Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

東京オペラプロデュース「プロコフィエフ:修道院の結婚」2012.01.14初日批評(No.1975)

2012-01-14 22:23:28 | 批評

サービス精神満点の「舞台音楽作曲家 = プロコフィエフ」の最高傑作オペラ「修道院の結婚」が十全な形で日本初演された > 東京オペラプロデュース の手に依り


 一昨日の「直前に吠える」で書いたように 「大作曲家の代表オペラ」でも「日本初演」されてない曲は結構ある。プロコフィエフ については私高本の感覚では 1912「ピアノソナタ第2番」 ~ 1944「シンデレラ」の間の作品が全盛期であり、前半が「ピアノ協奏曲」中心、後半は「ロメオとジュリエット」と「シンデレラ」&「戦争と平和」(作曲順がよくわからん!)の間で「舞台作品の全盛期」に感じる。(猫頭なので、異論があってもコメントには書かないで下さい><)


 プロコフィエフオペラ中、どの作品が最高傑作なのかはわからない。ゲルギエフ指揮「プロコフィエフ6オペラ全曲盤」を聴いた限りだと、最も長い作品 = 「戦争と平和」で、次が「修道院の結婚」だった。折角の機会だったので全部聴いて見たが

私高本の感性に最も合致したプロコフィエフオペラ = 「修道院の結婚」


だった。なぜか?

「修道院の結婚」は、バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」と並ぶ「観客を楽しませよう!」の意気込みが最も高いオペラ!


に感じたからだ。

『登場人物が異常に多い』が「プロコフィエフ オペラ」の最大の特徴の1つ!


で、「戦争と平和」はゲルギエフ指揮盤では6頁あった。「修道院の結婚」は3頁。ヴェルディやプッチーニやワーグナーではこんなに登場人物は多く無い。モーツァルトもロッシーニもだ! キャスティングが相当に難しいオペラだろうことは、容易に想像できた。東京オペラプロデュースでは、1人2役 を演じる役柄を6名配置(12役)した。だが、「役相当」なのか? などは、全くわからない。CD聴いても、スコア読んで無いから「誰が歌っているのか?」さえわからんところだらけだったし(爆
 CD解説では「あらすじ」さえ、「東京オペラプロデュースチラシ」よりも粗かった > 4000円以下のCDの「粗筋」だからしゃーないか(泣


 オケは「臨時編成オケ」。一昨年にも同じ名称を用いているので、「必要に応じて集まる集団」のようだ。演奏が開始される。変形8型だが、第1ヴァイオリンの「音程の巾広さ」はせめて「ヴィブラートの範囲内」に収めてほしい。 1番トランペットは音色は極めて美しいのだが、結構裏返る(爆
 N響首席の関山よりも「裏返る瞬間が解るので息を抜く技巧」を有していた。メンバー表で確認したら アレクセイ・トカレフ。演奏家の名誉のために先に書いておくが

「勝負所の第3幕の長い長いトランペット・ソロ」は完璧だった!!


 明日の2日目公演は冒頭から気合い込めて吹いて下さい。聴きに伺うのでお願い申し上げます ><


 ソリスト陣の歌。

メンドーザ役 = 佐藤泰弘 と ルイーザ役 = 大隅智佳子 の圧倒的な「声の饗宴」!


 「ロシア物の声楽作品」だと、大切なことがある。勿論、ソプラノも大事なのだが

主役バスの低音が轟くことが必須!


 「ボルガの舟歌」や「ショスタコーヴィチ:森の歌」で検証してちょ。これが轟かないと「ロシア風」には決して聞こえない > 例え、どれほどソプラノが良くても > 全く記憶して無かったじゃん > 猫頭の私高本


 印象深かったソリストを記す。(ほぼ)登場順で

  1. 佐藤泰弘


  2. 西塚巧


  3. 大隅智佳子


  4. 田辺いづみ


  5. 羽山晃生


  6. 羽山弘子


  7. 岸本力



「マスク1~3」については、もしかしたら聴き誤っている可能性大。その時はご指摘下さい。スコア読んでいないので、誰が瞬間トップ歌っているのか全く不明です、しかも.「仮面」付けてるし><
 終演後の聴衆の反応は、大隅智佳子、佐藤泰弘、羽山晃生 には盛大なブラヴォーが掛けられたが、田辺いづみ と 羽山弘子 には無かった。

大隅智佳子 の圧倒的に歌唱に「聴衆は圧倒された」から


だろう。(こうなると、Aキャストで出演した方が良いのか、も選択の余地があれば考えどころになる。)田辺 と 羽山 は聴衆に愚痴こぼさないで下さい。素晴らしい歌唱でした! ><


 過去に「プロコフィエフ : オペラ」を「日本の聴衆」に教えてくれたのは、他ならぬゲルギエフであった > 「戦争と平和」だった

 素晴らしい公演だった、との評価であり、誰もが異論を唱えていない。

 ・・・で、「オペラ・ブッファ」の「修道院の結婚」である。『悲劇よりも喜劇が上演は難しい』は演劇でさえ常識。まして「オペラ」の世界では、さらに難しい(泣


八木清市演出は極めて「作曲家」方向。飯坂純指揮は(スコア見たこと無いが)おそらく「プロコフィエフ方向」


と確信する。この2人、ちょっとヤバいくらい条件キツいんだよね(爆
 まず、演出。壮大なプロコフィエフの構想で場面転換が多い。

4幕9場もある! 八木清市 は、2つの大道具の裏表 を自由自在に組み合わせることで「スムース」と「場面設定」双方を解決!


 「喜劇」ならではの「明るい大道具」は是非是非ご自分の目で見て欲しい。衣裳も「役柄」をはっきりと打ち出しながら、「綺麗な方向」でデザインされている。  

 そろそろ寝ないと明日公演に行けない可能性あり > 老体高本(爆


 明日は、今日よりさらに素晴らしい公演になると信じている > 特に 1番トランペット と 第1ヴァイオリン
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2012.01.12今川映美子「シューベルティアーデ Vol.9」批評 前編(No.1974)

2012-01-13 21:20:24 | 作曲家・シューベルト(1797-1828

実演でもCDでも聴いたことの無い圧倒的名演だった 今川映美子(p) + 小森谷巧(vn)のシューベルト幻想曲D934!


