『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?
最もショックを受けたのが、3回の内初回に当たる「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番」であった。大好きな曲であり、いつもグルダの録音(シュタイン指揮ウィーン・フィル盤)を聴いている。楽譜読みながら聴いたことも何度かある。だが、モーツァルトの2曲(K271 & K453)とは全く異なり
「良かった演奏の何が良かったのか?」 が具体的に指摘できない!
モーツァルト協奏曲については、「川上敦子 モーツァルトピアノソナタ全曲演奏会」の時に「カデンツァ探し」に「自作カデンツァある協奏曲だけ」詳細研究したことがあった。第20番K466以降だと、カデンツァある曲は K488 と K595 のみ。第19番以前は全曲に残っていて、曲に拠っては「カデンツァが3つある協奏曲」もあった。第19番以前で深く研究したのは、K271,K365,K449,K453 の4曲。後期の2曲と併せて6曲しか深くは研究していない。全部で23曲モーツァルトは「オリジナルピアノ協奏曲」を作曲しているので、3割にも満たないのか、、、
・・・が、なぜか「岡原慎也指揮者日本デビュー」では、この内の2曲が幸運にも演奏された。「良かった演奏の何が良かったのか?」がはっきりわかった。つまり
詳細研究してある曲は「はっきりと細部まで理解できている」が、していない曲は「細部がわからない」に尽きる
半年以上経過した「2012年正月」には思い当たるフシがあることに気付く。
ベートーヴェンのピアノ曲は「基本的にグルダしか聴かない」がモーツァルトはいろいろな演奏家を聴く
これが原因で、ベートーヴェンのチェロソナタは聴く(フルニエ共演盤あり)が、ヴァイオリンソナタは7番と10番(リッチ共演盤あり)しか頻繁には聴かない。ピアノ3重奏曲もほとんど聴かない。つまるところ
私高本はベートーヴェンピアノ曲は「グルダの解釈」を聴いているだけであり、自分で楽譜を読み込んでいない!
確かに「第9」ほど楽譜読み込んだベートーヴェンピアノ曲は「32の変奏曲ハ短調」1曲だけ。佐伯周子の演奏会曲目解説書くためだった、、、
ムソルグスキー「展覧会の絵」も然り。シューベルトのイ短調ソナタD845 ほどの研究は行き届いていない。
プッチーニの2つのオペラについては、(方向は全く同じだが)少しだけ事情は異なる。プッチーニは大好きな作曲家であり、新国立劇場が上演してくれるといそいそと聴きに出掛ける、が基本。(時々、佐伯周子にチケットを奪われることがあるが)
スコアを研究したことは無い。その時間があれば、シューベルトの曲の研究に費やしている。オペラスコアは「縦に長い」ので、(シューベルトでも)疲れるので、出来ることならば、ピアノ譜の方が好き。2段だからなあ。1段の方がさらに望ましいので、テレマン「無伴奏フルートのための12の幻想曲」は詳細研究したことがある(爆
プッチーニの全オペラの中で「私高本が最も好きなオペラ = ジャンニ・スキッキ」である。「最高傑作」とは思えない。「ボエーム」「蝶々夫人」「トスカ」の方が上だと思う。だが「好き」なのは「ジャンニ・スキッキ」。「喜劇で下品で力感溢れている」点が好みに合うのだと思う。私高本は「(爆」とか平気でブログに書き綴る「猫頭」だし(爆
好きな演目なので、詳細研究はしていないモノの、それなりの蓄積がある。「好きな女性」の動作は事細かく見るように、「ジャンニ・スキッキ」は細かな点まで観ていたようだ。堺シティオペラ初日公演を観た時の感動はあまりに深かった。東京で1回も観たこと無い素晴らしい出来だったからだ!!!
