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愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

岩手県遠野市 千葉家住宅

2013年01月22日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

南部「曲り屋」を代表する建物として知られ、映画『遠野物語』のオープンセットとしても使われたようです。

盛岡から途中「岳、早池峰(はやちね)神社」へ寄り、国道369号線で遠野に向かう途中、左手高台に石垣積みの豪壮な館が見え、何の予備知識もなく思わず立ち寄った。

まるで城郭を思わすような規模・・・・、これが一軒の民家なのかと??

ここは国の重要文化財、現在も住居として使われており、敷地と建物の一部を公開されている。

<庭の真ん中には駒繋ぎ杭>

国道脇の専用駐車場から私道の坂道を登りきると蔵、ちょうど石垣上になるテラス状通路の向うに主屋である茅葺き屋根の豪壮な曲り屋が建つ。

千葉家の由緒は良く解らない様ですが江戸中期にはこの地方の一大豪農だったようです。

建坪約160坪、 L字型の右手居室部には二階部も設けられ、曲部袖部には台所と土間、その先は厩に成って居たようです。

天明、天保の大飢饉は、この遠野郷では凄まじく、四代目当主、喜右衛門が救済普請として主屋などを建設、村の婦女子や老人も人夫としてその糧を得たと云われ、その建築期間も10年の永きに亘ったと言われて居る。

<東側より主屋居住部を見る>

この高台から見渡す限りの田畑は千葉家が所有していたと云われ、その権勢ぶりも、この屋敷の佇まいから窺い知れる。

敷地面積約5600?(1695坪)、昔流に言えば五反歩以上に蔵や作業小屋、物置など6~7棟が建って居る。

奥に建つのは大工小屋、常時大工がいて補修営繕など大工仕事をしていたのだろうか??

屋敷には常時25人と馬20匹が寝起きを共にしていたという桁外れの大所帯・・・・しかし現在では何人で暮らしているのであろうか???

屋敷奥には自前の鎮守?稲荷社もしっかりした社で祀られて居る。

何もかもが桁違いで目をまん丸くしないでは居られない・・・・・、この歳になっても世の中知らないことばかり。

撮影2012.9.21


山形県鶴岡市田麦俣(たむぎまた) 多層民家(旧遠藤家住宅)

2013年01月21日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

ここはもう何十年も昔、僕の若いとき長距離トラックで全国を飛び回ってた頃、この集落の事を何かの本で知り、どうしても訪ねてみたいと思っていたがあんな大きなトラックで訪ねる事も出来ず・・・やっとの想いを今回遂げました。

しかし時は非常にも周りの景観をすっかり変化させ、僕の記憶の底に有る、あの鄙びた集落の景観は最早望むべくも無くなって居ましたが・・・。

山形県鶴岡市街より山形自動車道を使い約30分強、田麦俣集落は月山花笠ラインと呼ばれる国道112号線から遥下方、もう今の時期ならとても慣れない僕の運転では行き着けそうにもない、雪深い月山、湯殿山麓谷間に20戸ばかりが軒を寄せ合う。

田麦俣は古くから湯殿山の参詣拠点として集落が形成され、また日本海に面した庄内地方と内陸部の村山地方を結ぶ六十里越街道の中間点であった集落は宿場町としての性格も持つように成りました。

正面からは一見豪壮な単相茅葺き屋根に見えますが・・・高八方と呼ばれる破風窓が設けられ、単相ではないことが窺われる。

妻側の兜屋根部から見ると三層に成って居るのが良くわかる・・・・・

山間僻地、豪雪地帯の田麦俣では積雪時の出入りを容易にするためと、谷間ゆえの敷地の確保が困難なことから、居住空間と客人を泊める空間を確保するため、このような三層構造になったようです。

このような見事で豪壮な兜造り多層民家が幾棟も建ち並んで居た頃に寄ってみたかったが時は既に遅し・・・・・。

現在二棟が再生整備され、手前の民家は民宿を営み、奥の旧遠藤家住宅は県文化財として一般公開されています。

因に旧遠藤家住宅は訪ねたときはちょうど茅葺き屋根の補修工事中、内部には入らず終いに成りました。

現地にこうして残っただけでも良いのでしょうがなんとなく周りの景観とは不釣り合いで物足りなさを感じてしまいます。

山形県有形文化財指定。

撮影2012.9.17


新潟県岩船郡関川村下関  津野家

2013年01月20日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

旅の途中、新潟から山形への移動中、村上市から荒川沿いに走る米沢街道(国道113号線ー小国越え)で見かけた重文渡辺家の看板に引き付けられ寄り道した関川村の民家の一つ。

