば、こうした不足している公共部門を雇用の受け皿として活用する必要があります。

 ところが、④で指摘したように日本では中小零細企業の数が圧倒的に多いままで、産業の集約化は一向に進んでいません。これはもちろん政府のエセ構造改革の悪影響もあるでしょうし、「俺とあいつら」の発想、経営体力のない下請け企業を自社とは切り離しておこうとする発想の影響もあるでしょう。しかし中小企業側にも、産業の集約化に抵抗する志向があるのではないでしょうか。一国一城の主であろうとする志向、大企業の一員になるよりも中小企業のトップであり続けたいとする志向が強いのではないでしょうか。そう言えば、日本は持ち家志向が極端に強い、集合住宅ではなく一戸建てを欲する人が圧倒的に多いそうで。

 産業の集約化が進んでいない分野といえば、農業などは最も立ち後れています。今なお農業はごく小規模の個人経営によって担われており、一部の例外を除けば国際競争力など微塵もありません。大企業の場合は分配の問題で貧困層が発生しますが、農業の場合は事業主であっても報酬は小さなもの、それでも存続を可能にしてきた行政からの保護も削減されるばかりで、なんとも未来のない産業です。ただこれは農業だから、という問題ではありません。製造業でも金融業でも同じで、個人経営にはどうしても限界がある、産業の集約化を進めないと時代の変化に対応することは難しいわけです。

 では、農業に対する規制を緩和して農業を大規模集約型に転換すればいいのでしょうか。たしかにそうすることで農業の採算性は飛躍的に向上するでしょう。ただ、自分の畑で農業をやりたい人、農業以外でも小規模な個人事業主や零細企業など、良かれ悪しかれ独立志向の強い人とどう折り合いを付けていくべきか、その辺も考えなければなりません。

 そこで⑤闇労働参加率が極端に低い⑥労働時間が長くサービス残業も多い、この2点を改革する必要が出てきます。闇労働と聞くとイメージは悪いかもしれませんが、要するに政府や企業が管理している範囲から外れた、公式の統計に出てこないビジネスです。この闇労働の参加率が日本では3%程度と推定されており、これはOECD平均が20%程度と推定されている中で極端に低い数値でもあります。要するに日本では「公式の」職場に長時間拘束され、そこに専従している、非公式の活動=「私」の活動が大きく制約されているわけです。

 公務員の副業は法律で禁止され、民間企業の場合も副業への従事を理由とした解雇が合法と認められているなど、この辺りでは非常に厳しい規制があり、それが緩和される見通しもありません。日本では第一の職場こそが全てであり、それが人間を拘束し、規定します。立派な会社に勤めているのが立派な人間、それ以外の物差しはないのです。嫌な人間でも「立派な」職に就いていれば立派な人間、どんな人格者でも無職ならダメな人間として唾棄されるのです。

 そこで求められるのは、労働と報酬の適正な分配です。一部の限られた人間が莫大な労働とそれに付随する社会的地位及び報酬を抱え込むのではなく、全員で分配することが必要です。いわゆるワークシェアですが、こうすることで就業によって拘束される労働時間は大幅に減少します。もちろん、一人当たりの給与もある程度は下がりますが、元より高額の報酬を受け取っていた人には深刻な影響にはならないでしょうし、逆に低賃金に喘いでいた人は今まで正社員や役職者が受け取っていた報酬を分配されることで状況は改善されます。

 産業の集約化によって採算性の高く競争力のある企業に人を集めること、従業員に適正な賃金を支払えるだけの経営体力のある企業に人を集めること、まずこれが第一の前提です。そして第二の前提は、労働と報酬の分配によって、幅広く余暇と所得を行き渡らせることです。この「余暇」が作られることで、行政及び企業の管理から外れた活動、すなわち「闇労働」が可能になりますが、産業の集約のために犠牲となる要素、すなわち農業や個人事業はこの「闇労働」の範囲で、半分は趣味として行ってもらうのはいかがでしょうか。

注、
 このために必要なのは、規制緩和によって労働条件を引き下げて企業側に便宜を図ることではなく、労働条件を大幅に引き上げることで、その引き上げられた労働条件でも採算がとれる優良企業を選別することです。それにはもちろん「痛み」を伴いますが、従業員に適正な賃金を支払えない雇用主を延命させるのは将来的な「痛み」を増やすだけです。

 「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」というと(中には詐欺まがいのあくどいことをやっている業者もあるようですが)、金物屋が配達のついでに売っているだけだから、別に竿竹で儲ける必要がないからなのだそうです。収入元となる本業があって、それに加えての副業であれば採算性にこだわる必要もないわけですね。本業で収入があれば、副業で儲ける必要はありません。経済的な問題を度外視して、何だって好きな仕事が選べます。しかるに問題は、日本では副業は厳しく規制されており、副業に手を出すほどの余裕がある人がほとんどいないところにあるわけです。