・・・で、前半の同じプッチーニ作曲「妖精ヴィッリ」だが、「舞台は初めて見る」状態。CD聴いたり、ペトルッチ読んだ程度では共鳴する水準には至らないわな(爆
演奏自体が「良い」ことはわかったのだが、「言葉が何も出て来ない」状態。「糖尿病が悪化して脳が詰まったか?」と休憩時に嫌な思いが頭を過ぎったのだが、後半の「ジャンニ・スキッキ」を聴いた後には「整理できないほどの言葉が押し寄せて来た」ので、「脳の詰まり」は無かったようだ(ホッ
・・・で、「妖精ヴィッリ」の批評が書けない。「素晴らしかった!」としか書けない。あぁ、「ジャンニ・スキッキ」には蓄積が相当にあったんだ! と判明したのは、数ヶ月後である。やっぱ「私高本は猫頭」である(泣
批評を「書く側」からの裏表無い率直な言葉。
ナマ演奏会を聴く瞬間までに「詳細研究」または「聴いた蓄積」がある曲は詳細批評が書ける。無い曲は無理。
礒山雅国立音楽大学主任教授兼図書館長は、「詳細研究していて準備万端の作曲家は、バッハ + モーツァルト + ワーグナーだけ」と明言
している。他の曲も(私高本の「テレマン:無伴奏フルートのための12の幻想曲」みたいな)詳細研究している曲は勿論多くあるだろう。だが、「作曲家単位」だと、当該3名以外だと、「印象批評」になる可能性が高いことを明言している。
演奏会主催者として(つまりヒョーロンカと逆の立場から)、今回の問題を考えてみたい。私高本は「佐伯周子演奏会」を現在進行中であり、いろいろなメディアで「批評」を取り上げてもらいたい、と熱望している。
佐伯周子は、本当に(團伊玖磨「夕鶴」の「つう」のように)身を削って、シューベルト(を中心)に楽曲に身も心も捧げて練習している。1つのフレーズのアーティキュレーションを決めるのに、私高本が聴いて「何迷っているの?」って時も多い。
・・・で、シューベルトの「有名とは言い難い曲」を批評する際に「佐伯周子と同じ水準で考え抜いているのか?」は、私高本にはわからない。但し、相当に難しいことだけはわかる。録音も少ないし、少ないと水準も低く「グルダのベートーヴェン」には至っていない。
私たち「ヒョーロンカ」は「過去の演奏と比較して」が1つの基準となっている。他に比較するモノ無いからなあ(爆
『詳細批評』と『印象批評』の「どこ」に大きな溝が横たわっているのか?
大きな問題である。演奏家誰もが「印象批評」は受けたく無い。(ハイ、私高本もマネジャーとして全く同意見です!)だが、その先に「もう1つの大問題がある」のである。
ゲネプロとかさらに前の練習を聴くと「本番の感銘」が薄れる!
これは、ほとんど大多数の「ヒョーロンカ」が口を閉ざしている大問題。相当前からヨーロッパでは蔓延していた大問題。あぁ、21世紀になった現代でも横行している大問題である。
「評論」は、あくまで「評論家個人の感性の全てを駆使しての評論」
と思って、読者は読む。だが、昔々「ブゾーニ」と言うクソ作曲家が書いている。
本番に何の価値があるのか? ゲネプロで全て(のヒョーロンカの批評は)決まっている
だとさ(爆
つまり「袖の下」で「ドイツの批評」は(ブゾーニ生存中は)決まっていたわけだ。今は知らん。大体、私高本は欧州行ったこと1回も無いし(爆
私高本は「聴いた通り」の批評を書き綴って来た。例えば
佐伯周子とは「感性が真反対の上野優子」も絶賛して来た!
「聴いて素晴らしかった」からだ。何が良かったか? はわからんところも多い。詳細研究してないからなあ > ラフマニノフとか
佐伯周子は不満たらたら。但し「私高本の感性は、上野優子のラフマニノフ 最高!!!」である。この辺りの温度差が色々と軋轢を生んでいる可能性は否定できない(爆
あぁ、またマズいこと書いたんだろな(爆
「猫頭」だから、しゃーないわな(爆