Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

晩年の名作 D916B+D916C の本来の姿 1(No.1737)

2010-02-23 20:10:22 | 作曲家・シューベルト(1797-1828
 シューベルトは31才の若さで死んでしまった大作曲家。本人もまさか「31才で死ぬ」とは思っていなかったから、死ぬ間際まで作曲し、出版社と「出版交渉」をし、そして突然体調を悪化させ死んでしまった。

  1. 後期前半 : 1825年3月交響曲「グレート」作曲開始以降

  2. 後期後半(晩年) : 1827年2月「冬の旅」作曲開始以降


と考えるのが最も多くの人から支持を受けるだろう。
 後期前半に作曲開始した大曲はハ長調ピアノソナタ「レリーク」D840のみが未完成だが、後期後半作曲開始の大曲は未完成が数曲ある。「作品カタログ新版」よりD番号順に記載してみよう。

  1. ピアノ小品 D916B+D916C(1827.夏-秋)

  2. オペラ「グライヒェン伯爵」D918(1827.06.19- )

  3. 交響曲ニ長調D936A(1828.春 - 夏)


 以上3曲である。オペラ「グライヒェン伯爵」D918 は「完成予定22曲」の大作だったが、「20曲のスケッチ」がところどころ抜けがあって残された。第21曲と第22曲は作曲されなかった。交響曲ニ長調D936A は3楽章が残されており、第3楽章が「スケルツォ」と明記されているものの、これがスケルツォなのか? 終楽章なのか? がはっきりしない曲。どちらもCDが現行盤で出ているので興味ある方は聴いて頂きたい。

 D918 と D936A はCDが出ているので「オペラファン」「交響曲ファン」の方には知られた存在であるが、D916B+D916C はCDが未だ発売されたことの無い曲である。この 

D916B+D916C に果敢に挑んで 7/20 に弾くのが佐伯周子


である。作品カタログでは「小品」とされているが、実は違うのである!
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野平多美著「1/7佐伯周子リサイタル 批評」批評の批評2(No.1736)

2010-02-22 20:57:40 | 批評の批評
前号で掲載した 赤の太字 の箇所をご覧頂きたい。再掲載する。


  1. 第1楽章葬送行進曲風の第1テーマと、

  2. 岡原の充実した音によるコラールの第2テーマがとても美しかった。



 D823第1楽章第2テーマを「コラール」と書いた文献は私高本はかつて読んだことが無かった。シューベルトピアノ音楽を批評する時に「コラール」と言う単語はほとんど用いられないように感じる。(多くは「リートを感じさせる」が多い。)
 そんなことは細かなことである。最も大切な点は、第2テーマは呈示部では

野平多美に絶賛された「D823第1楽章第2テーマ」は、第52小節から16小節に亘って佐伯周子が呈示した後で、岡原慎也に16小節渡す構造!


だからである。
 ちなみに

再現部では「D823第1楽章第2テーマ」は、第218小節から24小節に亘って佐伯周子が再現した後で、岡原慎也に8小節渡す構造


になっている。
 つまり、

『佐伯周子の左手音型』 → 『岡原慎也の右手音型』があたかも1人の演奏のように聞こえ、全てが『岡原慎也の右手』のように聞こえた!


と言うことである。

1台ピアノを2人で演奏する「連弾」では、『あたかも1人が演奏しているように聞こえる』が理想の演奏


である。

  1. プリモ(第1ピアノ)が「ソロ」のように1人で演奏する → よくあるパターンだが本質から遠い演奏
  2. セコンド(第2ピアノ)ばかりが充実してプリモは「やっと付いていく」 → セコンドが「先生」の時のパターン

であり、どちらも頂けない。「2台ピアノ」だと『両者の個性のぶつかり合い』をウリにした公演や録音も多々あり、なかなか楽しめるのだが「1台連弾」だとぶつかってくれるのは困りモノ。さらにどちらか一方に頼り切るのはさらに困りモノ。


