どうして、こういう名前に成ったのだろう??確かに鈴鹿山系には山蛭が多く生息して、しばしば山奥に行く僕も吸い付かれて気持ちが悪く成るのだが。
蛭谷は所謂「木地師」集落の一つ頂点、往古「木地師」はこの地域から全国の山々に入り広がったと言う。
前回紹介の政所より御池川の谷沿い県道34号線で遡ること10分弱、ほとんどドン突き、峠を手前にした谷沿い斜面に数軒の民家が建ち並ぶ。
<もう相当以前の案内板のようで現状とは合わない>
この辺りは往時、小椋千軒と呼ばれるほどに隆盛を極めたらしいが、現在の蛭谷集落は10軒にも満たず、全てが小椋姓を名のっている。
それでも常住するのはただ一軒(2010夏、現在)に過ぎず、週末の休みに三々五々帰って来るに過ぎないという・・・。
確かに景観としては素晴らしいのだが、雪の多い鈴鹿山中、冬場の生活はきつく木地師としての仕事も成り立たなく成って久しい。
石積み斜面に建つ民家。
集落入り口辺りには筒井神社(筒井八幡宮)と帰雲庵と呼ばれる寺院が並存し、全国木地師のルーツとして広く崇敬されているようです。
この筒井神社は元々この地に有ったものではなく、明治初年に筒井峠より移遷されたものだという。
古く、筒井神社は筒井公文所と共にあり、全国に広がる木地師を掌握、木地師の特権を認めた「木地屋文書」を与え奉加金を徴収していてその数は五万人にも達したようです。
神社境内から・・・。
集落外れ、筒井峠への登り口には庚申供養搭や一字一石法華搭が建ち並ぶ。
峠を超え、筒井神社や筒井千軒と呼ばれる集落も在ったと言う惟喬親王(これたかしんのう)稜も訪れてみた。
鳥居脇に建つ元禄七年建立の石碑には惟喬親王、筒井八幡宮の文字が見える。
県道脇にあって行きづらくは無いのですが殆ど手入れも行き届かず鬱蒼としています。
鳥居を潜ると右手には惟喬親王の石像が・・・
これが木地師の始祖だと言われ尊敬されている惟喬親王のようです。
奥には旧筒井神社の境内地と思しき広場があり小さな祠、脇には筒井と刻まれた石板。
左脇斜面には稜だといわれる小さな宝篋印塔と石柱。
この境内地の奥に果たして筒井千軒と呼ばれて隆盛を誇った木地師集落があったのだろうか??
深い山中にそれと思しき雛壇状に見える形跡は感じとれますが??
一方これより少し蛭谷集落側の斜面には・・・このような萱葺き屋根をトタンで包んだ建物が建っている。
「木地師山の子の家」として整備が進められたようですが?先だって訪れた、夏休み期間中にも全く人の気配無かった。
<これは2010.12.の画像ですが>
これらの建物が蛭谷集落にあったものなのだろうか??
鈴鹿山中の小集落はまた千年以上昔の山野に戻ってしまうのを誰も止められないのだろうか・・・・・。
撮影2008.3.16/2010.12.1/2011.7.12
惟喬親王稜