Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

東条碩夫「新国立劇場 ホフマン物語初日 批評」を批評する(No.2656)

2023-03-29 22:35:16 | 批評の批評
東条碩夫「新国立劇場 ホフマン物語初日 批評」を批評する。
2023・3・15(水)新国立劇場 オッフェンバック:「ホフマン物語」初日
<引用>
 今回の歌手陣は、レオナルド・カパルボ(ホフマン)、エギルス・シリンス(リンドルフ、コッペリウス、ミラクル博士、ダペルトゥット)、小林由佳(ニクラウス、ミューズ)、安井陽子(オランピア)、木下美穂子(アントニア)、大隅智佳子(ジュリエッタ)、谷口睦美(アントニアの母、ステッラ)、晴雅彦(スパランツァーニ)、須藤慎吾(シュレーミル)、伊藤貴之(ルーテル、クレスペル)そのほかの人々。
 今日の印象では、題名役のカパルボがえらく癖の強い歌い方で、聴いていると少々疲れて来るのと、木下美穂子の声がジュリエッタ役としては少し重いのではないかということを除けば、概して満足すべき出来だった。安井陽子の人形オランピアは今回も秀逸だっただろう。

 三澤洋史が率いる新国立劇場合唱団は今回も見事だった。不満を残したのは、マルコ・レトーニャの指揮と、東京交響楽団だ。オーケストラの音が今回もやはり薄いのだが、そもそもレトーニャの指揮が平板で、活気も今一つなのである。
<引用完>

>木下美穂子(アントニア)


>木下美穂子の声がジュリエッタ役としては少し重い


これは無い。

木下美穂子は、アントニアを歌ったのであり、「声がジュリエッタ役としては少し重い」は批評として「あってはならない批評」


である。

>不満を残したのは、マルコ・レトーニャの指揮と、東京交響楽団だ。オーケストラの音が今回もやはり薄い


東条碩夫の座席がどこか知らないが、新国立劇場は「音の良いホール」と言われているが、1~3階の「雨宿り席」は、NHKホール2階「雨宿り席」と並んで音が酷い。東京文化会館「雨宿り席」に比べてはっきり劣る。東京3大オペラ会場である。
私高本が聴いた席では、2日共、東京交響楽団は充分に響き、初日はブラヴォーが出なかったが指揮者登壇時拍手が大きくなったし、楽日はブラヴォーがあちこちから飛んでいた。大半の聴衆は満足した様子。

>そもそもレトーニャの指揮が平板で、活気も今一つ


プロローグ&オランピアの幕は充分に活気があった。あれより「活気」が欲しい、って、アメリカ「スーザのブラスバンド」みたいに鳴らすのが良いのか?

東条碩夫 は年間300公演程度を批評している。綿密批評は出来ない、印象批評が大半である。だが、「木下美穂子の声がジュリエッタ役としては少し重い」はあってはならない。
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人生の岐路がいくつも重なっているかも知れない時(No.2297)

2013-06-22 21:52:07 | 批評の批評

今、私高本は「人生の岐路」にいくつか立っている、可能性が高い


  正直、この重圧に押し潰されそうな気がする時がある。

  1. 「佐伯周子シューベルトピアノソロ曲完全全曲演奏会」で、補筆する重要「短調ソナタ」2曲の内、1曲目が再来月、しかも(構想は出来たが)楽譜に仕上げていない


  2. 「シューベルトに次ぐライフワーク = 伊福部昭」の重要な演奏会批評のクロージングが出来ていない(涙


  3. 重要な批評(上の「伊福部昭演奏会批評」ではない!)を貯めこんで半月以上経過。しかも「冒頭」さえ書けていない(瀑涙


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昨日 1546位 になったが、私高本は存在意義があるのか? 無いのか?(No.2276)

2013-05-06 23:59:14 | 批評の批評
 私高本は「毀誉褒貶の巾が広い」人物である(爆

 普通、自分では言わないわな。


 祖父は50前に2人とも、いとも簡単に病死しているし、姉は7才で病死。私高本自身も5才で既に死に掛っていたので、53才の「本日」まで生き延びれたのは、近代医学とそれを駆使して頂いたお医者様のおかげである。
 「クラシック音楽」の好みも偏っており、「モーストリー・クラシック」最新号の大特集「管弦楽曲」には「異議あり」を呈示したい(爆

ベートーヴェン「エグモンド」 >>> グリーグ「ペール・ギュント」 か???


 これは全く納得出来ない。例え、シューベルト「ロザムンデ」がベートーヴェン「エグモンド」よりも下でもわからないでもないが、グリーグ「ペール・ギュント」の方が下になることはあり得ない!!!

 ・・・と憤って、(佐伯周子リサイタルの1週間前よりも日程が詰まっているのに)ブログを書いてしまう「猫頭 = 私高本」がここにいる。キョホホホホホ・・・


私高本の評価は皆様が決める。高ければ光栄。低ければ「自己責任」


 これだけである。
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練習を『知った』批評 vs. 練習を『知らない』批評 「批評の批評」その2(No.2232)

2013-03-09 21:37:51 | 批評の批評

2ちゃんねる「都響スレッド」にて、二期会オペレッタ「こうもり」の大植英次指揮批判(都響ファン)と関西から出張って来た聴衆による激しい応酬が未だ続行中


  この公演は聴いていない。J.シュトラウス2世「こうもり」は大好きな曲だが、大植英次指揮 と言うので、敬遠した。

  大阪に出張してホテルの部屋に居ると他にすることが無いので、テレビを見ていることが多い。大植英次が大阪フィルの首席指揮者当時に「特番」組んでいたのを丸丸見たことがある。「アメリカではスポンサーを大切にする」とか「街角での音楽活動の大切さ」を熱く語るのはテレビ向きで好感が持てた。驚いたのは「音楽が雑」だったこと。テレビで聴いたから雑に聴こえたのでは無い。「フレーズの終わり処理」などに全く気を配らない指揮者だったのだ。どの曲も。


2ちゃんねる「都響スレッド」の主張の食い違いは、「関西の大植英次ファン」は「都響の演奏会」をほとんど聴いたことが無い


に尽きる。さらに言えば

「大阪の大植英次ファン」は、「こうもり」公演の練習も見てもいない


  これがイタい。都響でも、読響でも、N響でも「最高の指揮者ばかりが連続する」ことはあり得ない。だが、『一定の水準』は確保する。それがアンサンブル力であり、要(かなめ)がコンサートマスターだ。どうやら、二期会「こうもり」公演では、都響のコンサートマスター2名が逃げ出す(体調を悪くした>< )ほど、練習がツラかった様子。最終的に 関西から、大植英次 旧知のヴァイオリン奏者を招聘して、公演実現に漕ぎ着けたようだ。「アンサンブルの要」がその状況で「良い演奏会」を期待できるのだろうか?


