Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

Message from Yuko GULDA(No.1943)

2011-11-10 21:05:49 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)
 昨日、大きな贈り物がヨーロッパから届けられた。

祐子グルダ から 「フリードリヒ・グルダ の作曲&録音」についての情報!


 「大きな文字での表記タグ」などは私高本の判断で付記させて頂いたが、文言は1字1句変えていない。原文はコメント欄にあるので、ご確認頂きたい。『グルダファン』は必見!!!


祐子グルダ


偶然このブログにぶつかり、久しぶりに拝読しました。熱心に研究されていらして敬服です。細かい事は抜きにして、気が付いた事、知っている事を記します。

モーツァルトのアッタセー(ホテルポスト)での録音は、ミュンヘン等の三都市の演奏に備えてプライヴェートに録音技師を招んでしたもので、その後マスターテープを没にした



のですが(彼は決断したらさっぱり捨てる男らしい性格です)技師が自分用に内緒でカセットにコピーしたのでしょう。

その方が亡くなった時に未亡人がリコの所へ持ってきた


のです。カセットなのでリコが使えるのを選んだのだけれど、カセットを裏返しする時に何章節か抜けたりしているのは使えない筈なのですがパオルが強引に自分で弾いて足してしまったので私とリコは主人が天国でどんなに怒っているかと、呆れてしまいました。生存中でしたら絶対出来ないことでしょう。

「グルダの真実」の題は「私の人生はスキャンダル」という皮肉った題なので真実とは云えません。


 そして訳の「俺」も誤訳で主人は「私」というタイプです。

ウルズラ(妻)とあるのは間違いで、彼女は私がグルダの元を去った1974年以降、1980年の初め頃までのガールフレンド


でその後は色々別の女性でした。知り合ったきっかけは、主人の「コンチェルティーノ フォースィンガース&プレイヤーズ」という作品がサルツブルグで上演された時に合唱団で歌っていました。
 そして、

最初の離婚は1965年で私が知り合ったときは既に離婚してスイスへ越して一人住まいをしていました。


         

ブルンナシュヴェアーさんとは専属契約をしていません。


若い時デッカで懲りて依来どこにも専属していません。ベートーヴェンソナタ全集の話は本当で丁度、バックハウスの全集を売り出す時なので、若いグルダが他所から売り出されたら困るので契約して市場に出ないように押さえたわけです。若い頃のグルダは本人曰く、後からは想像も出来ない程大人しい、お行儀の良いはにかみやさんだったそうです。MPSは昔、SABAという独で大きな電機会社でしたが、売却してMr.Bが趣味のジャズで(本人もホビージャズピアノ弾き)自宅に最高、最新の録音スタジオをつくりアメリカから有名なピアニスト達を招いて録音するのを楽しみとしました。主人は彼の為にブルースを一曲録音しています。

録音は平均率が最後だと思いますが・・・


Mr.Bは大金持ちなので、販売には全然熱を入れていないのが弱点だったようです。確か、私の記憶では1990年代の初め頃夫人と電話で話した時、息子さんが継いで、ベルリンに会社を移したとのこと。息子さんはMr、Bほど音楽に熱中していないから、その後MPSの名前はあまり聞きませんが・・・。確か、universalに売却したのだと思います。夜中の3時半過ぎたので今日はこれまで。


 以上が頂いたコメントの全て!

 あまりにも貴重な証言の数々! 特に一緒に生活を共にしていた時期については正確無比な情報である! フリードリヒ・グルダ と 祐子グルダの間には、愛息 リコ が生まれているので、離婚後も相当な情報が(主としてリコ経由で)流れて来ていたことには感謝。離婚時は、リコはまだ幼かったので、養育費や「実親に合わせる親権」などで顔を合わせる頻度も少なからず有ったのかも知れない。
 今年の前半に思いっ切り「作曲家:グルダ」に浸った時期があったが、今は「マーラー」に傾斜していたような気がする。マーラーもいいが、グルダも素晴らしいぞ!(シューベルトは勿論いいぞ!!)

グルダの「創作意欲の源泉の全て = 祐子グルダ」だった!


ことは(後世から見て)明らか。何で離婚したんだよ(泣

離婚しないでもっと「名曲作曲してくれよ!!!」


が偽らざる気持ち。「妻=祐子グルダ時代」に伸びやかに作曲できていたのが、離婚後「プツン」と音を立てたように消えて行く。グルダ自身が全く気付いていなかったことだった。
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1857)

2011-05-12 16:30:34 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)

the GULDA MOZART tapes 10 sonatas and a fantasy (K.330, K.332, K.333, K.279, K.280, K.281, K.282, K.283, K.475, K.545, K.311) DG 00289 477 6130(3CD)



  1. Recording:?Hotel Zur Post, Weißenbach am Attersee,winter 1980?


  2. Execlusive Producer:Rico Gulda


  3. Tonmeister(Balance Engineer):?Hans Klement?


  4. Remastering:greenlight Studio


  5. Project management:David Butchart


  6. Piano:?Bosendorfer Imperial?


  7. FRIEDRICH GULDA'S SENSATIONAL MOZART


  8. First-ever release of 11 new recordings


  9. Rediscovered after 25 years


  10. Previously unpublished photos in CD booklet


  11. "I've been preparing for this for a long time. I wanted to know how this music feels. I can now say that it feels marvellous."


  12. Taped in 1980 - and now released for the first time ever - these recordings are a unique document of FRIEDRICH GULDA's spellbinding, razor-edge Mozart.



 本日は上記CDを詳述する。2006年に新発売されたこれまた「謎のCD」である。必ずDGから発売になるところがミソ(爆

Claus SPAHN: "Gulda plays Mozart sonatas" Newly discovered recordings from 1980


と言う長い長い解説文が掲載されており、ご丁寧にもヴァイセンバッハの "Hotel Zur Post" でベーゼンドルファーインペリアルを弾くグルダの写真が5頁に掲載されている。主張は以下に要約できる。

  1. 1981.02 グルダはミュンヘン、パリ、ミラノで「3回連続モーツァルトソナタ演奏会」を作曲順に演奏した(全曲とはどこにも書いていない)
  2. 住んでいた街のホテルにベーゼンドルファーインペリアルがあり、ホテルは夏期がかき入れ時で冬に録音した
  3. ハンス・クレメントが録音技術担当したが、グルダが次いでクレメントが亡くなってしまい、「マスターテープ」の行方が不明になってしまった
  4. 三男リコ・グルダが「カセットテープコピー」を所持していたので、それから復元した

 本当かな? アルバート・ゴロウィン(グルダの変名で「ウィーンの下町で歌っている歌手」という設定だった)が出てきそうな話ではないか(爆

 早速冒頭から聴いてみよう。ピアノはスタインウェイD。音は「バッハ平均律」と同じ。あれれ? どうなってるの?? K.330もK.332もK.333も全部同じだ(爆


 この3枚組CDが発売できることになったのは

2004.10.14 MPS Hans georg BRUNNER-SCHWER died


である。
 1983.06 に既にMPSをフィリップスに売り渡していたが、1時代を築いた大プロデューサーである。グルダ死去後も、会社をコカす原因を作った「グルダのMPS関連の大作品」は「バッハ平均律」以外は何1つCD化されなかった!(← これ本当)

2004.10.14 まで「CD化」されなかったMPS グルダ 主要作品一覧



  1. 1969 DEBUSSY "Prelude"(2007)
  2. 1970 BEETHOVEN "Diabelli-variationen"(2009)
  3. 1971 "the long road to freedom"(non CD)
  4. 1973 "Midlife Harvest"(2005)
  5. 1978 "Message from G"(non CD)