  シューベルトは1821年に「魔王」を作品1として出版した後に、自ら「幻想曲」と名付けた曲を3曲作曲した。作曲順に

  1. 1822.11 シューベルト:ピアノソロの為の幻想曲「さすらい人」幻想曲ハ長調D760作品15


  2. 1827.12 シューベルト:ヴァイオリンとピアノの為の幻想曲「わが挨拶を送らん」幻想曲ハ長調D934


  3. 1828.01-04 シューベルト:ピアノ連弾の為の幻想曲ヘ短調D940作品103



 全3曲が「作品分野を代表する名曲中の名曲」なのだが、ピアノソロとピアノ連弾の幻想曲は、録音でも実演でも「名演」が多いのに、「ヴァイオリンとピアノの為の幻想曲D934」だけ名演に合わなかった > 30年以上。演奏会は「顔合わせが少しでも名演が期待できる2人」ならば、必ず聴きに行ったし、CDは「期待できそう」または「全く知らない」のを中心に 9組 買い込んで全部聴いた。LP時代に他に1組買って聴いている。ピアノソロ幻想曲のブレンデル盤(3種類とも)、リヒテル盤(EMI)、ポリーニ盤(DG)、キーシン盤(メロディア)はどれもが(解釈は全く異なるものの)名盤だらけ。ピアノ連弾の幻想曲も、タール&グロートホイゼン盤(Sony)の素晴らしさは圧倒的!

 ・・・で、この水準の演奏を「シューベルト:ヴァイオリンとピアノの為の幻想曲D934」で聴いたことは過去に1回も無かった。楽譜は新シューベルト全集で持っているので、読むと「3つの幻想曲の仕上がりはほぼ同じ」である。個人的見解だと、連弾幻想曲よりも優れている、と感じる。

「今回こそは超名演が聴けるかも!」と思い、「シューベルト:ヴァイオリンとピアノの為の幻想曲D934」の「演奏会通い」 と 「CD 犬のサンダル収集」を開始してから、かれこれ30年以上が経過した(泣

 今回も「期待を抱きながらも、過度に期待してはいけない!」と自戒しながら、4千円を握りしめて当日券売場に向かった次第である(涙

(後編は東京オペラプロデュース「プロコフィエフ : 修道院の結婚」初日批評掲載後に掲載します。)
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1月14-15日東京オペラプロデュース「プロコフィエフ:修道院の結婚」直前に吠える(No.1973)

2012-01-12 17:18:54 | 演奏会案内
 世の中に「大作曲家の主要作品」であっても、「日本初演」されていない曲は多々ある。

プロコフィエフ「修道院の結婚」も明後日14日が日本初演


 リンク貼っておいたので、興味ある方はご覧下さい。


 このプロコフィエフ「修道院の結婚」は日本初演なので(海外で聴いた方以外は)舞台初。そんな時に私高本はどのような手順で準備するか?、何を期待するか? などをお話しする。

 まずは、猫頭の脳内で 「プロコフィエフの舞台作品」を想起する。何と言ってもバレエの「ロメオとジュリエット」と「シンデレラ」。時計がギクシャク鳴る様や、悲恋の行く末を見通したような甘い旋律を思い出す。次に、オケ作品を(協奏曲込みで)想起する。ピアノ協奏曲第3番の力感が印象深い。ピアノ協奏曲第2番の方がさらに力感あるのだが、猫頭には第3番だけが想起された(爆
 次に「室内楽以下の編成」を想起。これは真っ先にピアノソナタ第7番と第2番が想起された。力感溢れる > 2曲とも。

 交響曲が想起出来なかったがまあしゃーない。印象薄いんだな > 私高本にとって。特に嫌な感じも想起しなかった(メシアン「トゥーランガリラ交響曲」は嫌悪している。今後2度と聴きたく無い!)ので、まずは「修道院の結婚」は手持ちCDが無いので、CDを発注することにした。手順は以下の通り。

  1. HMVで「prokofiev betothal in a monastery」で検索 → 6件しか当たらず、内4件がゲルギエフ盤DVDとCD


  2. オペラDVDを「資料」で観る習慣は無い。折角の機会なので「プロコフィエフオペラ全集CD」購入を決意!


  3. 日アマゾン、米アマゾン、英アマゾンで「ゲルギエフ全曲盤」を検索して、「カートに入れて精算金額」を全て出す。米アマゾンのサードパーティーが安かった。送料込みで $47.12総額だった。「6オペラ」全曲で! 大体1ドル=80円なので4000円弱じゃん!!!


  4. 「発送したよ。1ヶ月くらい掛かる鴨」メールが来てから1週間経ずに到着。米アマゾンもサードパーティは速い!



 ・・・で、発注後1週間でCDが到着したので、早速聴く。ショスタコーヴィチ「鼻」や「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に近い感触。結構好み! ロシア語は全くわからんし、今更、猫頭がロシア語習得できるワケない(爆
 尚、CD到着までの間に、「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」「ピアノ協奏曲第3番」「ピアノソナタ第7番&第2番」は手持ちのCDで聴いておいた。どれも名曲だ!!!


 オペラ鑑賞は、聴き手により「興味の範囲」が大きく異なる。いろんな人がいる。私高本は以下の通り。

  1. 「世界初演」「日本初演」が大好き!


  2. 音楽最優先!