 1/7演奏会当日は「岡原慎也のCD」を会場販売しており、このCDの出来がまた素晴らしい! 「岡原慎也の芸術」がD823全曲に感じられた、との野平多美の批評は、これ以上無い誉め言葉である。
 私高本が「演奏会プロデュース」をして、これほどうれしかったことは無い。もし可能であるならば、次回以降の「佐伯周子 ベーレンライター新シューベルト全集に拠るピアノソロ曲完全全曲演奏会」に野平先生に全回お越し頂き批評して頂ければ幸甚である。
 時間を掛けて、「佐伯周子+岡原慎也デュオ」を醸成した成果がこれほどまで顕著に表れ、演奏会プロデューサー冥利に尽きる次第である。
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野平多美著「1/7佐伯周子リサイタル 批評」批評の批評1(No.1735)

2010-02-21 19:42:49 | 批評の批評
「音楽の友」2010年3月号P141に、「2010年1月7日 佐伯周子リサイタル」の批評が掲載された。ありがたいことである。しかも

佐伯周子本人も私高本も全く予想しなかった批評


が掲載された。
 これは PMJ読者の皆様には是非全文読んで頂きたい。以下は「音楽の友」全文である。


●佐伯周子 p


 シューベルトの音楽に魅せられて、ピアノ・ソロ曲完全全曲演奏会を行なっている佐伯周子。洗足学園音楽大学・大学院を修了し、同大附属音楽教室講師を務めている。シリーズ第7回を迎える当夜は、シューベルト解釈に定評のある岡原慎也をゲストに招いた。これが効を奏し、ヴェテランとの共演による「序奏と自作主題のよる変奏曲」op82-2と「連弾ピアノ・ソナタ」ホ短調を好演。後者の、第1楽章葬送行進曲風の第1テーマと、岡原の充実した音によるコラールの第2テーマがとても美しかった。モーツァルト「ぼくは鳥刺し」のテーマを想起させる第3楽章ロンドでは、同じリズムが続くものの単調にはならず、様々な局面を丁寧に引き出していく。独奏では、「ソナタ」変ホ長調op122において、佐伯はきれいに弾こうとし過ぎていたようにも感じられ、さらに音楽の内面の表現を模索して欲しい。「ソナタ」イ長調op120では、第3楽章ロンドを明快に演奏。(1月7日・東京文化会館<小>)

「音楽の友」2010年3月号P141

野平多美




 これまで、多くの演奏会をプロデュースし、多くの演奏会批評を頂いて来たが、私高本は これほどうれしい批評は初めて! である。何がうれしいか? って、これほどまで

「佐伯周子の左手の超絶技巧」を認めてくれた批評は、初めて!


だったからである(感涙
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主観と客観:ベートーヴェンの場合5(No.1734)

2010-02-18 19:46:42 | 批評
「アンチ内藤彰」が狂って(「狂ったように」ではない)主張していた点は突き詰めると1点に絞られる。

「ベートーヴェンの音楽」をどのように演奏しようと自由だ。内藤彰に文句言われる筋合いは無い


 これが「主張の全て」である。正しいのか? 正しくないのか? 2つに1つであろう。ちょうど良いタイミングで

内藤彰「ベートーヴェン 第9」を語る

がブログに掲載された。全3回で完結したのでリンクを貼っておく。内藤本を購入しないと「内藤彰の意図」が伝わらないか? と思っていたが、ブログに書いてくれたおかげで「第9」だけに関しては、PMJ読者の皆様は容易に(無料で)読めるようになった。是非、全文を読んで頂きたい。「1」と「3」についても存分に語ってくれている。


 「クラシック音楽」の世界には『編曲』と言うジャンルが朗々と古くから流れている。

最も有名な編曲 = ムソルグスキー作曲/ラヴェル編曲「展覧会の絵」


だろう。素晴らしい作品であり、私高本も演奏会を聴きに行くことがある傑作だ。尚、ラヴェル編曲よりも「オレの方がもっとうまく編曲できる!」と思い立って、編曲した「アレンジャー」は数多い。「成功した」と数えられる人は