 上記リストをご覧になるとわかるが、ブルンナー=シュヴェル死去後、真っ先に "Midlife Harvest" をCD化する。分厚い48頁建ての解説書の46頁にこのCD化について明記されている。

"MIDLIFE HARVEST":Dedicated to the memory of Hans Georg Brunner-Schwer(July 29,1927 - October 14,2004)


「人生半ばの収穫」:ハンス・ゲオルグ・ブルンナー=シュヴェルの逝去に献呈


 グルダの生没年は記載されていない。ブルンナー=シュヴェルの遺族に謝意も表している。「グルダ遺族」は、ブルンナー=シュヴェルの素晴らしい業績に敬意を表したのだ。(ブルンナー=シュヴェル遺族が許した、ことも付記しておこう。)そして、その次に着手したプロジェクトは、ドビュッシーでもベートーヴェンでもなく、モーツァルトだった。ここで大問題が待っていた。

MPSのグルダ「モーツァルトソナタ集」はマスターテープが存在せず、カセットテープコピーしかこの世に存在していないこと!


 この世の中に「不正規録音」は数多くあるのだが、大概は「放送録音コピー」(← チェリビダッケに多い)か「演奏会場膝上闇録音」(← カラスに多い)である。「スタジオでセッション録音したのに、マスターテープが無い」はあり得ない設定なのだが、グルダに限って実在していた。

「グルダの真実」P47:ソロで録音したモーツァルトは一つあるけど、俺はいいと思っていない。いずれもっと年をとってから、もう一度やってみようと思っている。モーツァルトのソロは、気合いを込めてやらなくちゃあね。俺はかつて、スタジオでモーツァルトの全曲を録音したことだってある。ものすごく苦労して、細心の注意を払ってやったものの、結局ボツにしてしまったんだ。レコード会社は頭に来てたさ。なんてもったいないことをするんだ、ってさんざん文句を言った。でもカネが全てじゃないからね。俺は平然とこの録音テープを捨てちまった。


 「狂人」である。1987-1990年の発言。但しいくつか「ホラ」が混じっている。

  1. 全曲は録音していなかった様子
  2. 録音テープは「マスターテープ」は捨てたが、「カセットテープコピー」はリコ(三男)、パウル(二男)、ウルズラ・アンダース(愛人)の誰かには渡していた

 ブルンナー=シュヴェルには「あんなモノ捨てちまったよ!」と言っていたハズだ。だが、こっそり家族に「もしかして、オレ様が若死にしてしまった時には、このカセットテープコピーを使って荒稼ぎするんだぞ」と伝えてあったような気がしてならない。

 ここで「なぜグルダにカセットテープコピーが渡っていたのか?」を説明しておこう。「グルダ:モーツァルトソナタ集」プロジェクトは「プロデューサー=ブルンナー=シュヴェル」だった。マスターテープ作成はブルンナー=シュヴェル側行う。演奏家=グルダが確認できるように「音源」を渡す必要がある。21世紀の今ならば、MP3ファイルとかCD-Rとかになるが、1982年にCDが発売される前は「カセットテープ」が最も手近なメディアであった。MPSは当時「BASF」と言う化学会社に資本参加を仰いでいたが、BASF はカセットテープの超大手でもあった。私高本も随分カネを払ったモノだ(爆
 価格に比して、製品の質が高かった > BASFカセットテープ

 1975年から1982年まではちょうど「カセットテープの末期であると同時に最盛期」でもあった。LP1枚が新譜が2500~2800円、廉価盤で1000~1500円くらいで、現在の「CD10枚組1132円が当たり前」とは消費者側の金銭的負担が桁違いに重かったので「カセットテープを用いたエアチェック」が信じられないほど流行しており、「FM雑誌」が3種類だか4種類だか市場に出回っていたほど。カセットテープの種類も高級品から普及品までいろいろあり、「フェリクロームテープ」とか「メタルテープ」は高価格だが音質は相当に質高かった。リコ・グルダが所持していたカセットテープの種類は明記されていないが、聴く限り高級タイプだと思う。BASF 子会社だから、カセットテープの質は下げていない、と信じたい。

 グルダがOKを出していれば、この録音は即LP化されていた。出さなかったのだ。なぜか? 推測されることが2つある。

  1. 「音」がグルダに気に入られなかった
  2. ドイツグラモフォンやアマデオでの「プロデューサーの仕事」をブルンナー=シュヴェルが果たしていなかった

 どちらなのか? 両方なのか? 「バッハ平均律」とほぼ同じ音で収録されている曲が多いので、ブルンナー=シュヴェルにして見れば「音」については「グルダのわがまま」としか思えなかっただろう。「プロデューサーの仕事」についても、バッハ平均律だけでなく、"Midlife Harvest" "the long road to freedom" などで意気投合した仲だ。
 ここで、この時のグルダの立場 = モーツァルトピアニスト として、「あり得る不満」は具体的には次のようだったかな? と推察する。

  1. モーツァルトには「音の魅力」がバッハ以上に必要だが、「MPSスタジオの録音」はDGやアマデオに比べて劣る上「ベーゼンドルファーインペリアル」が使えない
  2. 過去に録音した「ドビュッシー(2回)」や「ベートーヴェン(1回)」は経験あったが、「モーツァルトソナタ」は初録音の曲が多いのに適切なアドバイスが何もない

 こうなって来ると、どうすればいいのか? がグルダもブルンナー=シュヴェルもわからなくなってしまったようだ。外部に「編集費用」も多額に払って丁寧に編集した「マスターテープ」作成費用もかさんでいる。1枚づつでもいいからリリースしたいブルンナー=シュヴェルと、全体像が見えないグルダの拒絶が続いたのはいつまでだったのだろうか? 「作曲年代順」にこだわるグルダ(ベートーヴェンでもこれでおそらくDECCAと問題を起こした!)なので、録音を作曲年代順に並べ替えて聴いて見た。

"the GULDA MOZART tapes" は、K.333以前 と K.475以降 で「録音」が違う


 ピアノは同じ。大きく変わったのは「マイク位置」。「極端なオンマイク」だったのが、「オフマイク」に変わっている。それがいいか? はまた別の問題だが。


 モーツァルトは18曲のピアノソナタを作曲した。フリードリヒ・グルダが録音したのは16曲のようで、リコ・グルダが選んだのが10曲。実際、翌2007年に発売された「II」に比べるとこちらの方が遙かに出来が良い。もしかして

「リコ、この10曲のソナタは本当はOK出しても良かったんだ。他が納得行かなかったから言い合いになって、喧嘩別れしちまったんだよ!」


と遺言していたように思えてならない。周辺状況からすると

  1. 1977 K.331 & K.333 recording
  2. after 1978.10 K.475 & K.545 recording

でほぼ間違い無いだろう。すると K.279-K.283 はそれ以前の録音となる。


"the GULDA MOZART tapes 10 sonatas and a fantasy" 実態



  1. リコ・グルダ(またはフリードリヒ・グルダ)が「これだけは絶対に聴いてほしい」と願った10曲のソナタ + 1曲の幻想曲


  2. 掲載データは「誰にでも事情を知っている人」ならばすぐにわかってくれる冗談。怒らないでね!