大木正純 が「ジンマン指揮 マーラー交響曲第7番」初日を毎日新聞紙上で大絶賛した


  私高本は、FMで聴いていたのだが

金管楽器に関しては、「なぜ絶賛するのか?」理解できないほど崩壊していたN響金管群


だった。大木正純の文章は「批評」と言うより「インタビュー」の感じ。「ジンマンが意図していたこと」はわかるのだが、意図すれば音が思い通りに鳴るワケではない。「指揮者には指揮者の技巧」があり、「オケにはオケの技巧 = 指揮者の意向を反映させるテクニックの集積」がある。1番トランペットが崩壊したら、マーラー交響曲は聴くのがつらい。大木正純 は、本番聴いたのだろうか? 練習は聴いたような「批評」だったが。


 大植英次 は、「こうもり」の前に「ワーグナープログラム」で都響に客演した時に、トラブルがあり、直前降板している。今回、2人の「都響コンサートマスターが降りた」を聞いて、以前耳にした「大植英次はきちんと振れない」の方が正しかったように思える。きちんと振れる指揮者ならば、コンサートマスターが降りる、は(都響水準のオケでは)考えられないからである。

 「大統領」の掛け声が掛けられたと伝わって来る二期会「こうもり」。私高本が聴いた限りでは、シンフォニーホールでも、旧フェスティバルホールでも、他の関西のホールでも聞いたことが無い。「大植英次の追っかけ」の質がそこまで低いのであれば、高いカネ払って、時間掛けて聴きに行く価値は私高本には感じられない。できることならば「都響ファン」が繰り返し述べているように、都響にはもう客演しないでそっとしておいて欲しい、が会員の1人としての偽らざる気持ちである。



  1. 「練習を聴かない批評」は、演奏家の意図がどれだけつかめたか? に疑問が出る。


  2. 「練習だけ聴いた批評」は、実演とかけ離れることが多々ある(爆



 ちなみに、ブゾーニ と言うアホ作曲家兼ピアニストが書き残していることによると、「ドイツの批評はリハーサルだけ聴いて書くのが当たり前」だそうだった(爆
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練習を『知った』批評 vs. 練習を『知らない』批評 「批評の批評」その1(No.2230)

2013-03-01 00:20:27 | 批評の批評
 先日の 三枝成彰:オペラ「KAMIKAZE-神風」2013.02.03 世界初演『批評の批評』(No.2224) が(私高本の猫頭では)思いもよらないほど盛り上がったので、『批評の批評』を連投する意欲が湧き上がった。


 尊敬する演奏家(練習も見学させて頂いた。本番も勿論聴いた)公演について、(他の)評論家の先生から直接お話しされた内容を昨日教えてもらった。当該評論家は「本番のみ」聴いた、とのこと。ちなみに、この公演は「公的な評価が極めて高かった公演」である。


 「他の共演者の演奏がスカ」とのことだった。う~ん、「公的な評価が極めて高かった公演」なので、そんなスカな共演者との公演ならば、評価が高くなるのだろうか???

「評論家」と言うのは、(私高本も含め)『自催公演主催』(含む スポンサー筋主催)と『アカの他人主催公演』批評 の双方を実施しているのが大半


である。だから

「私の自催公演」に(基準よりも安い出演料で)出演して欲しい! と、リップサービスすることも少なからずある!


 この辺りは「猫頭ヒョーロンカ = 私高本」は「聴いた通りの評論」しか出来ないので、「寝技」はワカラン><
 この評論家は、「正面批評」を伝えた、を前提にこれからの文章を書く。(真相はワカラン><)
(その2 に続く)
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三枝成彰:オペラ「KAMIKAZE-神風」2013.02.03 世界初演『批評の批評』(No.2224)

2013-02-22 21:17:53 | 批評の批評

三枝成彰:オペラ「KAMIKAZE-神風」2013.02.03 世界初演楽日公演批評(No.2210)に4つものコメントを頂いた。


 全て「私高本の批評」に対して、何らかの疑問を持っている。久しぶりに「批評の批評」を実施する。「批評される元 = 私高本」は Piano Music Japan 創刊以来初のような気がする(爆

 さて、全4本を受け取った順に掲載する。

  1. Unknown (Unknown) 2013-02-05 13:58:48 日本人現役オペラ作曲家で三枝成彰が最高とのことですが、他の作曲家のオペラも見ているのですか?

  2. ブラーヴォについて (平次郎) 2013-02-06 12:42:44 この内容に対してブラーヴォを盛大にするのははばかられるし、また、この内容に対してブーも出せないだろう。人間性を疑われる。演奏者に対してのみ声援が送られるわけではなかろう。なぜなら、褒めちぎれば右翼の烙印を押されかねない。冷笑すれば左翼と決めつけられる恐れがある。周囲の目を気にしたらどうしても反応はおとなしくならざるを得ない。
    悪役を作らないのは、このオペラではとくに大きな特徴と思った方がいいだろう。確かに忠臣蔵でも吉良の解釈に甘さが観られたし、どこか同情があった。しかし今回はとくに、悪というものを一つに決めることは危険と考えた節がある。単純な話ではなく、非常にデリケートな内容であることを加味すると、善と悪との対立構造にするのは本意ではないのではなかったか。オペラなのだから、とはいっても、本作だけはとくに特別な感情があったのだと私は推測している。
    舞台については同感だ。節約しすぎな印象だし、それを日本的といってごまかしているような感じがした。

  3. Unknown (Unknown) 2013-02-07 22:39:17 三枝さんのオペラが「プッチーニを真似ている」とは、何を根拠に書いているのでしょうか?三枝さんにインタビューをしたのでしょうか?私も「神風」を聞きましたが感じませんでした。根拠をお聞かせ下さい。

  4. 大道具,衣裳について (山岸紀美江) 2013-02-19 12:32:08 初日公演を見ました。大道具の簡易さは、千住博の素晴らしさを、発揮させ、よかったと思いました。戦闘機が、会場の屋根を飛んでいく様子や、舞台奥に飛び去りながら、編隊を組む飛行など、素晴らしかった。全体に、透明感のある薄墨色、群青色の舞台は、敗戦色の濃厚になった当時の空気を現していた。また、恋人時代の彼らの、過ごした、町や服装は、けして、豪華な、華美なものは、どこにも無かった時代であり、無理な要求です。73歳女性の観た感想です。



 「批評の批評」を掲載しよう! と決意したのは、「4,山岸紀美江さんのコメント」を受け取った時でした。

>恋人時代の彼らの、過ごした、町や服装は、けして、
>豪華な、華美なものは、どこにも無かった時代であり、無理な要求です。

 果たして本当なのだろうか?

 昨日2013.02.21に東京両国駅前の「東京都江戸東京博物館」に確認に行った。6階と5階を合わせた広大な面積に「江戸」と「東京」が「原寸大」を基本として展示している「東京名所」の1つだ。この5階の「東京」エリアに「東京モダン」を再現した写真や展示がある。「浅草の演芸」が関東大震災で壊滅した後も「不死身のように蘇った」有様が展示されている。別コーナーに『昭和15年の国民服制定』があり、この瞬間以降は、「派手な服装は国家の敵」とされた。逆からみれば

『国民服制定』以前は派手な服装がごく普通に存在し、浅草は演芸&映画で派手に興行をしていた


となる。これは、長老の浅草芸人の回顧録と一致している。73才の山岸さんは、終戦時=6才なので、物心が付いた時は既に当時の表記で「大東亜戦争中」なので、「豪華」「華美」は街から消えていた時代になりますが、山岸さんが産まれる直前までは「豪華」「華美」な場所はありました。特攻時が大体20才なので、6年前だと14才設定=旧制中学3年生程度 なので、盆踊り(今と違って相当に派手な地域もあった)や 秋祭り や 浅草で映画 などの設定は充分に可能となります。
 「千住明の美術が良かった」と感じるのは、「山岸さんの感性」として誰も止めることができません。「私高本のアホ批評」について「アホか?」とコメント下さるのは当たり前です。