  1. ストコフスキー

  2. アシュケナージ


など。どれも面白いが

編曲モノの面白さは「あくまで編曲の巧拙」が主


である。

「展覧会の絵」の最高傑作 = ムソルグスキー作曲のオリジナルピアノ版


と私高本は感じるし、「21世紀のクラシック音楽界の趨勢」も同じである。しかし、各オーケストラはどんどん「ラヴェル編曲版」などの編曲モノも演奏してほしい。その時に大切なことは

「ムソルグスキー作曲/ラヴェル編曲」と明記すること!


だ。間違っても「ムソルグスキー作曲/展覧会の絵 オーケストラ版」と書いてはいけない、詐欺になる!


 編曲はラヴェルが開始したのではなく、昔々からある。私高本は「鍵盤楽器の曲」以外は深く知らないので、

古い編曲の例として「マルチェロ作曲/バッハ編曲 : 協奏曲ニ短調BWV974」


を1曲だけ挙げておこう。名曲だぞ! グールドの名演は今でも即購入して聴くことが出来る。
 かのJ.S.バッハも実行していた編曲。これは、延々と続き

シューマン交響曲全4曲のマーラー編曲版


なんていう「超大型企画」も実在している。オーケストレーションが無闇に鮮やかで、私高本は好まないが「効果あり!」は認めざるを得ないシロモノである。 


 ・・・で、

「ベートーヴェン : 第9」は編曲していけない『神聖な楽曲』か?


と問われれば、

過去に、しかもベートーヴェンが作曲した19世紀に リストやワーグナーが編曲しまくっている(爆


 リストやワーグナーは(好き嫌いは別にして)『超一流作曲家』と誰もが認めるだろう。編曲した先は「ピアノ版」である。ワーグナーは「ピアノ1台版、但し声楽陣はソリストと合唱が必要」。リストは「ピアノ2台だけ版」と「ピアノ1台だけ版」で、どちらも声楽不要であった。これらは全て「CD化」されているので、興味ある人は聴いてほしい。その時に勘違いしないでほしいのは、あくまで「聴くのは編曲モノ」であって「オリジナルではない」ということ。ワーグナーファンは「ワーグナー編曲版」を聴くことお薦め、小川典子盤が唯一。ちなみに私高本はこの版も好きで、わざわざ、高須博ピアノ&指揮の「日本公開初演」を愛知県まで新幹線に乗って聴きに行った(爆
 聞こえた音楽は、もちろん「ワーグナー」であった。


 リストファンは「リスト編曲」を聴くことお薦め。2台版は(おそらく)2種類の録音があるが、1種類は未CD化。1台版は相当な録音あり。ちなみに私高本はこの版が大々好きで「演奏会プロデュース」したことがある(川上敦子ピアノ、2001年12月東京オペラシティリサイタルホール)。「病重し」だわ(爆
 聞こえた音楽は、もちろん「リスト」であった。


 ベートーヴェン「第9」は、神聖不可侵な曲では無い。

中田喜直も「夏の思い出」と言う曲でパラフレーズしているではないか!


 ベートーヴェンも死んでいるし、著作権もとっくの昔に切れているので「編曲」は無料で自由である。

 ・・・だが、「ベートーヴェン作曲 : 第9」と銘打って演奏会をするならば「ベートーヴェンの意図通り」に演奏する必要がある! リストもワーグナーも中田喜直も「自分の名前を出して責任を全部被って編曲」している。ラヴェルと同じだ。(中田喜直は「原曲明示」していなかった? あれれ??)