  3. ピアノはスタインウェイD


  4. MPSスタジオの録音


  5. 1975-1977 K.279-K.333録音


  6. 1978-1981 K.475&K.545録音



 演奏自体は(音質に問題ある曲もあるが)特に1枚目と2枚目は楽しめる。3枚目の K.545 は音質がオフマイクで一般受けする上、「装飾音無しでもオレ様はここまで出来るんだぜ!」を誇示した名演。K.311 と K.475 は好み次第。K.283 は音がモノラルだが気にしなければ演奏自体はいいよ。「II」はともかくとして、こちらは「グルダファン」には是非是非聴いてほしいCDだ。ブルンナー=シュヴェルの遺族にもきちんとカネが廻っていて了解を得ているハズである(爆
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1855)

2011-05-10 08:35:51 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)

謎の録音 1978.09(release 1990) Mozart Sonata K.570 & K.576, Fantasie K.475, Munchen(?)(Perhaps Gmunden), Steinway, DG 4310842


 本日はこの1枚について書く。グルダがまだ元気だった1990年にドイツグラモフォンから新譜が出た。購入して封を切ったら、1978年9月録音と書いてあった(爆
 「グルダ モーツァルトソナタ全集録音」の話を聞いていたし、MPSレーベルが "DG-Philips"に買収されたことは、「バッハ平均律全集」がフィリップスレーベルから発売されたことで知っていたので、「ついにMPS録音の全集第1弾が発売になったのか!」と喜んだものだった。だが、その割りには宣伝がほとんどされなかった上に、2枚目はいつまで経っても発売されなかった。MPS録音の全集第1弾では無かったからだ(爆


 昨日号の「録音一覧」のスタッフ欄をご覧頂きたい。これは "Message from G" のスタッフ陣が録音している。翌月10月13日と曲目が2曲(K.475&K.570)が重複しているが、なぜかスタインウェイを使用している。音像は10月12日のグルダ自作と瓜2つ。ノイズは無い。

Friedrich Gulda 1930 - 2000


 グルダHPの「年表」だ。1978年欄をご覧頂きたい。

1978 : Friedrich Gulda performed three concerts, in Gmunden (15 -17 September), Vienna (12, 13 und 15 October) und Munich (17, 23 und 24 October) respectively, playing classical piano music for the first time in a long while in front of an audience, together with his own compositions and “Freie Musik“.


 グルダは「細心の気配りができるピアニスト」だった。1953/54年に「ベートーヴェンピアノソナタ全32曲連続演奏会」をウィーンで実行した際も、Klagenfurt, Vienna, Linz, Graz, Salzburg の5都市で並行開催した。
 グムンデンと言う都市は、シューベルトが交響曲「グレート」D944やピアノソナタ第17番ニ長調作品53D850 を作曲した場所だが、他にはあまり有名とは言い難い。「グルダ年表」にも "Gmunden" が出てくるのはこの1ヶ所だけだ。つまり

グムンデンの演奏会は「ウィーンの演奏会の予行演習とリハーサルを含めた録音のため」の演奏会


である。

"Message from G" は「グルダ自身が全費用を負担してのLP全世界発売」


だった。失敗は絶対に許されない。ウィーンのムジークフェライン大ホールを2日、コンツェルトハウス大ホールを1日、勿論自腹で借りて、録音スタッフを雇って(ブルンナー=シュヴェル はパトロンから降りた!)、一世一代の大博奕を打ったのだ。録音スタッフはおそらくウィーンのグループと推定される。(グルダは当時、ヴァイセンバッハに住んでいたからウィーンのメンバーの方が打ち合わせが楽だった。)ウィーンからあまり遠くなく、響きが似た(できれば小さな街の)ホールで予行演習は実行するのが最適だ。ウィーンの演奏会のほぼ1ヶ月前にグムンデンで「3日連続」で借りることができた。(ウィーンほど、スケジュールが混んでいなかっただろうなあ)

 グムンデンの演奏会のプログラム詳細は誰も知らない。モーツァルトのK.576が入っていてK.397が抜けていた可能性が高い。「グムンデンの演奏会の曲目のリハーサルを収録」が最も考えられることだ。ピアノがスタインウェイだったのは、おそらくホールにベーゼンドルファーが無かったからだろう。前年1977年のアマデオ録音モーツァルトでも1ヶ月後のウィーンの演奏会でも、ベーゼンドルファーインペリアルを使用しているのに! ウィーンやミュンヘンの連中に嗅ぎ付けられないように小さな街で行われたグムンデンの演奏会はグルダの予定通り収録された。そして、「ウィーンの演奏会」もグルダの予定通り収録までできた。「騒ぐヤツ」が全く出なかったからだ。

もっともみなさん、しつけがよろしいようで、無作法なことはなさらないから、ただ出ていっただけさ。そう、三、四割は退場したかなあ。(グルダ著「グルダの真実」P24)


 なるほど(爆

 「ウィーンの演奏会」が大成功に終わり、危惧された妨害行動も無かったので、ミュンヘンの演奏会は「出張録音」しなかった様子。(万が一の時は、勿論「ミュンヘンでも収録」だったことは容易に推察できる。)演奏会は実行され、グルダHP上から「第1夜 バッハとグルダ」の Baldur BOCKHOFF の批評が掲載されている。ミュンヘン初日はウィーン初日のわずか5日後なので、「全く同じ曲目」で演奏された可能性が高い。「グルダがバッハを弾く!」と言うので、わずか4年前に「平均律全48曲を新譜で世界発売」していたからピアノで聴ける、とボクホフは思っていたのに、クラヴィコードを聴かされてしまった様子が伝わって来る(爆

 ・・・と言うワケで、グムンデンのリハーサルを収録したテープは余ってしまった。原盤権はグルダにある。1982年までは「MPSでモーツァルトソナタ全集」発売の意志があったので、さすがのグルダもこの録音は売らなかった。
 おそらく1982年後半、どんなに遅くても1983年5月より前に、グルダはブルンナー=シュヴェルと決定的に喧嘩別れした。ブルンナー=シュヴェルがMPSを会社まるごと売ってしまったほどの迷惑を掛けたからだ。結局、MPSは「グルダのモーツァルトソナタ全集」は発売しなかったまま、会社をコカしてしまったのである。


Friedrich Gulda. Aus Gesprächen mit Kult Hofmann. Langen Müller Verlag, 1990


が出版された。1980-1990のグルダのインタビューをまとめたモノ。

日本語訳「グルダの真実」グルダ著田辺秀樹訳


である。P52に次の記載がある。

ところが、モーツァルトの場合は微妙なんだ。これまでさんざんいろいろと試してみたけど、自分でもどうするのがいいかわからない。現在はまたスタインウェイにしようかと思っている。そう、じつにやっかいな問題さ。


 この本が出版された年に "謎の録音 1978.09(release 1990) Mozart Sonata K.570 & K.576, Fantasie K.475, Munchen(?)(Perhaps Gmunden), Steinway, DG 4310842" は発売された。続いて Sony から、"K.537, K.475+K.457, K.492" と "K.397" のミュンヘンライブがリリースされた。この2つのライブ録音は「拍手別録り」を後から加えたことで悪評が高い(爆

1990-91 Sony盤では、K.537だけベーゼンドルファーインペリアルで、K.475+K.457, K.492, K.397はスタインウェイ


 おそらくK.537だけウィーン録音、他が全部ミュンヘン録音である。K.397はグルダが「公式に」録音した最後のCDとなった。こうして見ると

謎の録音 1978.09(release 1990) Mozart Sonata K.570 & K.576, Fantasie K.475, Munchen(?)(Perhaps Gmunden), Steinway は「スタインウェイでモーツァルト全曲録音の第1弾」にするつもりの発売


と推察される。第2弾も第3弾もミュンヘン録音だったので「第1弾もミュンヘンでいいだろ!」ってなノリ(爆

 これが「グルダの真相」である!