  3. 演出に関しては「良ければ良い」スタンス。読み替えでも新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」のようにごく稀に良い演出もあるが、「日本初演」では避けて欲しい、が強い希望


  4. プロデューサー、指揮者、演出家、オケ、ソリスト の順に見ることが多い。「老田裕子」とか「大隅智佳子」とか『若手有望ソプラノ』を見付けた場合は別。優先順位1位になる(爆



 今回は「大隅智佳子」を見付けたので、全ての予定をやりくりして「大隅智佳子出演Aキャストの日」はスケジュール開けた。だが「Bキャストの 岡戸淳 と 橋爪ゆか」も聴き逃せない! スケジュールのやりくりは難航したが解決させた。(した、では無い)


 ・・・が、プロコフィエフは「著作権生き残ってる作曲家」であるペトルッチでは見ること不能。DOVER でもリプリント版出版されていない。楽譜見ること能わず > って、単に「高い著作権生存中楽譜」買えない ってことを意味する。まあ、しゃーない。カネ無いし(爆
 あっても、シューベルトピアノ五重奏曲D667「ます」 よりも「縦に長い楽譜」はあまり読むのが好みでないし、、、


 ・・・のような人間模様を経て、東京オペラプロデュース「プロコフィエフ:修道院の結婚」を聴きに行く。批評は書けるかも知れないし、書けないかも知れない。楽譜読んで無いからなあ > 貧乏はしたくないものだ(泣

松尾史子代表が選んだプロコフィエフ「修道院の結婚」で、飯坂純指揮 + 八木清市演出 のコンビは過去名演揃い!


なことはここに明記する。直近は

東京オペラプロデュース「メノッティ:ブリーカー街の聖女」


 大いに期待して「日本初演」を待つ。
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下野竜也指揮読響「ドヴォルザーク交響曲全曲 第7回」2012.01.08批評(No.1972)

2012-01-09 21:59:34 | 批評

ティンパニが「日本一のオケ = 読響の響き」を支えている!


 私高本が読響の定期メンバーになったのは、確か1992年4月だった、と記憶している。(間違っていたらご指摘下さい)

当時、「ティンパニ首席 = 菅原淳」で「次席 = 岡田全弘」


だったように記憶している。在京オケでぶっ飛んで突き抜けてうまかった > 2人とも。
 2人も名手がいるので、「トラ」が来ることはほとんど無かったように(聴いた限りの公演では)記憶している > 2007.06.09(土)の「テーリヘン:ティンパニ協奏曲」で「錦を飾って定年引退」にて菅原淳が引退するまでは。(同時に岡田が首席に就任したように記憶している。)


 オーケストラで「最も高い地位の奏者 = 第1ヴァイオリンの第1プルトの外側に座っている人 = コンサートマスター」と言うことに公式的にはなっている。読響も同じで、プログラムノートには「コンサートマスターの名前」が記載されている。
 ・・・が、いろいろな書物に目を通すと、「ホルン」が大切なことがわかった。オケ同士で「優秀なホルン奏者の奪い合い」は凄まじい。

ロンドンの フィルハーモニア管弦楽団 ホルン首席 = デニス・ブレイン がコンサートマスターよりも遥か高額の契約だった


は超有名。読響も「ソロ・ホルン = 山岸博」は別契約の様子。


 猫頭の私高本は「契約の通りにオケ全体には影響あるのかな?」と昨日まで思っていた。「誤解していた」と書いた方が適切。猫頭だから、しゃーないわな(爆


 昨年の「締めの演奏会 = 2011.12.26 下野竜也指揮読響第9」で今年の「明けの演奏会 = 2012.01.08 下野竜也指揮読響ドヴォルザーク」でどちらも佐伯周子と一緒。

佐伯周子は「下野竜也指揮読響の大ファン」だから


なあ! ドヴォルザークの「出世作 = スラブ舞曲第1番作品46-1」が鳴る。「ん?」何か変だ?? 安い3階席にしたからか??? あれっ? 昨年12/26も同じ「オペラシティの3階席」だったじゃないか!!! 席番も3番しか違わないぞ(爆
 どうやら「ホール」とか「座席」の問題ではなさそう。弦楽器奏者の数を数え始める。

「第9」は14型、「ドヴォルザーク」は16型


 あれっ? 今日の方が弦は編成大きい?? ん? 何がなんだかわからん内にスラブ舞曲第1番は終わった。


 打楽器奏者とハープ奏者とオーボエ奏者の出入りが見える。交響曲第3番変ホ長調が開始される。

下野竜也は「ワーグナー」ばりのサウンドを轟かせようとする


 確かに、金管を中心に「鳴る」のだが、変だ。トランペット1番 = 田中敏雄、ホルン1番 = 久永重明。この2人は1番を吹くことは少ないメンバーだが、聴いていると「下野竜也の指示」通りに吹いているように聴こえる。弦と木管も「いつもの読響」だ。ん?

ティンパニがおかしい。「常時明るい音色」しか出て来ない上に「フォルティシモ」と「ピアニッシモ」の不足が明らか


 「岡田が叩いている」とばかり思っていたが、どうも違う。しかも読響では見かけたこと無い人に見えた。(休憩時に確認した。後述する。)

 指揮者 = 下野竜也 がプログラムノートである「月刊オーケストラ2012年1月号36-37頁」に次のように記載している。

下野竜也著 : ドヴォルザーク交響曲全曲演奏を目の前にして


 先人の影響が色濃く残る、初期の作品群のスコアを見ると、そこに、音楽が好きで好きで」たまらないと筆を走らせているドヴォルザークの姿が浮かび、親しみを覚えます。「これって、ベートーヴェンみたいだけど、いいや、書いちゃえ」「はぁ、僕もワーグナーみたいな転調書いてみたい! 似ているけど、いいや、書いちゃえ」と嬉々として書いたであろうドヴォルザーク。

 決して忘れてはいけない、音楽が好きだという気持ち、私にとってドヴォルザークのスコアは、いつもその気持ちを再確認させてくれる。大切な心のふるさとのようなものです。


楽譜が「売れるか売れないか? はわからない」と言えば、美化している。「売れない」ことがわかっているのに、『偉大な先人』の作曲技法を習得するため「だけ」に「交響曲 & 弦楽四重奏曲」を大量に作曲したのは、ドヴォルザークとシューベルトのみ!