 「内藤彰ファン」も「アンチ内藤彰」ももう1度冷静に見てほしい。内藤彰は

『ベートーヴェン作曲ではない!!』と断言しているが


『音楽ではない!!』とは一言も言っていない



のである。リスト編曲やワーグナー編曲を「趣味悪い」と思う人は多い(爆
 まあ、仕方無い、と私高本も思う。「ベートーヴェンオリジナル」よりも趣味悪いから。「特に好きなリスト編曲1台ピアノ版」は「あくまでリストを聴く」ための曲である。ピアノの超絶技巧がここあそこにちりばめられており、(演奏できれば)効果抜群である。


 ここで、昨年大晦日の 内藤彰ブログ に戻ろう。21世紀も9年も経過した時に

不勉強で新版スコアを(2つとも)読まずに、ベートーヴェン「第9」を演奏して、「ベートーヴェンオリジナル」と言えるのか?


昔聴いた演奏をなぞるだけの演奏ならば「大指揮者××の再現を目指す第9」と言うのが正しい姿勢


であろう。
 ベーレンライター新版もブライトコプフ新版も目にしなかった物故大指揮者のテンポが遅かったのは「当時の原典版に基づいた最大限の努力を払った演奏」だったからである。フルトヴェングラーの演奏が「ベーレンライター新版と合わない」とかと難癖を付けることだけは絶対に止めてほしい。それは無理だから。


 ちなみに

ベートーヴェン交響曲のテンポを遅くした張本人 = リスト


と私高本は固く信じている。川上敦子が演奏する時に、「ベートーヴェンオリジナルのメトロノーム指示」を守ると、「非音楽的」になる箇所が続出したからである。

リスト編曲1台版楽譜を見ると、「都合良い箇所だけメトロノーム指示」を転写


していることが判る。

「リスト編曲版第9」は、第1~第3楽章メトロノーム指示皆無、第4楽章の「Adagio ma non troppo ma divo = 60」と「Allegro energico,sempre ben marcato = 84」だけを採用


である。ドーヴァー版で安く入手できるので興味ある方は確認してほしい。



21世紀に「ベートーヴェン」を演奏するならば「最新研究」は熟知する必要がある。


「耳コピー」を再現したいならば、「元音源」を明示するのが21世紀のルール


である。
 内藤彰は、言い方はやや乱暴だが、言っている内容は「至極マトモ」である。姿勢を直す必要があるのは、マズアであり、西本智実である。もし、「私高本の論が間違っている」と言う人がいるならば、音源を明示してくれれば応じよう。


 最後に蛇足(爆

 「ウィーンの作曲家=ベートーヴェン」とはオーストリア政府に限らず多くのメディアが伝えてくれている > 例えば「音楽の友」とか。

「ベートーヴェンのピアノ曲」の「ウィーン正統派」は誰か?


と言われて、あなたは誰を思い浮かべるだろうか?

LP時代 → CD時代 を代表するのは、グルダ と ブレンデル


だと思う。
 2人の演奏は「水と油」。基本テンポが全く異なるぞ(爆 どちらが「ウィーン正統派」なの?

 グルダは「ベートーヴェンのテンポ」に関して(私高本が見た範囲では)文献をほとんど残していない。ブレンデルは「リストは交響曲指揮者としても、遅いテンポで成功した」旨を何度か書いている。

グルダ = 速い派、ブレンデル = 遅い派


は明らか。ブレンデルの演奏は「リスト → クラウゼ → アラウ」と続く系統のテンポのように感じる瞬間もある。「ベートーヴェン → ツェルニー → リスト」なので、門下ならばテンポが同じになるか? いやいや、リスト編曲版を弾けばそんな疑念は全部吹っ飛ぶ。

「リストのベートーヴェン演奏」は細部が浮かび上がるが、超「遅い」


である。


 最後の最後に事実を記載しておく。「第9」の演奏時間である。

  1. フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭劇場盤 : 74分40秒

  2. ベートーヴェンの「第9」初演時間 : 63分(世界初演) 64分(ロンドン初演)


 ここで提起したい要点は

「19世紀初のメトロノームが正確だったか?」の論争はある。「19世紀初の時計は正確だったのか? 壊れていたのか?」は論争の余地は無いだろう!