グルダは、ウィーンで生まれ、「ウィーンのピアニスト」として1枚目の協奏曲録音から「ベーム指揮ウィーンフィル」だったが、最後の最後の録音は「愛妻ユーコと幼き日のリコと過ごしたミュンヘン」を終焉の地に選んだ。


 冒頭の曲は「リコのために」。この曲唯一の「ピアノソロ録音」である。ウィーン近郊のヴァイセンバッハに住んでいたのに、毎年毎年ミュンヘンにわざわざ録音に出掛けている。グルダは細心の注意が行き届いた音楽家なのだ。
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1854)

2011-05-09 23:08:07 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)
 ここで冷静に「平均律全曲録音」してから「Message from G」までのグルダの「公式録音」を追って見よう。

Friedrich GULDA 1973-1978 Complete Solo Recordings



  1. 1973.05 "Das Wohltemperierte Klavier" Vol.2 MPS, MPS Studio Stuff "A" Steinway


  2. 1977 Mozart Sonata K.331 & K.333,amadeo, producer=Rudolf MRAZ, Ton und Technik=Josef KAMYKOWSKI, Stuff "B", Bosendorfer


  3. 1977.12-1978-01 "The Complete Musician GULDA" amadeo, producer=Rudolf MRAZ, Stuff "B", Schubert, Debussy, Ravel=Bosendorfer, Beethoven, Bach=Steinway, Stuff "B", Wien Studio Polyhymnia Austrophon-Studio


  4. 1978.09(release 1990) Mozart Sonata K.570 & K.576, Fantasie K.475, Munchen(?)(Perhaps Gmunden), Steinway, Stuff "C"


  5. 1978.10.12 "Message from G"(GULDA) Steinway, Stuff"C"


  6. 1978.10.13 "Message from G"(Mozart K.397,K.475,K.570 & Debussy) Bosendorfer, Stuff "C"



 これも「世界初公開」だ。しかも、いろいろと問題のところだ(爆

 とにかく「音」を聴いてほしい。私高本が "A" "B" "C" と区分けした「音」がはっきり違う。"A" は信じられないほどの近接マイクの音。フォルティッシモの際、立ち上がりが捉え切れていない。"B" は、カミコフスキーが「完全な音楽家グルダ」に名前を出すのを拒絶した逸話が初版日本盤に高城氏の解説で暴露された。何でも「グルダが勝手にマイクを近づけ過ぎた」のが原因だとか(爆
 MPSの録音が身に付いていたんだろうねえ。音はベーゼンドルファーインペリアルとスタインウェイDの特徴をうまく捉えている録音である。

 "C"録音スタッフは、リリース以来誰一人誉めなかった録音。かつて私高本も「大して良くない」と明記した記憶あり。改めて聴くと

  1. 第1夜(1978.10.12)の冒頭から、「クラヴィコードをマイク&アンプで拡大しまくり」


  2. グルダのアナウンスがピアノに被さって来る!



がとても聴きづらいが、「ピアノソロ」は極めて良い録音だった。う~ん、録音スタッフも困ったことだろう。私高本が依頼を受けていたら逃げていたかも知れない(爆
 右スピーカから高音が、左スピーカから低音が出る設計で、右手がやや強い。まさに「グルダのタッチ」がそのまま再現されている。10月12日のスタインウェイDの華やかな音と、10月13日のベーゼンドルファーインペリアルのたっぷりした低音がホールトーン豊かに収録されている。「グルダライブの最高の音」である。(ピアノソロに関して)
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1853)

2011-05-08 22:50:37 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)
MPS"Mozarrt complete recordinds" を検索すると、迷宮入りする。私高本も1度迷宮入りしたからなあ(爆
グルダも相当に迷ったようだ。ここで「意表のデータ」を出す。世界初!

Friedrich GULDA MPS recording staff member



  1. 1972.04, 1973.05 "J.S.Bach Das Wohltemperier Klavier" Producer=Hans Georg BRUNNER-SCHWER, Recording engineers=Willi FRUTH, Rolf DONNER, Piano tuning=BECKER


  2. 1978.10.12-15 "Message from G" Producer=Friedrich GULDA, Recording engineers=Reinhard HABERFELLNER, Ernst MACK



"Message from G" は(世界各国の)初プレス以外は再プレスされたことが無い「幻のLP」だから、1980年以降にグルダファンになった人は「中古LP」を買う以外に入手法は無い。なぜ、グルダともあろう大ピアニストの、しかも「生前のグルダ最大の自慢演奏会」ライブ録音(「グルダの真実」に自慢がたっぷり掲載されてます!)がこんなことになってしまったのか? その原因が「世界初公開」の上記のメンバー表である。

1978.10 "Message from G" では、原盤権がグルダに移り、録音技術者を一新してしまった


ことを意味する。これには、ブルンナー=シュヴェル は怒っていたことだろう。怒っていたから「プロデューサーを降りた」が順序のように思える。「何に」怒ったかと言えば、「モーツァルトピアノソナタ」をリリースさせなかった上に、録音スタッフ陣のやり方にグルダが口を出したことだろう。グルダは「オレ様の芸術的な音をMPSの連中は、収録することができない」と感じたからだ。1969年にMPSスタジオが出来た時には意気投合していた2人はいつの間にか、全く違う道を歩み始めていた。これは、グルダにとってもブルンナー=シュヴェルにとっても基盤を失う道だった。1969年には新婚気分が抜けきらなかったグルダは、1975年には既に当時の妻=ユーコ・グルダ と別れていた。誰も止める人がいなかったのだろう。
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1852)

2011-05-07 13:39:12 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)

グルダが「モーツァルトピアノソナタ全集」録音を急いだワケ



  1. グールドが「モーツァルト全集」を完成してしまった 1974.11.09録音完了


  2. ブレンデルが「モーツァルトソナタ集1枚目」を開始した(1975.05録音)上、「モーツァルト協奏曲5枚目」録音済み(1975.12)



 グールドのソナタ全集はとんでもない演奏揃いである。K.331第1楽章のテンポ設定の異常さが最も有名だが、どのフレーズをとっても「モーツァルトらしさ」が無い。さらに

グールドはライナーノートに「後期モーツァルトは、ウェーバーやフンメルの方向に向かって行って失敗した」と明記


 こんなシロモノがドイツ語盤も含め世界リリースされちゃったのである。(私高本が最初に入手したのはドイツプレスLPだった)「後期協奏曲」で理想の名盤を収録したばかりのグルダの怒り様は並みでは無かったことだろう。グールドは「コンサート引退」直後から「モーツァルトソナタ全集」を録音開始しており、「バッハに次ぐ大プロジェクトだった」のである。
 「狂ったグールド」がカナダで暴論を吐きながら狂演しただけで頭に来ている時に、

「ウィーンで周回遅れで走っていた」ブレンデル(「グルダの真実」記載)がいつの間にかロンドンに引っ越してフィリップスから協奏曲全曲録音で、グルダよりもリリース枚数が多くなってしまった


ことも頭を抱えた。マリナー指揮ロンドンの室内管弦楽団が伴奏だったが、メジャーレーベルから次々出てくる様はかつて同じフィリップスからリリースされた「ヘブラー盤」とは全く違った手応えだった。しかも