「個人Aの主観」と「個人Bの主観」は違っていて当たり前。だが「客観」は「事実に基づく必要がある」


 私高本は、この点だけは深く留意して「批評」を掲載しています。例えば、「下野竜也 X 読響:ブルックナー交響曲第5番批評」など。
 「国民服制定」前の東京の様子については、東京都江戸東京博物館常設展をご覧になるのが、最も理解し易いと感じます。


 「3」ですが、

プッチーニ「蝶々夫人」「トゥーランドット(のリュウ)」の「女性の自己滅私型献身」が 『三枝成彰オペラの原点』


と感じています。ただ、プッチーニほど「メロディーメーカー」として印象深いアリアが無い、のが「作曲法上の唯一の弱点」と感じます。その為「軍歌の引用」などをしていましたが、シューマンの「フランス国家引用」よりも印象が薄い感触です。


 「2,平次郎さんコメント」ですが、

音楽への反応は「純音楽的派」 vs. 「現世界との関連重視派」の『考え方の違い』そのもの


です。『私高本 = 純音楽的派』です。『平次郎さん = 現世界との関連重視派』です。「クラシック音楽批評の主流 = 現世界との関連重視派」なので、私高本の方が少数派です><
 ワーグナー なんて「現世界派」の最たる人だったし(爆

「談合ヒョーロンカ = 山之内英明」が談合内容の弁明をしていたこともある


です。この辺りは「感性は人それぞれ」なので、平次郎さんはご自分の感性を大切にして下さい。私高本は(年も年なので)批評スタイルは死ぬまで変わらず「純音楽的派」です。


 2つのことを感じています。

  1. 三枝成彰:オペラ「KAMIKAZE-神風」について『自由闊達に発言できるのは、全世界で Piano Music Japan』だけ


  2. 「音楽的な私高本の聴き間違い」の指摘は全4件中、1件も無し



 ヴェルディオペラ とかだと、いろいろとご指摘があったりしたのだが、三枝成彰オペラだと、演奏会場にスコアが無料で読める状況を作ってくれていたのだが、指摘が無いんだなあ、、、
 読んでいたのは、私高本たった1人だったように見えていたが、やっぱみんな「スコア」は縦が長過ぎて読む気起こらないよなあ、、、
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詳細批評と印象批評(No.2031)

2012-04-06 17:14:11 | 批評の批評
 本日号では、読者の皆様に『批評の読み比べ』をして頂きたく、まず4本リンクを貼っておく。掲載順である。


伊熊よし子 の『パドモア+フェルナー : シューベルト「冬の旅」2011.12.04公演批評


東条碩夫 の『パドモア+フェルナー : シューベルト「冬の旅」2011.12.04公演批評


私高本 の『パドモア+フェルナー : シューベルト「冬の旅」2011.12.10公演批評


礒山雅 の『パドモア+フェルナー : シューベルト「冬の旅」2011.12.04公演批評



 皆「音楽評論家」の手に拠る「演奏会批評」である。中身に付いて語る前に客観的事実を記す。

  1. 伊熊、東条、私高本 の3名は「演奏会当日」の批評掲載で、礒山 だけ10日後掲載(毎日新聞に掲載するため)


  2. 伊熊、東条、礒山 の3名は 2011.12.04 公演、私高本 だけ 2011.12.10 公演


  3. 私高本は12月4日は デュトワ + N響「マーラー:千人」を聴いていた。伊熊、東条、礒山 は12月3日公演を含め聴いていない。





 ここからは、私高本の主観に拠る「批評の批評」である。

伊熊よし子 = 『インタビュワー&通訳型』


 伊熊よし子 は、現在油の乗った「クラシック音楽界の書き手」である。本人がブログに再三再四掲載しているように「インタビュー」「通訳」の仕事がバリバリ来ている。「音楽の友」を始めとする「クラシック音楽界情報」で、伊熊よし子 の名前を読まない月は記憶に無い。
 ・・・で、この「インタビュワー&通訳型」評論家 は、1つの大きな共通点がある。

「取材した演奏家」については(聴いた内容うんぬんを別にして)決して悪く書くことは無い = 『インタビュワー&通訳型』


 これは、私高本 が察知したことではない。

尊敬する 渡辺和 から教えられたこと!


である。渡辺和 本人は「だから、作曲家批評 や 作品批評 は実行しているが、演奏会批評は一切していないので自身は評論家ではない!」と断言していた。大見識である!
 ちなみに

「褒めることが大前提の批評」には、私高本は全く興味無い


ので、伊熊よし子ブログ を覗くのは、年に数回である。 渡辺和「やくぺん先生 うわの空」 は、面白いので毎週のように読んでいる!

東条碩夫 = 『大量印象批評型』


 東条碩夫 は、昔々「FM東京」の名前の時代に、オリジナルクラシック番組が週2本(火 & 木の21:00~22:00)あった当時のディレクターだった人。各興行主から押し寄せてくる「放送の売り込み」から最適なプログラムだけを選び出し、「NHK-FM」よりも魅力的な番組を作ろう、の視点が出発点、と推測される。
 現在も、確か「クラシック音楽CS放送」の仕事をしているハズ。私高本はCS放送は1度も見たことが無いのでよくワカラン。カネ無いからなあ、、、

東条碩夫 は年間300本くらいの演奏会を聴き、全てブログ上に掲載するスタイルを数年継続している。


「Daily Classical Music Critique in Tokyo 時代の私高本」と全く同じ「演奏会批評」スタイル なので大いに共鳴する評論家 = 東条碩夫


である。
 このスタイルには、「大きな落とし穴」がある。私高本自身が経験しているので、自信を持って断言できる(爆

年間300回も演奏会批評を書くと「印象批評」ばかりに陥る


 この1点だけである。私高本 は「岡原慎也 との出会い」が無かったら、 今も尚「印象批評垂れ流しヒョーロンカ」を続けていたような気がする。
 東条碩夫 の批評の特徴は

  1. 「ジャンル」や「外来と日本人」などに囚われない「巾広い窓口」


  2. NHK関係オーケストラ(N響 と 東フィル)を不必要に悪く書く(民間放送従事者の僻みか?)


  3. 総じて「印象批評」


  4. 「選択基準」が私高本の感性とは大きく異なる。「デュトワ + N響」で「マーラー:千人」を(スケジュールが空いているにも関わらず)選択しない気が知れない



 「インタビュワー&通訳」タイプでは無いので、悪い時は「悪い」と明言するのが好感持てるのだが、その根拠が希薄なのだ。「音楽の友」「モーストリー・クラシック」両雑誌に毎号書く欄がある人だが、「印象に残る批評」が皆無である。