である。時計が全部壊れていたら、生活が順調にできるのだろうか? 市場の時間とかも含めて(爆
 内藤彰が間違っているのか? アンチ内藤彰が間違っているのか? 皆さんの頭で考えて結論を出して下さい。
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主観と客観:ベートーヴェンの場合4(No.1733)

2010-02-17 21:16:34 | 批評

CDの「収録時間規格」が74分40秒強になったのは、「フルトヴェングラー指揮第9の代表盤の時間」


と言う説が巷間では信じられている。私高本も信じている。

1951年7月29日 バイロイト祝祭劇場録音盤(EMI) 74:40


である。
 LP → CD 時代の「超売れっ子」であり、『Philips + Sony連合』も「ソフト大集合」を目指すには、EMIやDGも巻き込む必要があったからだろう。


 ここで確認してほしい点が2点ある。

  1. 20世紀のド真ん中=1951年 では、「第9」は74分以上掛かっていたのが「名演」だった

  2. 1982年CD新発売当時でも、「第9」は74分以上掛かっていて当たり前だった


の2点である。私高本も「当然」と思っていた(爆
 楽譜は「ブライトコプフ旧版」しかパート譜は流通していなかった、と朧気に記憶している。これは「ブライトコプフ旧ベートーヴェン全集」とも違う箇所が多く存在しているらしい。

  1. 第2楽章トリオ : 「旧ベートーヴェン全集」=「全音符=116」,「ブライトコプフ旧版」=「2分音符=116」

  2. 第4楽章冒頭 : 「旧ベートーヴェン全集」=「付点2分音符=96」,「ブライトコプフ旧版」=「付点2分音符=66」


が主な相違点と、金子建志著「ベートーヴェンの<第9>」P85に明記されている。私高本は「オーケストラパート譜」は検証したことが無い。レンタル料を払うカネが無いのが原因である(爆
 ざっくり言って「ブライトコプフ旧版出版時」よりも「遅いテンポ」を1982年CD新発売当時までは「クラシック界が容認」を維持していたことだけは理解できるだろう。(根拠は別の問題として)


 古楽器(ピリオド楽器)派が、バッハやモーツァルトの演奏を通り越して「ベートーヴェン」に来たのが、金子建志著書に拠ると1987年2月録音の「ノリントン指揮ロンドンクラシカルプレーヤーズ」盤が最初、とのことである。このCDは初発売時に凄く評判になり、速攻で私高本も購入して聴き、驚いた記憶がある。「フルトヴェングラー盤」発売元の「EMI」録音である。この盤は「ノリントン自身」と「ジョーンズ」と言う学者が長いライナーノートを書いていたことも良い思い出の1つである。

「ベートーヴェンの作曲した当初の音楽を再現する」が基本コンセプト


であった。この「ノリントン盤」の方向に向けて、演奏も楽譜も「ベートーヴェンの作曲した当初の音楽」を目指すようになった!
 もう23年も前のことか! その瞬間に生まれた子供が来月3月に大学を卒業することになる! 私高本も「いつ死んでも誰も驚かない病状」にもなるワケだ(藁
 「ノリントン盤」を初めて聴いた時はまだ20代で元気だったんだが。

 その2009年末に「フルトヴェングラーもどき」で「第9」を演奏していたら、『ベートーヴェン作曲ではない!!』発言喰らうのは当たり前、と思う方が普通。マズアも西本智実も「不勉強」である。マズアの場合は「1987年以前に名声を築いていた」ので、その前からのファンに対して「以前と同じスタイルでの演奏を提供するサービス」の可能性は大きい。だが西本智実のデビューは1987年よりも相当後だった記憶がある。確か、私高本の「デイリー最盛期」にデビューだったハズなので、1997-1999年がデビューだっただろう。ノリントン盤から10年とか12年とかの年月が経過している。勉強するに充分な時間であり、批難されてもやむを得ない。
 内藤彰の表現がキツいことは認めるが、内容は至ってマトモなのである。


「新版楽譜」を読んで指揮する指揮者ならば、ベートーヴェン渾身の指示 = 第4楽章第431小節 『常に同じテンポで』は守って当たり前


なのである。マーラー交響曲第2番「復活」終楽章の「舞台袖のトランペット」を「予算不足」が原因で舞台上のトランペット奏者に吹かせたら、「ブーイング確実」である(爆
 ベートーヴェン「第9」の『ベートーヴェン自身の指示』も同じ重みがあるのだ。では、なぜ、「第4楽章第431小節」でテンポを上げる指揮者がいるのか?