ブレンデルは「モーツァルト + ベートーヴェン + シューベルト の3点セット」全集を信じられない速度でリリース中


していた。グルダには「マリナークラスの指揮者で、しかもヴィヴァルディ辺りを弾くのに最適な室内オケとの共演盤」と言うのは耐えられないことであったが、かと言ってブレンデルが確実な足取りで録音を続けているのも脅威であった。

GULDA, BRENDEL, GOULD



  1. GULDA 1930 born, 1947 DECCA debu recording, 2000 died


  2. BRENDEL 1931 born, 1952 Everest debu recording, 2008 farewel


  3. GOULD 1932 born, 1955 CBS debu recording, 1982 died



 グルダ は誰がどう見ても「世代のトップ」を走っていたハズだった。作曲やジャズ演奏に時間を食っていたので、レパートリーはそれほどは広くは無いが、「バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン」では間違い無くトップ、のハズだった。「エベレスト」なんてレーベルは誰も記憶していないのでは無いだろうか?(爆
 ブレンデルは、 Everest - SPA - Vox - Vanguard - Philips とレーベルを渡り歩いた。DECCA と録音したのは、「歌伴奏」の1枚(ヴェヒターのシューマン「詩人の恋」)だけでグルダとは「格が違う」と思っていたのに、ヒタヒタと来てしまった。


「グルダのモーツァルト」は2タイプあり、『楽譜通り』タイプと『装飾音満杯』タイプ


 過去に2曲だけ録音していたが、K.310 は楽譜通り、K.545 は装飾音満杯であった。協奏曲では、K.467,K.595 は1回目は装飾音満杯で、2回目は楽譜通りであった。グルダは才能豊かなのでどちらでもOKだった。だからこそ悩んだ。
 "the GUDA MOZART tapes II"(DG 4777152) のパウル・グルダの解説を読むと、どうも 1975-1982 に「グルダ モーツァルトソナタ全集」は録音されたようだ。 
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1847)

2011-05-02 21:41:18 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)
 グルダは、1975年にミュンヘンから、オーストリアのしかもウィーンからそれほど遠くない ヴァイセンバッハ(Weißenbach) に引っ越す。グルダの根拠地変遷は以下の通りである。

Where Friedrich GULDA live?



  1. 1930-1966 Vienna


  2. 1966-1968 Zurich


  3. 1968-1975 Munich


  4. 1975-2000 Weißenbach



 細かな「市内の移転」はわからん。離婚問題がいろいろと絡んでいる、とは思う。私高本も同じ問題で引っ越し経験あるからなあ(爆
単純化すると、

オーストリア → スイス → 西ドイツ → オーストリア(全て当時の国名) にグルダは居住した


となる。
 1975年の「オーストリアへの帰還」は「ウィーンフィルとの共演録音の大成果に気を良くした」のが相当に大きな原因だった、と考えられる。「守旧的なウィーン」とあれほどまでに(口汚く)攻撃したオーストリアに9年ぶりに戻って来たことは、オーストリアのグルダファンにはとても好まれたことだろう。「これで、グルダが元のようにクラシックに戻って来てくれるかも!」の期待も含めて。
 ある意味、グルダは期待に応えた、「ウィーンフィルからの連続録音を断られた」にも関わらず。「ジャズ」の録音を(3年の短期間ではあるが)断った。しかも「オーストリアの財産=モーツァルト」に集中的に取り組んでくれていた、協奏曲もソナタも。オーストリア国民も期待した「グルダのモーツァルトピアノソナタ全曲録音」は着々と進行するか? に見えたのだが、大きな壁が立ちはだかってしまったのである!
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1845)

2011-04-29 19:14:45 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)
グルダは「平均律第2巻」を録音した1973年に、MPSから「純粋なジャズアルバムとして最後のアルバム」を発売した

1973 "MIDLIFE HARVEST"(人生半ばの収穫)


 何とも不思議なアルバム。LP9枚組で、1965-1972のMPS録音にさらにPreiser録音も追加されている。前年にケルンで収録された大編成ジャズは(おそらく)網羅した上に、それまでのMPS録音アルバムから抜粋して収録されているのだが、「収録基準」がよくわからないのである。

"Golowin Lieder" で収録されなかった "Donau So Blue" "Hau Di In Gatsch" の方が「グルダらしさ」が大いに感じられる


とか(大体、アルバム名称が "Donau So Blue" だったろうが!)

" Music For 4 Soloists And Band No.1" で収録されなかった唯一の曲 "Minuett" は後日「チェロ協奏曲第4楽章」になる名曲


など奇怪な選曲なのだ。もしかすると

"MIDLIFE HARVEST" は、「ユーコ・グルダへの慰謝料」のためのアルバム?


との思いが頭をよぎる。
 このアルバムは「新規ピアノソロ曲皆無」であったが、その後ソロ曲は「パウルのために」「リコのために」だけしか作曲されない。


 グルダは、MPS社長ブルンナー=シュヴェルと専属契約を結んでいたが、クラシックの協奏曲は他レーベルと自由に契約できるようになっていたようだ。MPSスタジオではメンバーが入り切らないからなあ(爆

  1. ドビュッシー
  2. ベートーヴェン
  3. バッハ

と続いた「MPS グルダのクラシック」路線の次は「モーツァルト」に定められた。それまでに「正規録音」していたのは次の通りである。

Friedrich GULDA 1948-1973 Mozart session all recordings



  1. 1948.12 Sonata K.576 Steinway(DECCA)


  2. 1953.02 Sonata K.310 & Rondo K.485 Steinway(DECCA)


  3. 1954.09 Concerto K.449 Steinway(DECCA)


  4. 1955.09 Concerto K.503 & K.537 Steinway(DECCA)


  5. 1960.04 Quintet K.452 Bosendorfer(Deutsch Grammophon)


  6. 1960.10 Concerto K.453 Bosendorfer(amadeo)


  7. 1961.11 Rondo K.485 Bosendorfer(amadeo)


  8. 1963.06.06 Concerto K.467 & K.595 Bosendorfer(Concert Hall)


  9. 1965.02 Sonata K.545 Bosendorfer(amadeo)



 ご覧になった方はにわかには信じられないだろう。「グルダは8年以上モーツァルトを正規録音していなかった」のである。もちろん、オケから依頼があれば、モーツァルト協奏曲は演奏続けている。最後の1965年K.545録音後にも、1967.10.02 にベーム指揮バイエルン放送交響楽団と 協奏曲K.271 の録音が残っている。
 上記録音の内、「21世紀の現代」から見て「極めて高い価値がある」と認められているのは、1963年と1965年録音の2枚である。どちらも「独特の音色で自由奔放な装飾音」が(良くも悪くも)初出から話題噴出であった。そして思った。

「俺様は、ベートーヴェン協奏曲を全部ウィーンフィルで弾いた。シューマンとウェーバーさえウィーンフィルで弾いた。モーツァルトもウィーンフィルだ!」


 上記 1960.04 のピアノ5重奏曲からピアノがベーゼンドルファーに変わっているのがお分かり頂けるだろうが、この「木管4重奏メンバー」は全員ウィーンフィル首席メンバーである。ちなみにその後の協奏曲 K453, K.467, K595 はウィーンはウィーンでも「ウィーンフォルクスオーパー管弦楽団」である。(K.453 の表記は違うが、ブレンデルが著書でバラしている!)

