一昨日の「佐伯周子のショパンピアノソナタ第2番」は素晴らしい演奏だった上、オイリュトミーの身体表現が視覚的に合致しており、相乗効果が目覚ましかった。
本日から、3月28日(月)の佐伯周子チェコ音楽コンクール2010第1位優勝記念演奏会のプログラム曲目解説を行う。
多くの楽譜&書物では、題名が「レントラー」となっている曲集である。シューベルトは生前に既に「レントラー」と言う舞曲は知っており、「作品67=D734」にて『ウィーンの貴婦人レントラー』を出版している。但し、この1集だけに用いた名称であり、他の曲には一切用いていない。
1864年に初出版された。出版社=シュピーナ(ウィーン)。現存する自筆譜に忠実な出版。作品番号に「171。遺作」が振られた。あまり意味ない番号であったが。
ほとんどどの本にも楽譜にも書いていないが、
ブラームスが校訂出版した最初の曲 = ドイツ舞曲D790
である。
多くのシューベルトファンから見ると『ブラームス = 旧シューベルト全集交響曲部門の校訂者 = 第1番~第6番を世界初出版した功績大』
と感じているだろう。事実である。
・・・が、「ピアノ曲」に関しては全く事情が違うのである!
出版時に「校訂」に関与した曲集は、出版時の数え方で3集(D790,D946,D366+D814)
3集ともに「シューベルトオリジナルから自由に離脱した校訂」
なのである。
『ブラームスのシューベルトピアノ曲への手の入れ方』 → 1年経過毎にヒドくなっていく
であった。この D790 は「最良」なのだ!
変えられたのは「題名だけ」 = D790
が実績。うーん、シューベルトは「ドイツ舞曲のテンポで」と明示しているんだよな。「レントラー」とかは全く書いていない(爆
ブラームスは、1864年頃(ブラームス31才)から「自由にシューベルトの自筆譜を見ることが出来る立場」だったと推察される。信じられないほど多くの「ブラームス筆写楽譜」が現存している。「大作曲家」の中で、これほどまでに「先輩大作曲家を写譜した作曲家は、ブラームスとバッハだけ」のような気がする。シューベルトも先輩作曲家の写譜が多い作曲家の1人だが、「ブラームスのシューベルト写譜」だけで軽く、「シューベルトの全体写譜量」を越すモノが残っている。「残っている」だけで、廃棄されたモノが多い可能性は否定できないのだが。
何で「レントラー」に題名が変えられたのか? J.シュトラウスファミリーの「曲名」を調べ尽くしてもよくわからない。ブラームスの好みなのか? 出版者=シュピーナの好みなのか? 全く証拠は残っていないので摩訶不思議な感触。普通に考えれば「ワルツ」に題名変えた方が「楽譜が売れた」と思われるだけに不思議なのだ。ブラームス? シュピーナ? どちらも「儲けたい」だろうに!!!
3月28日には、『シューベルトの名手 = 佐伯周子』が弾くので安心して聴いてほしい。ちなみに、ここだけの話だが
D790/2 = D783/1, D790/8後半 = D783/10後半
である。
ドイッチュは、「D790 は D783(=作品33) より後の作曲」と推測したが、どう見ても誤り。「D790 が先で、名曲を抜粋して D783 を作曲&出版」が事実である。その時に「D790/1」が外されたのが、誰もが感じる疑念。そう、私高本も感じる(爆
シューベルト自身が感じた?
作品33の出版者 = カッピ が感じた?
うーん、よくわからん(泣