  1. 1987年以前に名声を得ており、「今さらスタイルを変えられない」 → マズアの場合

  2. 新版楽譜を全く研究しないで「第9」を振り始めた


 この2パターンが考えられる。「2」はムゴい、って? 次号でさらに掘り下げよう。内藤彰が間違っているのか? アンチ内藤彰が間違っているのか? を。
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主観と客観:ベートーヴェンの場合3(No.1732)

2010-02-14 20:22:31 | 批評
「2」を選んだ理由は、「後から楽譜を確認すれば誰の眼にも明らかに差異がわかる」からである。
 まず「新しい原典版」を定義しておこう。

  1. ベーレンライター版(1996)

  2. ブライトコプフ新版(2005)


 この2冊である。細部のアーティキュレーションの相違などを別にして、この2つの原典版で演奏すると、『従来の楽譜とはテンポの大きな相違が2ヶ所存在し、同一箇所である。』ことが大事。

  1. 第4楽章第331小節 付点二分音符=84

  2. 第4楽章第431小節 『常に同じテンポで』の指示


 他の箇所では細かな差異があるが、

『新版2冊』はこの点では断固一致している


 ブライトコプフ新版の方は少々ややこしく前者については「巻末解説参照せよ」となっている中で説明されているのだが(爆
 但し、後者は絶対であり、「第2主題の後半でテンポを倍近く上げる」は禁止されている。主題の呈示 → 主題確保 で「テンポを2倍」にしたら、フツーに考えて「古典的美学」に合致しない(爆


 ちなみにこの第4楽章第331小節は、(私高本の考えでは)ソナタ形式の第2主題呈示冒頭に当たる。ここのテンポ次第で楽章の(そして全曲の)印象が全く変わってしまう箇所である。新版が出る前の楽譜では「付点四分音符=84」だったので、「テンポが倍」も差がある。旧来の演奏、例えばフルトヴェングラーとかカラヤンなどは「テンポが倍遅い楽譜のみしか知らない」で演奏して来たので、ここでテンポをグッと落とすのが常道だった(マジ


 もっと「罪深い」のが第4楽譜第431小節で、ベートーヴェンが何だか「マーラーの霊魂にでも取り憑かれた」かのように、『常に同じテンポで』と書き残した。どこだかの初演のリハーサル時に「テンポを上げた指揮者」がいたらしい(爆
 ベートーヴェンが交響曲にこのような神経質な指示を書いたのは、おそらくここ1ヶ所だけ。

交響曲第9番ニ短調作品125第4楽章第431小節だけは「絶対に」テンポを変えてはいけない!


が作曲家ベートーヴェンのメッセージである。ちなみにフルトヴェングラーとかカラヤンの時代の指揮者は「ほぼ全員がここからテンポを上げる」が普通。第331小節を「倍の遅いテンポ」で振るとここを上げないと「音楽の格好にならない」感性がテンポを上げさせるのだろう。


 1996年の ベーレンライター版 が出版されてから、2009年12月末まで13年の時間がある。2005年の ブライトコプフ新版 が出版されてからでさえ4年の時間がある。スコアを購入して研究するには充分な時間。