「評論家」と言うよりも、むしろ『テレビのバラエティ番組の「レポーター」のレポート』に近い文章


に感じる。私高本 の興味を惹かない評論家なので、やはり年に数回覗くだけである。

私高本 = 『楽譜基準演奏家意図重視型』


 自分自身のことは、自分ではよくわからないのは誰もが同じ。私高本は猫頭なので、他の人よりも「パー」である。

佐伯周子 からさえ理解されていない私高本の思考回路


について、ここで語る(爆

「シューベルト解釈」は多種多様な方法があり、「解釈が徹底されれば」素晴らしいシューベルト演奏が実現する


と言う点。ピアノ演奏だけに限定して話を進める。

現在「シューベルトのピアノ音楽」と言えば「アルフレート・ブレンデル 系列が唯一絶対無二」と信じる ピアニスト,ピアノ教師,評論家が多数


である。だから「ブレンデルの弟子=フェルナー」を絶賛する(爆

フェルナー は根本的に指が廻らない上、ダイナミクスレンジの巾が狭く、さらにリズム感が欠如している


 聴いてわからない評論家が多いことには驚くばかりである。

 私高本は、「佐伯周子 のシューベルト完全全曲演奏会」を実行する間にも、岡原慎也、原田英代、宮谷理香 などの素晴らしい「シューベルト弾き」を嬉々として聴きに行き、高く評価して来た。原田 と 宮谷 は「佐伯周子 とは全く異なるシューベルト解釈」である。(岡原慎也 とは近い。)岡原慎也 については、わざわざ大阪にまで出掛けて聴きに行ったことも多いほどだ。
 私高本の脳内に「唯一無二のシューベルト像」は無い。佐伯周子 や 岡原慎也 で超名演を聴いた曲でも「唯一無二のシューベルト像」とは思っていない。まして、CDで聴いた演奏を崇め奉る神経は一切持ち合わせていない。「ブレンデルのシューベルト」は好きな演奏で、東京公演の全てを聴きに行ったが、良かった演奏会もあれば、不調な時もあった。また「CD録音」も素晴らしい点もあれば、首を傾げざるを得ない点もある。例えば「D960第1楽章呈示部の反復を実行しないこと」などなど。
 私高本の猫頭理解に少しはお役に立ったでしょうか?

礒山雅 = 『権威型』


 今年の3月末にて、国立音楽大学教授を定年退官して、4月からは「招聘教授」になった 礒山雅。普通の人 = 国立音楽大学関係者以外の人 には

「毎日新聞クラシック音楽批評の大看板 = 礒山雅」の印象!


だと思う。毎日新聞も読んでいる私高本は、少なくとも「上の行」のように感じているし、毎日新聞読者のクラシック音楽ファンならば、ほぼ間違いなく感じるだろう、と思う。

2012.04.06時点の瞬間の「東京の6大新聞」中、最も「我が強い記者 = 梅津時比古」が「毎日新聞クラシック音楽批評のエース」扱いしているのが 礒山雅!


だからである。ウソだと思う人は毎日新聞購読してちょ。「クラシック音楽記事」の量は相当に多く、読み応えはあるぞ > 中身は「個人の判断」に拠るが。「梅津時比古の姪っ子 = 梅津美葉」の絶賛記事の嵐とか読むと「引く」わな(爆
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『談合評論家』の手法を解き明かす(No.2030)

2012-04-05 19:16:17 | 批評の批評
 山之内英明 の「休憩時の大声談合」と「自己擁護」のおかげで、「音楽ヒョーロンカ」の実態が Piano Music Japan読者の皆様に垣間見える状況になったと感じる。本日号では、

『談合評論家』手法の解明


を掲載する。

 まず初めに騒動の持ち上がった「ヴァンスカ指揮読響の一連の演奏会批評」をお読み頂きたい。掲載順である。

私高本 の「ヴァンスカ + 読響」批評


山之内英明 の「ヴァンスカ + 読響」批評


 どちらもトロトロと掲載してるな(爆

 山之内英明 は、2ちゃんねるの「晒し」に心が痛んだらしく、4週間以上経過してからの掲載である。


山之内英明 の「批評」の特徴



  1. 山之内英明の「脳内」に『理想演奏像』が特定されており、それ以外の解釈を受け入れる『柔軟な脳』が皆無で、「不愉快という単語」がお好き


  2. 「山之内英明 > ヴァンスカ」と思い込んでいる


  3. 「談合仲間」の意見と大筋で一致していること強調し、自分の「正当性」を主張


  4. 「細部の乱れ」を強調する


  5. 「リズム」「アーティキュレーション」には一切触れない(触れることができない?)


  6. 「作曲家の意図」「指揮者の意図」の視点はほぼ皆無


  7. 結論として『好みのCD演奏と比較しての好き嫌い』の視点が最前面に打ち出された批評



 いくつか誤解の無いように書き記す。山之内英明 も「楽譜を眺めた批評」は書いている。ヴァンスカ指揮読響「チャイコフスキー:悲愴」批評ではガラにも無く、楽譜を引用している。(昨年4月の「カンブルラン + 読響」「ノリントン + N響」以降全部のクラシック音楽批評を読んだが、ここだけ楽譜を引用していた。)
 但し、これは「楽譜を読んだ批評」では無く「楽譜を眺めた批評」である。

私高本の事例で言えば「ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を グルダ + シュタイン + ウィーンフィル盤 を聴きながら眺めていただけ」程度


である。岡原慎也 に嫌味を言われても返す言葉も無かった「苦い思い出」がある(爆涙


 ここで「原点」に戻りたい。

なぜ「談合評論家」は「談合」するのか?


 もっともっと「景気の良い業界の談合」に目を移して考えてみたい。まず「談合と言えば土建業」が代表。彼らは、主として「公共事業」を大きな利鞘で交替に儲けるために「談合」することは有名。「日本最大手ゼネコン」から「田舎の土建屋」まで「談合まみれ」の業界であった(今もか?)ことは数々の新聞報道や著書で暴かれた通りである。
 翻って「クラシック音楽評論家」は儲かるのだろうか? と言う疑問がある。私高本も「雑誌批評に寄稿」した経験があるが、

演奏会1本批評して、各種経費込みで3,000円程度だった。


 「交通費込み」である。南武線、東急田園都市線、東京メトロ を使ってサントリーホールまで往復すると 1,200円掛かる。これに参考CD1枚買うと当時は約2,000円前後だったので、これだけで足が出る。とても楽譜は買えない!
 ・・・ってなことを考えているのは、私高本のような「貧乏で単独行動のアホ」だけである。

「談合仲間」で「雑誌インタビュー(または通訳)」「チラシ広告文」「プログラムノート執筆」「お手盛り批評」を交替で廻す、とカネが湧いて出る!


のだ。特に「補助金ジャブジャブ」でおいしい公演は「絶賛の嵐」にしておく必要がある。

その逆の「ヒョーロンカ対策費」の少ない公演は、懲らしめの「晒しモノ」のために糾弾しておき、バランスを図る


のが常道。
 ここで、「ヒョーロンカ対策費」が大きい公演と小さい公演の見分けるコツをこっそり読者の皆様に伝授する。

『クラシック音楽宣伝雑誌=モーストリー・クラシック』で特集を組んである演奏家が「対策費」豊かな演奏家(演奏会)


 尚、これは私高本が初めて言ったのではなく、『モーストリー・クラシック』に連載している 作曲家 = 青島広志 が「モーストリー・クラシック連載上」に書いていたことである!
 そう言えば「ヴァンスカ + 読響」は特集組まれなかったなあ(爆


 誤解なきように、書いておかなければならない点が後1つある。

「談合評論家」は研究熱心である。「人気CD」を聴き込むことには!


 土建業と同じで、「談合には談合の基準」が必要である。その基準は「誰もが容易に判るモノ」の必要がある。「譜面を読んだ解釈」なんて主観的なモノは使えない。「他人の解釈」なんて、理解するまで時間を喰うばかりだ。「東京の談合評論家」の基準でわかり易いのは「インバルのマーラー」だ。都響が熱心にCDリリースしてくれる熱意もあり、これが利用されている。「インバル」に「バーンスタイン」や「テンシュテット」や「ベルティーニ」をちょちょいと振り掛けたのが主流。これで意思疎通は万全!!

私高本のように「オレが読み込んだ楽譜解釈が批評の基準だ!」 では「談合」は成立しない!!