の事実だけここに記す。私高本は猫頭なので、交響曲スコアはあまり読まない(シューベルトでさえ)。「シューベルトの弦楽四重奏曲スコア」を読む時に、下野竜也 と全く同じ気持ちを抱く。「ハイドン!」「モーツァルト!」
 そして「シューベルト31才で梅毒で死ぬ直前の最後の最後のピアノソナタの最後の楽章の頭」で、ベートーヴェン弦楽四重奏曲作品130 の「新しい終楽章」が引用される! ドイチュ番号では、その後には器楽作品が無いことになっているその瞬間まで、ベートーヴェンを尊敬し「いいや、書いちゃえ」とした作曲家がシューベルトだった、、、
 ドヴォルザークは(シューベルトよりも)長生きしたので「後期作品」は(猫頭私高本は)シューベルトのような事象は認識していない。

岡田全弘 の 「前任者 = 菅原淳の花道公演」のメインプログラム = 下野竜也指揮ドヴォルザーク交響曲第6番作品60 で「下野竜也 + 読響」が十全に披露してくれた!


 私高本は「クーベリック指揮ベルリン・フィル盤(DG)」を事前予習に用いている > 「下野竜也 + 読響 のドヴォルザーク」

 第6番の時は「息を呑んだ!」。今まで聴いていたのは何だったのか? って。 > 佐伯周子 の演奏会が近かったので、批評掲載も落としてしまった > プログラムノート印刷の締切を落として「印刷会社からの督促」が凄まじかったことを思い出す。当時から「猫頭」だったんだよな > 私高本(泣


 猫頭はすぐには治らない。佐伯周子 は「即治る」ことを切望して止まないが、「1997年に岡原慎也からそれとなく要望されて、15年経過しているのに何も治っていない」が事実。まぁ無理だろな(爆


 「変ホ長調」は、ドヴォルザークにとって「どんな響きだったか?」を想像する。おそらく、ベートーヴェンの「交響曲第3番=英雄」とか「ピアノ協奏曲第5番 皇帝」のイメージ。「英雄的な調性 = 変ホ長調」である。リストも「変ホ長調 = 英雄」、ショパンも「変ホ長調 = 英雄ポロネーズ」である。さらに「シューベルトにとって、同時代のヒーロー = ベートーヴェン(27才年上)」に匹敵するのが

ドヴォルザークの同時代人の大先輩(27才年上) = ワーグナー!


 年齢差まで「ピタッ」と一致かよ!!!

 これほど「年齢差」があると、「フツー」は挑まない。しかし、若き日の シューベルト と ドヴォルザーク は「作曲中毒患者」であり、「治す薬」無し(爆
 ワーグナー「楽劇」&「歌劇」を徹底的に身に付けて、交響曲に盛り込んだのが「第3番変ホ長調」だ。

ブルックナー交響曲第3番を「ワーグナー」と呼ぶ習慣があるのだから、ドヴォルザーク交響曲第3番も「ワーグナー」と名付けたい!


が私高本の提案。2人とも「引用」だらけだ(爆


ワーグナーは(聴き手の好みは別にして)「表現の巾の拡大」を目指し大成功を収めた作曲家、と断言できる


 バイロイト祝祭劇場管弦楽団などでは「世界超一流奏者」が集まっている。勿論、ティンパニも。ワーグナーは「超一流奏者」を要求した。ブルックナーもドヴォルザークも心の中では要求して「ワーグナー風」の大交響曲を作曲したハズ。実際は「世界初演」に漕ぎ着けるのがどちらも大変だったのだが(泣

 日本のオケはどこも「年末の第9」には力を入れる。「定期演奏会」より高くチケットが売れるし、それでも「全席完売」になるからなあ。私高本は20年連続で「読響の第9」聴いて年越しているが、それは「毎年素晴らしい演奏」を続けているから。スカな演奏カマしたら、他のオケに即移る > いっぱいあるからなあ「年末第9」(藁

 ・・・ってなワケで、全7公演首席ティンパニ = 岡田全弘 は駆り出された(ハズ)。2回しか聴いていないが、途中で抜ける、ってことは業界慣習からするとあり得ない。ちなみに、チケット争奪戦には少々出遅れたので、2回とも(最も人気薄い)東京オペラシティになってしまった。来年は「横浜みなとみらいホール」を押さえた。(中華街に好みの店が1店あるので、演目が同じで座席が満足できればみなとみらいは好きである)指揮者もカンブルランだし。

 「読響の年始」は「モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲」なんて年もあった。全部「ティンパニ無し」だよな、確か。年末に岡田全弘を酷使したら、どこかでは休ませないと「人間が壊れる」になってしまう。ちょうど、この「下野竜也 + 読響 : ドヴォルザーク」がその瞬間に当たってしまった。この後が、R.シュトラウス と マーラー だからなあ。この2プログラムは岡田全弘が叩かないと「十全な音楽像」が出ない、と思うわな > ドヴォルザーク より負担あるし。

 ・・・てなワケで、日本フィルの 副主席奏者 = 三橋敦(みつはしあつし)が呼ばれた。別に悪い奏者では無い。N響の久保よりもリズミカル。

ただ「読響のこの20年の水準」には、三橋敦 は達しなかっただけ


である。「音色が終始明るい」「ダイナミクスの巾」この2点だけ。N響に臨時で招聘された「ゾンダーマン」(だったと思う)と言う滅茶苦茶上手いティンパニ奏者が語ったところでは「バチ選び」だそうだ。私高本は猫頭で「ピアノ」でさえ、奏法が良くわかっていない。まして、ティンパニなんてわかるハズも無い。只々「演奏結果」が「聴き取れる」だけである。
 交響曲第3番終演直後は結構「ブラヴォー」があちこちから掛かった。


 後半は交響曲第9番「新世界より」。トランペット1番 = 長谷川潤、ホルン1番 = 山岸博 を据えた万全の金管布陣。

 ・・・だが、ティンパニ = 三橋敦 は継続。(そりゃ、そうだわな、人間休まないと死ぬぞ)ドヴォルザーク「新世界より」って、第1楽章冒頭は「くら~い」んだよね。読響でも「くら~く」演奏してた。それが、「明るく響く」だった。佐伯周子 は寝るし(爆)、チケット代金が惜しくなったわ > 「新世界より」

 だが「寝た佐伯周子」を批難する気は全く起こらない。ティンパニが「音色変化無し & ダイナミクスはちょっとだけ」だと、『映えない』曲だった > 「新世界より」
 終演後は1人だけ「ブラヴォー」掛けていたが、交響曲第3番に比べて冷静。う~ん、「読響の聴衆」は理性的!