 MPS社長ブルンナー=シュヴェルは「ソナタ全曲」が1日も早く欲しかったが、グルダは「協奏曲全曲をウィーンフィル」と欲しがった。実現すれば、協奏曲の方が誰でもいいだろう!
 ・・・てな訳で、協奏曲が先に他レーベル、しかも ドイツグラモフォン からリリースされることが決まった。グルダ絶頂の時! 新進大有望指揮者 = アバド の指揮で ウィーンフィル と 4曲2枚のLPがリリースされることが決まった。

  1. 1974.09 Gulda(p), Abbado(Cond), Wienna Philharmonic : Mozart Concerto K.466 &K.467 Bosendorfer


  2. 1975.05 Gulda(p), Abbado(Cond), Wienna Philharmonic : Mozart Concerto K.503 &K.595 Bosendorfer



 「誰もがケチを付けない名演」にグルダは仕立てた。アバドはベーム(当時存命中)ほどでは無かったが、悪くない指揮者だった。後には「大指揮者」になっているのは読者の皆様ご存じの通り。

 ・・・で「続編がある」とグルダは思っていたようだ。しかし「ウィーンフィルの伝統」が立ちはだかる。「1人の演奏家(指揮者も独奏者も)と過度に親密になってはいけない。ウィーンフィルはウィーンフィルだけで存在価値があるのだから。」と言う理論。1929年頃に実用化が明快になった「録音」に関して、2011年現在までで「モーツァルト ピアノ協奏曲全曲録音をウィーンフィルと実現」したピアニストは皆無。それどころか「モーツァルト 交響曲全曲録音をウィーンフィルと実現」した指揮者すら存在しない。
 この事実をグルダは理解できなかった。(知恵袋のユーコと離婚していたのが返す返すも残念!)2枚のLPはバカ売れしたのだが、「3枚目は録音不可能」になってしまった。バックハウスでさえできなかった「モーツァルト協奏曲全曲録音」なのだが、グルダは「何で? 素晴らしい録音が出来ただろうが!!!」と思っていた。録音後のグルダの発言は二転三転する。「1枚目は素晴らしかったが、2枚目は1枚目の水準に達しなかった」「自分のモーツァルト録音で納得できるのは、アバド+ウィーンフィルの2枚とアーノンクール+コンセルトヘボウの1枚」発言が交錯する。「3枚目」はポリーニでさえ、20年以上の間隔を取らされた。グルダも20年間隔を開ければ可能だったかも知れない。しかし、グルダの思考には「そんなバカな!」だけが残った。
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1844)

2011-04-28 19:38:55 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)

グルダは1973.05、バッハ「平均律第2巻」全曲を録音


する。「第1巻」よりも「濃い」表情が印象的。『グルダの代表録音』の1つである。使用ピアノ = スタインウェイD。
 これは「大流行するハズ」とグルダもプロデューサーのブルンナー=シュヴェルも思っていたハズ。だが「amadeo のベートーヴェンソナタ全集」のような反響は起こらなかった。これが、グルダの大誤算だった!
 理由は大きく3つ考えられる。

  1. バッハ平均律は、ベートーヴェンソナタよりも「ピアノファン」から人気が無いこと


  2. バッハ平均律全2巻全48曲のピアノ録音が、グールド、リヒテル、グルダ と立て続けに3種類出たこと


  3. グルダ直近のバッハ録音=1965年の「イタリア協奏曲」とあまりに「音」が違ったこと



「1」が特に大きい、と思うが、「2」「3」も無視できない。

 元々が「荒れ系」のグルダが荒れたことは容易に想像できる。この年に「ユーコ」と離婚してしまう。(後から考えれば)「作曲家=グルダ」の最大の判断ミスだった。

作曲家=グルダ の作曲の源泉 は全て「ユーコ・グルダ」だった


からだ。

Main Compositions of Friedeich GULDA



  1. 1966 Variations


  2. 1967 Sonatine


  3. 1969 Neue Wiener Lieder (7 Golowin-Lieder)


  4. 1969 Theme from Dropout


  5. 1969 Introduktion und Scherzo später betitelt Introduction and Dance


  6. 1969 Suite for Piano, E-Piano and Drums


  7. 1969 Wheel in the right machine - Workshop Suite 1970 Variationen über Light My Fire


  8. 1971 Play Piano Play - 10 Übungsstücke für Klavier


  9. 1974 Für Paul


  10. 1974 Für Rico




 「パウルのために」「リコのために」がいつ作曲されたかは、本当のところは死んだグルダしかわからない。公表では翌年。この2曲以外は後世には残る曲は作曲できなかった。
 ユーコ・グルダ(脇山祐子)に出会う直前に作曲された「変奏曲」から離婚直後の「パウルのために」「リコのために」で傑作は(ほぼ)全て出尽くす。1~2曲例外がある。1965 Prelude and Fugue と作曲年不詳の Menuett である。
 ちなみに私高本が「本当の作曲年はわからない」とヌカしているのは根拠がある。

ユーコ・グルダに捧げられた "Play Piano Play - 10 Übungsstücke für Klavier" は「1970年のクリスマスに受け取った」とユーコ・グルダが証言!


しているからだ。「新作」と言うことになっている「チェロ協奏曲」のメヌエットは1969頃までに作曲されていた、ことも判って来ている。

 作曲家としての才能の枯渇に絶望して「次の女 = ウルズラ・アンダース」に走ったのだろうか?
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1843)

2011-04-27 14:18:08 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)

1972.04 から 1973.05 までの期間の グルダ(Friedrich GULDA)の録音動向の全て



  1. 1972.06 "Anima in Heidelberg 1972" (Heidelberg)


  2. 1972.10 "Piano Concerto No.1, Fantasy for Four Soloists and Band, Variations for Two Pianos and Band" (Koln)



 注目してほしいのは「フィリンゲンのMPSスタジオ録音」が消えたことである! 

グルダは 1972.04平均律第1巻録音開始以降は「ジャズでのMPSスタジオ録音」皆無!


なのだ。クラシック音楽はこの後も録音を続ける、のにである。
 これは何を意味するか? 

「作曲家グルダ」の名作群が 1971年までに ほぼ作曲を終えた(編曲はまだまだ続くが)


なのだ。この後に作曲された名曲は、1974の「パウルのために」「リコのために」の2曲のみとなる。


 「MPSスタジオ」創設時に、設置ピアノの助言などもグルダがした、と推測される。グルダは「自宅ではスタインウェイ」のピアニストだったようだ。「1枚目の協奏曲録音 = 1951年のベーム指揮ウィーンフィルとのベートーヴェン第1番でベーゼンドルファーインペリアル使用」して以来「ベーゼンドルファーインペリアルの魅力」は感じていたようだが、時期に拠って「ベーゼンドルファーインペリアル寄り」の時もあるし「スタインウェイD寄り」の時もある。
 「MPSスタジオ創設」の時は、「スタインウェイD寄り一直線」の時だった。しかし、その前のグルダはちょっと違っていたことをここで確認してみようか(爆

グルダのバッハピアノセッション録音一覧(Friedrich GULDA's all piano Bach session recordings)



  1. Prelude and Fuga BWV860, Menuett I and II(from Partita No.1)BWV825, Fuga(from Toccata BWV911) 1947.10.19-24 Steinway(Decca)


  2. Prelude and Fuga BWV877, The English Suite No.3 1953.02.12-14 Steinway(Decca)


  3. Prelude and Fuga BWV848 1961.11.11-14 Bosendorfer(amadeo)


  4. Itailian Concerto BWV971 1965 Bosendorfer(amadeo)


  5. The Well-tempered Clavier Book I BWV846-869 1972.04 Steinway(MPS)


  6. The Well-tempered Clavier Book II BWV870-893 1973.05 Steinway(MPS)


  7. Prelude and Fuga BWV878, BWV862 1977.12-1978.01 Steinway(amadeo)



 これが現在までリリースされた全てである!
「平均律全曲録音」前に最も評判を呼んだのは、直前の「イタリア協奏曲」録音でベーゼンドルファーインペリアル使用で「そこはかとはかない音色」が魅力。それが「平均律」ではいきなり鮮明過ぎる録音で現れたのだ。これは驚くよな(爆
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1842)