 「一匹狼」で吠えるしか無いのである(爆

 やっぱ、私高本 は「カネにはならない」アホな「ビンボー評論家」で一生を終えることになるわな(爆
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音楽評論家の実態を晒す(No.2029)

2012-04-04 21:12:51 | 批評の批評
2ちゃんねる 『読売日本交響楽団8』スレッド http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/classical/1312331293/ の「695」から「こと」は始まった。(http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/classical/1312331293/695)


695 :名無しの笛の踊り:2012/02/21(火) 23:11:14.32 ID:tvBzq+/4
休憩時間に、2階エレベーター脇で、「あんなの「ばらの騎士」じゃない!」
と、でかい声で仲間と話している、メガネデブがいた。
周りの人への気遣いなんてまるでなし。
にわか評論家気取りで持論をとうとうと力説。聞いちゃいられないよ。


697 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 00:05:35.47 ID:rvK9isDC
たしかにあの「ばらの騎士」はいまひとつだった なにせ色気に欠けていた
だけど、それをロビーや客席で声高に吹聴するのは、いただけないね
すぐ近くの席にも、そういったヒョーロンカ気取りがいたよ
もしかしたら同じ人かも?(2階席)
後ろの席だったからメガネデブかどうか分からないけどw
先週のシベリウス2が素晴らしすぎて、今日のブラームス1はいまひとつの印象
アホも今日のは外れ曲だと思った
先週の演奏が素晴らしすぎた


702 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 10:12:02.81 ID:nFAmYW6j
>>695
それ音楽評論家だよww


704 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 13:15:17.16 ID:KACojaJj
>>702
誰ですか?


706 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 14:16:56.27 ID:nFAmYW6j
>>704
山之内


707 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 16:11:59.58 ID:O8j3Iq3c
>>706
そいつスクロヴァのブル9の時も搭乗氏に悪口言ってたろ?


708 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 18:28:04.68 ID:ARX5XP6y
>>706
構ってもらえてよかったね


709 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 19:02:05.76 ID:nFAmYW6j
>>708
山之内乙


710 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 19:54:54.45 ID:dKn2lpRp
2階エスカレーター脇での、まわりの迷惑も考えずに興奮してでかい声で評論大会。
音楽評論家だか知らないけれど、社会人としてどうなのかねぇと思った。
よっぽど自分の存在感をアピールしたかったんだろう。


711 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 21:41:38.54 ID:O8j3Iq3c
これがそいつのブログらしい
http://eirakukan.seesaa.net/


712 :名無しの笛の踊り:2012/02/22(水) 21:55:16.11 ID:nFAmYW6j
>>711
当日大声出していた当人のブログです。


 う~ん、この日だけ私高本は「ヴァンスカ + 読響」の演奏会に行けなかった(涙
当日のことは全くわからないが、2/21(火)の定期演奏会にて、「評論大会」を休憩時にロビーで開催してしまったようである。「タダで評論を聞くことが出来てラッキー!」と感じた人は皆無で、「この野郎!」と思った人たちが約24時間で、評論家を特定した上に、ブログを晒した(爆
 この程度のことで、鬱病になるようなヤツは音楽評論家には向いていない。基本的に「叩かれるのが当たり前の世界=音楽評論」だからである。
 ・・・で、「コイツ、アホじゃん!」のオンパレードになってお開きになるか? と思っていたのだが、いきなりここから急展開した。


713 :名無しの笛の踊り:2012/02/23(木) 05:42:36.82 【ID:KfY9Fet1】

他の評論家と事前調整するのは普通

だよ。

複数の評論家が違う意見だったら、世間の信用をなくすから

ね。


714 :名無しの笛の踊り:2012/02/23(木) 06:29:54.34 ID:pb2AYPdl
事前調整するのは勝手だけど、まわりへの迷惑も考えろ!ということ。
自分の家じゃないんだから、でかい声での評論独演会は見苦しい。


715 :名無しの笛の踊り:2012/02/23(木) 07:42:35.21 【ID:KfY9Fet1】
子どもじゃないんだから、こんなところで騒いでいないで、
その場で注意しろ。


前日夜に個人を特定されブログアドレスを晒された 山之内英明 は朝まで寝付け無かった様子で5時42分に書き込み


である。7時42分まで寝付けず、批難した方に居直りを決め込んだ。


720 :名無しの笛の踊り:2012/02/23(木) 22:25:24.54 ID:pR5RKM0e
>>713
時々他人とかなり違う意見を書いてる連中がいるけど
そっちの方が信用できるってことだな

談合評論家なんて自分に自信がない金魚の糞みたいなもんだろ




 この一連の書き込みにより、次のことが明らかになった。

「音楽評論家 = 山之内英明」とその廻りの音楽評論家は「談合」して評論を書いている。


山之内英明 は、楽譜を詳細に読み込んでの批評は全くと言って良いほど行なっていない。


「その廻りの評論家」も『類は友を呼ぶ』で、同様の姿勢で評論活動を実行していると推察される。



 私高本の言い分が正しいか? 間違っているか? は

山之内英明ブログ http://eirakukan.seesaa.net/


を読者の皆様がご覧頂き、2ちゃんねる「読響スレッド」と参照させてご判断頂きたい。
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信用できる評論家の資格は? 3(No.1971)

2012-01-08 23:43:37 | 批評の批評

信用できる評論家の資格は?


 このシリーズの「最終楽章」である。3楽章構成だよ~ん。


  1. 「核」を持っている。私高本は「シューベルト」だが、作曲家の必要は無い。「弦楽四重奏曲 → 渡辺和」とか「演奏家グールド研究 → 宮澤淳一」も尊敬に値する評論家である


  2. 「核の深み」に凄みを感じさせる。渡辺和 や 宮澤淳一 の凄みは恐ろしいよ、マジ。


  3. 「巾の広さ = 間口は広い」こと。渡辺和 は弦楽四重奏以外でも十二分に広い知識を有しているし、宮澤淳一 は「グールド の演奏」について「同曲異演盤」を信じられないほど聴いている!


  4. 「楽譜が読める」


  5. 「耳が良い」


  6. 「特定の利益団体」に所属していない


  7. 「ゲンダイオンガク専門」と「作曲家出身」と「通訳出身」はまずは疑って掛かる



 これだけである。


 誤解があるといけないので補足。最後の「ゲンダイオンガク専門」と「作曲家出身」と「通訳出身」はまずは疑って掛かる、だが、「吉松隆」「池辺晋一郎」などは信じている。しゃべりが少々「うざい」傾向にはあるが > 私高本も同じじゃん(藁


特に疑った方が良いのが「ゲンダイオンガク専門」集団。ちょっと上に書いた「特定の利益団体」だからなあ(爆


 こいつらに騙されて、下らない「ゲンダイオンガク」を聴きにいくら無駄金を吐き出さされたことだろう! 文化庁公務員を巻き込んでの「壮大なジサクジエン」を毎年繰り広げているからなあ(爆

 民主党政権もこんな細かな点までは、見極めていないようだ(爆


 私高本は「猫頭」のまま、本年2012年も批評活動を続ける。だが

「聴いた通りの批評」をこれまで通り掲載する


 どんなに軋轢があっても(「佐伯周子が愚痴を言う」が最大?)これだけは守る。これが無くなったら「私高本の価値 = 0」じゃん(爆
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信用できる評論家の資格は? 2(No.1970)

2012-01-07 19:05:51 | 批評の批評

信用できる評論家の資格は?