2009年末に、第4楽章第431小節でテンポを上げる演奏する指揮者 = 不勉強極まる指揮者 = 内藤彰は『ベートーヴェン作曲ではない!!』と断言もやむを得ない


と私高本は感じる。私高本も老眼だが、この程度の大きな文字情報は確実に読める。マズアの年令になっても(下線の本数を読み間違えることはあるだろうが)この『常に同じテンポで』は見落とすことは無いだろう。まして西本は(老眼になっているかどうかは知らんが)見えて当たり前。内藤彰の言葉は「ベートーヴェン通りの音楽」を目指す言葉にしか見えない。
 なぜ「ベートーヴェン渾身の指示」を破ってまで、「テンポを上げる」のか? これがわからない人が信じられないほど多く実在し、そして「内藤彰ブログ炎上」を試みたワケである。内藤彰の精神力の強さには、私高本は感服した次第である。次号では、「なぜ、ベートーヴェン渾身の指示を破るか?」について書く。
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主観と客観:ベートーヴェンの場合2(No.1731)

2010-02-13 21:47:58 | 批評
事の次第を時系列で追ってみよう。

内藤彰の主張で「論争の発火点」になったのは「マズア+N響」「西本智実+東響」の「第九」を『ベートーヴェン作曲ではない!!』と断じたこと


であった。
 過激な発言ではある(爆

 しかし、演奏家は皆「自分の演奏が最高だ!」と考えて演奏しているので、表現は別にして「他の演奏家が上でございます。私は至らない音楽を演奏しています。」と言う人は極めて少ない。内藤彰が『ベートーヴェン作曲ではない!!』と断じたのも「ワケあってのこと」だからである。
 昨日書いたことを振り返ってみよう。

内藤彰の主張は以下のよう



  1. 指揮は客観が必須。客観の根拠は全て「ベートーヴェンオリジナル」

  2. 演奏家たるモノ、「新しい原典版」研究は必須

  3. 「新しい演奏法」は、「ベートーヴェン当時と照合」が最善


 マズアも西本もこの「大原則」に反していたので、内藤彰は『ベートーヴェン作曲ではない!!』と断言したのである。つまり

  1. 主観だけで演奏していて、「ベートーヴェンオリジナル」でない

  2. 「新しい原典版」研究をしていない

  3. 「ベートーヴェン当時と照合」も全く為されていない


 ゆえに『ベートーヴェン作曲ではない!!』と断言してしまった次第のようだ。ここでは「2」に絞って、検討してみよう。『ベートーヴェン作曲ではない!!』が言い過ぎなのか? 言われてもやむを得ないのか? についてである。
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主観と客観:ベートーヴェンの場合1(No.1730)

2010-02-12 23:19:32 | 批評
前回「主観と客観」について述べた。実は 1/7 佐伯周子リサイタル の前から気になる件があったので、本日は書き記す。

指揮者 内藤彰 のブログ


は私高本が覗いているブログである。
 ここが年末から新年にかけて「ブログ炎上寸前」になった。

発端は大晦日のブログ


である。この日以降のブログのコメント欄を見て頂ければ、その残骸のすさまじさの一端を感じ取って頂けることだろう。


「ブログ炎上」を意図するヤツは根性が悪い。その根性うんぬんを別にして、論点を私高本なりにまとめてみると、以下に要約される。

  1. 指揮(演奏)は主観だけで良いか? 客観が必要か?

  2. 使用楽譜は「新しい原典版」が必須か? 否か?

  3. 「新しい演奏法」は必須か? 否か?


 この3点は、ベートーヴェンに限らず(シューベルトに限らず)、「21世紀の演奏家」が避けては通れない関門だと感じる。

 内藤彰の主張は以下のようだと感じる。

  1. 指揮は客観が必須。客観の根拠は全て「ベートーヴェンオリジナル」

  2. 演奏家たるモノ、「新しい原典版」研究は必須

  3. 「新しい演奏法」は、「ベートーヴェン当時と照合」が最善


である。言っていることは至極まとも。これが何で年を越して「ブログ炎上寸前」まで行ったのだろうか?
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主観と客観(No.1729)