2011-04-26 19:10:44 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)

1972.04 グルダ バッハ「平均律第1巻全24曲」録音


 これは、1953.10 ベートーヴェン「ピアノソナタ全32曲」録音以来、19年ぶりにグルダが取り組んだ「大プロジェクト」だった。グルダにとって、オーケストラから協奏曲共演を持ちかけられれば新曲であっても大丈夫。ソロ曲も徐々にレパートリーを増やしていたものの、ジャズに時間を取られることもあって、この期間大プロジェクトは全く無かった。 "The Long Road To Freedom" で「ジャズの集大成」の達成感もあったことだろう。しかし、それよりも大きな問題を感じていたようだ。

グールドが「平均律全2巻全48曲」の録音をリリースした!


ことだ! もちろんドイツでもリリースした。1962.06-1971.01録音。ピアノ演奏に拠るバッハの当時の世界最大の録音数を誇っていたのがグールドである。「平均律全曲」をリリースしたことは相当に影響力を与えることは、自分自身が「ベートーヴェン ソナタ全曲」を既にリリースしていたので充分理解している。グルダ著『グルダの真実』を読むとライバル心むき出しなことがよく理解できる。
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1839)

2011-04-22 20:54:45 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)
 昨日号で書いた記事の中の

「ウィーンフィルとのベートーヴェン:ピアノ協奏曲全曲録音」は、10年以上前にグルダが願っていたことが成就した!


ことは重要。
 今も昔も「録音はしたのにリリース中止」は日常茶飯事の出来事ではある。同じ DECCA レーベルで有名なところでは、「ホグウッドのハイドン交響曲全集」なんてのも予告されていたがぶっ飛んだ。全部録音完了していたワケではないが、ある日突然プッツン消えた。 人生50年以上も生きていると、いろいろ出会うモノだ。他に「モーツァルト:ピアノ協奏曲全曲録音予告」が2枚で飛んで、録音もあと2枚進んでいた話だとか、(グルダでない別のピアニストが)「ドビュッシー:前奏曲集全2巻録音&編集完了」したのにデビューさせてもらえなかった話とかいろいろ聞いて来た。

 ・・・が、グルダほどの大物の録音が飛んだ、というのは前代未聞だった。「録音完了」していたのに! である。原因ははっきりしないが「グルダの主張」に拠ると「バックハウスを売り出すために、録音だけさせておいて、リリースしなかった。グルダ自身のキャリアはこのために10年の損失が出た」とのこと。どこまで本当なのだろうか?
 「グルダの視点」だと、「DECCA の扱いが バックハウス > グルダ」だったとのこと。確か DECCA のベートーヴェンピアノ録音は次のようだった記憶がある。廃盤が多く確証は無いが。

DECCA Beethoven Piano recordings 1949-1971



  1. 1949 グルダ ソナタ第14番+第31番


  2. 1950.09頃開始 バックハウスの協奏曲2-5番録音:ウィーンフィル + クレメンス・クラウス&カール・ベーム


  3. 1950.11 グルダ ピアノソナタ第26番+エロイカ変奏曲


  4. 1951.05 グルダの協奏曲1番(ウィーンフィル + カール・ベーム)+ピアノソナタ第29番


  5. 1951頃開始(1950年代前半に終了だったと思う) バックハウスのソナタ全曲録音第1回


  6. 1954.02-1958.09 グルダのソナタ全曲録音第1回(リリースは第10番までで終わる。第11番以降の新録音はリリースせず)


  7. 1958-1959 バックハウスの協奏曲全曲録音(1-4番が1958年、5番が1959年):ウィーンフィル + イッセルシュテット


  8. 1959-1969 バックハウスのソナタ全曲録音第2回(第29番のみ死去でできなかった)


  9. 1970.06 グルダの協奏曲1,3,5番(ウィーンフィル + シュタイン)


  10. 1971.04 グルダの協奏曲2,4番(ウィーンフィル + シュタイン)



 私高本はバックハウスについて詳しくは無い上、現在廃盤だらけで詳細データが得られないが、確か上記に大きな誤りは無いハズ。グルダ自身が「1953年現在では、ベートーヴェンソナタは8曲がレパートリーだったが、全曲習得して全曲演奏会を成功させた」と書いているので、DECCA としてはバックハウスにソナタ全曲を委ねたのは当たり前。むしろ、どう見ても「事前にはバックハウス用に用意した全曲録音の協奏曲」の内、1曲を「グルダに分けてあげた」ようにしか見えない。バックハウスも愚痴ったことだろう(爆

 1954年に「グルダが DECCA でソナタ全曲録音」を決意する前に、ソナタ4曲を既に録音していたが、第14番と第31番は再録音することにした。DECCA としても最大限にグルダの言い分を呑んだつもりだろう。

 協奏曲再録音は、「バックハウス + ウィーンフィル で全曲」と言うことになった。決まったのはいつなのだろうか? グルダソナタ最終録音の 1958.09 よりは前だと思うのだが、「グルダの感覚では、だまし討ちに遭った」ようだ。「少なくとも、2-5番はオレだろう!」と。 そのつもりで、「ソナタ最終録音」にジュネーブとウィーンで録音してリリースもしていた第26番と第29番は外しておいたのだから。グルダはおそらく条件闘争に出た。「オレ様の録音がリリース出来なければ、DECCA も損失が大きいから譲歩する!」と。
 しかし、現実は淡々と「バックハウスのソナタ第2回録音」がリリースされてしまった。「グルダの誤算」だった。「バックハウスの2回目」はゆっくりしたペースで進められ過ぎて、とうとう第29番を録音する前にバックハウスが亡くなってしまったのだから、DECCA としては(少なくとも最初の頃は)グルダが謝ってくれば、リリースするつもりだったのだと推測される。


 時は流れて、1969年7月にバックハウスは亡くなる。グルダは既に1967年に amadeo から「ソナタ全曲」を録音して1968年にリリースしていた。DECCA もびびったことだろう。しかも、「MPS」と言うジャズレーベルから、「ドビュッシー:前奏曲集全2巻」をリリースしている。「協奏曲全曲録音」を呑まされた。
 但し、指揮者は「ベーム」と言うワケにはいかず、新人のシュタインだった。グルダからすれば「何だ?」ってな感じだったようだ。なぜなら、ベームと比較して、というよりも、スワロフスキーと比較しても「大したこと無かった」からである。但し、10年以上つらい思いをしたグルダは少しは思慮深くなっていた。(または当時の妻=祐子が思慮深くなっていた。)不満はあっただろうが、きちんとリリースした。ついでに、第23番「熱情」と第24番は DECCA からリリース可にした。さらに

第1回DECCAベートーヴェンソナタ全曲を「日本でのみリリース」を許諾


した。このおかげで「キングレコードから グルダの第1回ベートーヴェンソナタ全集」がリリースされた。状況証拠からして間違いなく、ユーコ・グルダ のおかげである!
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1838)

2011-04-21 18:44:43 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)