 本日も「私高本自身」の批評について「批評の批評」を語る。昨年「最もきちんと批評が書けた公演」の1つの

2011.11.24 オペラくご「ドン・ジョヴァンニ」批評


について述べる。リンク貼っておいたので、まだ読んでいなくて興味ある方はご覧下さい。


 ご招待頂いた公演なので、事前に「できる範囲」で準備をする。昨日号で述べたように「オペラDVD」を観る趣味は無いので、CDを探す。幸い ベーム指揮盤があった!(購入しないで済むので乏しい懐が痛まないで済んだ。)特にこだわりの無いオペラは1つ納得できるCDが手持ちになればその後は(懐が寂しいので)買い足さないのが「オレ流」である(爆

オペラくごの「チラシ」を読むと「レシタティーヴォは省略する」と記載


がある。

モーツァルト自身が「レシタティーヴォ採用オペラ」と「レシタティーヴォ【不】採用オペラ」で終生迷っていた事実


を真っ先に思い出した。「ドン・ジョヴァンニ」はレシタティーヴォあるが、その後作曲した「魔笛」は無いからなあ。時代が下って

ロッシーニがまだ生きていた時の「セビリアの理髪師」公演についてフォルテピアノ(だかチェンバロだか)が「うるさい」の記述あり


を思い出す。私高本も演奏によっては「チェンバロうるさいなぁ!」と感じたモーツァルトオペラ経験あり。チェンバロは音量が ヤマハ や スタインウェイ のコンサートグランドピアノのようにバカでかいワケでは無い(爆

チェンバロやピアノは「平均律」でしか調律できないので、弦楽器と『絶対に』純正和音が『合わない』ことが耳障り


なのだ。「ピアノ大好き人間 = 私高本」が聴いてさえも、モーツァルトオペラでは不快に感じることがある。チェンバロ奏者以外の多くの人が感じていることと推定する。(チェンバロ奏者は仕事を失うから感じるワケないわな)

 この「調律」と言うのは、(聴衆の皆様が思っているよりも)デリケートな問題で、「純正調」と「平均律」では全く「聴いたら誰でも違いが解る」ほどの差がある。「それなら、チェンバロ(ピアノ)を純正調に調律すればいいじゃん」とお気楽に考える方も多いが、それは全くの誤り。

モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」は『ニ短調が基本調性』だが遠隔調にも転調する瞬間があり、「純正調調律したチェンバロ」では聴くに耐えない


に陥るからだ。CDセッション録音などでは、「部分録音」を重ねて、その度に調律し直すことも可能。(した録音があるかどうかは興味無いので調査したことありません><)


 私高本は猫頭なので、字幕無しで大丈夫な「モーツァルトオペラ」は、「後宮からの誘拐」「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」「魔笛」の5作品のみ。「皇帝ティートの慈悲」でさえ字幕無しでは全く「ワケわからん」状態。シューベルトオペラでさえ、字幕無しで理解できる可能性を秘めている(実際に観たこと無いからわからん)のは「アルフォンソとエレストレッラ」「フィエラブラス」の2作品だけ。必死になって「英語字幕」で何度も繰り返し観たからだ。(う~ん、DVDはやっぱ「効果大」だわ!)独語が理解できているワケではない(泣


 ・・・で、手持ちのベーム指揮盤を聴いた。バシバシ飛ばして聴いた。序曲も第2主題が終わった辺りで「次」。

勿論「レシタティーヴォ」は全部飛ばして聴いた


 モーツァルトオペラ聴くのに「レシタティーヴォ期待」の人なんているハズも無いし、まして

服部譲二 は「レシタティーヴォカット」明言しているじゃないか!


 「曲の進行」を確認する。確認できれば次に飛ばす。何をしたか? と問われれば「曲順の確認」である。交響曲ではほぼ皆無なのだが、オペラでは、演出次第で「曲順が入れ替えされる」は日常茶飯事。何せ、前2回の「オペラくご」は聴いていないので、服部譲二 が「どのようなモーツァルトオペラ観」を持っているかは全く見当が付かない。多くのヒョーロンカならば、ここらで「GP見学の申し入れ」をするのだが、私高本は「本番公演の感銘度最優先」で申し入れはしない。(痩せ我慢かも知れないが)

 気になる箇所(脇役の箇所中心)をCDと楽譜で確認して演奏会場に足を運ぶ。本番が開幕した!


オケの「編成」を「序曲」で数える



 アホみたいに思えるかも知れないが最重要なこと! 「東京アンサンブル」のオリジナル編成は小さいからだ。「5型」だった。これだと「弦楽器は核メンバーだけ」と推察。次いで

古今亭志ん輔の「話芸」を「レシタティーヴォの代替」として注目する。「オペラくご」の「売り」だし


 都響の「売られた花嫁」公演でスカなトークを聴かせやがった大馬鹿アナウンサーとは違い、

古今亭志ん輔 は「オペラ全体」を理解した上で『モーツァルトのオペラの雰囲気』を壊さないように「江戸っ子口調」で語ってくれた


ことが印象深い。

おそらく、服部譲二の解釈が骨格から爪や髪の毛の先々まで行き届いているから


だ。いやー、私高本には「これは無理」です、はっきり。
 歌手陣も良い。「お隣の駅 = 初台」の新国立劇場の「ドン・ジョヴァンニ」でも、ここまで「細やかな気配り」は無かった。少なくとも2回聴いた記憶があるのだが、3回だった鴨(涙

 演奏会前日は、「モーツァルトのニ短調」に浸るために、「ピアノ協奏曲 K466」(グルダ + アバド + ウィーン・フィル)「弦楽四重奏曲 K421」(アマデウスSQのモノラル盤)を聴いた。直前にはオペラの場合、聴くことは少ない。(所持しているCDが少ないので別録音を聴くことが出来ない、が原因と思われる)


 ・・・てな「工程」を経て、上記批評を「深夜から明け方」まで(おそらく焼酎呑みながら)「きょほほほほほ」などの奇声を挙げながら書いたハズである。「近所には住んで欲しく無い人」だよな(爆

(続きはまだあるよ、自分の「批評の批評」だけで終わらせるワケないだろが(爆)
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信用できる評論家の資格は? 1(No.1969)

2012-01-06 22:46:05 | 批評の批評

信用できる評論家の資格は?


 まず初めにお断りして置かなければならないことがある。

「音楽評論家」は国家資格では無いので、誰でも名乗ることが出来る、が事実


 「弁護士」とか「教員1級免許」を詐称すると、警察に逮捕されてブタ箱にぶち込まれる結果となる。しかし、「音楽評論家」は誰が名乗っても良い。楽譜が読めなくてもOK。そんな音楽評論家たくさんいるじゃん > 某レコード評論誌にも


 他人のことをあげつらう前に、「私高本自身の自己評価」を書き綴る。役に立つかも知れないし、立たないかも知れない。

私高本の自己評価



  1. 「評論の基礎 = 足腰」は 1996.12 - 1999.12 の3年間の「Daily Classical Music Critique in Tokyo」時代に 300回/年以上のナマの演奏会を聴いて築いた


  2. 楽譜は良く読む方(同業者比)。モーツァルトは1991年当時の「ベーレンライター新モーツァルト全集」は所有しているし、主なピアノ曲は「良い版」と言われる版所有


  3. 「最新CD研究」は疎い。「レコード芸術」誌レギュラー執筆者に伺ったら『送りつけられて来るサンプル版を全部聴いていたら、1ヶ月起きている時間全部でも足りない』とのことだった