 プログラムノート読み限りだと、下野竜也 は「来期で正指揮者退任」の予感がする。「ドヴォルザーク交響曲全曲演奏会最終回 = 第2番」では、『ティンパニ = 岡田全弘』だけは実現して欲しい。

読響サウンドの根源 = ティンパニ の岡田全弘 だから


 せっかくだから

「ソロ・ティンパニ」のポジション作って、岡田全弘 を迎え入れる


を検討してはいかがだろうか? 岡田全弘 が他オケに移ったら、「年末の第9」はそこを聴きに行く、と思われる。あぁ、定期も > 猫頭の私高本(爆
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信用できる評論家の資格は? 3(No.1971)

2012-01-08 23:43:37 | 批評の批評

信用できる評論家の資格は?


 このシリーズの「最終楽章」である。3楽章構成だよ~ん。


  1. 「核」を持っている。私高本は「シューベルト」だが、作曲家の必要は無い。「弦楽四重奏曲 → 渡辺和」とか「演奏家グールド研究 → 宮澤淳一」も尊敬に値する評論家である


  2. 「核の深み」に凄みを感じさせる。渡辺和 や 宮澤淳一 の凄みは恐ろしいよ、マジ。


  3. 「巾の広さ = 間口は広い」こと。渡辺和 は弦楽四重奏以外でも十二分に広い知識を有しているし、宮澤淳一 は「グールド の演奏」について「同曲異演盤」を信じられないほど聴いている!


  4. 「楽譜が読める」


  5. 「耳が良い」


  6. 「特定の利益団体」に所属していない


  7. 「ゲンダイオンガク専門」と「作曲家出身」と「通訳出身」はまずは疑って掛かる



 これだけである。


 誤解があるといけないので補足。最後の「ゲンダイオンガク専門」と「作曲家出身」と「通訳出身」はまずは疑って掛かる、だが、「吉松隆」「池辺晋一郎」などは信じている。しゃべりが少々「うざい」傾向にはあるが > 私高本も同じじゃん(藁


特に疑った方が良いのが「ゲンダイオンガク専門」集団。ちょっと上に書いた「特定の利益団体」だからなあ(爆


 こいつらに騙されて、下らない「ゲンダイオンガク」を聴きにいくら無駄金を吐き出さされたことだろう! 文化庁公務員を巻き込んでの「壮大なジサクジエン」を毎年繰り広げているからなあ(爆

 民主党政権もこんな細かな点までは、見極めていないようだ(爆


 私高本は「猫頭」のまま、本年2012年も批評活動を続ける。だが

「聴いた通りの批評」をこれまで通り掲載する


 どんなに軋轢があっても(「佐伯周子が愚痴を言う」が最大?)これだけは守る。これが無くなったら「私高本の価値 = 0」じゃん(爆
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信用できる評論家の資格は? 2(No.1970)

2012-01-07 19:05:51 | 批評の批評

信用できる評論家の資格は?


 本日も「私高本自身」の批評について「批評の批評」を語る。昨年「最もきちんと批評が書けた公演」の1つの

2011.11.24 オペラくご「ドン・ジョヴァンニ」批評


について述べる。リンク貼っておいたので、まだ読んでいなくて興味ある方はご覧下さい。


 ご招待頂いた公演なので、事前に「できる範囲」で準備をする。昨日号で述べたように「オペラDVD」を観る趣味は無いので、CDを探す。幸い ベーム指揮盤があった!(購入しないで済むので乏しい懐が痛まないで済んだ。)特にこだわりの無いオペラは1つ納得できるCDが手持ちになればその後は(懐が寂しいので)買い足さないのが「オレ流」である(爆

オペラくごの「チラシ」を読むと「レシタティーヴォは省略する」と記載


がある。

モーツァルト自身が「レシタティーヴォ採用オペラ」と「レシタティーヴォ【不】採用オペラ」で終生迷っていた事実


を真っ先に思い出した。「ドン・ジョヴァンニ」はレシタティーヴォあるが、その後作曲した「魔笛」は無いからなあ。時代が下って

ロッシーニがまだ生きていた時の「セビリアの理髪師」公演についてフォルテピアノ(だかチェンバロだか)が「うるさい」の記述あり


を思い出す。私高本も演奏によっては「チェンバロうるさいなぁ!」と感じたモーツァルトオペラ経験あり。チェンバロは音量が ヤマハ や スタインウェイ のコンサートグランドピアノのようにバカでかいワケでは無い(爆

チェンバロやピアノは「平均律」でしか調律できないので、弦楽器と『絶対に』純正和音が『合わない』ことが耳障り


なのだ。「ピアノ大好き人間 = 私高本」が聴いてさえも、モーツァルトオペラでは不快に感じることがある。チェンバロ奏者以外の多くの人が感じていることと推定する。(チェンバロ奏者は仕事を失うから感じるワケないわな)

 この「調律」と言うのは、(聴衆の皆様が思っているよりも)デリケートな問題で、「純正調」と「平均律」では全く「聴いたら誰でも違いが解る」ほどの差がある。「それなら、チェンバロ(ピアノ)を純正調に調律すればいいじゃん」とお気楽に考える方も多いが、それは全くの誤り。

モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」は『ニ短調が基本調性』だが遠隔調にも転調する瞬間があり、「純正調調律したチェンバロ」では聴くに耐えない


に陥るからだ。CDセッション録音などでは、「部分録音」を重ねて、その度に調律し直すことも可能。(した録音があるかどうかは興味無いので調査したことありません><)


 私高本は猫頭なので、字幕無しで大丈夫な「モーツァルトオペラ」は、「後宮からの誘拐」「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」「魔笛」の5作品のみ。「皇帝ティートの慈悲」でさえ字幕無しでは全く「ワケわからん」状態。シューベルトオペラでさえ、字幕無しで理解できる可能性を秘めている(実際に観たこと無いからわからん)のは「アルフォンソとエレストレッラ」「フィエラブラス」の2作品だけ。必死になって「英語字幕」で何度も繰り返し観たからだ。(う~ん、DVDはやっぱ「効果大」だわ!)独語が理解できているワケではない(泣


 ・・・で、手持ちのベーム指揮盤を聴いた。バシバシ飛ばして聴いた。序曲も第2主題が終わった辺りで「次」。

勿論「レシタティーヴォ」は全部飛ばして聴いた


 モーツァルトオペラ聴くのに「レシタティーヴォ期待」の人なんているハズも無いし、まして

服部譲二 は「レシタティーヴォカット」明言しているじゃないか!


