表題の件は、昨日11/4読売新聞夕刊13面に掲載された
である。
私高本 と 船木 の感性は遠く離れている。どちらが正しいとか正しくない、と言うことでは無く、単純に「感性が離れているだけ」である。これは全く問題無い。重松みかの声を「温かな」と感じる船木の感性は私高本には無かった。どちらかと言えば「無機質さを正確に描く」が重松みかの美点だと思う。
こんな細かなところはどちらでも良い。
問題は以下の1点に尽きる。
こんなことを言う権利が「ヒョーロンカ」にあるのか? 私高本自身が「デイリー時代」の経験から、船木にはこの発言を許される根拠は一切無い! と断じる。理由は次の通り。
以上2点である。
基本的に
である。
私高本は 下野竜也 + 読響 の演奏が好きだ! だが前回のヒンデミットは「プログラムがどうしても興味が湧かない」ので聴かなかった。今回は「清水から飛び降りるつもり」で聴いた。正直に言って「演奏は良かったが、曲に魅力が全く無い」が偽らざる気持ちである。
読響のチケットは A券 = 8000 である。私高本の聴いた席 = A席 である。8千円あったら、うまいモノも喰えるし、うまい酒も呑める。それと比べて「ヒンデミットの音楽」を聴きたいと思うか?どうか? これが最重要な点である。
私高本は聴いて見ての感想として「チケットは割高だった」と感じる。音楽の内容が稀薄に感じられたからだ。
船木の主張は根拠が薄弱だ。紙面も多いので、言いたいことがあるならきちんと根拠を書いてほしい。船木は「客足を増やしたい」なら、ご自分でチケットを購入して知人を呼んでほしい。それが最も「客足」にプラスなのだから。
反論があれば、いつでも掲載します。
船木篤也 : 10/20 読売日本交響楽団定期演奏会批評 に対して
である。
私高本 と 船木 の感性は遠く離れている。どちらが正しいとか正しくない、と言うことでは無く、単純に「感性が離れているだけ」である。これは全く問題無い。重松みかの声を「温かな」と感じる船木の感性は私高本には無かった。どちらかと言えば「無機質さを正確に描く」が重松みかの美点だと思う。
こんな細かなところはどちらでも良い。
問題は以下の1点に尽きる。
それにしても、客足はもっと増えて欲しいところ。未知の世界を恐れぬ気概は、聴く側にも求められよう
こんなことを言う権利が「ヒョーロンカ」にあるのか? 私高本自身が「デイリー時代」の経験から、船木にはこの発言を許される根拠は一切無い! と断じる。理由は次の通り。
- 船木篤也 は「自腹でチケットを購入して批評を書いた」のか?
- 聴衆は「自分の好み」を選択する権利は無いのか?
以上2点である。
基本的に
- 「ヒョーロンカ」は、招待券で批評を書く(→ チケット購入したら完全な赤字になるので成り立たない!)
- 聴衆はチケットを購入して聴きに来る → 好みに合うモノだけ聴く
である。
私高本は 下野竜也 + 読響 の演奏が好きだ! だが前回のヒンデミットは「プログラムがどうしても興味が湧かない」ので聴かなかった。今回は「清水から飛び降りるつもり」で聴いた。正直に言って「演奏は良かったが、曲に魅力が全く無い」が偽らざる気持ちである。
読響のチケットは A券 = 8000 である。私高本の聴いた席 = A席 である。8千円あったら、うまいモノも喰えるし、うまい酒も呑める。それと比べて「ヒンデミットの音楽」を聴きたいと思うか?どうか? これが最重要な点である。
私高本は聴いて見ての感想として「チケットは割高だった」と感じる。音楽の内容が稀薄に感じられたからだ。
船木の主張は根拠が薄弱だ。紙面も多いので、言いたいことがあるならきちんと根拠を書いてほしい。船木は「客足を増やしたい」なら、ご自分でチケットを購入して知人を呼んでほしい。それが最も「客足」にプラスなのだから。
反論があれば、いつでも掲載します。