  4. DVDはほとんど興味無い。「佐伯周子演奏曲目」については資料として購入はためらわないが、「楽しみ」で観るオペラDVDはわずか4枚のみで、しかも内2枚はシューベルト


  5. 本番だけを「聴いた通り」に書く、ことは比が無い。演奏家の肩書きや経歴には全く興味無い。


  6. 『作曲家の意図』にはこだわる。「演奏家寄り」と言うよりも「作曲家寄り」のスタンス


  7. 「私高本の好み」にはあまりこだわらない。ラフマニノフ のように「詳細研究する気が1度も起こったこと無い作曲家作品」でも演奏さえ良ければ、いそいそと足を運ぶ。


  8. 『世界初演』『日本初演』公演が無闇に好き。そのくせ決してGPとかを聴きには行かない



 ちなみに、「持っているオペラDVDの4枚」なんて誰も興味無いと思うが、書いておく。

私高本が所持している「オペラDVD」



  1. オッフェンバック「地獄のオルフェウス」ミンコフスキー指揮盤日本語字幕付き1997.12ライブ録画


  2. J.シュトラウス2世「こうもり」グシュルバウアー指揮盤日本語字幕付き1980.12.31ライブ録画


  3. シューベルト「アルフォンソとエレストレッラ」 D732 アーノンクール指揮盤日本語字幕無し 1997.05ライブ録画(NHKが録画に加わっているのに何で日本語字幕無しなんだ!!!)


  4. シューベルト「フィエラブラス」 D796 ウェルザー=メスト指揮盤日本語字幕無し 2005.11&12, 2006.03ライブ録画



 う~ん、自分で言うのも何だが「全く興味無いな > DVD」(爆

 ちなみに昨年末は「地獄のオルフェウス」と「こうもり」を焼酎呑みながら、観てました > 年末(爆

 そんなヤツです > 私高本


 同業者比で言うと、「核はシューベルト」の自覚は強い、DVDはほとんど観ない、CDについては「同じCDを繰り返し聴く」、楽譜の読みには時間を掛ける、「肩書きに全く興味無い」辺りが特徴かと感じる。
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続:『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?(No.1968)

2012-01-05 21:15:56 | 批評の批評

『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?


 最もショックを受けたのが、3回の内初回に当たる「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番」であった。大好きな曲であり、いつもグルダの録音(シュタイン指揮ウィーン・フィル盤)を聴いている。楽譜読みながら聴いたことも何度かある。だが、モーツァルトの2曲(K271 & K453)とは全く異なり

「良かった演奏の何が良かったのか?」 が具体的に指摘できない!




 モーツァルト協奏曲については、「川上敦子 モーツァルトピアノソナタ全曲演奏会」の時に「カデンツァ探し」に「自作カデンツァある協奏曲だけ」詳細研究したことがあった。第20番K466以降だと、カデンツァある曲は K488 と K595 のみ。第19番以前は全曲に残っていて、曲に拠っては「カデンツァが3つある協奏曲」もあった。第19番以前で深く研究したのは、K271,K365,K449,K453 の4曲。後期の2曲と併せて6曲しか深くは研究していない。全部で23曲モーツァルトは「オリジナルピアノ協奏曲」を作曲しているので、3割にも満たないのか、、、
 ・・・が、なぜか「岡原慎也指揮者日本デビュー」では、この内の2曲が幸運にも演奏された。「良かった演奏の何が良かったのか?」がはっきりわかった。つまり

詳細研究してある曲は「はっきりと細部まで理解できている」が、していない曲は「細部がわからない」に尽きる


 半年以上経過した「2012年正月」には思い当たるフシがあることに気付く。

ベートーヴェンのピアノ曲は「基本的にグルダしか聴かない」がモーツァルトはいろいろな演奏家を聴く


 これが原因で、ベートーヴェンのチェロソナタは聴く(フルニエ共演盤あり)が、ヴァイオリンソナタは7番と10番(リッチ共演盤あり)しか頻繁には聴かない。ピアノ3重奏曲もほとんど聴かない。つまるところ

私高本はベートーヴェンピアノ曲は「グルダの解釈」を聴いているだけであり、自分で楽譜を読み込んでいない!


 確かに「第9」ほど楽譜読み込んだベートーヴェンピアノ曲は「32の変奏曲ハ短調」1曲だけ。佐伯周子の演奏会曲目解説書くためだった、、、


 ムソルグスキー「展覧会の絵」も然り。シューベルトのイ短調ソナタD845 ほどの研究は行き届いていない。

 プッチーニの2つのオペラについては、(方向は全く同じだが)少しだけ事情は異なる。プッチーニは大好きな作曲家であり、新国立劇場が上演してくれるといそいそと聴きに出掛ける、が基本。(時々、佐伯周子にチケットを奪われることがあるが)
 スコアを研究したことは無い。その時間があれば、シューベルトの曲の研究に費やしている。オペラスコアは「縦に長い」ので、(シューベルトでも)疲れるので、出来ることならば、ピアノ譜の方が好き。2段だからなあ。1段の方がさらに望ましいので、テレマン「無伴奏フルートのための12の幻想曲」は詳細研究したことがある(爆


 プッチーニの全オペラの中で「私高本が最も好きなオペラ = ジャンニ・スキッキ」である。「最高傑作」とは思えない。「ボエーム」「蝶々夫人」「トスカ」の方が上だと思う。だが「好き」なのは「ジャンニ・スキッキ」。「喜劇で下品で力感溢れている」点が好みに合うのだと思う。私高本は「(爆」とか平気でブログに書き綴る「猫頭」だし(爆

 好きな演目なので、詳細研究はしていないモノの、それなりの蓄積がある。「好きな女性」の動作は事細かく見るように、「ジャンニ・スキッキ」は細かな点まで観ていたようだ。堺シティオペラ初日公演を観た時の感動はあまりに深かった。東京で1回も観たこと無い素晴らしい出来だったからだ!!!

 ・・・で、前半の同じプッチーニ作曲「妖精ヴィッリ」だが、「舞台は初めて見る」状態。CD聴いたり、ペトルッチ読んだ程度では共鳴する水準には至らないわな(爆
 演奏自体が「良い」ことはわかったのだが、「言葉が何も出て来ない」状態。「糖尿病が悪化して脳が詰まったか?」と休憩時に嫌な思いが頭を過ぎったのだが、後半の「ジャンニ・スキッキ」を聴いた後には「整理できないほどの言葉が押し寄せて来た」ので、「脳の詰まり」は無かったようだ(ホッ

 ・・・で、「妖精ヴィッリ」の批評が書けない。「素晴らしかった!」としか書けない。あぁ、「ジャンニ・スキッキ」には蓄積が相当にあったんだ! と判明したのは、数ヶ月後である。やっぱ「私高本は猫頭」である(泣


 批評を「書く側」からの裏表無い率直な言葉。

ナマ演奏会を聴く瞬間までに「詳細研究」または「聴いた蓄積」がある曲は詳細批評が書ける。無い曲は無理。


礒山雅国立音楽大学主任教授兼図書館長は、「詳細研究していて準備万端の作曲家は、バッハ + モーツァルト + ワーグナーだけ」と明言


している。他の曲も(私高本の「テレマン:無伴奏フルートのための12の幻想曲」みたいな)詳細研究している曲は勿論多くあるだろう。だが、「作曲家単位」だと、当該3名以外だと、「印象批評」になる可能性が高いことを明言している。


 演奏会主催者として(つまりヒョーロンカと逆の立場から)、今回の問題を考えてみたい。私高本は「佐伯周子演奏会」を現在進行中であり、いろいろなメディアで「批評」を取り上げてもらいたい、と熱望している。
 佐伯周子は、本当に(團伊玖磨「夕鶴」の「つう」のように)身を削って、シューベルト(を中心)に楽曲に身も心も捧げて練習している。1つのフレーズのアーティキュレーションを決めるのに、私高本が聴いて「何迷っているの?」って時も多い。
 ・・・で、シューベルトの「有名とは言い難い曲」を批評する際に「佐伯周子と同じ水準で考え抜いているのか?」は、私高本にはわからない。但し、相当に難しいことだけはわかる。録音も少ないし、少ないと水準も低く「グルダのベートーヴェン」には至っていない。
 私たち「ヒョーロンカ」は「過去の演奏と比較して」が1つの基準となっている。他に比較するモノ無いからなあ(爆


 『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?