 「曲の進行」を確認する。確認できれば次に飛ばす。何をしたか? と問われれば「曲順の確認」である。交響曲ではほぼ皆無なのだが、オペラでは、演出次第で「曲順が入れ替えされる」は日常茶飯事。何せ、前2回の「オペラくご」は聴いていないので、服部譲二 が「どのようなモーツァルトオペラ観」を持っているかは全く見当が付かない。多くのヒョーロンカならば、ここらで「GP見学の申し入れ」をするのだが、私高本は「本番公演の感銘度最優先」で申し入れはしない。(痩せ我慢かも知れないが)

 気になる箇所(脇役の箇所中心)をCDと楽譜で確認して演奏会場に足を運ぶ。本番が開幕した!


オケの「編成」を「序曲」で数える



 アホみたいに思えるかも知れないが最重要なこと! 「東京アンサンブル」のオリジナル編成は小さいからだ。「5型」だった。これだと「弦楽器は核メンバーだけ」と推察。次いで

古今亭志ん輔の「話芸」を「レシタティーヴォの代替」として注目する。「オペラくご」の「売り」だし


 都響の「売られた花嫁」公演でスカなトークを聴かせやがった大馬鹿アナウンサーとは違い、

古今亭志ん輔 は「オペラ全体」を理解した上で『モーツァルトのオペラの雰囲気』を壊さないように「江戸っ子口調」で語ってくれた


ことが印象深い。

おそらく、服部譲二の解釈が骨格から爪や髪の毛の先々まで行き届いているから


だ。いやー、私高本には「これは無理」です、はっきり。
 歌手陣も良い。「お隣の駅 = 初台」の新国立劇場の「ドン・ジョヴァンニ」でも、ここまで「細やかな気配り」は無かった。少なくとも2回聴いた記憶があるのだが、3回だった鴨(涙

 演奏会前日は、「モーツァルトのニ短調」に浸るために、「ピアノ協奏曲 K466」(グルダ + アバド + ウィーン・フィル)「弦楽四重奏曲 K421」(アマデウスSQのモノラル盤)を聴いた。直前にはオペラの場合、聴くことは少ない。(所持しているCDが少ないので別録音を聴くことが出来ない、が原因と思われる)


 ・・・てな「工程」を経て、上記批評を「深夜から明け方」まで(おそらく焼酎呑みながら)「きょほほほほほ」などの奇声を挙げながら書いたハズである。「近所には住んで欲しく無い人」だよな(爆

(続きはまだあるよ、自分の「批評の批評」だけで終わらせるワケないだろが(爆)
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信用できる評論家の資格は? 1(No.1969)

2012-01-06 22:46:05 | 批評の批評

信用できる評論家の資格は?


 まず初めにお断りして置かなければならないことがある。

「音楽評論家」は国家資格では無いので、誰でも名乗ることが出来る、が事実


 「弁護士」とか「教員1級免許」を詐称すると、警察に逮捕されてブタ箱にぶち込まれる結果となる。しかし、「音楽評論家」は誰が名乗っても良い。楽譜が読めなくてもOK。そんな音楽評論家たくさんいるじゃん > 某レコード評論誌にも


 他人のことをあげつらう前に、「私高本自身の自己評価」を書き綴る。役に立つかも知れないし、立たないかも知れない。

私高本の自己評価



  1. 「評論の基礎 = 足腰」は 1996.12 - 1999.12 の3年間の「Daily Classical Music Critique in Tokyo」時代に 300回/年以上のナマの演奏会を聴いて築いた


  2. 楽譜は良く読む方(同業者比)。モーツァルトは1991年当時の「ベーレンライター新モーツァルト全集」は所有しているし、主なピアノ曲は「良い版」と言われる版所有


  3. 「最新CD研究」は疎い。「レコード芸術」誌レギュラー執筆者に伺ったら『送りつけられて来るサンプル版を全部聴いていたら、1ヶ月起きている時間全部でも足りない』とのことだった


  4. DVDはほとんど興味無い。「佐伯周子演奏曲目」については資料として購入はためらわないが、「楽しみ」で観るオペラDVDはわずか4枚のみで、しかも内2枚はシューベルト


  5. 本番だけを「聴いた通り」に書く、ことは比が無い。演奏家の肩書きや経歴には全く興味無い。


  6. 『作曲家の意図』にはこだわる。「演奏家寄り」と言うよりも「作曲家寄り」のスタンス


  7. 「私高本の好み」にはあまりこだわらない。ラフマニノフ のように「詳細研究する気が1度も起こったこと無い作曲家作品」でも演奏さえ良ければ、いそいそと足を運ぶ。


  8. 『世界初演』『日本初演』公演が無闇に好き。そのくせ決してGPとかを聴きには行かない



 ちなみに、「持っているオペラDVDの4枚」なんて誰も興味無いと思うが、書いておく。

私高本が所持している「オペラDVD」



  1. オッフェンバック「地獄のオルフェウス」ミンコフスキー指揮盤日本語字幕付き1997.12ライブ録画


  2. J.シュトラウス2世「こうもり」グシュルバウアー指揮盤日本語字幕付き1980.12.31ライブ録画


  3. シューベルト「アルフォンソとエレストレッラ」 D732 アーノンクール指揮盤日本語字幕無し 1997.05ライブ録画(NHKが録画に加わっているのに何で日本語字幕無しなんだ!!!)