国道から少し外れた関川村の中心部、役場前の旧街道脇には目を疑うような、まるで時空間を超越した様な懐かしくも豪壮な屋敷が建ち並んでいた。

しかしその中心である、「重文渡邉邸」は主体部が平成の大修理のため工事テントで全く絵には成らず写真は諦め、隣の素晴らしい茅葺き屋根を持つ津野家に釘付け。

茅葺き屋根の複雑な造形美、白壁と黒塗りの木部のコントラストも実に清楚で美しい・・・・

真正面から見るとこんな感じ、隣の渡邉邸の屋敷が広大すぎ、これだけの構えながら津野家は意外とこじんまり見えてしまう。

つい最近屋根の葺き替えがあったのだろうか端正な美しさに整えられている。

津野家は天明八(1788)年、隣接の渡邉邸からの出火で類焼し、翌年(1789年)に現在の建物が建築された。

屋号は湊屋戸称した旅籠で、商家構造の建造物として極めて貴重な存在らしいが、現在も現役住居として住まわれており内部は非公開。

通りに面して平入りの棟と妻入りの棟をドッキングさせてT字型にした建て方を撞木造りと言い、この地域の特徴となっているようです。

独特な茅葺き屋根の玄関に簡素な一対の祭り提灯・・・・切ないほどに美しい日本の伝統美です。

平成3(1991)年、新潟県指定文化財指定。

撮影2012.9.16


岐阜県揖斐川町日坂 高橋家住宅

2013年01月13日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

これ程山深い寒村でこんな立派な豪農屋敷や建物に出逢うとは夢だに思わなかった。

この民家も前回同様、以前に巨木のページの序でに紹介したものですが、写真を加えての再UPです。

美濃と越前を分ける伊吹山系とと両白山系の狭間を流れ落ちる揖斐川の上流域から更に日坂川遡った日坂上村集落、県道から旧道の在所道に入って直ぐ、右手に春日神社の杜と小学校跡地だと思われる集落センター・・・・・

真正面にでんと構える偉容な民家の景観に目を奪われる。

道路脇から100m程も有ろうかと思われる屋敷道、角の取れた川石をを積んだ石垣、その上の白壁塀、奥手には物々しい白壁が綺麗な長屋門

ここは山里、間口が広く、重厚な長屋門には驚かされる。

現在も住まわれて居る様ですが訪ねたときはお留守の様で、門を入った庭先で一枚撮影させて貰った。

茅葺き屋根に少々痛みはあるものの、茅葺入母屋造の「書院」が棟を直角にして取り付き、角屋のような形式となっており、その結合部分に玄関が設けられており、格式高い趣が感じられる。