1970.02 から 1972.04 までの期間の グルダの録音動向の全て


「ベートーヴェン:ディアベリ変奏曲」録音の後、1972.04に「バッハ:平均律第1巻全曲」録音するまで、グルダは「MPSにクラシック音楽は録音しなかった」が、録音活動は極めて活発だった。この時期こそが、『グルダの絶頂期』であり、録音も作曲も最高だった。生涯を通して「乱れまくっていた私生活」が最も平穏だった時期なのだろうか? 信じられないほどの名曲が作曲されている。この時期が無ければ「作曲家:グルダ」を私高本が書くことが無かったことだけは断言しておこう(爆
 私高本はまだガキだったので、「同時代」には聴いていない。小金を自由にできるようになった社会人1年生の時にジャズアルバムは初めて聴いた。その前に "Message from G" を聴いていたので、あまり違和感は無かった。今も聴いていると、佐伯周子に嫌な顔をされる演奏もあるのだが(爆
 「多くのグルダファン」と聴く順序が違うのかも知れない > 私高本



  1. 1970.06 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番、第3番、第5番 シュタイン指揮ウィーンフィル


  2. 1971.02.11 Gulda "Variations"


  3. 1971.02.26 "The Long Road To Freedom" - Play Piano Play, Variationen über "LIGHT MY FIRE" ,Prelude And Fugue, The Air From Other Planets, Variations, Etüde (Pauer), Selige Sehnsucht, Duo 4枚組


  4. 1971.04 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番、第4番 シュタイン指揮ウィーンフィル


  5. 1971.04.26 "Fata Morgana - Live at The Domicile" Munich録音 ピアノ、電子ピアノ、ベース


  6. 1971.12.15-26 Gulda"concertino for Players and Singers" Wien録音



 疑問の残るのもある。特に "The Long Road To Freedom" だ。1日で録音できる量なのだろうか??? 正直信じられない。本当のところは(もう亡くなってしまった)ブルンナー=シュヴェル しか全貌を把握していないのかも知れない。「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲」は 古巣の DECCA で、他のジャズ4組は MPS である。

DECCA との「ベートーヴェン:ピアノ協奏曲全曲録音」ではベーゼンドルファーインペリアル使用、ジャズでは スタインウェイD使用


だった。 まだまだ続くよ!
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1837)

2011-04-20 18:14:02 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)
 1970年2月に「ベートーヴェン:ディアベリ変奏曲」をMPSに録音した。

1970年2月の「MPS2回目録音」が「ベートーヴェン:ディアベリ変奏曲」と「ジャズ自作3枚」



  1. 「ベートーヴェン:ディアベリ変奏曲」


  2. 「お気に召すまま」(ジャズピアノトリオ)


  3. 「ドナウ・ソー・ブルー」(グルダが変名の「ゴロウィン」を用いてヴォーカルを兼ねたジャズピアノトリオ)


  4. 「これで全部だ!」(グルダが左チャンネルで電子ピアノ、右チャンネルでスタインウェイ弾いたベースとの多重録音)



 4枚目のアルバムは「グルダ:アリア」の初出。正規盤だけで、6回録音を重ねた「作曲家グルダの顔」の曲。ここから「作曲家グルダ」はクライスラー並みになって行ったのである!
 グルダ自身も「これで全部だ!」は相当お気に入りだったようで "MIDLIFE HARVEST" に珍しく全部収録したほどだった。
ちなみに、ピアノソロのジャズアルバムが無いが、「MPSスタジオのスタインウェイD」を使用している。
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グルダは真実のみを語るのか?(No.1834)

2011-04-17 18:59:43 | 作曲家兼ピアニスト・グルダ(1930-2000)

1969年2月の「MPS初録音」が「ドビュッシー前奏曲全集2枚」と「ジャズ自作2枚」


を指摘した文章は私高本は全く見たことがない。クラシックファンはジャズを聴かない。ジャズファンはクラシックを聴かない。さらに

「グルダファン」は、グルダの言葉を真に受ける


も原因の1つ。「ゴロウィン」と言う歌手のデビュー盤がこの内の1枚で「遙かな惑星の歌」である。1978年にコンサート会場でグルダ自身が歌うまで、聴衆を欺き続けたのだ!


 グルダは「クラシックの聴衆」に対して、「ジャズでとても売れっ子のグルダ」を演出したかった。1969年2月以前に収録されている「グルダのジャズ」は以下が現在私高本が確認している全て。

1969.01以前の グルダのジャズ録音一覧



  1. FRIEDLICH GULDA at Birdland 1956.06.28 New York(Rec) RCA 74321125872


  2. Little Suite 1965.03.20 Klagenfurt(Live Rec)PREISER MPS06024 9828945


  3. Music for Four Soloiss and Band 1965.09 Wien SABA MPS06024 9828945


  4. GULDA LIVE(only 2 pieces) 1966.12 Wien PRESER


  5. Sieben Galgenlieder nach Texten von Christian Morgenstern 1967.01 Wien PREISER MPS06024 9828945



 これで全てである。LP3枚分にさえ不足している量だ。しかもどの1枚として注目を浴びていなかったようだ。ここで「ピアニスト人生」の全てをクラシック音楽に向けていたならば、私高本が「作曲家:グルダ」なんてカテゴリーを作ることは無かった(爆
 ここまでの「グルダ作曲作品」で面白いのは無い、と断言する。


 1967年2月に、グルダは初来日する。同年1967年7月には離婚問題で緊急のカネが必要になり、amadeo に「ベートーヴェンピアノソナタ全集」を録音開始しているので、わずか半年の間に離婚のゴタゴタが急速進行したようだ。そこから1969年2月までの間に「作曲家グルダは開眼した」のだ。

MPS初録音 = 「自分の思った通り」に録音し、リリースする自由 をグルダは生まれて初めて得た瞬間


である。
 MPS以前のグルダは、ヴォーカルは他人に任せていた。本当は「歌いたかった」のに、である(爆

 「遙かな惑星の歌」は、「MIDLIFE HARVEST」には収録されていないことになっている。但し、これも疑問が相当に残るのだ。1971年に「プレリュードとフーガ」「遙かな惑星の歌」「変奏曲」の3曲が再録音されて、「The Long Road To Freedom」の2枚組に収録されたことになっている。内、2曲は「MIDLIFE HARVEST」にも収録されているが、本当に再録音したのかどうかは全く不明である。グルダの録音履歴にはこの手のことが山ほど出てくる。それだけ大物なのだ(爆


 さて、この「MPS初録音4枚」を通して聴くと何がわかるか? 核心である。

全4枚が同じピアノを用いて、同じ技術者が調律して、同じマイクセッティングで録音したこと!


である。
 そう、「ドビュッシーとグルダ自作」を全く同じに録音したのだ。これは3年前に PREISER "GULDA LIVE" で実験済みであったが、セッション録音で行ったのは初めてであった。使用ピアノ = スタインウェイ D。
 MPSスタジオには1969年2月の開店(?)から、1983年の閉店までこの1台のピアノしか置いて無かった。カネの問題ではないだろう。スペースが足りないのである > 2台のコンサートグランドを置くには。


 「クラシックとジャズの融合」を説き伏せるグルダに賛同して、MPS は フィリンゲン に大がかりなスタジオを持った。グルダは(ほぼ)自由に使用できるようになった。たった1つの点を除いて。それは

MPSで録音する時は全てスタインウェイになった、以外は全て自由を獲得した


ことを意味した。

ドビュッシー前奏曲全集を DECCA で録音した時は、わざわざ「ウィーンでベーゼンドルファーを使用」したのが1955年のグルダ


だった。
 これが後々に大きな禍根を残すのであった。
コメント
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