2010-02-07 20:31:02 | ピアニスト・佐伯周子

「佐伯周子の魅力」を一言で表すと、『主観と客観のバランスが絶妙』である。


 う~ん、これは信じられないほど両者が両立している。


 「主観で魅力無い作品」を演奏するピアニスト(演奏家)もいるらしい。そんな曲弾いて聴衆が感動するのかなあ?「1曲だけの演奏家」は1人もいないから「最も好きな曲が1曲だけ」の演奏家であれば、「2番目、3番目に好きな作品」を演奏することも多いだろう。だが、「主観で魅力ない作品」と感じる曲を演奏されても、聴衆は困るだろうな。私高本は「バルトークの弦楽四重奏曲」「ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲」は魅力を感じない。感性が欠如しているだろう。「バルトーク弦楽四重奏曲」「ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲」の演奏会をプロデュースすることは死ぬまであり得ない。


 「客観」の方になると、「演奏家の皆様」は結構気にしないで演奏される人が多い。「ベーゼンドルファーでシューベルトのピアノ曲弾き」ってタイプは『相当に主観最優先』のピアニストが多い。「シューベルトがスタカート」を書いていても、ペダルで延々伸ばしたり(爆
 これは、日本人ピアニストを揶揄したのではなく、

「ブレンデルのシューベルト」の特徴を、聴いた通りに書くと「シューベルトがスタカート」をペダルで延々と伸ばす


箇所が散見されることを書いただけである。


 佐伯周子は違う。ポツポツと切れ切れになりそうなフレーズも右ペダル無しに「スタカート」を実現させて、聴き手を納得させるアーティキュレーションを実現する。何だか、途中で鍵盤上で「指替え」したりしていることも多い。(譜めくりしているとよく見えます!)佐伯に尋ねたところ

「シューベルトの意図通り」にそのまま弾きたい!


とのこと。自分の演奏を「ヤマハ ディスクラヴィーア」に録音してじっくり聴いたりしながら「最適」を時間を掛けて探り、見付けている。



「主観」で魅力ある曲を演奏しなければ「聴き手」に感動は伝わらない。


「客観」が無いと、「即興演奏」と変わらないレベルになってしまう。


 この狭間で、演奏家は芸術的苦悩を皆持つ。「シューベルトのピアノ曲」に関して、私高本が今の瞬間最も魅力を感じるのは佐伯周子である。
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プロデューサーノート:付け足し(No.1728)

2010-02-01 17:35:06 | ピアニスト・佐伯周子
 連弾ホ短調について、岡原慎也と佐伯周子の両者が真剣になったのは、おそらく第1回の「合わせ」の時だったと思う。昨年11月のことだ。今(2010年2月)から振り返ると3ヶ月も前か!


 大きな点(テンポとか!)でも小さな点でも衝突だらけの「第1回合わせ」。『模範演奏』はどこにも無い。2人だけが生身で「音楽だけでぶつかる瞬間」を見せてもらった。プリモとセコンドの手がぶつかるフレーズも多く、「シューベルトは何を考えて割り振りしたのだろう?」と譜めくりをしながら考えていた。


 1/7 の演奏は、空前絶後だったと感じる。録音を聴いても感じる。「佐伯周子の感性」と「岡原慎也の感性」が最高に結実した結果だった。岡原慎也と佐伯周子とシューベルトに感謝するばかりである。


 あまりに「ホ短調ソナタD823」に時間を取られ、結局アンコールは「前年11月に決めた軍隊行進曲第1番」1曲しか、リハーサルの時間が取れず、「岡原慎也のソロアンコール」も「佐伯周子のソロアンコール」も流れてしまった。これはプロデューサー = 私高本 のスケジュール管理の問題が大きかったように反省している。


● 「佐伯周子ファン」の皆様 → 7/20 の次回「シューベルトピアノソロ曲完全全曲演奏会」をお楽しみに

● 「岡原慎也ファン」の皆様 → 近日中に演奏会予告の予定

です。シューベルト、岡原慎也、佐伯周子 に私高本は感謝するばかりです。
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