  4. シューベルト「フィエラブラス」 D796 ウェルザー=メスト指揮盤日本語字幕無し 2005.11&12, 2006.03ライブ録画



 う~ん、自分で言うのも何だが「全く興味無いな > DVD」(爆

 ちなみに昨年末は「地獄のオルフェウス」と「こうもり」を焼酎呑みながら、観てました > 年末(爆

 そんなヤツです > 私高本


 同業者比で言うと、「核はシューベルト」の自覚は強い、DVDはほとんど観ない、CDについては「同じCDを繰り返し聴く」、楽譜の読みには時間を掛ける、「肩書きに全く興味無い」辺りが特徴かと感じる。
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続:『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?(No.1968)

2012-01-05 21:15:56 | 批評の批評

『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?


 最もショックを受けたのが、3回の内初回に当たる「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番」であった。大好きな曲であり、いつもグルダの録音(シュタイン指揮ウィーン・フィル盤)を聴いている。楽譜読みながら聴いたことも何度かある。だが、モーツァルトの2曲(K271 & K453)とは全く異なり

「良かった演奏の何が良かったのか?」 が具体的に指摘できない!




 モーツァルト協奏曲については、「川上敦子 モーツァルトピアノソナタ全曲演奏会」の時に「カデンツァ探し」に「自作カデンツァある協奏曲だけ」詳細研究したことがあった。第20番K466以降だと、カデンツァある曲は K488 と K595 のみ。第19番以前は全曲に残っていて、曲に拠っては「カデンツァが3つある協奏曲」もあった。第19番以前で深く研究したのは、K271,K365,K449,K453 の4曲。後期の2曲と併せて6曲しか深くは研究していない。全部で23曲モーツァルトは「オリジナルピアノ協奏曲」を作曲しているので、3割にも満たないのか、、、
 ・・・が、なぜか「岡原慎也指揮者日本デビュー」では、この内の2曲が幸運にも演奏された。「良かった演奏の何が良かったのか?」がはっきりわかった。つまり

詳細研究してある曲は「はっきりと細部まで理解できている」が、していない曲は「細部がわからない」に尽きる


 半年以上経過した「2012年正月」には思い当たるフシがあることに気付く。

ベートーヴェンのピアノ曲は「基本的にグルダしか聴かない」がモーツァルトはいろいろな演奏家を聴く


 これが原因で、ベートーヴェンのチェロソナタは聴く(フルニエ共演盤あり)が、ヴァイオリンソナタは7番と10番(リッチ共演盤あり)しか頻繁には聴かない。ピアノ3重奏曲もほとんど聴かない。つまるところ

私高本はベートーヴェンピアノ曲は「グルダの解釈」を聴いているだけであり、自分で楽譜を読み込んでいない!


 確かに「第9」ほど楽譜読み込んだベートーヴェンピアノ曲は「32の変奏曲ハ短調」1曲だけ。佐伯周子の演奏会曲目解説書くためだった、、、


 ムソルグスキー「展覧会の絵」も然り。シューベルトのイ短調ソナタD845 ほどの研究は行き届いていない。

 プッチーニの2つのオペラについては、(方向は全く同じだが)少しだけ事情は異なる。プッチーニは大好きな作曲家であり、新国立劇場が上演してくれるといそいそと聴きに出掛ける、が基本。(時々、佐伯周子にチケットを奪われることがあるが)
 スコアを研究したことは無い。その時間があれば、シューベルトの曲の研究に費やしている。オペラスコアは「縦に長い」ので、(シューベルトでも)疲れるので、出来ることならば、ピアノ譜の方が好き。2段だからなあ。1段の方がさらに望ましいので、テレマン「無伴奏フルートのための12の幻想曲」は詳細研究したことがある(爆


 プッチーニの全オペラの中で「私高本が最も好きなオペラ = ジャンニ・スキッキ」である。「最高傑作」とは思えない。「ボエーム」「蝶々夫人」「トスカ」の方が上だと思う。だが「好き」なのは「ジャンニ・スキッキ」。「喜劇で下品で力感溢れている」点が好みに合うのだと思う。私高本は「(爆」とか平気でブログに書き綴る「猫頭」だし(爆

 好きな演目なので、詳細研究はしていないモノの、それなりの蓄積がある。「好きな女性」の動作は事細かく見るように、「ジャンニ・スキッキ」は細かな点まで観ていたようだ。堺シティオペラ初日公演を観た時の感動はあまりに深かった。東京で1回も観たこと無い素晴らしい出来だったからだ!!!

 ・・・で、前半の同じプッチーニ作曲「妖精ヴィッリ」だが、「舞台は初めて見る」状態。CD聴いたり、ペトルッチ読んだ程度では共鳴する水準には至らないわな(爆
 演奏自体が「良い」ことはわかったのだが、「言葉が何も出て来ない」状態。「糖尿病が悪化して脳が詰まったか?」と休憩時に嫌な思いが頭を過ぎったのだが、後半の「ジャンニ・スキッキ」を聴いた後には「整理できないほどの言葉が押し寄せて来た」ので、「脳の詰まり」は無かったようだ(ホッ

 ・・・で、「妖精ヴィッリ」の批評が書けない。「素晴らしかった!」としか書けない。あぁ、「ジャンニ・スキッキ」には蓄積が相当にあったんだ! と判明したのは、数ヶ月後である。やっぱ「私高本は猫頭」である(泣


 批評を「書く側」からの裏表無い率直な言葉。

ナマ演奏会を聴く瞬間までに「詳細研究」または「聴いた蓄積」がある曲は詳細批評が書ける。無い曲は無理。


礒山雅国立音楽大学主任教授兼図書館長は、「詳細研究していて準備万端の作曲家は、バッハ + モーツァルト + ワーグナーだけ」と明言


している。他の曲も(私高本の「テレマン:無伴奏フルートのための12の幻想曲」みたいな)詳細研究している曲は勿論多くあるだろう。だが、「作曲家単位」だと、当該3名以外だと、「印象批評」になる可能性が高いことを明言している。