 そして⑦の「プロになるのが難しい」、例えばサッカー選手の場合、日本でプロになれずに海外でプロになる人もいます。日本で通用しなかった選手がどこかの弱小国で? いやいや、とんでもない。むしろサッカー強豪国でプロになるケースが多々あります。日本でプロになれなかった人がどうして日本よりもサッカーが強い国でプロになれるのでしょうか? 答えは色々あります。まずサッカー強豪国の方がサッカーの裾野が広く、下部リーグであれば日本よりも容易にプロになることが出来ます。もっとも、プロになったからといってサッカーだけで食べていけるほどの報酬を手に出来るかと言えば、なかなかそうとも限りません。給与は雀の涙のセミプロもたくさんいて、他でバイトでもしないと生活できません。

 ならば、日本にいても同じでは? 日本でもバイトしながら練習するJFLのチームが美談風に取り上げられたことはありましたが、それはあくまで成功したケースであり例外に過ぎません。多くの場合は「ちゃんとした」定職に就かず夢を追いかけるような行為は非難の対象です。副業は禁止、何か一つの仕事に専従するのが日本式の働き方であり、そこから外れた生き方には冷たいのです。日本ではセミプロで居続けることができない、だから海外でセミプロ生活を続けるのでしょう。

 同様に、政治のプロの場合はどうでしょうか? 国会議員の場合はともかくとして⑧地方自治体の議員報酬が高いのが日本の特徴でもあります。これを引き下げるべきとの議論も盛んですが、どうでしょうか? もし市町村議員の報酬が交通費程度であったなら、敢えて市町村議員を務めるような人はよほど生活にゆとりのある資産家か、あるいはどこかとスポンサー契約を結んだ人のどちらかになってしまうのではないでしょうか。下手に議員報酬を引き下げると、その金銭的なリスクに耐えられる富裕層に議席を独占されてしまう可能性が濃厚です。

 では、日本と違って地方議員の報酬が格段に少ない欧米の場合はどうでしょうか、これは地方議員を「プロ」と見るか「セミプロ」あるいは「副業」と見るかで違ってきます。地方議員としての仕事が生活の全てを占めているようであれば、地方議員としての報酬が生命線です。しかし地方議員としての仕事はあくまで余暇の副業、別に本業があって、そこで収入を得ているのなら議員報酬が少なくても問題ありません。生活の全てを地方議員として過ごしているのではなく、ある時は会社員、ある時は地方議員、そんなセミプロであれば地方議員としての報酬が少なくとも成り立つわけです。

 日本の場合、何もかもが「プロ」の世界です。「セミプロ」も存在しますが、それはあくまで過程であって、いずれは一つの道に絞ることを迫られます。サラリーマンとして生きることを決めたら純粋なサラリーマンとして、ドライバーとして生きることを決めたら純粋なドライバーとして、何か一つの「プロ」として生きなければなりません。昼間は会社員、夕方からは(自称)ミュージシャン、午前中はフリーター、午後からはサッカー選手、昼間は派遣社員、夕方からは(自称)文学者、こういう生き方は一時的には許されても、それはあくまで過渡的なものとして扱われ、続けることを許されない、いずれは「定職」に就くことを迫られるのです。当然、議員もまた議員として、専念すべきものとして存在します。政治に興味のある普通の市民が半分ボランティアで地方政治に参加するのではなく、本業を投げ打った候補者がプロの議員に「転職」し、議員としての仕事に専従するのが日本の地方議員であり、これが多額の議員報酬を必要とする要因でもあるわけです。

 「プロ」として特定の仕事に専業するしかない社会では、自分の道を歩むことが難しくもあります。文学者が文学研究に没頭するのは「仕事熱心」ですが、サラリーマンが文学研究に没頭しても「働いていない」、プロの作家が小説でも書けば「仕事熱心」ですが、無職の人が小説を書いても「働いていない」、政治家が政治を語れば「仕事熱心」ですが、フリーターが政治を語っても「働いていない」。では自分は文学者や政治家にはなれないのでしょうか? たしかに文学者や政治家として収入を得るのは難しいですが、文学や政治を語ることは出来るはずです。

 誰もが自分の好きなことで収入を得ることは出来ないかもしれませんが、誰もが自分の好きなことを続けられる社会は不可能ではないはずです。今までは収入を得るための仕事が全てであり、それが人間を規定していましたが、収入のための仕事とは別の仕事、副業や闇労働の範囲を広げることで、もっと別の肩書きを見つけることは出来ないでしょうか。構造改革が目指すべきはこんな所です。

 

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コメント (6)
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