高橋家は中世末に日坂に来在したと伝えられている豪族の家柄で、江戸時代を通じて大庄屋を勤めており、大垣藩主視察には、宿泊本陣となっていたようです。

脇道を行くと、杉の屋敷林と長い長い石垣と板塀・・・・、広大な屋敷を有して居り土蔵は五棟有ると言う事です。

江戸期文化六年の建築とされ、この山深い山村に在って、この規模の大庄屋屋敷に出合えるなどとは思ってもいなかったので本音で驚きの一語に尽きます。

高橋家住宅として岐阜県重要文化財に指定されているほどで納得の景観を誇っています。

撮影2009.11.15


福井県三方上中郡若狭町海山  三方湖の茅葺舟屋

2012年04月02日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

一見東南アジアの水上家屋を思わす少し南洋的な匂いも感じる屋根の造り・・・・、此処は福井県三方湖畔、若狭町海山の茅葺舟屋です。

浜大根の白い花が咲き乱れ長閑な湖岸沿いに簡素な茅葺屋根の居並ぶ景観はまさしく三方湖、若狭地域漁村の原風景のような・・・

三方五湖の根元をかすめて通る国道162号より、三方湖畔沿いに伸びる県道216号線で暫く進むと右手湖畔、県道脇にこの舟屋群が見えてくる。

湖畔の小さな舟溜りの湖水に直接丸太を立て、茅葺屋根の蔽屋を造り舟屋として小さな漁船を繋いでいる。

この舟屋群は観光資源として残されたものだろうが、もうこの景観を他で探そうとしても殆ど見つからないに違いない。

少し離れて駐車場らしきものは有るのですがGWの5月3日、この道路を通る車は結構有るのですが・・・この景観に足を停めて行く人は皆無でした。

里山育ちの山猿にとっては見慣れない湖の有る景色ですが、いかにも付近の景観と一体化して心に焼きつくものが有る。

浜大根の花、鯉のぼり、湖上の茅葺舟屋・・・・、なんとも心憎い演出でした。

撮影2011.5.3


北国街道・板取宿、木の芽峠、二つ屋宿

2009年11月29日 | 茅葺き屋根(上懸け屋根を含む)その他

北国街道板取宿は近江・木之本から栃ノ木峠を越え南越前今庄へ至る越前側最初の宿場で江戸時代には番所も設けられていたようです。

往古平安時代から、畿内と北陸を結んでいたのは西近江経由の北陸道、それに対して北国街道は天正六年北の庄に封じられた柴田勝家が安土に赴く最短路として、栃の木峠の大改修を行ない東近江経由の北国街道として拓かれ、江戸の参勤交代や、お伊勢参りの最短ルートとして北国街道は大いににぎわったようです。

ここは福井県の嶺北と嶺南を隔てる南条山地の嶺北側にあり、板取宿と木の芽峠は日本の秘境100選にも選定されているように現在でも豪雪地帯として道路の冬季閉鎖が行れる処です。

しかし雪が無ければ国道365号線がこの旧宿場の真横をかすめて通過しており、この地がどうして秘境100選なのかといぶかしく思うほどです。それは勿論、この奥の山中にある木の芽峠を含めての事なのだから納得しないわけでもないのだけれど・・・。

R365号線脇に用意された駐車場に車を置き関所門の立つ石畳の上り坂を上ると左手に2軒の兜造りの萱葺き屋根住宅が見え、登り坂右手にもう2軒の萱葺き屋根民家が軒を連ねている。

現在往時をを偲ぶ建物はこの4軒のみと成っているが、しみじみ懐かしい郷愁を感じさせる風情はやがて滅び行くものの美しさと哀しさを充分にかもし出している。

この地はすでに昭和50年廃村になっているが新しく二家族がこの建物に住み維持管理などに当たっているという。

別に土産物屋さんがあるでもなく、案内人が居るでもなく、観光客も殆ど訪れないようでただただ静かなたたずまいに時間だけが過ぎてゆく。

この地の直ぐ脇を通る国道365号線をそのまま南進するとやがて栃の木峠、ここを越えるとそこはもう近江の地。

又板取宿の直ぐ南方にある今庄365スキー場の中を貫く道路(県道だが何号線かは解らず)をどんどん登れば旧北陸道が通じていた分岐点に差し掛かり左手にとれば言う奈地蔵を越えて木の芽峠に差し掛かる。

木の芽峠には1466年からここで峠の茶屋兼番人であった前川家が残っており、今もたった1人でこの家を守っておられる。

この道はそのまま道なりに進むとやがて栃の木峠でR365に合流する。

因みに木の芽峠は車での進入は出来ません。

一方、旧北陸道の越前側最終の宿場は二つ屋の宿。

ここは今庄365スキー場から旧北陸道を右に進むのだがここから車で旧二つ屋の宿場に下る事は出来ない。

旧二つ屋宿は今庄から旧国鉄北陸本線の軌道上に造られた県道207を走ること約10分弱、南今庄駅の直ぐ西、新道の交差を左折して山手に進む。

やがて見える集落が二つ屋の集落、集落を抜けるとやがて林道になるがそのまま1.5kmほど遡っていくと旧宿場跡の入り口と思しき名号碑と自然石に刻まれた地蔵に出逢う。

この地は戦後直ぐに豪雪の為今の二つ屋へ集落ごと離村し、現在全く建物は存在しない、ただ朽ち果てた日吉神社が残るのみでいかんとも哀しすぎる。

撮影2009.11.7(木の芽峠、言う奈地蔵は2008.7.5)

MAP(板取宿) MAP(木の芽峠) MAP(二つ屋宿)