 演奏会主催者として(つまりヒョーロンカと逆の立場から)、今回の問題を考えてみたい。私高本は「佐伯周子演奏会」を現在進行中であり、いろいろなメディアで「批評」を取り上げてもらいたい、と熱望している。
 佐伯周子は、本当に(團伊玖磨「夕鶴」の「つう」のように)身を削って、シューベルト(を中心)に楽曲に身も心も捧げて練習している。1つのフレーズのアーティキュレーションを決めるのに、私高本が聴いて「何迷っているの?」って時も多い。
 ・・・で、シューベルトの「有名とは言い難い曲」を批評する際に「佐伯周子と同じ水準で考え抜いているのか?」は、私高本にはわからない。但し、相当に難しいことだけはわかる。録音も少ないし、少ないと水準も低く「グルダのベートーヴェン」には至っていない。
 私たち「ヒョーロンカ」は「過去の演奏と比較して」が1つの基準となっている。他に比較するモノ無いからなあ(爆


 『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?

 大きな問題である。演奏家誰もが「印象批評」は受けたく無い。(ハイ、私高本もマネジャーとして全く同意見です!)だが、その先に「もう1つの大問題がある」のである。

ゲネプロとかさらに前の練習を聴くと「本番の感銘」が薄れる!


 これは、ほとんど大多数の「ヒョーロンカ」が口を閉ざしている大問題。相当前からヨーロッパでは蔓延していた大問題。あぁ、21世紀になった現代でも横行している大問題である。

「評論」は、あくまで「評論家個人の感性の全てを駆使しての評論」


と思って、読者は読む。だが、昔々「ブゾーニ」と言うクソ作曲家が書いている。

本番に何の価値があるのか? ゲネプロで全て(のヒョーロンカの批評は)決まっている


だとさ(爆
 つまり「袖の下」で「ドイツの批評」は(ブゾーニ生存中は)決まっていたわけだ。今は知らん。大体、私高本は欧州行ったこと1回も無いし(爆

 私高本は「聴いた通り」の批評を書き綴って来た。例えば

佐伯周子とは「感性が真反対の上野優子」も絶賛して来た!


 「聴いて素晴らしかった」からだ。何が良かったか? はわからんところも多い。詳細研究してないからなあ > ラフマニノフとか

 佐伯周子は不満たらたら。但し「私高本の感性は、上野優子のラフマニノフ 最高!!!」である。この辺りの温度差が色々と軋轢を生んでいる可能性は否定できない(爆


 あぁ、またマズいこと書いたんだろな(爆
「猫頭」だから、しゃーないわな(爆
 
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『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?(No.1967)

2012-01-01 22:51:49 | 批評の批評

詳細批評と印象批評の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?


  「ヒョーロンカ」と呼ばれる人種は誰もが「印象批評書きやがって!!!」と言われることを嫌う。(私高本も嫌う) 反対勢力から「コイツ耳付いているんか?」と罵倒されるよりも堪える。「研究が行き届いていない」と言う批判であり、演奏家の皆様が全力を尽くした演奏を批評するならば、

「演奏家と同等以上に研究しているからこそ、上から目線で批評できるハズ」と思われて当たり前


だからである。しかし、実態は大きく違う。

礒山雅国立音楽大学主任教授兼図書館長も書いているように「9割以上は印象批評」


となっている。私高本もその1人。詳細批評できる曲は限られている。「川上敦子リサイタル」「佐伯周子リサイタル(の内数曲を除く)」で演奏した曲は全部(どの演奏家が演奏しても)詳細批評できる。リストが少々、モーツァルトピアノ「ソナタ」のみ全曲、伊福部昭ピアノ曲全曲、シューベルトピアノソロの内既に演奏した曲、スメタナ「チェコ舞曲集第2集」。他にもあることはあるが少ない。ピアノソロ曲は意外に研究している曲が多いのだが、それ以外の分野は(シューベルト以外は)首筋が寒い。「第9」「千人」程度に批評できる曲はどのくらいあるのだろうか??? 実はモーツァルトのピアノ曲でも「変奏曲」は詳細批評できる曲は「きらきら星変奏曲」K.265くらいである(泣
 なぜ、「こんなバカなことが起こるのか?」に興味ある人もいるだろう。(いないかも知れない。)率直なところを、年始に綴る。昔々、「レッスンの友」誌に、岡原慎也が連載「役に立たない話」を掲載していた時期があったが、あの水準には達しないだろうが。


 2011年は

超名演を聴いたのに「批評が中途で止まってしまった演奏会」に3回出くわした


が印象(と後悔)が残る。全て「大阪の演奏会」。佐伯周子に(旅費が掛かることに)嫌味を言われながらの演奏会だった。嫌味を言われたのが原因ではない。私高本の猫頭が原因である。3回の演奏会を列記する。懺悔の記録である(涙

  1. 2011.06.25 岡原慎也指揮者日本デビュー演奏会(モーツァルトの K.271 & K.453 とベートーヴェン作品19)


  2. 2011.09.10&11 堺シティオペラ「プッチーニ : 妖精ヴィッリ & ジャンニ・スキッキ」


  3. 2011.10.16 岡原慎也ピアノリサイタル(シューベルト:ピアノソナタ イ短調D845 & ムソルグスキー「展覧会の絵」)



 全3回とも、私高本の猫頭なりに準備して聴きに行くように新幹線に乗った。ベートーヴェンとムソルグスキーは「手持ちの楽譜」を読んで行ったし、「妖精ヴィッリ」はペトルッチで読んで出掛けた。(運良くあったし)


 その程度では「音楽の全貌」は掴めなかった。私高本の猫頭の「容量不足」の可能性が最も高い(涙

 もう52才にもなって「脳の容量拡大」は絶対不可能だからなあ。むしろ「脳の退化を防ぐノウハウ本」を読む世代になってしまっている(爆涙

(この稿はまだ続く)

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