 大きな問題である。演奏家誰もが「印象批評」は受けたく無い。(ハイ、私高本もマネジャーとして全く同意見です!)だが、その先に「もう1つの大問題がある」のである。

ゲネプロとかさらに前の練習を聴くと「本番の感銘」が薄れる!


 これは、ほとんど大多数の「ヒョーロンカ」が口を閉ざしている大問題。相当前からヨーロッパでは蔓延していた大問題。あぁ、21世紀になった現代でも横行している大問題である。

「評論」は、あくまで「評論家個人の感性の全てを駆使しての評論」


と思って、読者は読む。だが、昔々「ブゾーニ」と言うクソ作曲家が書いている。

本番に何の価値があるのか? ゲネプロで全て(のヒョーロンカの批評は)決まっている


だとさ(爆
 つまり「袖の下」で「ドイツの批評」は(ブゾーニ生存中は)決まっていたわけだ。今は知らん。大体、私高本は欧州行ったこと1回も無いし(爆

 私高本は「聴いた通り」の批評を書き綴って来た。例えば

佐伯周子とは「感性が真反対の上野優子」も絶賛して来た!


 「聴いて素晴らしかった」からだ。何が良かったか? はわからんところも多い。詳細研究してないからなあ > ラフマニノフとか

 佐伯周子は不満たらたら。但し「私高本の感性は、上野優子のラフマニノフ 最高!!!」である。この辺りの温度差が色々と軋轢を生んでいる可能性は否定できない(爆


 あぁ、またマズいこと書いたんだろな(爆
「猫頭」だから、しゃーないわな(爆
 
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『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?(No.1967)

2012-01-01 22:51:49 | 批評の批評

詳細批評と印象批評の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?


  「ヒョーロンカ」と呼ばれる人種は誰もが「印象批評書きやがって!!!」と言われることを嫌う。(私高本も嫌う) 反対勢力から「コイツ耳付いているんか?」と罵倒されるよりも堪える。「研究が行き届いていない」と言う批判であり、演奏家の皆様が全力を尽くした演奏を批評するならば、

「演奏家と同等以上に研究しているからこそ、上から目線で批評できるハズ」と思われて当たり前


だからである。しかし、実態は大きく違う。

礒山雅国立音楽大学主任教授兼図書館長も書いているように「9割以上は印象批評」


となっている。私高本もその1人。詳細批評できる曲は限られている。「川上敦子リサイタル」「佐伯周子リサイタル(の内数曲を除く)」で演奏した曲は全部(どの演奏家が演奏しても)詳細批評できる。リストが少々、モーツァルトピアノ「ソナタ」のみ全曲、伊福部昭ピアノ曲全曲、シューベルトピアノソロの内既に演奏した曲、スメタナ「チェコ舞曲集第2集」。他にもあることはあるが少ない。ピアノソロ曲は意外に研究している曲が多いのだが、それ以外の分野は(シューベルト以外は)首筋が寒い。「第9」「千人」程度に批評できる曲はどのくらいあるのだろうか??? 実はモーツァルトのピアノ曲でも「変奏曲」は詳細批評できる曲は「きらきら星変奏曲」K.265くらいである(泣
 なぜ、「こんなバカなことが起こるのか?」に興味ある人もいるだろう。(いないかも知れない。)率直なところを、年始に綴る。昔々、「レッスンの友」誌に、岡原慎也が連載「役に立たない話」を掲載していた時期があったが、あの水準には達しないだろうが。


 2011年は

超名演を聴いたのに「批評が中途で止まってしまった演奏会」に3回出くわした


が印象(と後悔)が残る。全て「大阪の演奏会」。佐伯周子に(旅費が掛かることに)嫌味を言われながらの演奏会だった。嫌味を言われたのが原因ではない。私高本の猫頭が原因である。3回の演奏会を列記する。懺悔の記録である(涙

  1. 2011.06.25 岡原慎也指揮者日本デビュー演奏会(モーツァルトの K.271 & K.453 とベートーヴェン作品19)


  2. 2011.09.10&11 堺シティオペラ「プッチーニ : 妖精ヴィッリ & ジャンニ・スキッキ」


  3. 2011.10.16 岡原慎也ピアノリサイタル(シューベルト:ピアノソナタ イ短調D845 & ムソルグスキー「展覧会の絵」)



 全3回とも、私高本の猫頭なりに準備して聴きに行くように新幹線に乗った。ベートーヴェンとムソルグスキーは「手持ちの楽譜」を読んで行ったし、「妖精ヴィッリ」はペトルッチで読んで出掛けた。(運良くあったし)


 その程度では「音楽の全貌」は掴めなかった。私高本の猫頭の「容量不足」の可能性が最も高い(涙

 もう52才にもなって「脳の容量拡大」は絶対不可能だからなあ。むしろ「脳の退化を防ぐノウハウ本」を読む世代になってしまっている(爆涙

(この稿はまだ続く)

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私高本は「猫頭でバカ」である!(No.1966)

2011-12-31 21:30:56 | 批評の批評

私高本は本年批評活動に於いて重大な誤りを犯した。この「猫頭」を充分に反省し、2012年からの批評活動に繋げたい(涙



 普通、「大晦日の記事」って、「今年を振り返って」とか「来年を展望して」になるわな。私高本もその予定だった(涙

 「今年はデュトワ指揮マーラー:千人 が素晴らしかったよな!」とかホザきながら、かけたCDが「テンシュテット指揮マーラー交響曲第3番 夏の交響曲」。第3楽章聴いて、心が凍てついた!

先日聴いた 「内藤稚子 + 岡原慎也」 と調性違うじゃん!!!


 事前に音程を確かめて演奏会に行った。それまで聴いた演奏会は全て「イ短調」だった。テンシュテット指揮盤は、器楽なので間違いなく「ハ短調」。「内藤稚子 + 岡原慎也」はその中間だったようだ。変ロ短調だったのか? ロ短調だったのか? そこまで、わかっていたら「世紀の大誤報」はしない(爆涙

 Daily Classical Music Critique in Tokyo を立ち上げて15年以上が経過した。その間、これほどの大誤報は(今回を含めて)2回。前回も(絶対音感無いくせに)「ハイCを綺麗に張った!」と書いたら、

オケピットの人から、「半音低いパート譜廻されて弾いたんですが」


と言われた(涙
  絶対音感無いクセにエラそうなこと書いたらアカン、を家訓にしなければならない鴨。
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 内藤稚子さん、岡原慎也さん、マーラーさん、ごめんなさい><
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